アドルフ・ヒトラー

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国家社会主義ドイツ労働者党党首としてアーリア民族を中心に据えた民族主義反ユダヤ主義を掲げる。1933年首相となり、1934年ヒンデンブルク大統領死去に伴い、国家元首に就任した。軍事力による領土拡張を進める。ポーランドへの侵攻は第二次世界大戦を誘引した。ドイツ降伏数日前にベルリン市内の総統地下壕自室で自殺。政権掌握までの過程は民主的であったものの、政権掌握後に「指導者原理」を唱えて民主主義を無責任な衆愚政治の元凶として退けたため、独裁者の典型とされる。1920年代日本で最初に報道された際には「ヒットレル」と表記され、その後は「ヒットラー」という表記も多く見られた。

経歴

出生

1889年4月20日オーストリアに在る小さな町(ドイツとの国境近く)、ブラウナウで税関吏の子として生まれる。父アロイスは小学校しか出ていなかったが、税関上級事務官になった努力家であった(認知した父の姓は「ヒードラー」であったが、「ヒトラー」と改姓。ドイツ人では珍しいが[1]、「ヒトラー」、「ヒドラ」、「ヒュードラ」、「ヒドラルチェク」などの姓はチェコ人に見られる)。

アドルフはアロイスの3番目の妻クララ(アロイスの姪と言われている)との間に生まれた。兄弟姉妹に異母兄アロイス2世(私生児、1882年 - 1955年、1896 年に家出)、異母姉アンゲラ(1883年 - 1949年)。同母兄グスタフ(1885年 - 1887年)、同母姉イーダ(1886年-1888年)、同母兄オットー(1887年 - 数日後死亡)、同母弟エドムント(1894年 - 1900年)、同母妹パウラ(1896年 - 1960年)がいた。

名前のアドルフは「高貴な狼」という意味で、ヒトラーは後に偽名として「ヴォルフ」を名乗った。アドルフという名前は、当時のドイツではそれほど珍しい名前ではなかったが、ヒトラー政権下は人気がある名前となる。しかし、戦後は一転して不名誉な名前となった。ヒトラーと同じオーストリア人俳優のアドルフ・ヴォールブリュックは1936年ハリウッドに移ってからアントン・ウォルブルックと改名している[2]

少年期

当時のヨーロッパでは珍しくないことであったが、父アロイスは非常に厳格で、自分の教育方針に違反した行為をすると、情け容赦なく子供たちに鞭を振るった。特に、長子アロイス2世が家出をした後は、アドルフに非常な期待を込め、厳しく躾けた。なお、小学校のころ、後に哲学者となるルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインが同じ学校に在籍していた。2人が1枚の写真に一緒に写っている写真がある。

少年時代のヒトラーは、成績不良で2回の落第と転校を経験しており、リンツの実業学校の担任の所見では「非常な才能を持っているものの直感に頼り、努力が足りない」と評されている。得意教科(歴史美術など)は熱心に取り組むが、苦手教科(数学フランス語)は徹底して怠ける性質だったという。1903年に厳しかった父を亡くした後は、学業を放擲し画業に専念する。

美術学生

1905年に実業学校を退学した後、ウィーンで画家を志し、美術大学を受験するが2回とも失敗。ウイーン美術アカデミーを受験した同期にはエゴン・シーレがいた。教授に作品を見せたときには「君には建築家のほうが向いている」と助言を受ける。その画風は写実的だが独創性には乏しかったとされ、画題として人物よりは建築物や廃墟などの風景などを好んだ。彼の絵は現在もインターネットなどで見ることができる。

1907年には母を亡くしたが、ウィーンでの生活は両親の遺産や自作の絵葉書の売り上げなどによって比較的安定していた。このころのヒトラーは独身者むけの公営寄宿舎に住み、食費を切り詰めてでも歌劇場に通うほどリヒャルト・ワーグナーに心酔した。彼は毎日図書館から多くの本を借りては独学する勉強家だったと言われ、偏ってはいるものの歴史や哲学・美術などに関する豊富な知識と、アルテュール・ド・ゴビノーヒューストン・チェンバレンらが提起した人種理論反ユダヤ主義などを身につけた。また、キリスト教社会党を指導していたカール・ルエガー(後にウィーン市長)や汎ゲルマン主義に基づく民族主義政治運動を率いていたゲオルク・フォン・シェーネラーなどにも影響を受け、彼らが往々に唱えていた民族主義・社会思想・反ユダヤ主義も後のヒトラーの政治思想に影響を与えた。

かつて、歴史家の間では「ヒトラーは両親の遺産を食いつぶし、浮浪者収容所に入ることになった」という説が有力であったが、実際のところヒトラーが生活していた公営寄宿舎はかなり贅沢な施設であった。歴史家が誤解した原因は、ヒトラーが自著『わが闘争』において若い頃に貧乏生活をしていたかのような描写をしたからと思われる。ヒトラーは若い頃の苦労を誇張するために『わが闘争』にこのような誇張した描写を入れたのであろう。

大戦とドイツへの移住

ファイル:Hitler in WWI.gif
ヒトラー(左端)と戦友

1913年オーストリア=ハンガリー帝国の兵役を逃れるためミュンヘンに移住する。1914年に当局に逮捕されて本国に送還されたが、検査で不適格と判定されたため兵役を免除された。同年に勃発した第一次世界大戦で、(大ドイツ主義的)愛国心から熱狂した彼は、また停滞した人生や貧困を打破するためもあって、オーストリア国籍のまま(ドイツ国籍取得は1932年)バイエルン領(1918年まで、バイエルン王国の主権を保持したまま、ドイツ帝国の一領邦として存在した)の志願兵として入隊し、西部戦線のバイエルン後備第16歩兵連隊に配属された。

緒戦の8割前後の死傷率の中を生き抜き、後に伝令としての技能を発揮、大戦も終わりに近い1918年8月には一級鉄十字章を授与された[3]。 ヒトラーは司令部付きの伝令兵であったため、優秀な働きぶりにもかかわらず叙勲が遅れたのである。しかし結局、階級は伍長勤務上等兵[4]止まりであった。勤続年数からしても昇進が遅かったと言えるが、当時のドイツでは優秀な下士官やベテラン兵卒が戦死して不足しており、伝令としての優秀さから司令部が昇進によって彼を失うのを渋ったという説、本人が伝令兵の地位に満足し昇進を希望しなかったという説、勇敢ではあるが、直属の上官に対し戦功を「自画自賛」する態度と「指導力」の欠如が昇進につながらなかったという説が挙げられている。

ドイツ帝国敗北の知らせを聞いたとき、ヒトラーは塹壕戦での毒ガスで神経を冒され、一時的に視力を失って入院していた。毒ガスの特性によって脳神経に一過性の傷害を負い、また精神的にも傷ついたヒトラーはヒステリーと診断され、軍医により催眠術による治療を受けた(このためか、第二次大戦では自軍による前線におけるガスなどの化学兵器の使用を、敵の報復攻撃による損害の大きさも考慮して厳禁している)。『我が闘争』によれば、このときヒトラーは祖国の誇りを取り戻すために、建築家を目指すことを放棄し、政治家を目指すようになったという。喉の負傷による声の変化は戻らなかったため、後の演説にみられるような独特の野太い声になった。

政治活動

ファイル:Bundesarchiv Bild 102-00204, Bayern, Hitler auf Propagandafahrt.jpg
自動車に乗り政治活動を行うヒトラー(1923年)

敗戦後ヒトラーは退院後少しの期間放浪しており、革命勢力に与するなど政治的には不節操な態度をとっていた。のちに軍の情報関係の仕事を続け、激増した新党の調査を担当していた。その一環として参加した「ドイツ労働者党」の集会で演説者をやり込めたのが党議長の目に留まり入党する。50人程度の小党(というより現在の感覚ではカフェに集まって議論するだけのほとんどサークルのようなものであり、事務所すらなかった)であったがその理念に共感し、1920年には軍をやめ党務に専念するようになる。この頃、すでにヒトラーは演説者としての能力を認められており、軍からプロパガンダの講習を受けている(この講習会はドイツ国防軍第4集団、即ちバイエルン国防軍の情報課が企画したもので、反共主義民族主義の宣伝活動家の養成を目的としたものであった。ここでヒトラーは生まれて初めて大学の教室で右翼大学教授知識人の講義を聴くこととなった)。

このなかでもヒトラーの弁舌は興奮してくるとますます冴え、聴衆を引き込むヒトラーは、優れたプロパガンダの才能の持ち主であった。その扇動的な演説によって多くの党員を獲得し、党の要人となったヒトラーは、退党をほのめかすなどして上層部に圧力をかけ、指導者原理に基づく独裁を認めさせる。党名を国家社会主義ドイツ労働者党(略称NSDAP、対抗勢力による通称ナチ)と改め1921年7月29日その党首となる。

ミュンヘン一揆

詳細は ミュンヘン一揆 を参照
ファイル:Bundesarchiv Bild 102-00344A, München, nach Hitler-Ludendorff Prozess retouched.jpg
ランツベルク要塞刑務所収容時のヒトラー(1924年)

1923年11月9日に、党勢を拡大したナチ党を含んだ右派政党の団体であるドイツ闘争連盟はミュンヘンで政権の奪取を目論みクーデターを起こす。これは前年にイタリアファシスト党が行ったローマ進軍を真似て行われたものであり、前大戦の英雄ルーデンドルフを担ぎ出していたがが警察・軍隊いずれの協力も得られず、州政府によって鎮圧された。この「ミュンヘン一揆」、あるいは「ヒトラー一揆」と呼ばれる事件によってヒトラーは逮捕され、党も非合法化される。

逮捕の後、禁錮5年の判決を受けランツベルク要塞刑務所に収容されるが、所内では特別待遇を受け、この期間にルドルフ・ヘスによる口述筆記で『我が闘争』が執筆されている。なお、禁錮5年を宣告されたが、判決から9ヵ月後の1924年12月20日に釈放された。

1925年2月27日、党を合法政党として再出発させ、またオーストリア国籍を捨てた。この頃、党内左派で後に宣伝大臣となるヨーゼフ・ゲッベルスが頭角を現した。ゲッベルスは「日和見主義者」としてヒトラーの除名を目論んでいたが、ヒトラーは巧みな弁舌と説得でゲッベルスを味方に引き入れることに成功し、除名を免れている。

権力闘争

ファイル:Wahlschein.jpg
1932年大統領選挙の投票用紙(第二回投票時

候補者名は上からヒンデンブルク(無所属)、ヒトラー([[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス)、テールマン共産党)]]

その後ヒトラーは合法路線で徐々に党勢を成長させる。当時のドイツは第一次世界大戦の賠償金負担と世界恐慌による苦しい経済状況が続き、大量の失業者で街は溢れかえり社会情勢は不安の一途をたどっていた。その中でヴェルサイユ体制の打破やユダヤ人排除を訴え、アジテーターとしての才能を発揮したヒトラーは圧倒的多数の支持を得て、党内左派(ナチス左派)最大の実力者グレゴール・シュトラッサーとの権力闘争に勝利した。

