「北海道日本ハムファイターズ」の版間の差分
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'''北海道日本ハムファイターズ'''(ほっかいどうにっぽんハムファイターズ)は、[[日本]]の[[日本プロ野球|プロ野球]]球団。[[パシフィック・リーグ]]に所属する。 | '''北海道日本ハムファイターズ'''(ほっかいどうにっぽんハムファイターズ)は、[[日本]]の[[日本プロ野球|プロ野球]]球団。[[パシフィック・リーグ]]に所属する。 | ||
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東急・東映社史ではセネタースを「'''青鞜'''」と表記する場合がある<ref>これは、[[読売ジャイアンツ]]の前身の東京巨人軍が「'''巨人'''」の愛称で呼ばれることを受けて、[[鈴木惣太郎]]が「他の球団も巨人と同じように愛称で呼ぶことにしよう」と考え、[[阪神タイガース|大阪タイガース]]を「'''猛虎'''」、セネタースを「青鞜」、[[松竹ロビンス|パシフィック]]を「'''太平'''」と命名した名残である。しかし、巨人以外の他球団が愛称で呼ばれることを拒否したため、定着しなかった([[日本野球連盟 (プロ野球)#1946年の球団愛称|参照]])。</ref>。 | 東急・東映社史ではセネタースを「'''青鞜'''」と表記する場合がある<ref>これは、[[読売ジャイアンツ]]の前身の東京巨人軍が「'''巨人'''」の愛称で呼ばれることを受けて、[[鈴木惣太郎]]が「他の球団も巨人と同じように愛称で呼ぶことにしよう」と考え、[[阪神タイガース|大阪タイガース]]を「'''猛虎'''」、セネタースを「青鞜」、[[松竹ロビンス|パシフィック]]を「'''太平'''」と命名した名残である。しかし、巨人以外の他球団が愛称で呼ばれることを拒否したため、定着しなかった([[日本野球連盟 (プロ野球)#1946年の球団愛称|参照]])。</ref>。 | ||
− | [[1946年]][[9月27日]]の対[[大映ユニオンズ|ゴールドスター]]戦([[阪急西宮スタジアム|西宮球場]])で、宿舎付近は雨が降っていたため、選手は試合中止と思い込んで移動しなかったが試合は行われ、これがプロ野球初となる[[放棄試合]]とみなされ、0-9で敗戦した。[[12月18日]]、[[東京急行電鉄]] | + | [[1946年]][[9月27日]]の対[[大映ユニオンズ|ゴールドスター]]戦([[阪急西宮スタジアム|西宮球場]])で、宿舎付近は雨が降っていたため、選手は試合中止と思い込んで移動しなかったが試合は行われ、これがプロ野球初となる[[放棄試合]]とみなされ、0-9で敗戦した。[[12月18日]]、[[東京急行電鉄]](東急)に球団権利金24万円を合わせ、合計35万円でチームを売却。東急との仲介の労をとったのは[[小西得郎]]と[[浅岡信夫]]、[[黒川渉三]]という。運営法人として、「'''株式会社東急ベースボール倶楽部'''」を設立。翌1947年の[[1月7日]]、球団名を「'''東急フライヤーズ'''(とうきゅうフライヤーズ、''Tokyu Flyers'')」とした。当時の東急はまだ[[大東急]]と呼ばれていた時代で、しかも分裂騒動の渦中にあった。大東急一致団結の旗印として東急は同球団を買収。当時の同社取締役経理部長であった[[大川博]]がオーナーに就任した。こうして誕生したフライヤーズは、中心打者の大下が多くのファンを惹きつけたが、球団経営は依然として赤字だった。 |
[[1948年]][[4月9日]]、これまでプロ球界入りを画策して[[国民野球連盟]]にも接近し[[大塚アスレチックス]]と幾つかの興行試合を行っていた未加盟プロ球団の大映野球が経営に参加し、企業名を東急大映野球、チーム名を「'''急映フライヤーズ'''(きゅうえいフライヤーズ、''Kyuei Flyers'')」に改称した<ref>東急の参事で強羅ホテル社長・猿丸元が、小林次男([[横沢三郎]]の兄)の仲介で、[[五島慶太]]と永田を会わせてフィフティの合併、急映フライヤーズを誕生させた(関三穂『プロ野球史再発掘 5 』、P232、262)。</ref>。しかし、同年[[12月1日]]、金星スターズを別途買収することが決まった大映はフライヤーズの運営から手を引き、同月21日に球団名とチーム名は約1年で元の東急フライヤーズに戻った([[大映ユニオンズ]]を参照)。 | [[1948年]][[4月9日]]、これまでプロ球界入りを画策して[[国民野球連盟]]にも接近し[[大塚アスレチックス]]と幾つかの興行試合を行っていた未加盟プロ球団の大映野球が経営に参加し、企業名を東急大映野球、チーム名を「'''急映フライヤーズ'''(きゅうえいフライヤーズ、''Kyuei Flyers'')」に改称した<ref>東急の参事で強羅ホテル社長・猿丸元が、小林次男([[横沢三郎]]の兄)の仲介で、[[五島慶太]]と永田を会わせてフィフティの合併、急映フライヤーズを誕生させた(関三穂『プロ野球史再発掘 5 』、P232、262)。</ref>。しかし、同年[[12月1日]]、金星スターズを別途買収することが決まった大映はフライヤーズの運営から手を引き、同月21日に球団名とチーム名は約1年で元の東急フライヤーズに戻った([[大映ユニオンズ]]を参照)。 | ||
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[[1953年]]9月、東急沿線の[[世田谷区]][[駒沢オリンピック公園|駒沢公園]]に自前の[[駒澤野球場]](駒沢球場)が完成し、後楽園球場から移転。奔放なプレースタイルから「駒沢の暴れん坊」の異名を取った。 | [[1953年]]9月、東急沿線の[[世田谷区]][[駒沢オリンピック公園|駒沢公園]]に自前の[[駒澤野球場]](駒沢球場)が完成し、後楽園球場から移転。奔放なプレースタイルから「駒沢の暴れん坊」の異名を取った。 | ||
− | [[1954年]]1月1日、東急は当時傍系企業で大川が社長を務めていた[[東映]]に球団運営を委託。同年2月1日、東映は子会社の'''東映興業株式会社''' | + | [[1954年]]1月1日、東急は当時傍系企業で大川が社長を務めていた[[東映]]に球団運営を委託。同年2月1日、東映は子会社の'''東映興業株式会社'''に球団を移管(東急ベースボール倶楽部は休眠会社として存続)。チーム名を「'''東映フライヤーズ'''(とうえいフライヤーズ、''Toei Flyers'' ※東映フライヤーズ野球団とも)」に変更。球団保有…東急ベースボール倶楽部・球団運営…東映興業の二社体制となる。この体制は、1964年の東映の[[東急グループ]]離脱後も続いた。 |
[[1959年]]、後に3000本安打を達成する「安打製造機」[[張本勲]]が入団。新人王に輝き、チームは初のAクラス(3位)入りを果たす。 | [[1959年]]、後に3000本安打を達成する「安打製造機」[[張本勲]]が入団。新人王に輝き、チームは初のAクラス(3位)入りを果たす。 | ||
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{{by|1960年}}12月、前巨人の[[水原茂]]が監督就任。水原が巨人監督を勇退すると大川は招聘工作に動き、[[京都市|京都]]や銀座にバー「おそめ」を開いていた[[上羽秀]]の恋人でもあった[[俊藤浩滋]](後の映画プロデューサー)を呼ぶ。水原とは飲み友達だった俊藤は[[マキノ雅弘]]ら映画人とも知合いで、大川にも可愛がられていた。この招聘工作をきっかけに、水原は監督就任した。 | {{by|1960年}}12月、前巨人の[[水原茂]]が監督就任。水原が巨人監督を勇退すると大川は招聘工作に動き、[[京都市|京都]]や銀座にバー「おそめ」を開いていた[[上羽秀]]の恋人でもあった[[俊藤浩滋]](後の映画プロデューサー)を呼ぶ。水原とは飲み友達だった俊藤は[[マキノ雅弘]]ら映画人とも知合いで、大川にも可愛がられていた。この招聘工作をきっかけに、水原は監督就任した。 | ||
− | [[1961年]]、それまで近鉄と最下位争いをしていた東映が、監督の水原の指揮で終盤まで南海との優勝争いとなった。南海のエースの[[杉浦忠]]が離脱した事もあり、マスコミは東映が有利としていたが、10月11日からの対南海5連戦で3勝した方が優勝という状況で、東映は3連敗で10月15日に優勝を逃し、優勝した南海と2. | + | [[1961年]]、それまで近鉄と最下位争いをしていた東映が、監督の水原の指揮で終盤まで南海との優勝争いとなった。南海のエースの[[杉浦忠]]が離脱した事もあり、マスコミは東映が有利としていたが、10月11日からの対南海5連戦で3勝した方が優勝という状況で、東映は3連敗で10月15日に優勝を逃し、優勝した南海と2.5ゲーム差の2位に終わる。張本が初の首位打者を獲得。 |
[[1962年]]、[[前東京オリンピック|東京オリンピック]](1964年)の整備計画のために駒沢球場が取り壊されることになった。試合会場の確保に悩まされたが紆余曲折の末に[[新宿区]]の[[明治神宮野球場]]を学生野球のオフシーズンのみ借り、学生野球のシーズンは後楽園など他の球場を借りることで解決した(通常は神宮への移転とみなされるが、この年の東映主催の日本シリーズは後楽園で開催した)。水原監督の下で[[土橋正幸]]と[[尾崎行雄 (野球)|尾崎行雄]]の両エースが活躍し、初のリーグ優勝を果たす。[[1962年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも[[阪神タイガース]]を4勝2敗1引き分けで破り、念願の日本一に輝く。これが東映時代の唯一の優勝となった。このシリーズの最優秀選手(MVP)は[[土橋正幸]]と[[種茂雅之]]の2名が選出されているが、MVPが2名選出されたのは日本シリーズ史上唯一である。張本が球団史上初のMVP、尾崎が新人王を受賞。 | [[1962年]]、[[前東京オリンピック|東京オリンピック]](1964年)の整備計画のために駒沢球場が取り壊されることになった。試合会場の確保に悩まされたが紆余曲折の末に[[新宿区]]の[[明治神宮野球場]]を学生野球のオフシーズンのみ借り、学生野球のシーズンは後楽園など他の球場を借りることで解決した(通常は神宮への移転とみなされるが、この年の東映主催の日本シリーズは後楽園で開催した)。水原監督の下で[[土橋正幸]]と[[尾崎行雄 (野球)|尾崎行雄]]の両エースが活躍し、初のリーグ優勝を果たす。[[1962年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも[[阪神タイガース]]を4勝2敗1引き分けで破り、念願の日本一に輝く。これが東映時代の唯一の優勝となった。このシリーズの最優秀選手(MVP)は[[土橋正幸]]と[[種茂雅之]]の2名が選出されているが、MVPが2名選出されたのは日本シリーズ史上唯一である。張本が球団史上初のMVP、尾崎が新人王を受賞。 | ||
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=== 日本ハム時代 === | === 日本ハム時代 === | ||
==== 後楽園時代 ==== | ==== 後楽園時代 ==== | ||
− | : [[1973年]]11月19日に[[日本ハム]]へ売却。法人名は「'''日本ハム球団株式会社'''」となり、オーナーに[[大社義規]]、球団社長に[[三原脩]]、監督に[[中西太]]が就任。新ニックネームを一般公募し、12月17日、公募で選ばれた新ニックネーム「ファイターズ」が発表され、球団名は「'''日本ハムファイターズ'''(にっぽんハムファイターズ、''Nippon Ham Fighters'' | + | : [[1973年]]11月19日に[[日本ハム]]へ売却。法人名は「'''日本ハム球団株式会社'''」となり、オーナーに[[大社義規]]、球団社長に[[三原脩]]、監督に[[中西太]]が就任。新ニックネームを一般公募し、12月17日、公募で選ばれた新ニックネーム「ファイターズ」が発表され、球団名は「'''日本ハムファイターズ'''(にっぽんハムファイターズ、''Nippon Ham Fighters'')」となる。 |
: 日本ハム最初のシーズンとなった{{by|1974年}}は、前後期ともに最下位。総合最下位に終わる。張本が7度目の首位打者獲得。三原社長は、フライヤーズ時代の主力一掃を狙い、大規模なトレードに着手した。同年オフ、大杉がヤクルト、白が太平洋クラブ、[[大下剛史]]が広島にそれぞれ移籍。 | : 日本ハム最初のシーズンとなった{{by|1974年}}は、前後期ともに最下位。総合最下位に終わる。張本が7度目の首位打者獲得。三原社長は、フライヤーズ時代の主力一掃を狙い、大規模なトレードに着手した。同年オフ、大杉がヤクルト、白が太平洋クラブ、[[大下剛史]]が広島にそれぞれ移籍。 | ||
