オットー・ディートリヒ
オットー・ディートリヒ(Otto Dietrich、1897年8月31日 - 1952年11月22日)は、ドイツの政治家。国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)の幹部で、同党の新聞全国指導者(新聞局長)を務めた。政治経済学博士号(Dr.rer.pol)を所持。
略歴[編集]
エッセン出身。第一次世界大戦がはじまると軍に志願兵として入隊し、西部戦線に従軍した。予備役少尉(Leutnant.d.R)まで昇進し、一級鉄十字章を受章している。大戦後にはミュンヘン、フランクフルト・アム・マイン、フライブルクの大学で学び、1921年に政治経済学博士号(Dr.rer.pol)を取得した。大学卒業後はエッセン商工会議所で調査アシスタントとして働いた後、エッセン、ついでミュンヘンの新聞社でビジネスと貿易の記事の副編集員となる。またライン地方の鉄製品シンジケートの代理人や法律アドバイザーも務めた。
1929年4月1日にナチ党に入党した(党員番号126,727)。1931年にナチ党の新聞全国指導者に任じられた。1936年からは国会議員も務めている。ナチス党のプロパガンダ報道に非凡な才能を発揮した。1934年、アドルフ・ヒトラーがエルンスト・レーム以下の突撃隊幹部を粛清した「長いナイフの夜」の際には「総統は総統を殺害しようとした党員たちのモラルの低下にショックを受けられた」と報道した[1]。ルドルフ・ヘスが単独飛行した際には「敵領での事故死」と報道している[1]。東部戦線で赤軍に押し返され始めても「ソ連は崩壊した」と報道し続けた[1]。
宣伝大臣にしてナチ党の宣伝全国指導者であったヨーゼフ・ゲッベルスの仕事とはかなり被るところも多く、摩擦もしばしばあったという。しかし1937年にはゲッベルスとの間で妥協が成立し、ディートリヒは宣伝省の次官に就任し、1938年に政府報道局長に任命される。また親衛隊にも入隊しており(隊員番号101,349)、1941年には親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)になっている。
1945年3月にヒトラーにより政府報道局長の地位を解任された[1]。ドイツ敗戦後の1949年にはニュルンベルク継続裁判のひとつ「大臣裁判」にかけられた。そこで懲役7年の判決を受けた。ランツベルク刑務所に投獄されたが、1951年には釈放されている。『私が知るヒトラー』を著し、その中でヒトラーとナチズムを厳しく批判した。1952年11月にデュッセルドルフで死亡。
キャリア[編集]
階級[編集]
- 1917年11月12日、予備役少尉(Leutnant.d.R)
- 1933年7月31日、親衛隊上級大佐(SS-Oberführer)
- 1934年1月1日、親衛隊少将(SS-Brigadeführer)
- 1934年1月27日、親衛隊中将(SS-Gruppenführer)
- 1941年4月20日、親衛隊大将(SS-Obergruppenführer)
受章[編集]
- 二級鉄十字章(1918年)
- 一級鉄十字章(1918年)
- 前線戦士名誉十字章
- 黄金ナチ党員バッジ(1936年11月9日)
- 勤続章(Dienstauszeichnung)
- ナチ党勤続章
- 銅章
- 銀章
- ナチ党勤続章
- 親衛隊全国指導者名誉長剣(1937年12月1日)
- 親衛隊名誉リング(1937年12月1日)
文献[編集]
- Michael D. Miller著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(Bender Publishing)ISBN 9329700373
- Charles Hamilton著『LEADERS & PERSONALITIES OF THE THIRD REICH VOLUME1』(R James Bender Publishing)ISBN 9780912138275