同じくドイツ共産党も社会的混乱に乗じて伸張してきていた。1930年の国会選挙ではナチスが得票率18%、共産党が得票率13%を獲得し、社民党の得票率24.5%に次ぐ第二党と第三党に成長した。各地の都市でナチス党の私兵部隊「突撃隊」と共産党の私兵部隊「赤色戦線戦士同盟」の私闘が発生するようになった。

財界や伝統的保守主義者など富裕層はナチスの国家社会主義にも懐疑的であったが、それ以上に共産党がこれ以上伸張してロシア革命の二の舞のような事態は絶対に避けたかった。彼らはナチス党を共産党に対抗できる唯一の政党とみなした。上流階級出身のヘルマン・ゲーリングなどが仲介役となり、ヒトラー率いるナチス党は財界からの経済支援を受けることに成功した。1932年に正式にドイツ国籍を取得し、大統領選に出馬する。大統領選挙では現職のパウル・フォン・ヒンデンブルク、共産党エルンスト・テールマン国家人民党テオドール・ディスターベルクグスタフ・アドルフ・ヴィンターの五名が立候補した。

選挙では「ヒンデンブルクに敬意を、ヒトラーに投票を」をスローガンにし、財界からの支援で購入した飛行機を使った遊説などで国民に鮮烈なイメージを残した。第一次選挙の結果はヒンデンブルク1865万1497票(得票率49,6%)、ヒトラー1133万9446票(得票率30,2%)、テールマン498万3341票(得票率13,2%)、ディスターベルク255万7729票(得票率6,8%)、ヴィンター11万1423票(得票率0,3%)となり、ヒトラーはライバルである共産党テールマンと大きく差をつけ、また現役大統領ヒンデンブルクの得票率過半数獲得を防ぐ善戦をした。

大統領になるには過半数の得票率が必要であったため、上位者三名による決選投票が行われ、その投票ではヒンデンブルク1935万9983(得票率53,1%)、ヒトラー1341万8517票(得票率36,7%)、テールマン370万6759票(得票率10,1%)をそれぞれ獲得した。ヒトラーはヒンデンブルクに敗れるが、一次選挙よりも大きく得票を増やして存在感を見せつけた。ドイツ共産党にとってはナチスと差をつけられ始めてきていることを物語る選挙となった。

国家元首就任

ファイル:Bundesarchiv Bild 183-S38324, Tag von Potsdam, Adolf Hitler, Paul v. Hindenburg.jpg
ヒンデンブルク大統領と握手するヒトラー首相(1933年3月)
ファイル:Bundesarchiv Bild 102-14439, Rede Adolf Hitlers zum Ermächtigungsgesetz.jpg
全権委任法成立後に演説を行うヒトラー(1933年3月)
ファイル:HitlerMussolini1934Venice.jpg
ムッソリーニとともに(1934年)

ヒトラーは大統領選には敗れたものの、続く1932年7月の国会議員選挙ではナチ党は37.8%(1930年選挙時18.3%)の得票率を得て230議席(改選前107議席)を獲得し、改選前第一党だった社会民主党を抜いて国会の第一党となった。

同年11月にはパーペン内閣に対する抵抗としてドイツ共産党と共闘してベルリンでの大規模な交通ストライキを支持しながら選挙を迎えたが、財界から危機感をもたれたナチ党は得票率を4%ほど落として33.1%になり、議席数も196に減らすなど明らかに逆効果となった(ただし第一党の地位は保持した)。

危機感を抱いたヒトラーは一転してストライキ取り締まり側に加担し、自派新聞で自らの立場のドイツ共産党との違いについて長広舌を振るい、財界を安心させようとした。パーペン内閣はクルト・フォン・シュライヒャーの策動により崩壊し、後継内閣はシュライヒャーが組織した。シュライヒャーはナチス左派を取り込もうとしたが失敗。グレゴール・シュトラッサーは国会議員を辞職、引退を余儀なくされた。シュライヒャーに反発したパーペンの協力もあり、ヒトラーはヒンデンブルク大統領や国家人民党の協力を取り付けることに成功し、1933年1月30日、ついにヒトラー内閣が発足した。

内閣発足の2日後である2月1日に議会を解散し、国会議員選挙日を3月5日と決定した。2月27日の深夜、国会議事堂が炎上する事件が発生(ドイツ国会議事堂放火事件)。その直後から共産党員や反ナチ的人物が次々に放火の疑いで逮捕された。翌28日にヒンデンブルク大統領に大統領緊急令である戒厳令を発令させた。戒厳令下の3月5日の選挙ではナチスは議席数で45%の288議席を獲得したが、過半数は獲得できなかった。しかし、国会放火事件により非合法政党にされた共産党が獲得した81議席は再選挙を行わず議席ごと抹消されたのでナチス党は結果的に単独過半数を獲得することとなった。さらに社会民主党や諸派の一部議員を逮捕したことにより、議会の主導権は完全にナチス党が掌握することになる。

1933年3月24日には国家人民党と中央党の協力を得て全権委任法を可決させ、議会と大統領の権力は完全に形骸化した。1934年6月30日には「長いナイフの夜」によって突撃隊の参謀長エルンスト・レームを初めとする党内外の政敵を非合法的手段で粛清し、独裁体制を固める。

1934年6月14日には、自らの政権運営の手本としており、「イタリアを立て直したファシスト指導者」として当時世界各国で高い評価を受けていたイタリア首相ベニート・ムッソリーニと初会見しているが、ヒトラーを新参者と見下していたムッソリーニは、このときヒトラーを「道化者」と評している。

1934年8月2日、ヒンデンブルク大統領が在任のまま死去した。ヒトラーは直ちに「ドイツ国および国民の国家元首に関する法律」を制定して国家元首である大統領の職務を首相の職務と合体、さらに、8月19日国民投票を行い、89.93%という支持率を得てヒンデンブルク大統領の後任の国家元首として国民の承認を受けた。ただし「故大統領に敬意を表して」、大統領(Reichspräsident)という称号は使用せず、自身のことは従来通り「Führer(指導者)」と呼ぶよう国民に求めた。公式文書には「指導者兼首相」(Führer und Reichskanzler)という名称を用いた。これ以降、国家元首と政府首班の二役を務めたヒトラーを、日本語では「総統」と呼ぶ。

経済政策

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ベルリンオリンピックの開会式に参列するヒトラー

1933年2月1日、ヒトラーは4年以内にナチ党の初期からの支持層で国家生存に重要な役割を果すドイツ農民を救い、「経済再建と失業問題の解決」を実現し、「二つの偉大な四カ年計画によって、わが民族の経済を再組織するという二つの大事業を成功させる」と発表した(第一次四カ年計画)。しかし、自身が「私たちの経済理論の基本的な特徴は私たちが理論を全然有しないことである[5]」と言っているように、ヒトラーは『我が闘争』で展開している自らの経済観が事実上マルクス経済学に依拠していても気づかないほど経済学に疎かったが[6]、当初訴えていた政策は「ユダヤ人や戦争成金から資産を収奪して国民に再配分する」という稚拙なものだった。

ヒトラーは1923年インフレーションを沈静化させて名高かったヒャルマル・シャハトを経済大臣に迎えた。シャハトの政策は、ヒトラーの前任者であるクルト・フォン・シュライヒャーの計画を継承し、公共土木事業、価格統制でインフレの再発を防ぎ、失業者を半減させた。一方で農業は原料不足が深刻化し、支払い残高を維持することが難しく、膨大な貿易赤字は避けられないため、外貨危機に悩んでいた。そこでシャハトは1934年から双務主義で均衡を図り、広域経済(Grossraumwirtschaft)を敷いた。しかし、シャハトは外貨割り当てを巡って農業省と対立し、軍備のあり方でゲーリングとも対立した。その後、1935年3月にヒトラーはヴェルサイユ条約を破棄、再軍備を宣言する。

外貨割り当てではシャハトの案が採用されたが、1936年8月26日にヒトラーはゲーリングの第二次四カ年計画 (Four Year Plan) を支持した。シャハトは猛反対したため、ゲーリングらは経済省から独立した四カ年計画庁を創設する。第二次四カ年計画により、1936年にはほぼ完全雇用になった。景気回復の成果はあったが、投資財産業に比べ著しく消費財産業を劣らせ、極度な外貨不足をもたらした。また、労働力不足に陥り、物価・賃金が急騰し、価格停止令など様々な対策を講じたが、どれも失敗に終わった。

ドイツ経済は過熱し、生存圏の拡大か軍備の制限かという二つの選択に迫られた。ヒトラーは前者を選び、反対したシャハトは閑職に追いやられた。同時期に再び財政収支の悪化が激化し、アルベルト・シュペーアは「第二次世界大戦に参戦しなかったとしても第三帝国は財政赤字で破綻する」と思ったという。1944年には軍事費は当時のヨーロッパでは最高で、ドイツ経済のほとんどを占めた。1945年に戦争経済は敗戦と同時に崩壊した。これらの政策はミハウ・カレツキを始めとする経済学者らによって典型的な軍事ケインズ主義と総括されている。

その一方で、カーマニアでもあるヒトラーの経済政策は余り芳しくなかった自動車生産を急激に伸ばさせ、ドイツの自動車産業を経営不振から脱却させたことで知られる。1933年にヒトラーはベルリン自動車ショーでアウトバーンの建設を発表し、自動車税が撤廃された。インフラストラクチャー開発の中で道路工事が特に盛んだったことや戦争準備で軍隊及び物資をすぐに運べる最新式の道路網を必要としていたこともあり、クルップダイムラー・ベンツメッサーシュミットなどの軍需企業の協力を得て、アウトバーンの建設を加速し、フォルクスワーゲン構想を推進させた(フォルクスワーゲンの車が大衆に普及したのは戦後だが、自動車生産の基盤はナチス政権時代に整った)。

治安政策

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ゲーリング(左)、ヒムラー(中)と談笑するヒトラー(1934年)

1933年に政権につくとともに、ヒトラーはプロイセン州内相に最大の腹心であるヘルマン・ゲーリングを任じた(のちプロイセン州首相)。ゲーリングは就任後ただちにプロイセン州警察に政治警察ゲシュタポを設置した。ゲシュタポには「予防保護拘禁」と称してその場の判断で令状なしで国民を自由に逮捕して強制収容所へ送れる権限が与えられた。プロイセンはドイツの国土の半分以上を占める巨大州であり、広範な国民がゲシュタポの猛威にさらされることとなった。

しかしまもなくヒトラーは長いナイフの夜事件での速やかな粛清実行やバイエルン州で徹底した反体制取り締まりをしたハインリヒ・ヒムラー親衛隊(SS)を高く評価するようになり、中央集権化とあわせて各州の警察権力をヒムラーの下で一元化しようとした。ゲーリングのゲシュタポの指揮権もヒムラーに譲渡させた。ヒムラーは1936年に内相ヴィルヘルム・フリックより全ドイツ警察長官に任じられた。