− | :[[1975年]]は前・後期共に4位ながら、2年連続の総合最下位に終わる。[[高橋直樹 (野球)|高橋直樹]]が17勝、大杉との交換で入団した[[小田義人]]が首位打者を争うも太平洋に移籍した白にわずかに及ばず。同年オフ、張本が[[高橋一三]]・[[富田勝]]との交換で巨人に移籍。中西は2年連続最下位の責任を取り辞任、[[大沢啓二]] | + | :[[1975年]]は前・後期共に4位ながら、2年連続の総合最下位に終わる。[[高橋直樹 (野球)|高橋直樹]]が17勝、大杉との交換で入団した[[小田義人]]が首位打者を争うも太平洋に移籍した白にわずかに及ばず。同年オフ、張本が[[高橋一三]]・[[富田勝]]との交換で巨人に移籍。中西は2年連続最下位の責任を取り辞任、[[大沢啓二]]が監督に就任。1976年・1977年、2年連続の総合5位に終わる。 |
:[[1978年]]、[[ボビー・ミッチェル (1943年生の外野手)|ボビー・ミッチェル]]が本塁打王、南海から移籍の[[柏原純一]]も活躍し、チーム成績は、総合3位。ファイターズになって初のAクラスとなる。 | :[[1978年]]、[[ボビー・ミッチェル (1943年生の外野手)|ボビー・ミッチェル]]が本塁打王、南海から移籍の[[柏原純一]]も活躍し、チーム成績は、総合3位。ファイターズになって初のAクラスとなる。 | ||
− | : | + | :1979年、高橋直樹が20勝。[[島田誠]]が1回3盗塁をはじめ、55盗塁を記録。結果は、2年連続の総合3位。 |
: [[1980年]]、新人の[[木田勇]]が22勝で最多勝獲得、MVP・新人王など、タイトル投手部門を独占。打線も柏原、[[トニー・ソレイタ]]、[[トミー・クルーズ]]の[[クリーンナップ]]が活躍、後期は最終戦を前に後期優勝にあと1勝までこぎつける。しかし、満員の後楽園で行われた10月7日の対近鉄最終戦([[大阪近鉄バファローズ#10.7決戦|10.7決戦]])では3回から登板した木田が打ち込まれて敗戦、残り試合を全勝した近鉄に逆転優勝を許した。結果的には前後期ともに2位、総合3位。オフには高橋直樹と広島・[[江夏豊]]の交換トレードを行う。 | : [[1980年]]、新人の[[木田勇]]が22勝で最多勝獲得、MVP・新人王など、タイトル投手部門を独占。打線も柏原、[[トニー・ソレイタ]]、[[トミー・クルーズ]]の[[クリーンナップ]]が活躍、後期は最終戦を前に後期優勝にあと1勝までこぎつける。しかし、満員の後楽園で行われた10月7日の対近鉄最終戦([[大阪近鉄バファローズ#10.7決戦|10.7決戦]])では3回から登板した木田が打ち込まれて敗戦、残り試合を全勝した近鉄に逆転優勝を許した。結果的には前後期ともに2位、総合3位。オフには高橋直樹と広島・[[江夏豊]]の交換トレードを行う。 | ||
: [[1981年]]、前期は4位に終わるも後期優勝。[[1981年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]で前期優勝のロッテを3勝1敗1分で破り、東映時代から数えて19年ぶり通算2度目のリーグ優勝。[[1981年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、同じ本拠地を使用する巨人と対戦となったため史上初めて全試合が同一球場で行われた。[[井上弘昭]]が活躍するもクルーズの故障離脱が響き2勝4敗で敗退。 | : [[1981年]]、前期は4位に終わるも後期優勝。[[1981年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]で前期優勝のロッテを3勝1敗1分で破り、東映時代から数えて19年ぶり通算2度目のリーグ優勝。[[1981年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、同じ本拠地を使用する巨人と対戦となったため史上初めて全試合が同一球場で行われた。[[井上弘昭]]が活躍するもクルーズの故障離脱が響き2勝4敗で敗退。 | ||
− | :打撃陣では本塁打・打点の2冠王となったソレイタにプレーオフMVPの柏原とクルーズのクリーンナップに加え、島田や菅野、高代といった小兵選手も活躍した。投手陣では木田こそ10勝止まりだったが、[[間柴茂有]]が15勝無敗、[[岡部憲章]] | + | :打撃陣では本塁打・打点の2冠王となったソレイタにプレーオフMVPの柏原とクルーズのクリーンナップに加え、島田や菅野、高代といった小兵選手も活躍した。投手陣では木田こそ10勝止まりだったが、[[間柴茂有]]が15勝無敗、[[岡部憲章]]が防御率1位、高橋一三も14勝を挙げた。江夏も広島時代から3年連続でセーブ王となった。 |
: [[1982年]]、後期に優勝するものの、[[1982年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]で前期優勝の西武に1勝3敗で敗れ、総合2位に終わる。シーズン途中に骨折し、復帰は絶望とみられていた[[工藤幹夫]]がプレーオフ第1・3戦に先発し、「一世一代の大芝居」として話題を呼ぶ。工藤幹夫が20勝で最多勝。[[高橋里志]]が防御率1位。 | : [[1982年]]、後期に優勝するものの、[[1982年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]で前期優勝の西武に1勝3敗で敗れ、総合2位に終わる。シーズン途中に骨折し、復帰は絶望とみられていた[[工藤幹夫]]がプレーオフ第1・3戦に先発し、「一世一代の大芝居」として話題を呼ぶ。工藤幹夫が20勝で最多勝。[[高橋里志]]が防御率1位。 | ||
− | : [[1983年]]、パ・リーグの1シーズン制が再開。[[二村忠美]] | + | : [[1983年]]、パ・リーグの1シーズン制が再開。[[二村忠美]]が新人王。江夏が3年連続最多セーブ。オフに、江夏が西武に移籍。1984年、[[植村義信]]が監督に就任するも、最下位に低迷するなど、成績不振のため6月に辞任。終盤は大沢が代行を務め、オフには中日から[[三沢淳]]を獲得。1985年、[[高田繁]]が監督就任。しかし、成績は85年・翌1986年と2年連続の5位。 |
: [[1987年]]、新人の[[西崎幸広]]が15勝を挙げる活躍を見せ、チーム成績は3年ぶりのAクラスとなる3位。同年をもって、後楽園球場は閉鎖。同地(文京区[[後楽]])で建設中の[[東京ドーム]]へ巨人とともに移転することとなる。オフに[[大宮龍男]]・[[田中富生]]が[[大島康徳]]・[[曽田康二]]との交換トレードで中日に移籍。 | : [[1987年]]、新人の[[西崎幸広]]が15勝を挙げる活躍を見せ、チーム成績は3年ぶりのAクラスとなる3位。同年をもって、後楽園球場は閉鎖。同地(文京区[[後楽]])で建設中の[[東京ドーム]]へ巨人とともに移転することとなる。オフに[[大宮龍男]]・[[田中富生]]が[[大島康徳]]・[[曽田康二]]との交換トレードで中日に移籍。 | ||
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: [[1993年]]、投手陣では西崎が復活。武田・前年リリーフエースだった[[白井康勝]]が先発で活躍、金石が怪我の影響もありリリーフへ転向。打撃陣では去年開幕戦だけしか出られなかった田中幸雄、それまで主に守備固めだったがレギュラーに抜擢された[[広瀬哲朗]]、ウィンタース・新外国人[[リック・シュー]]等の活躍により、優勝した西武にわずかの差でリーグ優勝を逃した。金石と[[田村藤夫]]が[[最優秀バッテリー賞]]を受賞。 | : [[1993年]]、投手陣では西崎が復活。武田・前年リリーフエースだった[[白井康勝]]が先発で活躍、金石が怪我の影響もありリリーフへ転向。打撃陣では去年開幕戦だけしか出られなかった田中幸雄、それまで主に守備固めだったがレギュラーに抜擢された[[広瀬哲朗]]、ウィンタース・新外国人[[リック・シュー]]等の活躍により、優勝した西武にわずかの差でリーグ優勝を逃した。金石と[[田村藤夫]]が[[最優秀バッテリー賞]]を受賞。 | ||
− | : [[1994年]] | + | : [[1994年]]、46勝79敗5分で10年ぶりの最下位に終わる。3連敗以上を14度記録、逆に3連勝以上は3度しかなかった。9月29日の本拠地最終戦では試合終了後のセレモニーで大沢監督がファンの前で土下座している。観客動員数が東京ドームに本拠地移転後初めて200万人を割り込んだ。大島が現役を引退。オフに[[木村拓也]]プラス金銭で広島[[長冨浩志]]とのトレード。大沢は監督を辞任し、後任として[[上田利治]]が就任。 |
: [[1995年]]、若手の[[岩本勉]]・[[今関勝]]・[[島崎毅]]・[[田口昌徳]]・[[上田佳範]]・[[井出竜也]]らを積極的に起用。4位に終わる。西崎が西武相手にノーヒットノーランを達成。2年目の[[キップ・グロス]]が、最多勝を獲得。田中幸雄が[[打点王]]獲得。オフに武田・[[松田慎司]]とダイエー[[下柳剛]]・[[安田秀之]]のトレード。田村がロッテに、白井一がオリックスにそれぞれ金銭トレード。河野がFAで巨人へ移籍。 | : [[1995年]]、若手の[[岩本勉]]・[[今関勝]]・[[島崎毅]]・[[田口昌徳]]・[[上田佳範]]・[[井出竜也]]らを積極的に起用。4位に終わる。西崎が西武相手にノーヒットノーランを達成。2年目の[[キップ・グロス]]が、最多勝を獲得。田中幸雄が[[打点王]]獲得。オフに武田・[[松田慎司]]とダイエー[[下柳剛]]・[[安田秀之]]のトレード。田村がロッテに、白井一がオリックスにそれぞれ金銭トレード。河野がFAで巨人へ移籍。 | ||
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: [[1996年]]、岩本・今関・[[芝草宇宙]]の台頭、ベテランの西崎・中堅の片岡の復活等投打が噛み合い前半2位オリックスと5ゲーム差を付けて首位をひた走るも上田監督がシーズン終盤に家庭の事情により休養しチームを離脱(結果的にオリックスに逆転優勝を許す遠因となった)。グロスが二年連続で最多勝、4年目の[[金子誠]]が新人王を獲得。二軍は本拠地を[[神奈川県]][[川崎市]]の[[日本ハム球団多摩川グランド]]から[[千葉県]][[鎌ケ谷市]]の[[ファイターズスタジアム]]に移転している。 | : [[1996年]]、岩本・今関・[[芝草宇宙]]の台頭、ベテランの西崎・中堅の片岡の復活等投打が噛み合い前半2位オリックスと5ゲーム差を付けて首位をひた走るも上田監督がシーズン終盤に家庭の事情により休養しチームを離脱(結果的にオリックスに逆転優勝を許す遠因となった)。グロスが二年連続で最多勝、4年目の[[金子誠]]が新人王を獲得。二軍は本拠地を[[神奈川県]][[川崎市]]の[[日本ハム球団多摩川グランド]]から[[千葉県]][[鎌ケ谷市]]の[[ファイターズスタジアム]]に移転している。 | ||
− | : [[1997年]]、前年オフに巨人を自由契約になった[[落合博満]]をヤクルトとの競合の末獲得。しかし、落合は不調、期待ハズレの結果に終わる。去年合計48勝をあげた西崎・今関・岩本・芝草・金石・島崎が軒並み不調、合計20勝に終わる。新外国人の[[ナイジェル・ウィルソン]]が本塁打王を獲得。上田が落合の指導の下、初の規定打席到達・3割を打つなど飛躍。結果はリーグ4位。二軍は移転初年度にして[[ファーム日本選手権]]を制覇。オフに長年チームのエースだった西崎を西武[[石井丈裕]]と[[奈良原浩]] | + | : [[1997年]]、前年オフに巨人を自由契約になった[[落合博満]]をヤクルトとの競合の末獲得。しかし、落合は不調、期待ハズレの結果に終わる。去年合計48勝をあげた西崎・今関・岩本・芝草・金石・島崎が軒並み不調、合計20勝に終わる。新外国人の[[ナイジェル・ウィルソン]]が本塁打王を獲得。上田が落合の指導の下、初の規定打席到達・3割を打つなど飛躍。結果はリーグ4位。二軍は移転初年度にして[[ファーム日本選手権]]を制覇。オフに長年チームのエースだった西崎を西武[[石井丈裕]]と[[奈良原浩]]との交換トレード。金石が成績不振で解雇される。 |
: [[1998年]]、開幕投手候補グロスが開幕直前に怪我でリタイアするアクシデントに合うも、岩本が開幕戦完封勝利。[[関根裕之]]・[[金村曉|金村暁]]・[[黒木純司]]が台頭。今関、芝草も前年の不調を脱出。ウィルソン、[[ジェリー・ブルックス]]、[[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]]、片岡、[[西浦克拓]]を擁して'''[[ビッグバン打線]]'''と呼ばれた。西武から移籍の奈良原も打撃・守備に活躍しレギュラーを獲得。開幕直前にヤクルトから移籍の[[野口寿浩]]が正捕手として活躍。前半戦は首位独走だったが、後半大失速。西武に逆転され優勝を逃した。ウィルソンが二年連続で本塁打・初の打点王。金村が最優秀防御率。片岡が最高出塁率獲得。落合が現役引退。 | : [[1998年]]、開幕投手候補グロスが開幕直前に怪我でリタイアするアクシデントに合うも、岩本が開幕戦完封勝利。[[関根裕之]]・[[金村曉|金村暁]]・[[黒木純司]]が台頭。今関、芝草も前年の不調を脱出。ウィルソン、[[ジェリー・ブルックス]]、[[田中幸雄 (内野手)|田中幸雄]]、片岡、[[西浦克拓]]を擁して'''[[ビッグバン打線]]'''と呼ばれた。西武から移籍の奈良原も打撃・守備に活躍しレギュラーを獲得。開幕直前にヤクルトから移籍の[[野口寿浩]]が正捕手として活躍。前半戦は首位独走だったが、後半大失速。西武に逆転され優勝を逃した。ウィルソンが二年連続で本塁打・初の打点王。金村が最優秀防御率。片岡が最高出塁率獲得。落合が現役引退。 | ||