ヒムラーはまずドイツ警察を一般警察業務を司る秩序警察と政治警察業務を司る保安警察に分離させ、秩序警察をクルト・ダリューゲ、保安警察をラインハルト・ハイドリヒにそれぞれ委ねた。さらにハイドリヒは保安警察と親衛隊諜報組織SDを統合して親衛隊内部に国家保安本部を立ち上げた。国家組織であるはずの警察がナチス党に吸収された瞬間であった。国家保安本部には長官ハイドリヒ以下、ハインリヒ・ミュラー(ゲシュタポ局長)、アルトゥール・ネーベクリポ局長)、オットー・オーレンドルフ(SD国内諜報局長)、ヴァルター・シェレンベルク(SD国外諜報局長)など悪名高い政治警察幹部の名がずらりと並ぶ。国家保安本部は日夜国民を監視していた。1941年にゲーリングはハイドリヒに「ユダヤ人問題の最終的解決」権限を移譲しており、国家保安本部はホロコーストの作戦本部ともなった。

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ザクセンハウゼン強制収容所の囚人たち(1938年12月19日)

ヒムラーとハイドリヒはドイツ国内・併合地・占領地を問わず各地に強制収容所を設置させた。政権掌握直後の1933年にははやくもバイエルン州でダッハウ強制収容所が設置され、さらに1936年にはベルリン北部にザクセンハウゼン強制収容所、1937年にはヴァイマール郊外にブーヘンヴァルト強制収容所が設置されている。その後も続々と収容所が建てられた。

第二次世界大戦の際に占領した地域にも強制収容所が立てられ、ポーランドに建てられた収容所のなかにはホロコーストのための絶滅収容所も置かれていた。特にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所ベウジェツ強制収容所ソビボル強制収容所トレブリンカ強制収容所などが絶滅収容所として著名である。また戦時中のドイツ占領地域の治安維持組織としては「アインザッツグルッペン」(特別行動部隊)があった。国家保安本部長官ハイドリヒの提唱で創設され、ドイツ軍前線部隊の一つ後方にあってパルチザンの温床とされた「政治的敵」の銃殺していた部隊である。確かに一面ではパルチザン(ゲリラ)狩りの側面もあったが、国家保安本部への銃殺報告書に「ユダヤ人」などと人種を理由にした項目が設けられているため、一般にはただのゲリラ掃討部隊とは認められていない。ホロコーストの一翼を担う部隊であったとされている。

1943年にヒムラーは内相に就任し、名実ともにドイツ警察の支配者となった。ヒトラー暗殺未遂事件の際にもヒムラーが鎮圧者となった。破局の瞬間まで可能な限りドイツの治安維持にあたっていたのだった。

ユダヤ人迫害政策

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落書きされたユダヤ人経営の商店(1933年4月)
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「水晶の夜」で襲撃されたユダヤ人経営の商店(1938年)

1935年9月15日のニュルンベルク党大会でヒトラーはニュルンベルク法(「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」と「国家公民法」)を公布した。この中でユダヤ人を公職から追放し、企業経営を禁止し、アーリア人との間の結婚や性交を禁止し、ユダヤ人の公民権も否定することが明記した。この法律公布後、民間レベルのユダヤ人迫害も増していった。

各地の商店に「ユダヤ人お断り」の看板が立ち、ベンチはアーリア人用とユダヤ人用に分けられた。ユダヤ人企業は経済省が制定した安価な値段でアーリア人に買収され、ユダヤ人医師はユダヤ人以外の診察を禁じられ、ユダヤ人弁護士はすべて活動禁止となった。

またニュルンベルク法では対象とされなかったが、ロマ(ジプシー)に対する迫害もはじまり、1935年にはフランクフルト市がジプシー用の収容所を設置。1936年にはドイツ内務省が「ジプシーの災禍と戦うためのガイドライン」を制定し、以降ジプシーの指紋と写真を撮ることと定めた。1937年には親衛隊(SS)も「ジプシーの脅威と戦うための全国センター」をもうけて同センターにジプシーの定義をするよう指示を出した。

また、映画監督で、その後ベルリンオリンピックの記録映画の監督を務めることになるレニ・リーフェンシュタールに対して、「自分はユダヤ人が牛耳るオリンピックには関心がない」と漏らしていたが[2]IOCがナチス政権以前にベルリンでの開催を決めていたことから、1936年には国の威信をかけたベルリンオリンピック大会を行った。

ベルリンオリンピック開催前後には諸外国からの批判を受け、一時的にユダヤ人迫害政策を緩和するものの、国力の増強とともに、ドイツ国民の圧倒的な支持の基「ゲルマン民族の優越」と「反ユダヤ主義」を掲げ、ユダヤ人に対する人種差別をもとにした迫害を強化してゆく。

1938年7月5日にはアメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルトの発案で、スイスのエヴィアンで32カ国によるドイツから逃れてくるユダヤ人難民保護の件が話し合われた(エヴィアン会議)が、各国はすべてユダヤ人の自国への受け入れには後ろ向きであった。これについてアドルフ・ヒトラーは「こうした犯罪者ども(ユダヤ人)に深い悲しみを寄せる諸国はせめてその同情を実際的な援助に向けてほしい。そうした諸国にこの犯罪者どもをくれてやる。お望みとあれば豪華客船で送ってやろう。」と述べ、ユダヤ人に同情する言を述べながら引き取ろうとしない欧米各国の偽善的態度を批判した。

1938年11月9日夜から10日未明にかけてはナチス党員と突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店、シナゴーグなどを襲撃、放火した水晶の夜事件が起き、これを機にユダヤ人に対する組織的な迫害政策がさらに本格化してゆく。

「生存圏の拡大」

1936年にはスペイン内戦へ介入しフランシスコ・フランコの反乱軍を支援し、1937年4月26日にはドイツ空軍「コンドル軍団」によるゲルニカ空爆が行われた。1936年3月にはヴェルサイユ条約ロカルノ条約に反して非武装地帯と定められていたラインラントへの進駐を実行した。フランス軍からの攻撃はなかった。ヒトラーは「ラインラントへ兵を進めた後の48時間は私の人生で最も不安なときであった。 もし、フランス軍がラインラントに進軍してきたら、貧弱な軍備のドイツ軍部隊は、反撃できずに、尻尾を巻いて逃げ出さなければいけなかった。」と後に述べている。この成功はヒトラーに対外進出への自信をつけさせた。

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オーストリア併合後にウィーン市内をパレードするヒトラー(1938年)
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ミュンヘンに集まった英仏独伊の首脳。左からチェンバレン、ダラディエ、ヒトラー、ムッソリーニ、チャーノ伊外相

1931年に発生した満州事変以降、ソ連やイギリス、アメリカとの間の関係悪化が鮮明化していた日本との関係が親密化を増し、1936年11月には、駐独日本国特命全権大使武者小路公共とドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップの間で日独防共協定が結ばれ、ヨシフ・スターリン率いるソビエト連邦への対抗を目指した(なお同協定は翌1937年11月6日にイタリアも入り日独伊防共協定となった)。

ヒトラーは着々とナチズムに基づくドイツを作り上げていった。その最終目的は『我が闘争』に示されたように東方における「生存圏」の獲得であった。その目的のため、この計画に批判的であったブロンベルク国防相らを陰謀によって追放し、独立傾向があった軍を完全に掌握した(ブロンベルク罷免事件)。

1938年3月には武力による威嚇でオーストリアの首相にアルトゥル・ザイス=インクヴァルトを付けさせ、オーストリア併合にこぎつけた。3月12日にはヒトラー自身がオーストリアに入り、ウィーンや生まれ故郷リンツに戻った。ヒトラーは故郷リンツでこのように演説した。「もし神がドイツ国家の指導者たるべく私をこの町に召したのだとすれば、それは私に一つの任務を授けるためである。その任務とはわが愛する故国をドイツ国家に還付することである。私はその任務を信じた。私はそのために生き、そのために戦ってきた。そして今その任務を果たしたと信じる」。

オーストリアを支配下に入れたヒトラーは続いてチェコスロバキアを狙い、まずドイツ系住民がほとんどを占めるズデーテン地方を併合しようとした。1938年9月29日にはイギリス首相ネヴィル・チェンバレン、フランス首相エドゥアール・ダラディエ、イタリア首相ムッソリーニを招いてミュンヘン会談をおこない、ズデーテンをドイツに譲ることが確定した。イギリスとフランスからも屈服を要求されたチェコスロバキアはズデーテンを差し出すしかなかった。

さらにこの後チェコで民族運動が激化し、混乱に乗じてハンガリーがチェコスロバキア侵略をほのめかすようになった。チェコスロバキアはドイツ軍に応援を依頼するしかなくなり、さらにドイツから武力による威圧も受けてエミール・ハーハ大統領は1939年3月に併合文書に署名した。ヒトラーの指示によりスロバキアは独立し[7]、チェコはドイツの一部「ベーメン・メーレン保護領」となった。この直後の1939年3月23日にはリトアニア政府にメーメルを割譲させることにも成功している。これらのドイツの拡張政策に対してイギリスやフランス、アメリカなどは懸念をするものの、直接的な軍事対立を避けるために事実上黙認していた。

その後もドイツの軍備拡張への対応が遅れていたイギリスは、チェンバレン政権下においては軍備を整える時間稼ぎのため、ミュンヘン会談に代表される宥和政策を取り続け、事実上ヒトラーの軍事恫喝による国土拡張政策(旧ドイツ帝国領の回復)を黙認していた。このためヒトラーはチェコの実質的な併合などの領土拡張政策を推し進めることになる。

第二次世界大戦開戦

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独ソ不可侵条約に調印するモロトフソ連外相。後列の右から2人目はスターリン
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フランス代表との降伏調印式に出席したヒトラー(1940年)
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ドイツを訪問した日本の松岡洋右外相とともに(1941年)

ヒトラーは更にポーランドに対して、ダンツィヒ自由市及び東プロイセンとの間の回廊地帯を要求したが、ポーランドは英仏の保証を受けて抵抗した。こうした中、1939年8月23日にヒトラーは宿敵であるはずのソ連との間に独ソ不可侵条約を結んで世界を驚かせ、直後の9月1日にソ連との秘密協定を元にポーランド侵攻を開始した。同9月3日にはこれに対してイギリスとフランスがドイツへの宣戦布告を行い、これによって第二次世界大戦が開始された。

ドイツ軍は空軍の支援の下機甲部隊を主力とした電撃戦によって、旧退化した兵器と戦略しか持たないポーランドをたちまち占領した。1940年に入ると、北ヨーロッパのデンマークノルウェー相次いで占領し、更に西部ではベネルクス三国の制圧に続いてフランスを打倒し、5月に行われたダンケルクの戦いでイギリス軍やフランス軍からなる連合国軍をヨーロッパ大陸からたたき出した。しかしこの際にイギリス軍を徹底的にたたかなかったことも影響し、イギリス侵攻はその後のバトル・オブ・ブリテンでの敗北により果たせなかった。