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: [[2001年]]、小笠原が最多安打。ルーキー[[中村隼人]]が初登板初完封を含むシーズン3完封(シーズン6勝)を上げるも、序盤から投手陣の不調、野手陣の故障者が続出し、7年ぶりのリーグ最下位に終わる。観客動員数が137万6000人まで落ち込む。片岡がFAで阪神へ移籍。 | : [[2001年]]、小笠原が最多安打。ルーキー[[中村隼人]]が初登板初完封を含むシーズン3完封(シーズン6勝)を上げるも、序盤から投手陣の不調、野手陣の故障者が続出し、7年ぶりのリーグ最下位に終わる。観客動員数が137万6000人まで落ち込む。片岡がFAで阪神へ移籍。 | ||
− | : [[2002年]]、観客の増加を図るため、それまでプロ野球球団がなかった[[北海道]]の[[札幌市]]に本拠地を移す構想が、[[3月20日]]刊の[[北海道新聞]] | + | : [[2002年]]、観客の増加を図るため、それまでプロ野球球団がなかった[[北海道]]の[[札幌市]]に本拠地を移す構想が、[[3月20日]]刊の[[北海道新聞]]でトップ記事になる。同市の準本拠化を計画していた西武からの反発もあったが、西武には他球団の公式戦試合も札幌ドームで開催できるという条件を付けて移転を受諾させ、移転後も数試合を引き続き東京ドームで主催試合を行うと発表した。小笠原が初の首位打者を獲得。3年目の[[正田樹]]が球団では金子以来、投手としては1980年木田勇以来の新人王である。チームは前半戦貯金1で折り返したものの、後半戦失速し、5位に終わる。大島が監督を解任され、後任は[[トレイ・ヒルマン]]。 |
− | : [[2003年]]、東京ドーム最終年。翌年からの新本拠地となる札幌ドームでは、2001年7月31日の初試合以来これまで10戦して8敗2分と勝てなかったが、[[8月20日]] | + | : [[2003年]]、東京ドーム最終年。翌年からの新本拠地となる札幌ドームでは、2001年7月31日の初試合以来これまで10戦して8敗2分と勝てなかったが、[[8月20日]]の対近鉄戦で3対1で初勝利する。チームは2年連続の5位。小笠原が2年連続の首位打者と最高出塁率を獲得する。 |
− | :8月に北海道の有力企業との出資で、移転後の球団運営会社となる'''株式会社北海道日本ハムファイターズ'''を設立。本拠地を[[札幌ドーム]]に移転(事務所も東京都[[港区 (東京都)|港区]][[六本木]]六丁目の六本木電気ビルから札幌ドーム内の事務所に移転)。同時に日本ハム球団株式会社は、株式会社北海道日本ハムファイターズへ球団運営権を譲渡し解散、[[特別清算]] | + | :8月に北海道の有力企業との出資で、移転後の球団運営会社となる'''株式会社北海道日本ハムファイターズ'''を設立。本拠地を[[札幌ドーム]]に移転(事務所も東京都[[港区 (東京都)|港区]][[六本木]]六丁目の六本木電気ビルから札幌ドーム内の事務所に移転)。同時に日本ハム球団株式会社は、株式会社北海道日本ハムファイターズへ球団運営権を譲渡し解散、[[特別清算]]手続きをとった。二軍は引き続き鎌ヶ谷市のファイターズスタジアムを拠点とした。旧本拠地の関東地域のファンのために年間数試合を引き続き東京ドームで行うのと、二軍の本拠地維持の関係上、鎌ヶ谷市に「首都圏事業グループ」を設置している。なお、日本ハム球団株式会社は2005年2月1日付で特別清算終結決定が確定し、翌日付で登記簿が閉鎖(法人格消滅)されている。オフに[[新庄剛志]](登録名「SHINJO」)を獲得。 |
==== 札幌ドーム時代 ==== | ==== 札幌ドーム時代 ==== | ||
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: [[2005年]]、元監督の[[高田繁]]が球団初の[[ゼネラルマネージャー]](GM)に就任。[[4月27日]]、日本ハム球団の初代オーナー[[大社義規]]が死去。[[野球の背番号|背番号]]100はオーナーとしては日本プロ野球史上初めて[[野球界の永久欠番|永久欠番]]になった。この年から始まった[[セ・パ交流戦]]で11連敗を喫し、チームは5位に終わる。 | : [[2005年]]、元監督の[[高田繁]]が球団初の[[ゼネラルマネージャー]](GM)に就任。[[4月27日]]、日本ハム球団の初代オーナー[[大社義規]]が死去。[[野球の背番号|背番号]]100はオーナーとしては日本プロ野球史上初めて[[野球界の永久欠番|永久欠番]]になった。この年から始まった[[セ・パ交流戦]]で11連敗を喫し、チームは5位に終わる。 | ||
− | : [[2006年]]、4月18日、SHINJOが同年限りでの引退を発表。セ・パ交流戦の最終戦となる6月20日の対ヤクルト戦から7月7日の対西武戦まで、45年ぶりの球団最多タイとなる11連勝を記録。西武、ソフトバンクと首位を争い、9月27日の最終戦でレギュラーシーズン1位通過を確定した。チーム防御率3.05、チーム本塁打数135はいずれもリーグトップ。西武には7勝13敗と負け越したものの、[[福岡ソフトバンクホークス]]にはダイエー時代を含めて9年ぶりの勝ち越しで、オリックスと[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]にはそれぞれ17勝3敗と大差を付けた。[[2006年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]第2ステージ(対ソフトバンク戦)を2連勝で制し、25年ぶりのリーグ優勝を成し遂げると、中日との[[2006年の日本シリーズ|日本シリーズ]]を4勝1敗で制し、[[10月26日]] | + | : [[2006年]]、4月18日、SHINJOが同年限りでの引退を発表。セ・パ交流戦の最終戦となる6月20日の対ヤクルト戦から7月7日の対西武戦まで、45年ぶりの球団最多タイとなる11連勝を記録。西武、ソフトバンクと首位を争い、9月27日の最終戦でレギュラーシーズン1位通過を確定した。チーム防御率3.05、チーム本塁打数135はいずれもリーグトップ。西武には7勝13敗と負け越したものの、[[福岡ソフトバンクホークス]]にはダイエー時代を含めて9年ぶりの勝ち越しで、オリックスと[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]にはそれぞれ17勝3敗と大差を付けた。[[2006年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]第2ステージ(対ソフトバンク戦)を2連勝で制し、25年ぶりのリーグ優勝を成し遂げると、中日との[[2006年の日本シリーズ|日本シリーズ]]を4勝1敗で制し、[[10月26日]]に44年ぶりの日本一に輝く。11月12日、[[2006年のアジアシリーズ|アジアシリーズ]]でも優勝を飾り、アジア王者となった。 |
− | : 打撃部門では小笠原が本塁打・打点の二冠王。投手陣はリーグ1のチーム防御率3点台前半を記録する。八木智哉が12勝を挙げて新人王をとなる。この年の[[リリーフ]]は武田久とマイケル中村の2人の名前を取って、親会社の日本ハムにも引っかけて'''Hisashi And Micheal'''、略して'''HAM(ハム)''' | + | : 打撃部門では小笠原が本塁打・打点の二冠王。投手陣はリーグ1のチーム防御率3点台前半を記録する。八木智哉が12勝を挙げて新人王をとなる。この年の[[リリーフ]]は武田久とマイケル中村の2人の名前を取って、親会社の日本ハムにも引っかけて'''Hisashi And Micheal'''、略して'''HAM(ハム)'''と呼ばれた。[[岡島秀樹]]が登板した日はTOM(トム)とも呼ばれていた(武田のT、岡島のO、マイケルのM)。時々andを「&」と表現し「'''H&Mの方程式'''」とすることもある。[[武田久]]が45ホールドポイントのリーグ新記録で最優秀中継ぎ投手。[[マイケル中村|MICHEAL]]が39セーブのリーグ新記録で最多セーブ。 |
:オフには、宣言通りSHINJOが引退。小笠原が巨人へ、岡島が[[メジャーリーグベースボール|大リーグ]]・[[ボストン・レッドソックス]]へそれぞれFA移籍。ドラフトで[[日本大学硬式野球部|日本大学]]の[[長野久義]]をドラフト指名するも入団を拒否される。戦力外通告をしていた坪井と再契約をする。 | :オフには、宣言通りSHINJOが引退。小笠原が巨人へ、岡島が[[メジャーリーグベースボール|大リーグ]]・[[ボストン・レッドソックス]]へそれぞれFA移籍。ドラフトで[[日本大学硬式野球部|日本大学]]の[[長野久義]]をドラフト指名するも入団を拒否される。戦力外通告をしていた坪井と再契約をする。 | ||
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===== 梨田監督時代 ===== | ===== 梨田監督時代 ===== | ||
− | : [[2008年]] | + | : [[2008年]]、開幕から最終戦を通して一軍にいた野手はわずかに4人であったなど多くの故障者に悩まされた。ソフトバンク以外には勝ち越せず、楽天と西武とオリックスに負け越した。特にチーム打率・本塁打数共にリーグワーストという結果だったが、投手陣と代役の活躍や交流戦の貯金もあり、最終的に3位になった。10月11日、10月12日、[[2008年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]では第1ステージではオリックスを2勝0敗で勝利したが、続く第2ステージで西武に2勝4敗で敗退した。 |
− | : [[2009年]]、4月15日、金子誠が日本プロ野球新記録の7試合連続二塁打を達成。8月18日、ヘッドコーチの[[福良淳一]]、[[ターメル・スレッジ]]、[[宮西尚生]]が[[新型インフルエンザ]] | + | : [[2009年]]、4月15日、金子誠が日本プロ野球新記録の7試合連続二塁打を達成。8月18日、ヘッドコーチの[[福良淳一]]、[[ターメル・スレッジ]]、[[宮西尚生]]が[[新型インフルエンザ]]に感染した。球界初の新型インフルエンザ感染者となった。[[10月6日]]の札幌ドームで対西武戦に勝利するが、試合途中に楽天がロッテに敗れたため、その時点で2年ぶり5度目のリーグ優勝が決まった。年間主催試合観客数が199万2000人と、札幌移転後では過去最高を記録した。 |
: 投手陣ではダルビッシュと[[武田勝]]以外に規定投球回数に達した投手はいなかったが、巨人から移籍した[[林昌範]]、[[江尻慎太郎]]、宮西、[[菊地和正]]ら[[リリーフ]]陣が成長し、ストッパーに転向した武田久は無敗のまま[[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最多セーブ投手]]に輝いた。野手陣では[[大野奨太]]、巨人から[[二岡智宏]]らが加入し、更に投手から野手に転向した[[糸井嘉男]]の成長もあった。その結果、稲葉、糸井、高橋、金子誠が打率3割を超える活躍(稲葉以外シーズン3割はこの年が初)となり、チーム打率はリーグトップだった。対戦成績も、ソフトバンクにのみ11勝12敗1分と負け越したが、他のパ4球団には勝ち越し、ロッテには18勝6敗と大きく勝ち越した。[[2009年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]第2ステージで、楽天を4勝1敗で下し、日本シリーズ進出を決めた。[[2009年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では巨人と対戦、2勝4敗で日本一を逃した。11月22日、札幌市中心部でパリーグ優勝記念パレードが行われ、約11万1千人(実行委員会発表)のファンで賑わった。 | : 投手陣ではダルビッシュと[[武田勝]]以外に規定投球回数に達した投手はいなかったが、巨人から移籍した[[林昌範]]、[[江尻慎太郎]]、宮西、[[菊地和正]]ら[[リリーフ]]陣が成長し、ストッパーに転向した武田久は無敗のまま[[最多セーブ投手 (日本プロ野球)|最多セーブ投手]]に輝いた。野手陣では[[大野奨太]]、巨人から[[二岡智宏]]らが加入し、更に投手から野手に転向した[[糸井嘉男]]の成長もあった。その結果、稲葉、糸井、高橋、金子誠が打率3割を超える活躍(稲葉以外シーズン3割はこの年が初)となり、チーム打率はリーグトップだった。対戦成績も、ソフトバンクにのみ11勝12敗1分と負け越したが、他のパ4球団には勝ち越し、ロッテには18勝6敗と大きく勝ち越した。[[2009年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]第2ステージで、楽天を4勝1敗で下し、日本シリーズ進出を決めた。[[2009年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では巨人と対戦、2勝4敗で日本一を逃した。11月22日、札幌市中心部でパリーグ優勝記念パレードが行われ、約11万1千人(実行委員会発表)のファンで賑わった。 | ||