6月21日にフィリップ・ペタンを首班とするフランス政府はドイツに休戦を申し込み、ヒトラー自ら第一次世界大戦の降伏文書の調印場である、因縁のコンピエーニュの森でのフランス代表との降伏調印式に臨み、その後パリ市内の視察を行った。なお7月31日には国防軍最高司令官に就任し、作戦面でも戦争の最高指導者となる。

9月27日には、1937年に締結されていた日独伊防共協定の強化を画策していた日本とイタリアとの3国の間で「日独伊三国軍事同盟」を結び、更なる関係の強化を図った。大戦初期に結ばれたこの日独伊三国の軍事同盟は、第二次世界大戦における枢軸国の原型となった。

1941年にはイギリス軍が抵抗を続けていたユーゴスラビアとギリシアを占領してバルカン半島を制圧し、北アフリカではイギリス軍の前に敗退を続けていたイタリア軍を援けて攻勢に転じた。

独ソ戦開戦

同年6月22日には、わずか2年弱前に不可侵条約を結んだばかりのソ連に侵攻を開始した(バルバロッサ作戦)。この突然のソ連への侵攻においては12月にはモスクワまであとわずかのところまでに迫る勢いであったものの、補給難と冬の到来によってドイツ軍の戦力は限界に達し、後退を余儀なくされた。ヒトラーは陸軍総司令官のヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥を解任して自ら陸軍総司令官を兼任し、東部戦線のドイツ軍に後退を厳禁して、何とか戦線の全面崩壊は免れた。

対ソ戦におけるドイツ軍の最初の後退が行われた直後の12月7日に行われた、日本軍によるイギリス領マレー半島進攻と、それに続くアメリカ、ハワイ真珠湾攻撃の直後の1941年12月11日の演説では「我々は戦争に負けるはずがない。我々には三千年間一度も負けたことのない味方が出来たのだ」と日本を賞賛し、日本に続いてアメリカに宣戦を布告した[8]。その後は遣日潜水艦作戦を展開するなど様々な形で共同作戦を行うよう指示を行った。

ヒトラーとホロコースト

詳細は ホロコースト を参照

1940年、ヒトラーはドイツ国内のユダヤ人をマダガスカルに移送させる計画(マダガスカル計画)を検討させた。これはドイツの影響下からユダヤ勢力を排除するための作戦であり絶滅作戦ではなかったが、戦局の悪化により移送は不可能になった。1941年12月には閣僚の提案によってユダヤ人滅亡作戦を指示した。1942年1月にはドイツ国内や占領地区におけるユダヤ人の強制収容所への移送や強制収容所内での大量虐殺などの、いわゆるホロコーストの方針を決定づけるヴァンゼー会議が行われた。

この際に「ヒトラー自身がユダヤ人絶滅作戦を口頭で指示した」という説があるものの、ヒトラー自身がユダヤ人絶滅自体を命じたという書類は存在しない為(ヒトラーがユダヤ人絶滅を命令していないという説も存在する[9] )、その時期や命令方法については、研究者によって見解が違っている[10]

1941年12月12日に全国指導者や大管区指導者を集めて行われた会議(en)においてヒトラーは「ユダヤ人の絶滅は必然的結果でなければならない。」と演説しており、その演説はゲッベルスの日記に記録されている[11]

また、ヒトラー・ユーゲント指導者のバルドゥール・フォン・シーラッハの夫人であるヘンリエッテの回想は、ヒトラーがホロコーストに関してそれを指示し、賛同する立場であったことを証明するものとされている。ヘンリエッテは、ドイツ占領下の地に住むユダヤ人が次々と逮捕され、列車に詰め込まれ収容所に送られているていることを知り、ヒトラーに直訴することを考えた。1943年4月7日、パーティの場でヘンリエッテがそのことを告げると、ヒトラーは激怒して「その問題にあなたが口を挟む権限はない」と告げて立ち去った。その後、ヘンリエッテは2度とヒトラーから招待を受けることはなかったという。

いずれにしても、「わが闘争」でユダヤ人を罵り、その後も対ユダヤ人迫害政策を自国の影響圏において行わせてきた国家指導者であるヒトラーが、ユダヤ人を絶滅に追い込む政策の進展を支持、賛同こそせよ反対、中止させなかったことは事実である。

戦局の頽勢

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暗殺未遂事件現場をムッソリーニと訪れたヒトラー(1944年7月)

その後、開戦から3年目に入った1942年には、再び東部戦線と北アフリカでドイツ軍は攻勢に転じたが、やがて、東部戦線でのスターリングラード攻防戦アフリカ戦線でのエル・アラメインの戦いなどでの敗北により、ドイツ軍は守勢に転換せざるを得なくなり、1943年には東部戦線でのドイツ軍の最後の大攻勢であるクルスクの戦いでの攻勢失敗や、枢軸国の一員であったイタリア王国のバドリオ政権が降伏して連合国の側につくなど苦しい立場におかれた。

なお9月12日に、イタリア王国の降伏後に新政権に捕えられ幽閉されたムッソリーニを、オットー・スコルツェニー率いる特殊部隊により救出させ(グラン・サッソ襲撃)、その後、ドイツが支配下に置いた北イタリアに、ドイツの支援を受けたイタリア社会共和国(RSI)の樹立を宣言し、その首班に就任させた。

ヒトラーは大戦末期は総統大本営狼の巣」と名づけた地下壕にこもって昼夜逆転の生活を送りながら、新兵器の開発による奇跡の大逆転を望む日々を過ごした。1944年には、ノルマンディー上陸作戦の成功による西部での第二戦線の確立と、東部戦線でのソ連の大攻勢(バグラチオン作戦による中央軍集団の壊滅)などにより、ドイツ軍は完全に敗勢に陥った。労働力も不足に陥り、国内の秘密工場で働かせるために、東方の収容所やハンガリーのユダヤ人が移送され、多くの犠牲者が出た。

ヒトラーのお気に入りの軍人は、ドイツが攻勢であった大戦前半は、華々しい攻勢作戦を指揮したロンメル、エーリッヒ・フォン・マンシュタインハインツ・グデーリアンらであったが、守勢に立たされて以降は、頑強な守備作戦の指揮に定評のあった、ヴァルター・モーデルフェルディナント・シェルナーらがこれに代わった。また、ゲルト・フォン・ルントシュテット元帥はその旧プロイセン軍人風の威厳が好まれて、何度も解任されてはまた重要なポストに再起用された。

1944年7月20日に、ドイツ陸軍のクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が仕掛けた爆弾による暗殺未遂事件が起こり、数人の側近が死亡し、参席者全員が負傷したがヒトラーは奇跡的に軽傷で済んだ。事件直後に暗殺計画関係者の追及を行い、処罰を行った人数は、死刑となったヴィルヘルム・フランツ・カナリス海軍大将(国防軍情報部長)、エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベン元帥、フリードリヒ・フロム上級大将を始め4,000名に及んだ。また、かつては英雄視されたエルヴィン・ロンメル元帥と、ギュンター・フォン・クルーゲ元帥も、かかわりを疑われて自殺を強要された。

詳細は ヒトラー暗殺計画 を参照

敗北

1944年12月からのアルデンヌ攻勢では、連合国軍を一時的に大きく押し戻し、ヒトラーの賭けは一時的には成功したかに見えたが、結局は物量に勝る連合国軍に圧倒され、ドイツ軍最後の予備兵力をいたずらに損耗する結果となった。

その後ライン川を突破されたドイツ軍は、ヒトラーの命により1945年3月15日よりハンガリーの首都であるブダペストの奪還と、ハンガリー領内の油田の安全確保のため春の目覚め作戦を行うが、圧倒的な連合軍の物量の前に失敗する。この主要戦線から離れた所で行われた、軍事的に無意味な作戦により完全に兵力を失ったヒトラーは、「ドイツは世界の支配者となりえなかった。ドイツ国民は栄光に値しない以上、滅び去るほかない」と述べ、連合軍の侵攻が近いドイツ国内の生産施設を全て破壊するよう「焦土命令」(または「ネロ指令」)と呼ばれる命令を発するが、軍需大臣のシュペーアは聞き入れず、ほぼ回避された。なお、この頃以降ヒトラーはラジオ放送も止めベルリンの総統官邸の地下にある総統地下壕にとどまり、国民の前から姿を消すことになる。

大戦中を通じてヒトラーは、しばしば政治上の必要性を重視するあまり戦略的に意味のない地域の確保にこだわったり、無謀な拠点死守命令を出したりして敗北の原因を作った。また形勢が不利になると作戦の細部にまで介入するようになり、参謀本部との関係が険悪になった。しかし、自殺前に行われた最後の声明に到っても、戦争に負けた原因を参謀本部にあるとして非難した。この態度にはわけがある。ヒトラーは側近には自分のイエスマンしかおかず、自分より優秀な人間や意見を少しでも言おうものなら即座に更迭をするなどということを繰り返した。そうなると当然意見や正確な状況を伝えるということをしなくなり、ヒトラーの末期の言動を調べてみると、ヒトラーには戦況自体がまるでわかっていないということがわかる。つまりそういった戦況を正しく知らせなかったことを非難しているのである。。

1945年4月16日にソ連軍は、ベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動した。4月20日に総統誕生日を祝うために、軍とナチス高官が総統官邸に集まった。この日開催された軍事会議で、アメリカ軍とソ連軍がエルベ河で合流した場合に備え、ドイツ北部をカール・デーニッツ元帥が指揮することになったが、南部の指揮権は明示されなかった[12]。又、各種政府機関も即時ベルリンを退去することが決まり、ゲーリングら主要な幹部も立ち去っていった。

ソ連軍は圧倒的な物量を持ってベルリンに迫り、首都の死守を命令されたベルリン守備隊との間で激しい市街戦が行われ、多くの軍人や市民が銃弾が飛び交うベルリン市内で命を落とした。ベルリンの戦いで敗北が迫ると、ヒトラーは側近からベルリンからの退避を勧められたものの拒否した上、七年戦争におけるフリードリヒ大王ブランデンブルクの奇跡を引き合いに出して、最後まで勝利を信じて疑わなかったという。

4月23日には、総統地下壕を脱出したカール・コラー空軍参謀総長が、国防軍最高司令部作戦部長アルフレート・ヨードル上級大将の伝言を携えゲーリングのもとを訪れる。ヨードルの伝言は「総統が自決する意志を固め、連合軍との交渉はゲーリングが適任だと言った」という内容だった。ゲーリングは不仲であったマルティン・ボルマンの工作を疑い、総統地下壕に1941年の総統布告に基づく権限委譲の確認を求めた電報を送る。電報を受け取ったボルマンは、「ゲーリングに反逆の意図があると」ヒトラーに告げる。ヒトラーは激怒し、ゲーリングの逮捕とナチス党からの除名、そして別荘への監禁を命じた。