− | : | + | : 球団史上最多となる7人の選手が[[ゴールデングラブ賞]]を受賞する。[[藤井秀悟]]が巨人へFA移籍。 |
: [[2010年]]、1月17日、この年から二軍から一軍投手コーチに転身した[[小林繁]]が[[心不全]]の為、57歳で急逝。それに伴い1月23日、二軍投手コーチの[[島崎毅]]が一軍投手コーチに就任。 | : [[2010年]]、1月17日、この年から二軍から一軍投手コーチに転身した[[小林繁]]が[[心不全]]の為、57歳で急逝。それに伴い1月23日、二軍投手コーチの[[島崎毅]]が一軍投手コーチに就任。 | ||
− | : | + | : 開幕以来怪我人が続出、ゴールデンウィークを前にして二軍の野手が9人しかいないという事態に陥る。シーズン序盤は黒星を重ね、借金を最大14とするが、交流戦終了後の7月1日に勝率を5割にする。最終的にはソフトバンク、西武、オリックスに勝ち越し、負け越したのは10勝14敗のロッテのみで、前年と同様に5球団全てから2ケタ勝利を挙げた。最終戦まで、ロッテとCS争いをしたが、10月1日に5年ぶりのBクラスとなる4位が決定した。 |
: 10月28日、[[2010年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2010年ドラフト会議]]で、[[早稲田大学野球部|早稲田大学]]の[[斎藤佑樹]]の交渉権をヤクルト・ロッテ・ソフトバンクとの競合の末獲得。11月18日、中継ぎ投手での10勝を挙げた[[榊原諒]]がチームでは4年ぶりの新人王を獲得。12月9日、札幌ドームで斎藤佑樹単独の入団会見が行われた。オフには[[建山義紀]]が大リーグ・[[テキサス・レンジャーズ]]へ、[[森本稀哲]]が[[横浜DeNAベイスターズ|横浜]]へそれぞれFA移籍した。 | : 10月28日、[[2010年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|2010年ドラフト会議]]で、[[早稲田大学野球部|早稲田大学]]の[[斎藤佑樹]]の交渉権をヤクルト・ロッテ・ソフトバンクとの競合の末獲得。11月18日、中継ぎ投手での10勝を挙げた[[榊原諒]]がチームでは4年ぶりの新人王を獲得。12月9日、札幌ドームで斎藤佑樹単独の入団会見が行われた。オフには[[建山義紀]]が大リーグ・[[テキサス・レンジャーズ]]へ、[[森本稀哲]]が[[横浜DeNAベイスターズ|横浜]]へそれぞれFA移籍した。 | ||
− | : [[2011年]]、この年は3月11日に発生した[[東日本大震災]]の影響で当初予定されていた3月25日の開幕が4月12日に延期となった。5月26日から6月4日にかけて、プロ野球タイ記録の52イニング連続無失点記録、及び5試合連続完封勝利を達成している(詳細は[[#52イニング連続無失点|下述]]を参照)。交流戦は16勝8敗で3位となっている。7月27日、 対オリックス12回戦(帯広の森野球場)に13-5で勝利し、日本プロ野球7チーム目となる球団通算4000勝を達成。ソフトバンクとの優勝争いとなったが、9月に直接対決で3連敗するなど6勝16敗1分と大きく負け越しことが響き、最終的には首位から17.5ゲーム差の2位となった。西武との[[2011年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]ファーストステージでは2連敗で敗退している。二軍では2004年以来7年ぶりの[[イースタンリーグ]] | + | : [[2011年]]、この年は3月11日に発生した[[東日本大震災]]の影響で当初予定されていた3月25日の開幕が4月12日に延期となった。5月26日から6月4日にかけて、プロ野球タイ記録の52イニング連続無失点記録、及び5試合連続完封勝利を達成している(詳細は[[#52イニング連続無失点|下述]]を参照)。交流戦は16勝8敗で3位となっている。7月27日、 対オリックス12回戦(帯広の森野球場)に13-5で勝利し、日本プロ野球7チーム目となる球団通算4000勝を達成。ソフトバンクとの優勝争いとなったが、9月に直接対決で3連敗するなど6勝16敗1分と大きく負け越しことが響き、最終的には首位から17.5ゲーム差の2位となった。西武との[[2011年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]ファーストステージでは2連敗で敗退している。二軍では2004年以来7年ぶりの[[イースタンリーグ]]制覇を成し遂げている。 |
− | : | + | : 8月27日、梨田が今年の成績如何にかかわらず、同年限りでの監督退任の報道が流れ、9月15日に正式に梨田の監督退任が発表された。梨田の後任は[[栗山英樹]]。 |
: [[2011年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]では1位で[[東海大学硬式野球部|東海大]]の[[菅野智之]]を指名し、交渉権を巨人との競合の末獲得したが、入団には至らなかった。7位に[[早稲田大学]]ソフトボール部の[[大嶋匠]]を指名しているが、ソフトボール部出身者では日本球界初となった。 | : [[2011年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|ドラフト会議]]では1位で[[東海大学硬式野球部|東海大]]の[[菅野智之]]を指名し、交渉権を巨人との競合の末獲得したが、入団には至らなかった。7位に[[早稲田大学]]ソフトボール部の[[大嶋匠]]を指名しているが、ソフトボール部出身者では日本球界初となった。 | ||
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===== 栗山監督時代 ===== | ===== 栗山監督時代 ===== | ||
: [[2012年]]1月、ダルビッシュ有が[[ポスティングシステム]]を利用し、メジャーリーグの[[テキサス・レンジャーズ]]へ移籍。 | : [[2012年]]1月、ダルビッシュ有が[[ポスティングシステム]]を利用し、メジャーリーグの[[テキサス・レンジャーズ]]へ移籍。 | ||
− | : [[3月30日]] | + | : [[3月30日]]、開幕戦の対西武戦(札幌ドーム)に勝利、前半戦はロッテと首位を争い、5月6日に首位となっているが、交流戦は14勝8敗で2位、その後、ロッテに首位を奪われ、前半戦を2位で折り返す。後半戦は西武との首位争いとなり、9月15日に首位に立ち、9月28日に優勝へのマジックナンバー4を点灯させる。マジック1とした10月2日、2位の西武がロッテに3-5で敗れたため、3年ぶり6度目のリーグ優勝を決めた。[[2012年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]ファイナルステージは3位のソフトバンクと対戦し、3連勝で通算成績を4勝0敗として日本シリーズ進出を決定。巨人との[[2012年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では、2勝4敗で敗退している。[[田中賢介]]が海外FA権を行使してメジャーリーグに挑戦することを表明し、[[サンフランシスコ・ジャイアンツ]]に入団した。 |
− | : [[2013年]]、1月に糸井嘉男、[[八木智哉]]とオリックスの[[木佐貫洋]]、[[大引啓次]]、[[赤田将吾]] | + | : [[2013年]]、1月に糸井嘉男、[[八木智哉]]とオリックスの[[木佐貫洋]]、[[大引啓次]]、[[赤田将吾]]の2対3のトレードが成立。開幕戦の西武戦には勝ったものの、そこから連敗し借金生活は6月28日まで続いた。4月13日のオリックス戦ではチーム14年ぶりの1試合5失策を記録。5月4日から15日にかけて9連敗で、借金は2010年6月16日以来の10、5月終了時点で19勝28敗1分の勝率.404で最下位。7月3日に開幕日以来の貯金を実現したが、7月17日に負け越すと、ついに勝ち越すことはなかった。8月14日から守り続けてきた5位も9月21日には最下位に転落<ref name="週刊ベースボール、2013年12月9日号"/>。9月28日の対オリックス戦(京セラドーム)で0対8で敗れたことで、[[2013年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]出場の可能性がなくなり、3年ぶりのBクラスが確定した。10月1日の札幌ドームでの対楽天戦に2対11で敗れた事で、この年優勝した楽天に本拠地で1勝も勝てずに終わり、最多勝の田中将大に対しても8連敗に終わった。[[10月6日]]の対西武戦(札幌ドーム)に4対3で敗れ、12年ぶりに北海道移転後では初の最下位が決定、前年リーグ優勝からの最下位は1981年の近鉄以来32年ぶりの記録となった。64勝78敗2分で勝率・451はチーム8年ぶりの負け越し、チーム防御率は2006年以降1位、2位だったが同年はリーグ5位、失策はリーグワーストの88を記録した。 |
== チームの特徴 == | == チームの特徴 == | ||
− | ベテラン生え抜き選手や主力選手であってもトレードされる事があり([[金村暁]]や[[糸井嘉男]]など)、その根拠となっているものは「[[ベースボール・オペレーション・システム]]([[BOS]] | + | ベテラン生え抜き選手や主力選手であってもトレードされる事があり([[金村暁]]や[[糸井嘉男]]など)、その根拠となっているものは「[[ベースボール・オペレーション・システム]]([[BOS]])」という情報システムである。これは所属選手を[[セイバーメトリクス]]を元に成績・年俸・年齢によって主力、控え、育成、在庫の4種類に分類し、現場とフロントがチーム編成に関して客観的な数値に基づく共通の理解のもと、若手を適正に育て、ベテランを適宜放出することで、年俸総額を抑えながらチーム力を維持し、登録選手全員を戦力として活用することを目標としたものである。BOSは[[千葉ロッテマリーンズ]]、[[福岡ソフトバンクホークス]]、[[読売ジャイアンツ]]にも採用されているが、他球団ではセイバーメトリクスに未だ懐疑的で日本ハムほど重用されていない。過去にスキャンダルを起こした選手についても、「獲るべき選手を獲る。名誉挽回のチャンスを与えることが、球界全体にとって必要。([[山田正雄 (野球)|山田正雄]]GM)」と大らかでこだわらない方針である。背景には、低コストで戦力を整えるためには「何らかの事情でもなければ、良い選手を獲るのが難しい(同GM)」という判断がある。 |
=== 球団の観客増加戦略 === | === 球団の観客増加戦略 === | ||
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; KONKATSUシート、シンデレラシート | ; KONKATSUシート、シンデレラシート | ||
: 2009年7月11日と12日に開催された「KONKATSUシート」は当初は2日間で400人を募集も、2860人の応募があり、そのうち、女性が応募初日に規定枚数を越える応募があったが、逆に男性の応募が半分以下に留まったため、急きょ定員を600人に増員した。初日に28組が、二日目には34組のカップルが成立した。因みに、結婚までこぎつけたら始球式の権利が与えられる。2010年現在1組が婚約し、始球式の権利を獲得した。 | : 2009年7月11日と12日に開催された「KONKATSUシート」は当初は2日間で400人を募集も、2860人の応募があり、そのうち、女性が応募初日に規定枚数を越える応募があったが、逆に男性の応募が半分以下に留まったため、急きょ定員を600人に増員した。初日に28組が、二日目には34組のカップルが成立した。因みに、結婚までこぎつけたら始球式の権利が与えられる。2010年現在1組が婚約し、始球式の権利を獲得した。 | ||
− | : 2010年はKONKATSUシートの後釜として女性限定席の「シンデレラシート」を導入。1人につき、荷物置場として2席が割り当てられた。シンデレラシートは、テンピュールクッションや、オペラグラスが常設されていたが、3日間で備品の盗難が続出し、球団は多くの損失を被った。 | + | : 2010年はKONKATSUシートの後釜として女性限定席の「シンデレラシート」を導入。1人につき、荷物置場として2席が割り当てられた。シンデレラシートは、テンピュールクッションや、オペラグラスが常設されていたが、3日間で備品の盗難が続出し、球団は多くの損失を被った。 |
; ウィークデー割引 | ; ウィークデー割引 | ||
: 曜日ごとに対象者が変動する割引制度であり、火曜日は60歳以上と学生を対象にした「シニア&学生デー」、水曜日は女性全員を対象にした「レディースデー」、木曜日は公式ファンクラブ会員を対象にした「ファンクラブデー」、金曜日は男性全員を対象にした「メンズデー」で、いずれも当日券がある場合に限り、ほとんどの座席が一般価格の半額で入場できる。 | : 曜日ごとに対象者が変動する割引制度であり、火曜日は60歳以上と学生を対象にした「シニア&学生デー」、水曜日は女性全員を対象にした「レディースデー」、木曜日は公式ファンクラブ会員を対象にした「ファンクラブデー」、金曜日は男性全員を対象にした「メンズデー」で、いずれも当日券がある場合に限り、ほとんどの座席が一般価格の半額で入場できる。 | ||