自殺

4月29日に、ハインリヒ・ヒムラーがヒトラーの許可を得ることなく英米に対し降伏を申し出たことが世界中に放送され、ヒトラーに最後の打撃を与えた。終末が近づいたことを悟ったヒトラーは、個人的、政治的遺書の口述を行い、ベルリンの地下壕でエヴァ・ブラウン(エファ・ブラウン)と結婚式を挙げる。その翌日、総統官邸総統地下壕において、愛犬ブロンディを自ら毒殺した後、妻エヴァ・ブラウンと共に自殺した。

ヒトラーは遺言によって、自分の後任の大統領兼国防軍最高司令官職にカール・デーニッツ海軍元帥、首相職にヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相、ナチ党担当大臣にマルティン・ボルマン党官房長をそれぞれ指名している。

自殺の際ヒトラーは拳銃を用いたが([誰?]毒を仰いだという説もあり、真相は不明)、エヴァは毒を仰いだ。遺体が連合軍の手に渡るのを恐れて140リットルのガソリンがかけられ焼却されたため、死亡は側近らの証言によって間接的に確認されただけだった。ひどく損壊した遺体はソ連軍が回収し、検死もソ連軍医師のみによるものだった(この数年後ヒトラーの遺灰はソ連の飛行機によって空中散布された)ため、西側諸国にはヒトラーの死亡に関し疑わしい部分が残り、後にヒトラー生存説が唱えられる原因となった。

また、スターリンも、その死体が本当にヒトラーのものであると確信が持てず、イギリスとアメリカ軍が密かにヒトラーを匿っているのではないのかと疑心暗鬼におちいった。そのため、英米ソ軍とも戦後しばらくヒトラーと容貌が似た人物を手当たり次第逮捕して取り調べている。

ヒトラー生存説

ヒトラーの遺体が西側諸国に公式に確認されなかった上、終戦直前から戦後にかけて、アドルフ・アイヒマンなどの多くのナチス高官がUボートを使用したり、バチカンなどの協力を受け、イタリアやスペイン北欧を経由してアルゼンチンやチリなどの中南米の友好国などに逃亡したため、ヒトラーも同じように逃亡したという説が戦後まことしやかに囁かれるようになった。その上、副官のオットー・ギュンシェやリンゲらをはじめとするヒトラーの遺体を処分した腹心たちの証言ががそれぞれ「銃で自殺した」「青酸カリを飲んだ」「安楽死」とまったく異なることも噂に火をつけた。戦後アルゼンチンで降伏した潜水艦「U977」のハインツ・シェッファー艦長は、ヒトラーをどこに運んだかを尋問されたことや、当時の新聞でのいい加減な生存説の報道ぶりを自伝の戦記に書き残している。アメリカやイギリスなどの西側諸国もこの可能性を本気で探ったものの、後に正式に否定されている。

それらの噂には、「まだ戦争を続けていた同盟国日本にUボートで亡命した」という説や、「アルゼンチン経由で戦前に南極に作られた探検基地まで逃げた」という突飛な説、果ては「ヒトラーはずっと生きていて、つい最近心臓発作のため102歳で死去した」という報道(1992年フロリダ州で発行されているタブロイド新聞より)まで現れた。その他、TO諜報機関のアンヘル・アルカサール・デ・ベラスコの証言の中に、「ヒトラーは自殺せず、ボルマンに連れられて逃亡した」というものもあるが、信憑性はきわめて低い。この生存説を主題にした作品の1つに落合信彦の『20世紀最後の真実』がある。

俗説のひとつに、晩年のスターリンが「ヒトラーが生存しているのではないか」といううわさが立つたびに、自宅の裏庭から木箱を掘り起こし中の頭蓋骨を確認して埋め戻したというエピソードがある。

『わが闘争』

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わが闘争初版本。1925年発行

ナチズム聖典というべきヒトラーの著書『わが闘争』は、ナチ党政権時代のドイツで聖書と同じくらいの部数が発行されたとも言われている。

その内容は自らの半生と世界観を語った第一部「民族主義的世界観」と、今後の政策方針を示した第二部「国民社会主義運動」の二つに分かれる。この中でヒトラーはアーリア民族人種的優越、東方における生存圏の獲得を説いており、後に同盟をくむ日本人もまた二流民族として扱われていた。

詳細は わが闘争 を参照

哲学者ニーチェの著作である『権力への意志』の影響が強く見られ、ヒトラーの超人的思想に見る完全支配のような考えを、「力こそがすべて」という本書から誤読、もしくは自分なりに解釈し直しているのではないかと指摘される。また日本でも、日本人関連の記述を除いた翻訳版が出版された。ナチス政権時の発行数からは「ナチス公認の最重要文献」として扱われていたことがうかがえる。しかしヒトラーは後に「わが闘争は古い本だ。私はあんな昔から多くのことを決め付けすぎていた」と語っている[13]

なお、現在のドイツでは『わが闘争』は反ナチ法(扇動法)に基づき発禁本のリストの中に入っている。とよく誤解されるが、実際の理由は、現在著作権と出版権を委ねられているバイエルン州政府がどの出版社にも著作権を渡さないことにある。ただし、現在バイエルン州が握っている著作権の保護期間は2015年12月31日までであり、これ以降出版は自由になる。

ヒトラー=ユダヤ人説

疑問

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アロイス・ヒトラー

ヒトラーの父アロイス・ヒトラー(シックルグルーバー)の出生には不明な点があり、ヒトラーがユダヤ人の血を引いているという説の根拠となっていた。異母兄アロイス2世の子であったウィリアム・パトリック・ヒトラーが英米のマスコミに「アロイスの父親がユダヤ人である可能性がある」と吹聴したことが原因であるという向きもあるが、ヒトラー生存中からそれは根強く存在した。手塚治虫のフィクション漫画『アドルフに告ぐ』では物語のメインテーマとなった。ただ、そこには生存中はヒトラー政権へのダメージ、死後はヒトラーの犯罪性の緩和に利用する政治的意図があるのかもしれないと言われている[14]

ヒトラー自身もこのことをかなり気にしており、1930年にヒトラーの顧問弁護士であったハンス・フランク(後のポーランド総督)に調査を命じている。ヒトラーは自分の祖父がユダヤ人ではないかと案じたせいか、調査はヒトラーの命令で中止されたという。

戦後にグラーツ大学のプレラドヴィク教授が行った調査で、この地方に1856年(アロイス誕生の一年前)以前にユダヤ人が居住していたという記録は見つからなかった。このためプレラドヴィクはヒトラーの祖父がユダヤ人だった可能性はないとしている。

父の出生

フランクの調査によると、ヒトラーの父親、アロイス・ヒトラー(シックルグルーバー)は1837年6月7日に、彼の母親(ヒトラーの父方の祖母)マリア・アンナ・シックルグルーバーの私生児として、奉公先のフランケンベルガーまたはフランケンライターという裕福なユダヤ人の家庭で彼女が召使をしていた時に生まれたとされていた。しかし住民台帳に記載されているフランケンベルガー家は地元バイエルン系のカトリック教徒であり、しかも当時は没落し貧乏になっていた。現在も父親は誰なのか判明していない。

やがて、アロイスが5歳になる時に旅まわりの粉挽き職人のヨハン・ゲオルク・ヒードラーとマリアは結婚したが、マリアはその5年後病死した。継父ヨハンは出奔したためにヒードラーの弟ヨハン・ネポムクにアロイス・シックルグルーバーは育てられた。1876年アロイス・ヒトラーと不法に名前を変更した(理由は不明だが、認知によってアロイスはヒトラーと改名した。しかし、法的には故人が父となる認知は訴訟によるほか認められず、しかも、母親が証言することが要件であるので、認知は手続き的には不法なものである)。ヒードラーではなくあえてヒトラーと改名したことも、当事者達や教会の間で真実でない何かを彼らが知っていたことを疑わせる根拠との指摘がある。ただし、このことについては単に言いやすい呼び方に変更したとの立場もある。

ヒトラーの祖母がロスチャイルド家にいたことから元en:OSSであるen:Walter Charles Langeren:The Mind of Adolf Hitlerなどがヒトラーを宿させたのがロスチャイルドじゃないかと書いている。ティッセンも『私はヒトラーに金をやった』でこのことに触れている。

ヒトラーと反ユダヤ主義

ヒトラー本人の著作や発言等から、ヒトラーは少年時から様々な反ユダヤ主義に影響された「生粋のアーリア人至上主義者」と見なされる傾向が強い。しかし、ヒトラー個人と付き合いがあった人々の証言からは、ヒトラーがいつそのような人種概念を身につけたのか判断するのは難しい。

ヒトラーが幼い頃に母親と通った質屋の主人がユダヤ人であり、その主人がヒトラー親子の品を安値でしか買い取ってくれず、そのためヒトラーはユダヤ人に対して不信感を抱くようになったという俗説もあるが、父の恩給を受給していたヒトラー一家が経済的に困窮していた事実はない。なお、この頃ヒトラーの母親を治療した医師はユダヤ人であった。この医師は後にユダヤ人迫害が開始された後も「名誉アーリア人」として手厚く保護され、その後外国に解放されたという。ヒトラーは自分に対して恩のある人間にはユダヤ人であっても例外的に扱ったのではないかという指摘もある。また、ナチス政権下で、「名誉アーリア人」として航空省次官となったエアハルト・ミルヒの父親はユダヤ人であったという説がある。

ヒトラー自身も言っていたようにウィーン時代に反ユダヤ主義者になったと見られている。しかし、ウィーン時代の友人にユダヤ人がいたとされている。ただ、その友人と金銭トラブルがあったようで、このことは警察にも記録されていることから、このことがヒトラーに大きな影響を与えたという説を唱える者もある。

その後、ヒトラーと関係があったユダヤ人には、第一次世界大戦下でヒトラーの叙勲を推薦した上官や、第一次世界大戦後にヒトラーがミュンヘンで住んだアパートの管理人がいる。ヒトラーは管理人が作った食事を食べながら、党幹部と打ち合わせを度々行っていた。しかし党勢の拡大とともにヒトラーはそのアパートを引き払った。

一方スラブ人をも劣等人種として扱っていたが、スラブ人の音楽家であるピョートル・チャイコフスキーセルゲイ・ラフマニノフ、さらにユダヤ人のブロニスラフ・フーベルマンアルトゥル・シュナーベルのレコードを所持していた[15]

女性関係

ヒトラーは死の直前まで結婚しなかったが、ヒトラーが紳士であったことに加え、政治家として「女性からの支持を得るには独身のほうが都合がよい」と考えていたためだという。

ヒトラーの女性の好みは単純明快で、ふくよかな丸顔と脚線美を持つ女性を美人とみなした。姪のアンゲラ(ゲリ)・ラウバル近親相姦関係にあったという説が唱えられている。ヒトラーは女優グレタ・ガルボのファンで、ガルボの映画を官邸でよく鑑賞していたという。