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* [[1962年]]にパ・リーグを制し、日本シリーズで阪神を破ったが、この時、オーナーの大川博は背番号100のユニフォームを着て優勝パレードに参加。さらに親会社・東映が「東映優勝 背番号100」なる記録映画を制作し、全国東映系で上映した。 | * [[1962年]]にパ・リーグを制し、日本シリーズで阪神を破ったが、この時、オーナーの大川博は背番号100のユニフォームを着て優勝パレードに参加。さらに親会社・東映が「東映優勝 背番号100」なる記録映画を制作し、全国東映系で上映した。 | ||
* 2003年までのフランチャイズは巨人と同じ後楽園球場だったため、日程面でどうしても不利な面が多く、日本ハムと巨人の後楽園での同日試合開催は極力組まれていなかったが、それでも同日開催の場合(特に共に前年Aクラスでセ・パ同日開幕戦の時)は日本ハムがナイター、巨人がデーゲーム(当時の巨人は日曜日のデーゲームも珍しくなかった)という原則があった。ただし、日本ハムは猛暑の時期を除き、土、日曜はデーゲーム開催で、小学生のファンクラブ(少年ファイターズ会)の会員が外野スタンドに集結し、観客動員の集客を図っていた。日本ハムはプロ野球界でのファンクラブの先駆けだった。同時にパリーグ初のマスコットキャラクター「ギョロタン」も登場した。 | * 2003年までのフランチャイズは巨人と同じ後楽園球場だったため、日程面でどうしても不利な面が多く、日本ハムと巨人の後楽園での同日試合開催は極力組まれていなかったが、それでも同日開催の場合(特に共に前年Aクラスでセ・パ同日開幕戦の時)は日本ハムがナイター、巨人がデーゲーム(当時の巨人は日曜日のデーゲームも珍しくなかった)という原則があった。ただし、日本ハムは猛暑の時期を除き、土、日曜はデーゲーム開催で、小学生のファンクラブ(少年ファイターズ会)の会員が外野スタンドに集結し、観客動員の集客を図っていた。日本ハムはプロ野球界でのファンクラブの先駆けだった。同時にパリーグ初のマスコットキャラクター「ギョロタン」も登場した。 | ||
− | * 先述の通り、後楽園・東京ドーム時代、試合日程は常に巨人優先で組まれていたため、[[都市対抗野球]]による遠征のしわ寄せをまともに受け、その長さは阪神の「[[死のロード]]」に匹敵するものだった。1996年、1998年前半首位を走っていたが8月に失速して優勝を逃している。 | + | * 先述の通り、後楽園・東京ドーム時代、試合日程は常に巨人優先で組まれていたため、[[都市対抗野球]]による遠征のしわ寄せをまともに受け、その長さは阪神の「[[死のロード]]」に匹敵するものだった。1996年、1998年前半首位を走っていたが8月に失速して優勝を逃している。 特に8月は子どもが夏休みなので、家族連れが多く来る稼ぎ時として巨人の試合が多く組まれ、日本ハムはロードを余儀なくされた。 |
;札幌時代 | ;札幌時代 | ||
* 2004年に専用球場を札幌ドームに移転したが、札幌ドームは既に2001年度からプロ[[サッカー]]・[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の[[コンサドーレ札幌]]がホームスタジアムとして使っていた([[札幌厚別公園競技場]]と併用)。プロサッカークラブとプロ野球チームが同じスタジアムを使うのは日本初の事例で<ref>[[アメリカ合衆国]]では[[オレゴン州]]・[[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]で、1975年から1982年まで[[北米サッカーリーグ]]のポートランド・ティンバーズとAAA級の[[パシフィック・コーストリーグ]]に所属する[[ポートランド・ビーバーズ]]が、また、2001年から現在まで[[ユナイテッドサッカーリーグ]]のティンバーズと同じくビーバーズが、共にPGEパークをホームスタジアムとして使っている。また、アメリカでは[[メジャーリーグベースボール]]と[[アメリカンフットボール]]・[[NFL]]の本拠地を共有する事例がある</ref>、コンサドーレが宮の沢に事務所を移転する2014年1月末ごろまでは日本ハム・コンサドーレそれぞれの事務所が札幌ドーム内に併設されていた。{{by|2006年}}には、コンサドーレとの共通入場券も発売している。 | * 2004年に専用球場を札幌ドームに移転したが、札幌ドームは既に2001年度からプロ[[サッカー]]・[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]の[[コンサドーレ札幌]]がホームスタジアムとして使っていた([[札幌厚別公園競技場]]と併用)。プロサッカークラブとプロ野球チームが同じスタジアムを使うのは日本初の事例で<ref>[[アメリカ合衆国]]では[[オレゴン州]]・[[ポートランド (オレゴン州)|ポートランド]]で、1975年から1982年まで[[北米サッカーリーグ]]のポートランド・ティンバーズとAAA級の[[パシフィック・コーストリーグ]]に所属する[[ポートランド・ビーバーズ]]が、また、2001年から現在まで[[ユナイテッドサッカーリーグ]]のティンバーズと同じくビーバーズが、共にPGEパークをホームスタジアムとして使っている。また、アメリカでは[[メジャーリーグベースボール]]と[[アメリカンフットボール]]・[[NFL]]の本拠地を共有する事例がある</ref>、コンサドーレが宮の沢に事務所を移転する2014年1月末ごろまでは日本ハム・コンサドーレそれぞれの事務所が札幌ドーム内に併設されていた。{{by|2006年}}には、コンサドーレとの共通入場券も発売している。 | ||
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− | + | 1980年代前半頃の応援スタイルは、トランペットを使わず、どの選手にも笛と太鼓で「ピーッピーッピピピピピピピッ」という決まりのものだったが、柏原純一にだけは「ピピピピピピピッ純一」というオリジナルのスタイルがあった(このスタイルは、柏原が阪神へトレード移籍した後も阪神の応援団が継承した)。 | |
− | トランペットを使うようになってからの応援スタイルは、各選手別応援歌を歌うようになった(用意されていない選手は汎用応援歌の選手部分を差し替えて歌う。ただし、[[セ・パ交流戦|交流戦]] | + | トランペットを使うようになってからの応援スタイルは、各選手別応援歌を歌うようになった(用意されていない選手は汎用応援歌の選手部分を差し替えて歌う。ただし、[[セ・パ交流戦|交流戦]]のビジターで投手が打席に立つ場合には、投手用の汎用応援歌を歌う)。原則的には1回目は演奏なしでアカペラで歌い、2回目以降はトランペット演奏で歌うが、[[森本稀哲]]などファンファーレのある場合はそれに続けて1回目から演奏ありで歌う。田中賢介などのように選手コールの後で最初からトランペット演奏が始まる選手もいる。これ以外にも非公式だが、一部の選手には応援歌に合わせた動きをすることもある。 |
1980年代から1990年代後半までは、相手選手凡退時に凡退テーマを演奏していたが、現在では関西地区9回裏限定で行っている。 | 1980年代から1990年代後半までは、相手選手凡退時に凡退テーマを演奏していたが、現在では関西地区9回裏限定で行っている。 |
2015年2月15日 (日) 16:27時点における版
北海道日本ハムファイターズ(ほっかいどうにっぽんハムファイターズ)は、日本のプロ野球球団。パシフィック・リーグに所属する。
北海道を保護地域とし、道内札幌市豊平区にある札幌ドームを専用球場(本拠地)としている。2003年までの本拠地である東京都文京区にある東京ドームを現在も準本拠地としており(後述)、更に道内の地方球場でも主催公式戦を開催している(後述)。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は千葉県鎌ケ谷市にあるファイターズスタジアムである。
目次
球団の歴史
セネタース〜日拓時代
1945年11月6日、戦中の1943年に解散した東京セネタース(1935年創立)の中心人物だった横沢三郎がセネタース再興を目指し、新規に「セネタース(Senators、企業名:セネタース野球協会)」を設立。再発足した日本野球連盟に加盟。1946年度のリーグ戦にゴールドスターと共に新球団として参加した。大下弘、飯島滋弥、白木義一郎など即戦力選手を集めたが、横沢個人で立ち上げた球団だったため財政的に厳しく、ユニフォームは戦前の阪急軍のお下がりという状態だった。旧華族の西園寺公一をオーナーに付け、銀座のキャバレー経営者で高利貸しを兼ねていた織手登がスポンサーになったものの、結局資金不足に陥り、横沢はたった1シーズンで球団経営を諦めざるを得なくなった。
東急・東映社史ではセネタースを「青鞜」と表記する場合がある[1]。
1946年9月27日の対ゴールドスター戦(西宮球場)で、宿舎付近は雨が降っていたため、選手は試合中止と思い込んで移動しなかったが試合は行われ、これがプロ野球初となる放棄試合とみなされ、0-9で敗戦した。12月18日、東京急行電鉄(東急)に球団権利金24万円を合わせ、合計35万円でチームを売却。東急との仲介の労をとったのは小西得郎と浅岡信夫、黒川渉三という。運営法人として、「株式会社東急ベースボール倶楽部」を設立。翌1947年の1月7日、球団名を「東急フライヤーズ(とうきゅうフライヤーズ、Tokyu Flyers)」とした。当時の東急はまだ大東急と呼ばれていた時代で、しかも分裂騒動の渦中にあった。大東急一致団結の旗印として東急は同球団を買収。当時の同社取締役経理部長であった大川博がオーナーに就任した。こうして誕生したフライヤーズは、中心打者の大下が多くのファンを惹きつけたが、球団経営は依然として赤字だった。
1948年4月9日、これまでプロ球界入りを画策して国民野球連盟にも接近し大塚アスレチックスと幾つかの興行試合を行っていた未加盟プロ球団の大映野球が経営に参加し、企業名を東急大映野球、チーム名を「急映フライヤーズ(きゅうえいフライヤーズ、Kyuei Flyers)」に改称した[2]。しかし、同年12月1日、金星スターズを別途買収することが決まった大映はフライヤーズの運営から手を引き、同月21日に球団名とチーム名は約1年で元の東急フライヤーズに戻った(大映ユニオンズを参照)。
この年、大映野球と合同したため、選手の人数が大幅に増加し、二軍を創設。チーム名は「急映チックフライヤーズ(Kyuei Tic Flyers)」となる。「チックフライヤーズ」は、急映のフライヤーズに大塚アスレチックス(Otsuka Athletics)のチックを絡ませた名称だった。
フランチャイズ(本拠地)制度が試験導入され、ホームグラウンド(専用球場)を東京都文京区の後楽園球場とする(1952年より、正式導入される)。
1949年シーズンオフの2リーグ分立でパ・リーグに加盟。パ・リーグ参戦初年度の1950年シーズンは8球団中6位。その後パ・リーグでは、しばらくBクラスに低迷。
1952年、大下弘との契約が難航、結局契約はこじれ、大下はシーズン途中に西鉄ライオンズに移籍。
1953年9月、東急沿線の世田谷区駒沢公園に自前の駒澤野球場(駒沢球場)が完成し、後楽園球場から移転。奔放なプレースタイルから「駒沢の暴れん坊」の異名を取った。
1954年1月1日、東急は当時傍系企業で大川が社長を務めていた東映に球団運営を委託。同年2月1日、東映は子会社の東映興業株式会社に球団を移管(東急ベースボール倶楽部は休眠会社として存続)。チーム名を「東映フライヤーズ(とうえいフライヤーズ、Toei Flyers ※東映フライヤーズ野球団とも)」に変更。球団保有…東急ベースボール倶楽部・球団運営…東映興業の二社体制となる。この体制は、1964年の東映の東急グループ離脱後も続いた。
1959年、後に3000本安打を達成する「安打製造機」張本勲が入団。新人王に輝き、チームは初のAクラス(3位)入りを果たす。
1960年12月、前巨人の水原茂が監督就任。水原が巨人監督を勇退すると大川は招聘工作に動き、京都や銀座にバー「おそめ」を開いていた上羽秀の恋人でもあった俊藤浩滋(後の映画プロデューサー)を呼ぶ。水原とは飲み友達だった俊藤はマキノ雅弘ら映画人とも知合いで、大川にも可愛がられていた。この招聘工作をきっかけに、水原は監督就任した。
1961年、それまで近鉄と最下位争いをしていた東映が、監督の水原の指揮で終盤まで南海との優勝争いとなった。南海のエースの杉浦忠が離脱した事もあり、マスコミは東映が有利としていたが、10月11日からの対南海5連戦で3勝した方が優勝という状況で、東映は3連敗で10月15日に優勝を逃し、優勝した南海と2.5ゲーム差の2位に終わる。張本が初の首位打者を獲得。
1962年、東京オリンピック(1964年)の整備計画のために駒沢球場が取り壊されることになった。試合会場の確保に悩まされたが紆余曲折の末に新宿区の明治神宮野球場を学生野球のオフシーズンのみ借り、学生野球のシーズンは後楽園など他の球場を借りることで解決した(通常は神宮への移転とみなされるが、この年の東映主催の日本シリーズは後楽園で開催した)。水原監督の下で土橋正幸と尾崎行雄の両エースが活躍し、初のリーグ優勝を果たす。日本シリーズでも阪神タイガースを4勝2敗1引き分けで破り、念願の日本一に輝く。これが東映時代の唯一の優勝となった。このシリーズの最優秀選手(MVP)は土橋正幸と種茂雅之の2名が選出されているが、MVPが2名選出されたのは日本シリーズ史上唯一である。張本が球団史上初のMVP、尾崎が新人王を受賞。