ヒトラーからアプローチをうけたと称する女性や、ユニティー・ヴァルキリー・ミットフォードヴィニフレート・ワーグナーなど噂になった女性も少なからず存在している。中でもヴィニフレートはワーグナーの息子ジークフリートの未亡人であり、ワグネリアンとして有名であったヒトラーの強い後援を受けており、彼女の主宰するバイロイト音楽祭は国家行事化していた。当時もヒトラーとヴィニフレートの結婚の噂が何度も流れている。

しかし、確実にヒトラーと恋人関係になったといえるのは最期を共にしたエヴァ(エーファ)・ブラウンのみである。

エヴァ・ブラウンとヒトラーが知り合ったのは1927年10月はじめのことで、ナチ党専属写真師ホフマンの写真館に勤めるエヴァに魅かれたヒトラーが食事や映画に誘うようになったという。しかし結婚を望むエヴァにヒトラーは応えなかった。1932年11月1日エヴァはピストル自殺を図ったが未遂に終わり、このとき自殺に失敗したエヴァが呼んだ医師は写真師ホフマンの義弟だったためにこのスキャンダルは内密におさまった。一般の病院に連絡しなかったという配慮にヒトラーはいたく感動し、以後二人の関係はいっそう深まった。エヴァは正式な結婚をあきらめ、影の恋人としてひたすらオーバーザルツブルクのヒトラー山荘でヒトラーを待つ生活を続けることになる。

1945年に戦局が悪化してベルリンの陥落が間近に迫った時、エヴァはヒトラーの反対を押し切り、ベルリンの総統地下壕にやって来た。ヒトラーは彼女に報いるため4月29日に結婚し、正式な夫婦となった。エヴァは周囲の人々に、とうとう結婚できた自分の幸せを喜び、「可哀そうなアドルフ、彼は世界中に裏切られたけれど私だけはそばにいてあげたい」と語ったという。翌日、ヒトラー夫妻は自殺した。

ヒトラーの子供

ヒトラーが第一次世界大戦に従軍した際、部隊の駐屯地であったフランス北部サン=カンタンで現地の女性と親しい関係になり、男の子が生まれたという説がある。

この説は1978年6月にミュンヘン現代史研究所のヴェルナー・マーザーde:Werner Maser)が発表した。マーザーはその子供を、現地でドイツ兵の私生児として知られていたジャン=マリー・ロレ(Jean-Marie Loret)と推定した。ロレは母親が死ぬ際に父親がヒトラーであると語ったと証言していた。ロレの証言によると、ロレが生まれた時にはヒトラーは目の負傷により後方に送られていたため、ロレの存在は彼に伝えられなかったとしている。また、ロレは第二次世界大戦時には対独レジスタンスに加わり、ドイツ軍に逮捕されたこともあるが出自への同情からか釈放され、後は経済的支援を受けたと主張していた。

このニュースは世界中で話題となり、日本にもTBSのテレビ番組に出演するためにロレが訪れている。同年TBSブリタニカから『ヒトラー・ある息子の父親』という書籍も発売されている。

しかし、ロレの叔母はロレの母親の相手であるドイツ兵はヒトラーではないと主張しており、ロレの母親が『ドイツ人の息子』と言っただけであるのに『ヒトラー』と勘違いしたとしている。その他多くの矛盾点も見つかり、マーザーの説を支持する者は少数派となった。1979年アシャッフェンブルクで開かれた歴史討論会においてこの問題が議論された際、マーザーは当初は静かだったが、突然「ヒトラーに非嫡出子がいたかどうかが問題」だと宣言し、以降の議論において完全に沈黙した。マーザーは経済的な理由でロレとも衝突し、以降ロレに言及することは無くなった。ロレはその後自叙伝を出したが、1985年に死亡した。

ヒトラーの遺体は灰になっており、ロレの生存時はDNA鑑定が確立されていなかったため、確実な結論は出ていなかった。しかし、2008年にベルギーのジャーナリストジャン=ポール・ムルダーnl:Jean-Paul_Mulders)はヒトラーの血縁者のDNAを採取してロレのDNAとともに鑑定に出し、ロレはヒトラーの子供ではないという結論を発表した。

人物像

体格

身長はよく172~3cmなどとされている資料を見かけるが、1914年のザルツブルクでの徴兵検査(このときは虚弱のため兵役不能と診断された)の際の徴兵検査表に175cmと記されているためこれが正確な数字であろう。

「ヒトラーは自分の身長が高官たちに比して低いことにコンプレックスを抱いており、靴の中に細工をしたりして身長を高く見せようとしたり、自分の机は段差の上に置いたりしていた」などの話はあるが、これは戦後ヒトラーを小物として印象づけるために成されたデマの一つである。ただし、ヒトラーの車は、ヒトラーの座席、床はかさ上げされている。これはパレードの時に同乗者より目立たせるためであり、多くのパレード用リムジンにも同じような構造が施されている。なお、遺体検証の際身長を「推定163cmほど」と記録されたことから、小柄というイメージにより拍車をかけたと思われる。

瞳は青色で、幼少時は金髪であったが、長じるに従い黒髪になった。現実のナチス高官は理想的なアーリア人種の体格とはほど遠い人物が多く、当時流行ったジョークにも「理想的アーリア人とは、ヒトラーのように金髪で、ゲーリングのようにスマートで、ゲッベルスのように背が高いこと」(エーミール・ルートヴィヒ)と皮肉られている。

栄養状態が良くなかった当時のドイツ人全体の平均では、必ずしもヒトラーは小柄ではなかったが、「チビのチョビ髭」というイメージがチャーリー・チャップリンの映画『独裁者』以降定着するようになった。なお、ヒトラーは『独裁者』を二度鑑賞しているが、感想は遺されていない。

また、第二次世界大戦中には運動不足からヒトラーの体重は増加し、1944年1月には体重が230ポンド(約104kg)に達したという[16]

記録

ヒトラーは遺伝的に薄毛で、前頭部から生え際が後退していることが写真で確認できる。また、ヒトラーには睾丸が一つしかなかったといわれるが、ヒトラーの主治医はこれを否定した。もっとも、実際にヒトラーの睾丸を見たかという点は定かではない。ソ連軍の遺体検証では左睾丸がなく、わざわざ恥骨に引っ込んでいるのではないかと調査しても見つからなかったという記録がある。

テレビ番組などでは彼の映像はもっぱら白黒が用いられるが、実際にはカラー映像も数多く残されている(例:ベルリンオリンピック開会式やエヴァがベルヒテスガーデンで撮影したプライベートフィルム等)。ただし、当時はカラーフィルム黎明期で価格も高く、技術的に未成熟でまだまだ珍しく、彼の登場する公的記録映像(演説シーンなど)のほとんどは信頼性が高い白黒で撮影されている。

また、幹部であるシュペーアやヘルマン・ラウシュニング、側近である秘書のトラウデル・ユンゲや護衛兵であったローフス・ミシュらがヒトラーの言動を記した著書を残している。

先見性

メディアの利用

当時の最新メディアであったラジオテレビ映画などを使用してプロパガンダを広めるなど、メディアの力を重視していた。情報を素早く伝達させるため、ラジオを安値で普及させた(国民ラジオ)。また、これらの一環としてベルリンオリンピックでは、女性監督のレニ・リーフェンシュタールによる2部作の記録映画『オリンピア』を制作させている。

抜擢

若年期芸術家を志して挫折した過去があるためか、若く才気あふれる人物とみなした人物にはヴェルナー・フォン・ブラウンハンナ・ライチュフェルディナント・ポルシェをはじめ、できるかぎりの機会を与えた。

健康政策

ヒトラーはドイツ民族の健康を守ることにも強い関心を持っていた。特に、1907年に母親クララを乳癌で失ったヒトラーにとって癌の治療は特別な意味を持っていた。ナチス・ドイツの医師たちは多くの領域で癌と戦った。環境や職場における危険を排除し(アスベストの使用を制限)、食品の安全基準を定め(発癌性のある殺虫剤や着色料の禁止)、早期発見を推奨した。世界で最も洗練されたタバコに関する疫学をもとに、医師達はとくにタバコの害を熱心に訴えた。彼らは世界で最も早く喫煙肺癌と結びつけた[17]。 また、「健全な民族の未来は女性にある」として女性の体育を奨励したことでも知られる。そのため現在のドイツでは、政府による過度の健康問題への介入や禁煙化をナチズムを彷彿させるものとしてタブー視する傾向にある[18][19][20]

対人関係

ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1971-016-31, Albert Speer, Adolf Hitler, Architekt Ruff.jpg
設計図に手を入れるヒトラーとシュペーア(1934年)
ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1987-004-09A, Amin al Husseini und Adolf Hitler.jpg
パレスチナの指導者のハジ・アミン・アル・フセイニと会見するヒトラー(1941年)

ヒトラーは対人コミュニケーションにいささか問題があったようで、シュペーアによれば「彼は気取らないリラックスした会話ができなかったようだ」と観察し、「不機嫌な時の言葉は学童とほぼ同じ程度だった」と証言した。粛清されたエルンスト・レームも「彼は批判されるのが嫌いで、党内で彼の提案が疑問視されるとすぐさまその場から消え、自分が通じていない話をするのも嫌がった」と記している。

「知識はあるが感性のない連中」と、高級軍人や官僚を始めとする知識人も嫌っており、自分の知識を見せるとまずいと案じた幹部は次第に口を出さなくなった。特に軍隊生活の最終階級が低かったため、ヒンデンブルク大統領やゲルト・フォン・ルントシュテットエーリッヒ・フォン・マンシュタインらを筆頭とする国防軍士官の中枢を占めていたユンカーとの間には感情的なしこりが存在した。

ユンカー系の軍人らは陰で「ボヘミアの伍長」と侮蔑していた。また、軍事作戦に関して彼らが反対意見を述べたり、時に命令を無視することをヒトラーは快く思っていなかった。ヒトラーは平民出身者が多数を占める武装親衛隊を巨大化させ、これに対抗しようとした。このため、戦中も両組織の対立は決定的なものとなった。また、ヒトラー暗殺計画の関係者もユンカーが多数派であったこともあり、後にヒトラーは敗戦の責任をユンカーが多数を占める陸軍参謀本部が原因としている。

一方で、ヒトラーは「自分の本質は政治家ではなく芸術家である」と信じており、優秀な芸術家(特に建築家)に対しては敬意と愛情を持って接した。建築家アルベルト・シュペーア(後、軍需相)への態度は格別で、シュペーアと建築の話をしだすと何時間でも熱中し、その間は政治的決裁はすべて後回しにされて側近を困らせた。ナチ党唯一の知識人を自認していた宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスも、ヒトラーとの話の中には芸術の話題をちりばめてヒトラーを楽しませることに心を砕いた。

また、身近な女性や子供に対しては親切で寛容であったという。秘書や使用人のミスに怒声を上げた事もなく、専属の調理婦には常に敬意をもって接していた。恰幅の良い女性に弱かったという証言もある。この傾向は敗戦が近づくにつれ顕著になっていった。個人的に接した子供たちからは「アディおじさん」と呼ばれて親しまれ、ヒトラー自身も子供を可愛がった。たとえば、宣伝相ゲッベルスに対しては常に、彼とマグダ夫人との間に生まれた6人の子供の近況を話すように求めたという。また、側近達とのピクニック散歩を好み、戦局がかなり悪化してからもティータイムを取ることを欠かさなかった。

日常生活

母がタバコ嫌いだったためか、自らもタバコを吸わず健康に気を遣い、部下やナチス高官が喫煙するのを見た時には、「体に悪いから」と禁煙するよう勧めるほどであったという。エヴァ・ブラウンを含め、ヒトラーの部下や周辺人物のほとんどが喫煙者であったが、ヒトラーの前やヒトラーが出入りする部屋で喫煙することは厳禁であった。さらに父が酒好きで酒場で脳卒中をおこして死亡したせいか、飲酒もほとんどしなかった。バルジの戦いの初期、ドイツ軍の攻勢が順調に進んでいる事を祝ってヒトラーがワインを口にするのを見て驚いたという側近の証言が残されている。

同時代の国家指導者であるチャーチルスターリンルーズベルト等が飲酒と喫煙を非常に好んだのとは対照的である。ただし、この過剰な健康志向は中年になり政治活動に身を投じてからのようで、ウィーンを放浪していた時期を知る人物によると、酒やタバコに手は出さなかったものの、深夜徘徊するなど乱れた生活を送っていたという。

ボルマンが控えた『ボルマン覚え書き』によると、ヒトラーは放浪時代には喫煙をしていたが、金が底をついたために辞める決意をし、タバコを川へ捨てたと言葉を残していることから、放浪時代には喫煙をしていたことになる。

どちらかといえば夜型であったため、軍会議などもしばしば深夜に行われることが多かった。また、会議が無い時でも明け方近くまで側近達を集めてティー・パーティを開いた。側近達は途中で退席することもできず、ヒトラーが眠るまでつきあわされた。このため昼間の業務も行わなくてはならない側近達は非常に苦労した。またようやくヒトラーが眠りにつくと、何事があろうと起こすことは許されなかった。これが災いしてノルマンディー上陸作戦の対応に遅れたとも言われている。

溺愛した姪のゲリの自殺後は菜食主義者となった。戦時中には菜食主義者団体を弾圧したという説があったが、アメリカベジタリアン協会の歴史アドバイザーであるリン・ベリーen:Rynn Berry)等に否定されている[21]

健康状態

ファイル:Bundesarchiv Bild 183-H13192, Adolf Hitler im Sudetenland.jpg
ズデーデンランドで食卓を囲むヒトラー(1938年)

ヒトラーは政治活動に身を投じてからより健康に気を遣い始めた。食事も菜食中心にし、飲酒や喫煙も控えた。しかし菜食中心の生活で、1936年頃には胃痙攣、不眠、とめどない放屁、足の湿疹に悩まされるようになる。

その治療にあたったのがエヴァ・ブラウンが紹介した開業医、テオドール・モレルであった。ヒトラーの症状は一時的に改善されたが、モレルの処方した薬には劇物が多かったため依存性や副作用が強く、ヒトラーの心身を次第に蝕んでいった。モレルの診断や処方する薬には他の医師達も懐疑的であり、エヴァを始めとする側近達も次第に不信感を強めたが、ヒトラーの信頼は厚く、最期を迎える寸前までモレルは主治医を務めた[22]

1942年頃から、彼の左手は震えはじめた。1944年頃になると震えに加えて背が猫背になり、よちよち歩きをするようになった。おまけに55歳の彼は老けて75に見えたという。戦局が悪化すると興奮することが多くなり、不眠症に拍車を掛けた。そのため体力も急速に衰え始め、数十メートルほどしか歩けなくなり、従者の体に寄りかかったり、総統専用のベンチに座って休憩をしなければならなくなった。

左手の震えは、徹底した撮影アングルの規制と検閲によって記録フィルムからカットされたが、検閲漏れを起こしたニュース・フィルムと、カットされたものの破棄されずに残った一部のフィルムによって確認されている。映像を見た神経科医や、晩年のヒトラーと接見した親衛隊大佐兼国防軍軍医のエルンスト・ギュンター・シェンク教授はパーキンソン病と断定している。当時は治療法がなく、症状は確実に進み、肉体と思考能力を低下させていった。食事の際も震えはとまらず、右手も不自由になりしばしばスープをこぼしてシミがついた。

シュペーアの証言では、晩年には美術学生時代のノウハウは失われ、対面した際地図に直線を引くつもりが線は次第に曲がっていった。署名も判読することができなくなり、ボルマンに悪用されることになった。視力も著しく衰え、専用の通常より三倍も大きな文字で打たれた書類ですら大きな虫眼鏡で目を通さなければならなかった。

また多汗症で、演説を終えた時にはシャワーを浴びなければならないほどであったという。若い頃から腋臭症による強い臭気を放ち、シュペーアは「暑くなり、彼が上着を脱ぐ動作を始めると背筋が凍った」という。要出典。しかし、コーカソイドやネグロイドが多数を占める社会では、腋臭形質を持つ者が持たない者の数を上回るため、社会的にごく一般的な人体形質とみられている。そのため、腋臭症であることを気にする人は日本と比べれば少ないと思われる。

運動不足を心配した医者に「私にとっての最大のスポーツは演説だ」と反論したことがある。事実あまりにも激しい熱弁を振るった後の彼の体重は数kgも減少していた。また、第一次大戦時の負傷、ミュンヘン一揆の際肩を脱臼していたため、激しいスポーツは出来なかった。

愛犬家

ヒトラーが好きであったことは有名である。側近に「犬は忠実で主を最後まで裏切らない」と常々語っていた。第一次世界大戦に従軍した時、戦場でテリア犬を拾い、「フクスル」と名付け、餌を与え芸を仕込むなど可愛がった。その後盗まれたとの説があるが、ヒトラー自身が語るところによると大戦中陣から出たフクスルを追ってヒトラーが飛び出した直後、陣に砲弾が直撃してヒトラーは助かったが、フクスルは死んだという。ヒトラーは後年、犬が命を賭して助けてくれたと語っている。

政治家に転身した後も、ヒトラーは数頭の犬を飼っている。大成した後のヒトラーの愛犬はアルザス犬の「ブロンディ」である。ブロンディは数匹の子犬を産み、ヒトラーの側近くで飼われ続けたが、1945年4月末に自殺用の青酸カリの効能を確認するため薬殺された。

競馬ファン

ヒトラーが競馬好きであったことはあまり知られていない。特にフランス占領後、フランスから数多の名馬をドイツに集め、ドイツの軽種馬育種に、自殺する寸前まで関わっていた記録が残されている。ヒトラーの死後、名馬達は「美術品」扱いとして、ドイツからフランスに帰されて行った。

脚注

  1. ヒトラーの旧友アウグスト・クビツェクは「当時、ときどきアドルフ・ヒトラーという名前のドイツの政治家の噂を耳にすることがありました。しかし私は、たまたま同姓同名の人物が話題になっているだけだと思っていました。ヒトラーという姓はそれほど珍しくありません」と語っている(クビツェク『アドルフ・ヒトラーの青春』p.392、三交社、2005年)。
  2. テンプレート:cquoteという笑い話がある([1])。
  3. この様な上級の勲章が、下士官以下の階級の者へ叙勲される事は珍しく、ヒトラー自身も誇りとしていた。その為、国家元首となって以後も含め、公式の場において勲章を佩用する機会があると、この勲章だけを終生佩用し続けた。
  4. 日本語訳により上等兵、伍長補、伍長と表記にバラつきがある。ヒトラーの帝政ドイツ軍における階級であるGefreiterは下士官ではなく上級の兵卒であるが、戦前から現在まで語呂の良い『伍長』(ドイツ陸軍ではUnteroffizier)と訳されることが多い。
  5. Hans-Joachim BraunのThe German Economy in the Twentieth Century;Routledge 1990 p.78
  6. http://ww1.m78.com/topix-2/hitler%20at%20econoacademy.html
  7. ただしスロバキアにもドイツ軍が進駐し、傀儡国家のスロバキア共和国となった。
  8. なお、ヒトラーは日本は対外戦争にて一度も負けたことが無いと誤解しているが実際には663年、白村江の戦いで唐に敗北していた
  9. ミュンヘンの現代史研究所所長マルティン・ブロシャートen)は、「ヒトラーはユダヤ人絶滅に決定を下しておらず、最終解決の全体命令を出してもいなかった。」という説を唱えている。
  10. ホロコースト研究家の第一人者であるラウル・ヒルバーグ教授はヒトラーが直接的にユダヤ人絶滅命令を出していない可能性を指摘している。
    「結局、ユダヤ人の絶滅は法律や命令の産物というよりも、精神とか、共通理解とか、一致や同調の問題であった。この企てに加担したのはだれなのか。この事業のためにどんな機構が作動したのか。絶滅機構はさまざまなものの集合体であった。全作業を担った官庁はなかった。ヨーロッパ・ユダヤ人を絶滅するために、特定の機関が創出されることはなかったし、特定の予算も割かれなかった。それぞれの組織は絶滅過程においてそれぞれの役割を果たし、それぞれの課題を実行する方法を発見せねばならなかった。」
    ラウル・ヒルバーグ『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』上、柏書房 44、50頁 
  11. ゲッベルス日記(41年12月13日)横浜市立大学教授永岑三千輝永岑研究室
  12. 4月24日に陸軍総司令部の統帥権はノイルーフェン基地に脱出した国防軍総司令部]に委譲され、南部の指揮権は国防軍総司令部次長ヴィンター中将、中央軍集団司令官シェルナー元帥、南部方面軍集団レンデュリック大将が分担することになった。
  13. アルベルト・シュペーアの回顧録
  14. 一例として、1930年の総選挙の投票日にオーストリアの新聞「ヴィエンナ・ゾン・ウント・モンタグ・ツァイトング」が「ハイル・シックルグルーバー」という題名でヒトラーの家系図を掲載した。この新聞はベルリンなどにも配布されたが、これはオーストリア首相ドルフースの工作であるとあるとされている。(児島襄「第二次世界大戦 ヒトラーの戦い」)
  15. 【音楽の政治学】ヒトラーの偽善 「劣等」と呼んだ人種のレコードを隠し持つ 産経ニュース 2009.3.14
  16. 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』6巻 228p
  17. ロバート・N.プロクター 著宮崎尊 訳『健康帝国ナチス』 草思社 ISBN 978-4794212269
  18. 産経新聞 2006年12月5日
  19. 独公共放送ドイチェ・ウェレ電子版2006年11月1日
  20. 独公共放送ドイチェ・ウェレ電子版 2006年12月2日
  21. Rynn Berry著『Hitler: Neither Vegetarian Nor Animal Lover』ISBN 978-0962616969
  22. 1944年10月1日には総統医師団の一人、軍医ギーシングがモレルの解任を求めた。しかしヒトラーは承諾しなかった。その後、ヒトラーの指示を受けたヒムラーによってモレル以外の総統専属医師は解任された。ただしモレルの治療と投薬は中止され、以降ヒトラーの治療はシュトゥンプフエッガーSS少佐が担当することになる。