1964年、国鉄スワローズの神宮進出に伴って後楽園球場での試合が多くなり、1965年に正式に後楽園へ再移転することになった。1960年代後半に入り、張本の他、大杉勝男、白仁天、毒島章一、大下剛史ら強打者を擁した。しかし、チームはAクラスこそ入るものの優勝からは遠ざかっていた。
1968年は、大下弘が監督就任したものの、シーズン途中で休養。結果、球団史上初の最下位に終わる。1969年、チームは4位に終わる。1970年、「黒い霧事件」発生。エースの森安敏明が永久追放を受け、映画産業の斜陽なども響いて人気が低迷していく。張本が日本プロ野球記録(当時)となる打率.383を記録し、4年連続の首位打者、大杉が最多本塁打・最多打点の2冠を獲得するも、エースを失った影響は大きく、チームは5位に沈む。1971年には、名物オーナーだった大川が急逝。東映はアンチ大川と目された岡田茂が社長に就任。岡田の盟友で球団所有権を有する東急社長の五島昇と共に、大川色が強く不採算だった球団を手放すこととなる。
1973年1月16日、東京急行電鉄は球団を保有していた東急ベースボール倶楽部を東映に譲渡。東映は、岡田・五島共通の知人である西村昭孝[3]の経営する不動産会社・日拓ホームへ球団を売却。商号は日拓ホーム野球株式会社、チーム名を日拓ホームフライヤーズ(にったくホームフライヤーズ、Nittaku Home Flyers)に改称(同年2月7日のパ・リーグ実行委員会で球団名変更を承認)。新オーナーの西村は低迷したパ・リーグに活気を取り戻そうと7色のユニフォームを開発するなどして球団運営に様々な新機軸を試みたが、結局不発に終わる。なお、チームは前期5位・後期3位の総合5位に終わる。パ・リーグに将来はないと見切って、1リーグ化を睨んだロッテオリオンズとの合併を画策したが調印寸前で反故にされ、西村は球界に嫌気が差して球団経営を放棄。わずか1シーズンで球団を身売りすることとなった。
日本ハム時代
後楽園時代
- 1973年11月19日に日本ハムへ売却。法人名は「日本ハム球団株式会社」となり、オーナーに大社義規、球団社長に三原脩、監督に中西太が就任。新ニックネームを一般公募し、12月17日、公募で選ばれた新ニックネーム「ファイターズ」が発表され、球団名は「日本ハムファイターズ(にっぽんハムファイターズ、Nippon Ham Fighters)」となる。
- 日本ハム最初のシーズンとなった1974年は、前後期ともに最下位。総合最下位に終わる。張本が7度目の首位打者獲得。三原社長は、フライヤーズ時代の主力一掃を狙い、大規模なトレードに着手した。同年オフ、大杉がヤクルト、白が太平洋クラブ、大下剛史が広島にそれぞれ移籍。
- 1975年は前・後期共に4位ながら、2年連続の総合最下位に終わる。高橋直樹が17勝、大杉との交換で入団した小田義人が首位打者を争うも太平洋に移籍した白にわずかに及ばず。同年オフ、張本が高橋一三・富田勝との交換で巨人に移籍。中西は2年連続最下位の責任を取り辞任、大沢啓二が監督に就任。1976年・1977年、2年連続の総合5位に終わる。
- 1979年、高橋直樹が20勝。島田誠が1回3盗塁をはじめ、55盗塁を記録。結果は、2年連続の総合3位。
- 1980年、新人の木田勇が22勝で最多勝獲得、MVP・新人王など、タイトル投手部門を独占。打線も柏原、トニー・ソレイタ、トミー・クルーズのクリーンナップが活躍、後期は最終戦を前に後期優勝にあと1勝までこぎつける。しかし、満員の後楽園で行われた10月7日の対近鉄最終戦(10.7決戦)では3回から登板した木田が打ち込まれて敗戦、残り試合を全勝した近鉄に逆転優勝を許した。結果的には前後期ともに2位、総合3位。オフには高橋直樹と広島・江夏豊の交換トレードを行う。
- 1981年、前期は4位に終わるも後期優勝。プレーオフで前期優勝のロッテを3勝1敗1分で破り、東映時代から数えて19年ぶり通算2度目のリーグ優勝。日本シリーズでは、同じ本拠地を使用する巨人と対戦となったため史上初めて全試合が同一球場で行われた。井上弘昭が活躍するもクルーズの故障離脱が響き2勝4敗で敗退。
- 打撃陣では本塁打・打点の2冠王となったソレイタにプレーオフMVPの柏原とクルーズのクリーンナップに加え、島田や菅野、高代といった小兵選手も活躍した。投手陣では木田こそ10勝止まりだったが、間柴茂有が15勝無敗、岡部憲章が防御率1位、高橋一三も14勝を挙げた。江夏も広島時代から3年連続でセーブ王となった。
- 1982年、後期に優勝するものの、プレーオフで前期優勝の西武に1勝3敗で敗れ、総合2位に終わる。シーズン途中に骨折し、復帰は絶望とみられていた工藤幹夫がプレーオフ第1・3戦に先発し、「一世一代の大芝居」として話題を呼ぶ。工藤幹夫が20勝で最多勝。高橋里志が防御率1位。
- 1983年、パ・リーグの1シーズン制が再開。二村忠美が新人王。江夏が3年連続最多セーブ。オフに、江夏が西武に移籍。1984年、植村義信が監督に就任するも、最下位に低迷するなど、成績不振のため6月に辞任。終盤は大沢が代行を務め、オフには中日から三沢淳を獲得。1985年、高田繁が監督就任。しかし、成績は85年・翌1986年と2年連続の5位。
- 1987年、新人の西崎幸広が15勝を挙げる活躍を見せ、チーム成績は3年ぶりのAクラスとなる3位。同年をもって、後楽園球場は閉鎖。同地(文京区後楽)で建設中の東京ドームへ巨人とともに移転することとなる。オフに大宮龍男・田中富生が大島康徳・曽田康二との交換トレードで中日に移籍。
東京ドーム時代
- 1988年から2003年までは後楽園球場の後継球場である東京ドームを使用。この頃になると西崎幸広や柴田保光らが投手王国を形成。観客動員のアイディアとして「カップルシート」、「ビアシート」などのチケット販売や近藤貞雄発案といわれる「キスをしたら入場無料」、「仮装で来たら入場無料」「同一カード3連戦に指定日なし(例:「○月1日・2日・3日」と書かれており、この内だったら切符一枚につき一度、何時でも入場可)」といったイベントなどを打ち出す。しかし、この16年間でリーグ優勝は1回もなかった。
- 1988年、東京ドーム元年。西崎、松浦宏明が最多勝、河野博文が防御率1位の活躍でチーム防御率も1位だった。しかしチーム打率、得点数がリーグ最下位という貧打で、2年連続3位は確保したものの勝率は5割を切った。観客動員数が過去最高の245万8500人を動員する。オフに高代延博と広島鍋屋道夫・滝口光則とのトレード。大洋から若菜嘉晴を無償トレードで獲得。高田が監督を辞任、後任は近藤貞雄が就任。
- 1990年、柴田保光が対西武戦でノーヒットノーラン達成。新外国人のマット・ウインタースやドラフト1位酒井光次郎とベテラン若菜とのバッテリーが活躍するもののチームは4位だった、しかし勝率は5割を確保。
- 1991年、白井一幸が最高出塁率。武田一浩が最優秀救援投手を獲得。しかし、貧打線で4位に終わる(閉幕した時点で、ダイエーが残り5試合で1勝すればダイエー4位、日本ハム5位という状況にあったが、ダイエーがロッテ5連戦を1分け4連敗して閉幕〔ロッテ戦前からだと1分け挟む6連敗〕した為に4位に浮上した)。この年のオフに近藤は監督を辞任、後任は土橋正幸が1973年後期以来の監督復帰。
- 1992年、広島から移籍した金石昭人がチームトップの14勝。片岡篤史が新人ながらレギュラーで活躍したが、エース西崎が絶不調。主砲として期待していた田中幸雄が開幕戦でリタイア。ベストメンバーが組めず5位に終わり、土橋はチームの成績不振の責任を取る形で1年で辞任。後任は大沢啓二が3度目の監督就任。
- 1993年、投手陣では西崎が復活。武田・前年リリーフエースだった白井康勝が先発で活躍、金石が怪我の影響もありリリーフへ転向。打撃陣では去年開幕戦だけしか出られなかった田中幸雄、それまで主に守備固めだったがレギュラーに抜擢された広瀬哲朗、ウィンタース・新外国人リック・シュー等の活躍により、優勝した西武にわずかの差でリーグ優勝を逃した。金石と田村藤夫が最優秀バッテリー賞を受賞。
- 1994年、46勝79敗5分で10年ぶりの最下位に終わる。3連敗以上を14度記録、逆に3連勝以上は3度しかなかった。9月29日の本拠地最終戦では試合終了後のセレモニーで大沢監督がファンの前で土下座している。観客動員数が東京ドームに本拠地移転後初めて200万人を割り込んだ。大島が現役を引退。オフに木村拓也プラス金銭で広島長冨浩志とのトレード。大沢は監督を辞任し、後任として上田利治が就任。
- 1995年、若手の岩本勉・今関勝・島崎毅・田口昌徳・上田佳範・井出竜也らを積極的に起用。4位に終わる。西崎が西武相手にノーヒットノーランを達成。2年目のキップ・グロスが、最多勝を獲得。田中幸雄が打点王獲得。オフに武田・松田慎司とダイエー下柳剛・安田秀之のトレード。田村がロッテに、白井一がオリックスにそれぞれ金銭トレード。河野がFAで巨人へ移籍。
- 1996年、岩本・今関・芝草宇宙の台頭、ベテランの西崎・中堅の片岡の復活等投打が噛み合い前半2位オリックスと5ゲーム差を付けて首位をひた走るも上田監督がシーズン終盤に家庭の事情により休養しチームを離脱(結果的にオリックスに逆転優勝を許す遠因となった)。グロスが二年連続で最多勝、4年目の金子誠が新人王を獲得。二軍は本拠地を神奈川県川崎市の日本ハム球団多摩川グランドから千葉県鎌ケ谷市のファイターズスタジアムに移転している。
- 1997年、前年オフに巨人を自由契約になった落合博満をヤクルトとの競合の末獲得。しかし、落合は不調、期待ハズレの結果に終わる。去年合計48勝をあげた西崎・今関・岩本・芝草・金石・島崎が軒並み不調、合計20勝に終わる。新外国人のナイジェル・ウィルソンが本塁打王を獲得。上田が落合の指導の下、初の規定打席到達・3割を打つなど飛躍。結果はリーグ4位。二軍は移転初年度にしてファーム日本選手権を制覇。オフに長年チームのエースだった西崎を西武石井丈裕と奈良原浩との交換トレード。金石が成績不振で解雇される。
- 1998年、開幕投手候補グロスが開幕直前に怪我でリタイアするアクシデントに合うも、岩本が開幕戦完封勝利。関根裕之・金村暁・黒木純司が台頭。今関、芝草も前年の不調を脱出。ウィルソン、ジェリー・ブルックス、田中幸雄、片岡、西浦克拓を擁してビッグバン打線と呼ばれた。西武から移籍の奈良原も打撃・守備に活躍しレギュラーを獲得。開幕直前にヤクルトから移籍の野口寿浩が正捕手として活躍。前半戦は首位独走だったが、後半大失速。西武に逆転され優勝を逃した。ウィルソンが二年連続で本塁打・初の打点王。金村が最優秀防御率。片岡が最高出塁率獲得。落合が現役引退。
- 1999年、前年まで主に代打の切り札だった小笠原道大が捕手から一塁手に転向、「史上最強の2番打者」として大活躍。岩本が稲尾和久に並ぶ2年連続開幕戦完封勝利。しかし、4月の月間MVPを獲得した金村が4月末に怪我でシーズンの大半をリタイア。ウィルソンも怪我で離脱。途中加入したシャーマン・オバンドーの奮闘があったものの、前年ブレイクした西浦の不調。岩本、関根、ルーキーの建山義紀以外の先発投手陣の不調もあり、リーグ5位。上田が監督辞任。後任監督には大島康徳。
- 2000年、小笠原が最多安打。野口が捕手ながら最多三塁打を獲得。前年、怪我でほとんど出場できなかったウィルソンが37本塁打と復活。チーム打率、本塁打数、得点数、盗塁数が全てリーグ1位という破壊力抜群の打線で優勝争いに加わるも、エース岩本の不調等がありダイエーと西武に敗れて3位に終わる。
- 2001年、小笠原が最多安打。ルーキー中村隼人が初登板初完封を含むシーズン3完封(シーズン6勝)を上げるも、序盤から投手陣の不調、野手陣の故障者が続出し、7年ぶりのリーグ最下位に終わる。観客動員数が137万6000人まで落ち込む。片岡がFAで阪神へ移籍。
- 2002年、観客の増加を図るため、それまでプロ野球球団がなかった北海道の札幌市に本拠地を移す構想が、3月20日刊の北海道新聞でトップ記事になる。同市の準本拠化を計画していた西武からの反発もあったが、西武には他球団の公式戦試合も札幌ドームで開催できるという条件を付けて移転を受諾させ、移転後も数試合を引き続き東京ドームで主催試合を行うと発表した。小笠原が初の首位打者を獲得。3年目の正田樹が球団では金子以来、投手としては1980年木田勇以来の新人王である。チームは前半戦貯金1で折り返したものの、後半戦失速し、5位に終わる。大島が監督を解任され、後任はトレイ・ヒルマン。
- 2003年、東京ドーム最終年。翌年からの新本拠地となる札幌ドームでは、2001年7月31日の初試合以来これまで10戦して8敗2分と勝てなかったが、8月20日の対近鉄戦で3対1で初勝利する。チームは2年連続の5位。小笠原が2年連続の首位打者と最高出塁率を獲得する。
- 8月に北海道の有力企業との出資で、移転後の球団運営会社となる株式会社北海道日本ハムファイターズを設立。本拠地を札幌ドームに移転(事務所も東京都港区六本木六丁目の六本木電気ビルから札幌ドーム内の事務所に移転)。同時に日本ハム球団株式会社は、株式会社北海道日本ハムファイターズへ球団運営権を譲渡し解散、特別清算手続きをとった。二軍は引き続き鎌ヶ谷市のファイターズスタジアムを拠点とした。旧本拠地の関東地域のファンのために年間数試合を引き続き東京ドームで行うのと、二軍の本拠地維持の関係上、鎌ヶ谷市に「首都圏事業グループ」を設置している。なお、日本ハム球団株式会社は2005年2月1日付で特別清算終結決定が確定し、翌日付で登記簿が閉鎖(法人格消滅)されている。オフに新庄剛志(登録名「SHINJO」)を獲得。
札幌ドーム時代
ヒルマン監督時代
- 2004年、同年からパ・リーグに導入されたプレーオフ出場を、千葉ロッテマリーンズとシーズン終盤まで争い、9月24日の対オリックス・ブルーウェーブ戦で、プレーオフ進出を決め、最終的に4位ロッテと0.5ゲーム差であったが、この年のプロ野球は近鉄とオリックスの球団合併による球界再編問題が取りざたされ、選手会はこの問題で9月18・19日の2日間、全球団それぞれ2試合ずつ計12試合でストライキを行い試合中止となり、代替試合は行われなかった事も影響した。
- プレーオフ第1ステージでは2位の西武に1勝2敗で敗退。フェルナンド・セギノールが44本塁打で本塁打王。建山が最優秀中継ぎ投手。横浜から移籍の横山道哉が28セーブで最多セーブ。オフにメジャー移籍を目指していたヤクルトの稲葉篤紀をFAで獲得。球団初のFA選手獲得となる。ドラフト会議では1位指名した東北高校のダルビッシュ有の交渉権を獲得した。
- 2005年、元監督の高田繁が球団初のゼネラルマネージャー(GM)に就任。4月27日、日本ハム球団の初代オーナー大社義規が死去。背番号100はオーナーとしては日本プロ野球史上初めて永久欠番になった。この年から始まったセ・パ交流戦で11連敗を喫し、チームは5位に終わる。
- 2006年、4月18日、SHINJOが同年限りでの引退を発表。セ・パ交流戦の最終戦となる6月20日の対ヤクルト戦から7月7日の対西武戦まで、45年ぶりの球団最多タイとなる11連勝を記録。西武、ソフトバンクと首位を争い、9月27日の最終戦でレギュラーシーズン1位通過を確定した。チーム防御率3.05、チーム本塁打数135はいずれもリーグトップ。西武には7勝13敗と負け越したものの、福岡ソフトバンクホークスにはダイエー時代を含めて9年ぶりの勝ち越しで、オリックスと東北楽天ゴールデンイーグルスにはそれぞれ17勝3敗と大差を付けた。プレーオフ第2ステージ(対ソフトバンク戦)を2連勝で制し、25年ぶりのリーグ優勝を成し遂げると、中日との日本シリーズを4勝1敗で制し、10月26日に44年ぶりの日本一に輝く。11月12日、アジアシリーズでも優勝を飾り、アジア王者となった。
- 打撃部門では小笠原が本塁打・打点の二冠王。投手陣はリーグ1のチーム防御率3点台前半を記録する。八木智哉が12勝を挙げて新人王をとなる。この年のリリーフは武田久とマイケル中村の2人の名前を取って、親会社の日本ハムにも引っかけてHisashi And Micheal、略してHAM(ハム)と呼ばれた。岡島秀樹が登板した日はTOM(トム)とも呼ばれていた(武田のT、岡島のO、マイケルのM)。時々andを「&」と表現し「H&Mの方程式」とすることもある。武田久が45ホールドポイントのリーグ新記録で最優秀中継ぎ投手。MICHEALが39セーブのリーグ新記録で最多セーブ。
- オフには、宣言通りSHINJOが引退。小笠原が巨人へ、岡島が大リーグ・ボストン・レッドソックスへそれぞれFA移籍。ドラフトで日本大学の長野久義をドラフト指名するも入団を拒否される。戦力外通告をしていた坪井と再契約をする。
- 2007年、5月19日の対ソフトバンク戦から交流戦を挟み、6月8日の対ヤクルト戦まで、球団史上最長となる14連勝を記録し、6月23日には18勝5敗でセ・パ交流戦初優勝を決めた。ライアン・グリンが5勝0敗で交流戦MVPを獲得した。9月19日、クライマックスシリーズ進出を決め、9月29日に球団史上初のリーグ2連覇を達成した。ロッテとのクライマックスシリーズ第2ステージを3勝2敗で制した。日本シリーズで前年と同じ中日と対戦し、初戦に勝つもその後4連敗となり、第5戦では山井大介と岩瀬仁紀の継投による完全試合[4]もあり、1勝4敗で連覇はならなかった。稲葉が自己最高の打率.334、176安打で首位打者と最多安打の2冠を獲得した。
- 10月3日、高校生ドラフトで中田翔の交渉権を阪神・オリックス・ソフトバンクとの競合の末獲得。11月6日、高卒新人としては史上5人目となる契約金1億円・出来高5000万円・年俸1500万円(推定)で仮契約を交わした。オフには田中幸雄が引退し、監督のヒルマンとGMの高田が退団した。後任監督は梨田昌孝。
梨田監督時代
- 2008年、開幕から最終戦を通して一軍にいた野手はわずかに4人であったなど多くの故障者に悩まされた。ソフトバンク以外には勝ち越せず、楽天と西武とオリックスに負け越した。特にチーム打率・本塁打数共にリーグワーストという結果だったが、投手陣と代役の活躍や交流戦の貯金もあり、最終的に3位になった。10月11日、10月12日、クライマックスシリーズでは第1ステージではオリックスを2勝0敗で勝利したが、続く第2ステージで西武に2勝4敗で敗退した。
- 2009年、4月15日、金子誠が日本プロ野球新記録の7試合連続二塁打を達成。8月18日、ヘッドコーチの福良淳一、ターメル・スレッジ、宮西尚生が新型インフルエンザに感染した。球界初の新型インフルエンザ感染者となった。10月6日の札幌ドームで対西武戦に勝利するが、試合途中に楽天がロッテに敗れたため、その時点で2年ぶり5度目のリーグ優勝が決まった。年間主催試合観客数が199万2000人と、札幌移転後では過去最高を記録した。
- 投手陣ではダルビッシュと武田勝以外に規定投球回数に達した投手はいなかったが、巨人から移籍した林昌範、江尻慎太郎、宮西、菊地和正らリリーフ陣が成長し、ストッパーに転向した武田久は無敗のまま最多セーブ投手に輝いた。野手陣では大野奨太、巨人から二岡智宏らが加入し、更に投手から野手に転向した糸井嘉男の成長もあった。その結果、稲葉、糸井、高橋、金子誠が打率3割を超える活躍(稲葉以外シーズン3割はこの年が初)となり、チーム打率はリーグトップだった。対戦成績も、ソフトバンクにのみ11勝12敗1分と負け越したが、他のパ4球団には勝ち越し、ロッテには18勝6敗と大きく勝ち越した。クライマックスシリーズ第2ステージで、楽天を4勝1敗で下し、日本シリーズ進出を決めた。日本シリーズでは巨人と対戦、2勝4敗で日本一を逃した。11月22日、札幌市中心部でパリーグ優勝記念パレードが行われ、約11万1千人(実行委員会発表)のファンで賑わった。
- 球団史上最多となる7人の選手がゴールデングラブ賞を受賞する。藤井秀悟が巨人へFA移籍。
- 2010年、1月17日、この年から二軍から一軍投手コーチに転身した小林繁が心不全の為、57歳で急逝。それに伴い1月23日、二軍投手コーチの島崎毅が一軍投手コーチに就任。
- 開幕以来怪我人が続出、ゴールデンウィークを前にして二軍の野手が9人しかいないという事態に陥る。シーズン序盤は黒星を重ね、借金を最大14とするが、交流戦終了後の7月1日に勝率を5割にする。最終的にはソフトバンク、西武、オリックスに勝ち越し、負け越したのは10勝14敗のロッテのみで、前年と同様に5球団全てから2ケタ勝利を挙げた。最終戦まで、ロッテとCS争いをしたが、10月1日に5年ぶりのBクラスとなる4位が決定した。
- 10月28日、2010年ドラフト会議で、早稲田大学の斎藤佑樹の交渉権をヤクルト・ロッテ・ソフトバンクとの競合の末獲得。11月18日、中継ぎ投手での10勝を挙げた榊原諒がチームでは4年ぶりの新人王を獲得。12月9日、札幌ドームで斎藤佑樹単独の入団会見が行われた。オフには建山義紀が大リーグ・テキサス・レンジャーズへ、森本稀哲が横浜へそれぞれFA移籍した。
- 2011年、この年は3月11日に発生した東日本大震災の影響で当初予定されていた3月25日の開幕が4月12日に延期となった。5月26日から6月4日にかけて、プロ野球タイ記録の52イニング連続無失点記録、及び5試合連続完封勝利を達成している(詳細は下述を参照)。交流戦は16勝8敗で3位となっている。7月27日、 対オリックス12回戦(帯広の森野球場)に13-5で勝利し、日本プロ野球7チーム目となる球団通算4000勝を達成。ソフトバンクとの優勝争いとなったが、9月に直接対決で3連敗するなど6勝16敗1分と大きく負け越しことが響き、最終的には首位から17.5ゲーム差の2位となった。西武とのクライマックスシリーズファーストステージでは2連敗で敗退している。二軍では2004年以来7年ぶりのイースタンリーグ制覇を成し遂げている。
- 8月27日、梨田が今年の成績如何にかかわらず、同年限りでの監督退任の報道が流れ、9月15日に正式に梨田の監督退任が発表された。梨田の後任は栗山英樹。
- ドラフト会議では1位で東海大の菅野智之を指名し、交渉権を巨人との競合の末獲得したが、入団には至らなかった。7位に早稲田大学ソフトボール部の大嶋匠を指名しているが、ソフトボール部出身者では日本球界初となった。
栗山監督時代
- 2012年1月、ダルビッシュ有がポスティングシステムを利用し、メジャーリーグのテキサス・レンジャーズへ移籍。
- 3月30日、開幕戦の対西武戦(札幌ドーム)に勝利、前半戦はロッテと首位を争い、5月6日に首位となっているが、交流戦は14勝8敗で2位、その後、ロッテに首位を奪われ、前半戦を2位で折り返す。後半戦は西武との首位争いとなり、9月15日に首位に立ち、9月28日に優勝へのマジックナンバー4を点灯させる。マジック1とした10月2日、2位の西武がロッテに3-5で敗れたため、3年ぶり6度目のリーグ優勝を決めた。クライマックスシリーズファイナルステージは3位のソフトバンクと対戦し、3連勝で通算成績を4勝0敗として日本シリーズ進出を決定。巨人との日本シリーズでは、2勝4敗で敗退している。田中賢介が海外FA権を行使してメジャーリーグに挑戦することを表明し、サンフランシスコ・ジャイアンツに入団した。
- 2013年、1月に糸井嘉男、八木智哉とオリックスの木佐貫洋、大引啓次、赤田将吾の2対3のトレードが成立。開幕戦の西武戦には勝ったものの、そこから連敗し借金生活は6月28日まで続いた。4月13日のオリックス戦ではチーム14年ぶりの1試合5失策を記録。5月4日から15日にかけて9連敗で、借金は2010年6月16日以来の10、5月終了時点で19勝28敗1分の勝率.404で最下位。7月3日に開幕日以来の貯金を実現したが、7月17日に負け越すと、ついに勝ち越すことはなかった。8月14日から守り続けてきた5位も9月21日には最下位に転落[5]。9月28日の対オリックス戦(京セラドーム)で0対8で敗れたことで、クライマックスシリーズ出場の可能性がなくなり、3年ぶりのBクラスが確定した。10月1日の札幌ドームでの対楽天戦に2対11で敗れた事で、この年優勝した楽天に本拠地で1勝も勝てずに終わり、最多勝の田中将大に対しても8連敗に終わった。10月6日の対西武戦(札幌ドーム)に4対3で敗れ、12年ぶりに北海道移転後では初の最下位が決定、前年リーグ優勝からの最下位は1981年の近鉄以来32年ぶりの記録となった。64勝78敗2分で勝率・451はチーム8年ぶりの負け越し、チーム防御率は2006年以降1位、2位だったが同年はリーグ5位、失策はリーグワーストの88を記録した。
チームの特徴
ベテラン生え抜き選手や主力選手であってもトレードされる事があり(金村暁や糸井嘉男など)、その根拠となっているものは「ベースボール・オペレーション・システム(BOS)」という情報システムである。これは所属選手をセイバーメトリクスを元に成績・年俸・年齢によって主力、控え、育成、在庫の4種類に分類し、現場とフロントがチーム編成に関して客観的な数値に基づく共通の理解のもと、若手を適正に育て、ベテランを適宜放出することで、年俸総額を抑えながらチーム力を維持し、登録選手全員を戦力として活用することを目標としたものである。BOSは千葉ロッテマリーンズ、福岡ソフトバンクホークス、読売ジャイアンツにも採用されているが、他球団ではセイバーメトリクスに未だ懐疑的で日本ハムほど重用されていない。過去にスキャンダルを起こした選手についても、「獲るべき選手を獲る。名誉挽回のチャンスを与えることが、球界全体にとって必要。(山田正雄GM)」と大らかでこだわらない方針である。背景には、低コストで戦力を整えるためには「何らかの事情でもなければ、良い選手を獲るのが難しい(同GM)」という判断がある。
球団の観客増加戦略
札幌ドーム移転後、球団は以下の観客増加策を打ち出し、東京ドーム時代よりも大幅に観客が増加した。2005年以降は、1993年以来の100万人超の観客動員を続けており、200万人に迫った年もあった。これはソフトバンクに次いでリーグ2位の観客動員数である。
- なまらチケット
- 公式戦で、対象地域の道・市・区内在住者・在職者を対象に一塁側内野指定席券が一律1,500円の「なまらチケット」、平日ナイターの午後7時15分以降の入場者を対象に通常価格の約半額で入場できる「715チケット」(2007年までは午後7時30分以降の入場者を対象とした「730チケット」)を発売している。これらに加え、2005年からは全ての道民が対象の「なまら!超割チケット」、駐車券付きの「カルテット」、その名の通りビール券付きの「ビール券付き」等のグッズ付きチケット限定チケットも発売されている。
- チョッQR
- 2009年には12球団初の、携帯電話のQRコードによって、チケットレスで入場できるシステム「チョッQR」を導入した。
- KONKATSUシート、シンデレラシート