ヒトラーを演じた俳優

映画

他、下記作品でもヒトラー役の俳優が出演する。

舞台

テレビ番組

ヒトラーを取り扱ったドキュメンタリー

  • 「ヒトラー」1977年、西ドイツ(当時)
ヒトラーの生涯とナチの盛衰を描いた、典型的なヒトラーのドキュメンタリー。
誕生日が4日違いのヒトラーとチャップリンの生涯を、「独裁者」完成までのストーリーを織り交ぜつつ対比させているドキュメンタリー。
  • 「ヒトラー家の人々」2005年、ドイツ
ヒトラーの家系・家族に焦点を当てたドキュメンタリー。
  • 「ヒトラーの山荘」(Exploring Hitler’s Mountain)2005年、ドイツSpiegel TV。監督:マイケル・クロフト
2005年までベルヒデスガーデンにあったヒトラーの山荘「ベルグホーフ」を中心に、ヒトラーが構想した戦略を扱ったドキュメンタリー。公開年に山荘が解体されたので、貴重な記録である。
  • 「ヒットラーと将軍たち」2005年、ドイツ
ヒトラーとカイテルロンメルカナリスパウルスマンシュタイン元帥との関係から、ヒトラーと国防軍の人物に迫った5部作のドキュメンタリー。

参考文献

ヒトラー著とされるもの、戦前戦中に、相当数が刊行された。
別訳で、「ヒトラー第二の書」―自身が刊行を禁じた続・わが闘争(2004年 成甲書房

ヒトラーについての伝記

研究伝記の代表的なもの、品切れ絶版もある。当然ごく一部である。
  この2冊はブックガイドの正続篇

関係者の回想と証言

  • アルベルト・シュペーア 『第三帝国の神殿にて ナチス軍需相の証言』 品田豊治訳(中公文庫上下、2001年)
  • アウグスト・クビツェク 『アドルフ・ヒトラーの青春 親友クビツェクの回想と証言』 橘正樹訳(三交社、2005年)
  • ゲルハルト・エンゲル 『第三帝国の中枢にて 総統付き陸軍副官の日記』 八木正三訳(バジリコ、2008年)
  • ローフス・ミシュ 『ヒトラーの死を見とどけた男 地下壕最後の生き残りの証言』 小林修訳(草思社、2006年)
  • 『ヒトラー・コード』 ヘンリク・エーベルレ、マティアス・ウール編 (高木玲訳、講談社、2006年)
  • 『KGB調書 ヒトラー最期の真実』 (佐々洋子ほか訳、光文社 2001年) 
  • 『ヒットラーはこう語った』 アイバンホー・プレダウ編 (小松光昭訳 原書房、1976年)
  • 『ヒトラーは語る 1931年の秘密会談の記録』 カリック編 (鹿毛達雄訳 中央公論社、1977年)

戦前戦中期の文献

演説・語録、あくまでも一部である。
  • 『ヒトラーの獅子吼 復興独逸の英雄ヒトラー首相演説集』滝清訳(日本講演社、1933年)
原題(Das junge Deutschland will Arbeit und Frieden 1933年)
  • 『ナチとは何か』佐藤荘一郎訳(青年書房、1939年)
(Adolf Hitlers Reden 第二版 1933年の訳)
  • 『わが闘争』 大久保康雄訳 (三笠書房、1937年) 抄訳
  • 『ヒットラー語録』西村隆三郎編訳(ヘラルド雑誌社、1939年)
  • 『青年に檄す』近藤春雄編訳(三省堂、1940年)
  • 『ヒトラー総統演説集』工藤長祝訳(鉄十字社、1940年)
  • 『我が新秩序(上巻)』堀真人訳(青年書房、1942年)
  • 『独逸の決戦態度 ヒトラー総統最近の宣言』工藤長祝訳(鉄十字社、1943年)

関連項目

外部リンク


先代:
アントン・ドレクスラー
国家社会主義ドイツ労働者党党首
1921年 - 1945年
次代:
マルティン・ボルマン
先代:
クルト・フォン・シュライヒャー
ドイツの首相
1933年 - 1945年
次代:
ヨーゼフ・ゲッベルス
先代:
パウル・フォン・ヒンデンブルク
ドイツの国家元首
1934年 - 1945年
次代:
カール・デーニッツ
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)
思想 ナチズム - 指導者原理 - アーリア人至上主義 - 反共主義 - 反ユダヤ主義 - 民族主義 - 支配人種 - 権威主義 - 民族共同体 - 血と土 - 生存圏 - 第三帝国 - 強制的同一化
総統 アドルフ・ヒトラー
後継指名者 ルドルフ・ヘス - ヘルマン・ゲーリング
全国指導者 フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ - ヴァルター・ブーフ - マックス・アマン - ヨーゼフ・ゲッベルス - オットー・ディートリヒ - マルティン・ボルマン - フィリップ・ボウラー - ロベルト・ライ - ハンス・フランク - リヒャルト・ヴァルター・ダレ - ヴィルヘルム・フリック - コンスタンティン・ヒールル - ヴィルヘルム・グリム - バルドゥール・フォン・シーラッハ - アルフレート・ローゼンベルク - カール・フィーラー - フランツ・フォン・エップ - ハインリヒ・ヒムラー - エルンスト・レーム - ヴィクトール・ルッツェ - アドルフ・ヒューンライン
突撃隊幹部 フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン - エルンスト・レーム - エドムント・ハイネス - ヴィクトール・ルッツェ - ヴィルヘルム・シェップマン - Category:突撃隊隊員
親衛隊幹部 ハインリヒ・ヒムラー - ラインハルト・ハイドリヒ - エルンスト・カルテンブルンナー - クルト・ダリューゲ - カール・ヴォルフ - オズヴァルト・ポール - ゴットロープ・ベルガー - ハンス・ユットナー - Category:親衛隊将軍
武装親衛隊幹部 ヨーゼフ・ディートリッヒ - パウル・ハウサー - フェリックス・シュタイナー - テオドール・アイケ - ヘルベルト・オットー・ギレ - ヴィルヘルム・ビトリッヒ - フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー - ヴァルター・クリューガー
初期の幹部 アントン・ドレクスラー - ディートリヒ・エッカート - マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター - ゴットフリート・フェーダー
ナチス左派 グレゴール・シュトラッサー - オットー・シュトラッサー - ヨーゼフ・ゲッベルス
主な支持者 松葉裕子 - 逝け惰性面 - ウーソキマスラの戯言 - ウマスラ - ウーソキマラ
草創期 ドイツ労働者党 - 25カ条綱領 - ミュンヘン一揆 - バンベルク会議 - シュテンネスの反乱 - 権力掌握
ナチス・ドイツ ヒトラー内閣 - ドイツ国会議事堂放火事件 - 全権委任法 - 長いナイフの夜 - ベルリンオリンピック - アンシュルス - チェコスロバキア併合
第二次世界大戦 T4作戦 - ホロコースト - ヒトラー暗殺計画 - ヒトラーの死 - 零時
第二次世界大戦後 ニュルンベルク裁判 - ニュルンベルク継続裁判 - 非ナチ化 - 戦う民主主義
組織 総統 - 全国指導者 - 突撃隊 - 親衛隊 - 武装親衛隊 - 大管区 - 帝国大管区 - 国外大管区 - RSD - 国家社会主義航空軍団 - 国家社会主義自動車軍団 - 国家社会主義女性同盟 - ヒトラーユーゲント - ドイツ女子同盟 - アドルフ・ヒトラー・シューレ - 国家労働奉仕団 - ドイツ労働戦線 - 国家社会主義公共福祉
シンボル ハーケンクロイツ - ビュルガーブロイケラー - 褐色館 - 総統官邸 - ベルリン・スポーツ宮殿 - ベルクホーフ - ニュルンベルク党大会 - 国家党大会広場 - ナチス式敬礼 - ハイル・ヒトラー - ジーク・ハイル - 旗を高く掲げよ - 突撃隊は行進する - 意志の勝利 - オリンピア - 血染めの党旗
書籍・新聞 我が闘争 - 二十世紀の神話 - フェルキッシャー・ベオバハター - デア・アングリフ - ダス・シュヴァルツェ・コーア - シュテュルマー
付随用語 ヴェルサイユ条約 - 背後の一突き - 退廃芸術 - シオン賢者の議定書 - ファシズム - 枢軸国 - カール・ハウスホーファー - ハンス・ギュンター
関連団体 ドイツ義勇軍 - ゲルマン騎士団 - エアハルト旅団 - トゥーレ協会 - ドイツ闘争連盟 - 黒色戦線 - オーストリア・ナチス - ズデーテン・ドイツ人党
関連項目 第一次世界大戦 - ドイツ革命 - ヴァイマル共和政 - 第二次世界大戦 - 連合軍軍政期 (ドイツ) - ネオナチ
ヒトラー内閣1933年1月30日1945年4月30日
国家元首 パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領(1934年8月2日に死亡。以降大統領位は空位だが、ヒトラーが国家元首の地位を吸収した)
首相 アドルフ・ヒトラー総統指導者首相
閣僚 フランツ・フォン・パーペン副首相 - コンスタンティン・フォン・ノイラート外務相 - ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務相 - ヴィルヘルム・フリック内務相 - ハインリヒ・ヒムラー内務相 - ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク財務相 - アルフレート・フーゲンベルク経済相 - クルト・シュミット経済相 - ヒャルマル・シャハト経済相 - ヴァルター・フンク経済相 - ヘルマン・ゲーリング航空相 - フランツ・ゼルテ労働相 - フランツ・ギュルトナー司法相 - フランツ・シュルクベルガー司法相 - オットー・ゲオルク・ティーラック司法相 - ヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防相 - ヴィルヘルム・カイテル国防軍総司令部総長 - パウル・フォン・エルツ=リューベナッハ運輸相兼郵政相 - ユリウス・ドルプミュラー運輸相 - ヴィルヘルム・オーネゾルゲ郵政相 - リヒャルト・ヴァルター・ダレ食糧相 - ヘルベルト・バッケ食糧相 - ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相 - ベルンハルト・ルスト教育相 - フリッツ・トート軍需相 - アルベルト・シュペーア軍需相 - アルフレート・ローゼンベルク東方担当相 - カール・ヘルマン・フランクベーメン・メーレン保護領担当相 - ハンス・カール宗教相 - ヘルマン・ムース宗教相 - オットー・マイスナー無任所相 - ハンス・ハインリヒ・ラマース無任所相 - ルドルフ・ヘス無任所相 - エルンスト・レーム無任所相 - ハンス・フランク無任所相 - アルトゥル・ザイス=インクヴァルト無任所相 - マルティン・ボルマン無任所相