- 2009年7月11日と12日に開催された「KONKATSUシート」は当初は2日間で400人を募集も、2860人の応募があり、そのうち、女性が応募初日に規定枚数を越える応募があったが、逆に男性の応募が半分以下に留まったため、急きょ定員を600人に増員した。初日に28組が、二日目には34組のカップルが成立した。因みに、結婚までこぎつけたら始球式の権利が与えられる。2010年現在1組が婚約し、始球式の権利を獲得した。
- 2010年はKONKATSUシートの後釜として女性限定席の「シンデレラシート」を導入。1人につき、荷物置場として2席が割り当てられた。シンデレラシートは、テンピュールクッションや、オペラグラスが常設されていたが、3日間で備品の盗難が続出し、球団は多くの損失を被った。
- ウィークデー割引
- 曜日ごとに対象者が変動する割引制度であり、火曜日は60歳以上と学生を対象にした「シニア&学生デー」、水曜日は女性全員を対象にした「レディースデー」、木曜日は公式ファンクラブ会員を対象にした「ファンクラブデー」、金曜日は男性全員を対象にした「メンズデー」で、いずれも当日券がある場合に限り、ほとんどの座席が一般価格の半額で入場できる。
- なお、これは東京ドームでの公式戦でも実施されており(一部異なる場合あり)、札幌ドームの試合では試合開始前の1時間前まで買えないが、東京ドームの試合では当日の午前10時から買える。購入は当日券売り場、札幌ドームの試合のみファイターズステーション(札幌駅北口付近)でも可能で、2011年から金曜日が無くなり、火曜日が「メンズ&シニアデー」、水曜日が「レディース&学生デー」になった。
- 東京時代
- 戦前の東京セネタースとは資本の面でも球団系統の面でも関係ない。ただし、セネタース・東急時代の節にあるように、東京セネタースの後継を目指して設立された球団である。
- 1947年から1973年に使われた愛称「フライヤーズ(Flyers)」は鳥の英語表現から取っているが、東京急行の「急行」の意も含むという説がある。水原監督時代のホーム用ユニフォームは、「FLYERS」の「F」の部分が空を飛ぶ鳥の隠し絵になっていた。「フライヤーズ」の商標は現在も東映が保有し、2007年まで東映アニメーションの公式サイト内告知・イベントレポート欄で使われておりサイトの開設当初は隠し絵のロゴもそのまま使われていた。
- 1962年にパ・リーグを制し、日本シリーズで阪神を破ったが、この時、オーナーの大川博は背番号100のユニフォームを着て優勝パレードに参加。さらに親会社・東映が「東映優勝 背番号100」なる記録映画を制作し、全国東映系で上映した。
- 2003年までのフランチャイズは巨人と同じ後楽園球場だったため、日程面でどうしても不利な面が多く、日本ハムと巨人の後楽園での同日試合開催は極力組まれていなかったが、それでも同日開催の場合(特に共に前年Aクラスでセ・パ同日開幕戦の時)は日本ハムがナイター、巨人がデーゲーム(当時の巨人は日曜日のデーゲームも珍しくなかった)という原則があった。ただし、日本ハムは猛暑の時期を除き、土、日曜はデーゲーム開催で、小学生のファンクラブ(少年ファイターズ会)の会員が外野スタンドに集結し、観客動員の集客を図っていた。日本ハムはプロ野球界でのファンクラブの先駆けだった。同時にパリーグ初のマスコットキャラクター「ギョロタン」も登場した。
- 先述の通り、後楽園・東京ドーム時代、試合日程は常に巨人優先で組まれていたため、都市対抗野球による遠征のしわ寄せをまともに受け、その長さは阪神の「死のロード」に匹敵するものだった。1996年、1998年前半首位を走っていたが8月に失速して優勝を逃している。 特に8月は子どもが夏休みなので、家族連れが多く来る稼ぎ時として巨人の試合が多く組まれ、日本ハムはロードを余儀なくされた。
- 札幌時代
- 2004年に専用球場を札幌ドームに移転したが、札幌ドームは既に2001年度からプロサッカー・Jリーグのコンサドーレ札幌がホームスタジアムとして使っていた(札幌厚別公園競技場と併用)。プロサッカークラブとプロ野球チームが同じスタジアムを使うのは日本初の事例で[6]、コンサドーレが宮の沢に事務所を移転する2014年1月末ごろまでは日本ハム・コンサドーレそれぞれの事務所が札幌ドーム内に併設されていた。2006年には、コンサドーレとの共通入場券も発売している。
- 札幌ドームでは、施設のレイアウト面やアクセス面で三塁側の方が便利であり、スコアボードとして使われている電光掲示板が三塁側からの方が見易いため、ホームチームが三塁側ダグアウトを使う。ホームチームが三塁側ダグアウトを使うのは日本では二軍を除いて、日本ハムが初である(なお、東京ドームや道内の地方球場で開催される主催試合では一塁側ダグアウトを使用)。
チームスローガン
東京時代
- 1993年:「はつらつベースボール」
- 1994年:「はつらつベースボール Part2」
- 1995年:「Aggressive&Dramatic」
- 1996年:「更なる挑戦」
- 1997年:「大いなる挑戦」
- 1998年:「乾坤一擲」
- 1999年:「Vへ一丸!」
- 2000年 - 2002年:「Be tough,Stay tough,Win tough」
- 2003年:「Ethos Pathos Logos(エトス・パトス・ロゴス)」〜勝利への精神、勝利への情熱、勝利こそ意義〜
札幌時代
- 2004年:「New Home,New Identity,New Dreams.」
- 2005年:「Faith,Hope,Love The Game」
- 2006年:「Dream Big;Play Hard;Live Strong!」
- 2007年:「Focus,Advance,Nexus Spirit」
- 2008年:「熱く、頂点(サミット)へ」〜F・A・N・S '08〜
- 2009年:「Re:Challenge」
- 2010年:「Feel it !」
- 2011年:「ONE_1」
- 2012年:「9+ NinePlus」
- 2013年:「純 -ひたむきに-」
- 2014年:「前進せよ〜トゥミコロクル〜」(ロとルは小文字)
応援スタイル
- 東京時代
1980年代前半頃の応援スタイルは、トランペットを使わず、どの選手にも笛と太鼓で「ピーッピーッピピピピピピピッ」という決まりのものだったが、柏原純一にだけは「ピピピピピピピッ純一」というオリジナルのスタイルがあった(このスタイルは、柏原が阪神へトレード移籍した後も阪神の応援団が継承した)。
トランペットを使うようになってからの応援スタイルは、各選手別応援歌を歌うようになった(用意されていない選手は汎用応援歌の選手部分を差し替えて歌う。ただし、交流戦のビジターで投手が打席に立つ場合には、投手用の汎用応援歌を歌う)。原則的には1回目は演奏なしでアカペラで歌い、2回目以降はトランペット演奏で歌うが、森本稀哲などファンファーレのある場合はそれに続けて1回目から演奏ありで歌う。田中賢介などのように選手コールの後で最初からトランペット演奏が始まる選手もいる。これ以外にも非公式だが、一部の選手には応援歌に合わせた動きをすることもある。
1980年代から1990年代後半までは、相手選手凡退時に凡退テーマを演奏していたが、現在では関西地区9回裏限定で行っている。
- 札幌時代
札幌移転後、大半の選手別応援歌を除いて応援スタイルがやや変わった。攻撃開始やチャンスには『北の国から』、得点が入った時のテーマが「I'm A 北海道MAN」の「おーいおーい北海道」の部分など地元をイメージした応援歌[7]になっている。また、東京時代は本拠地東京ドームでは使えなかった太鼓が札幌ドームで使用可能となり、ホームゲームでも太鼓を使うようになった[8]。
なお移転後も、従来のメイン応援歌「ファイターズ讃歌」は引き続き歌われている。歌い手にささきいさおが起用されたこともあり、2000年以降は速水けんたろうが歌っている。2007年からは速水の再録音版を使っている。2011年途中から諸事情で歌唱の入っていないカラオケバージョンになるが、翌2012年より再び、速水歌唱バージョンを使用。なお、私設応援団の名前は「闘将会」である。
東京ドームなど関東の球場でも応援するために、札幌移転後も東京の応援団は存続している。このため東京のファンには馴染み深い移転前の応援スタイルが使われる場合がある。2006年のアジアシリーズでも移転前の応援スタイルが使われ、2007年から東京ドームでの試合のみ、ホーム・ビジター試合を問わず全試合で、東京ドーム本拠地時代の応援スタイルを使う(ただし、移転後にできた「北の国から」等のチャンステーマを使う時もある)。
ホームゲームで相手投手がノックアウトで降板するときは「Na Na Hey Hey Kiss Him Goodbye」を歌う。東京時代は海援隊の「贈る言葉」を応援団が演奏していた。札幌移転後もビジターゲームでは演奏する時がある。
2007年後半から、鳴り物が禁止されている宮城球場の試合で、宮城球場限定の鳴り物なしでの応援スタイルとチャンステーマを取り入れた。2008年からは関東限定で映画『チキ・チキ・バン・バン』の主題歌[9]、札幌ドーム限定で「ジンギスカン」[10]、2010年は、沖縄限定で『ハイサイおじさん』、東京ドーム限定でかつての球団歌『それゆけぼくらのファイターズ』と、地域別あるいは球場別でチャンステーマを取り入れている。
北海道移転当初の公式応援歌「Go! Go! ファイターズ」では、香瑠鼓による鳴子を振り付けに用いることがあった。7回裏、ファイターズ攻撃前にはマスコットのB.Bが登場し、スタンドの観客を率いて踊る。振り付けはYOSAKOIソーラン風であった。2006年は、YOSAKOIソーラン色を薄めた新しい振り付けになった。
札幌ドームの試合等、北海道での試合では、日本ハムの投手が3ボールになって、カウントを悪くしてしまうと、投手を応援する為の拍手が自然に起こる。
試合後、日本ハムが勝った場合に電光掲示板のカウントダウンと共にスタンド最上段(3階)から金色の紙テープがバズーカで発射され、ゆっくりと舞い降りて勝利を祝う[11]。移転初年度の2004年は紙吹雪を発射していたが、掃除に手間がかかること、野球・サッカーの共用スタジアムという性質上の問題などから2005年に廃止された。しかし勝利セレモニー復活の希望が多かったため、清掃しやすいスタイルになった。(札幌ドームのみ)。2011年からは金テープのバズーカから勝利の花火に変更された。
稲葉の打席では「稲葉ジャンプ」と呼ばれるジャンプが起こる。なお、2011年は東日本大震災の被災者に配慮してシーズン中は自粛していたが、クライマックスシリーズで復活した。金子誠の打席では、新撰組の「誠」の隊旗や法被が応援に使われている。
- ビニール風船を使った応援
2005年頃から特定の選手へのビニール風船を使った応援が始まった。
- 小笠原道大(2005 - 2006年):イルカ - 一時期、札幌市内と近郊の100円ショップからイルカの風船が消えるまでになった。
- セギノール(2005 - 2007年):バナナ
- 森本稀哲(2007年 - 2010年):緑色のマイク。これは森本本人がヒーローインタビューで歌ったりするなどマイクパフォーマンスに長けていることからファンの有志が考案したものが広まったもので、札幌ドームの近所のファンが集まるラーメン屋で5000個作られて販売されたものである。
- 田中賢介(2008年 - 2012年):人差し指だけ伸ばしたピンクの手
- スレッジ(2008年 - 2009年・2012年):ハンマー
- 鶴岡慎也(2008年 - 2013年):鶴または、ガチャピンのバット - 札幌では鶴が普及している。
- 札幌ドームでは長らくジェット風船を膨らませての応援が禁じられていた(東京ドームも同様)。理由は、札幌ドームはバックスクリーン奥にあるサッカー・ラグビー用天然芝ピッチの出し入れに必要な隙間に風船が挟まって移動に支障をきたす恐れがあるため(東京ドームはエアドームなので空気圧の膨張で風船が割れる恐れがあるため)。なお、札幌ドームでは2011年6月12日の対横浜戦に限り、限定的に使用が許された(ただし、衛生の観点から口から膨らますことは禁止され、専用ポンプを使っての応援のみ認められていた)。2012年から札幌ドームで行われる全試合で使用可能になった[12]。日本ハムファンは7回表終了後に青色の風船を飛ばし、勝利時には金色の風船を飛ばしている。
ラッキー7を6回裏に
2009年より、日本ハム主催試合ではファイターズのラッキー7を6回裏に行う事になった。これは、6回の得点が7回よりも多いことなどから、ラッキー6としたものである[13]。同時に、2008年までラッキー7のBGMとして流れていた「GO!GO!ファイターズ」に代わり、ラッキー6のBGMとして、4月は「ファイターズ讃歌」[14]を、また5月1日の西武戦からは「ファイターズ賛歌」に代わり新応援歌「La La La FIGHTERS」を流している(「ファイターズ讃歌」は、勝利時にインストを流している。)。
場内アナウンスでも6回裏の攻撃の際に、「6回の裏、ファイターズ、ラッキーイニングの攻撃は…」と流している。
なお、ファイターズの7回裏には逆に何のイベントもなくなり、ビジターチームのラッキー7は通常どおり7回表に行っている。ただし札幌ドームのみ、B☆Bバズーカを6回表終了から試合開始前(2009年は7回表終了時)に移動した。2012年からは道内主管試合(札幌ドームでも条件付でジェット風船[15]打ち上げが解禁となったため。東京ドームは従来どおりジェット風船の使用は全面禁止)で7回裏のセレモニーが行われるようになった。勝利した日には、試合終了後に花火も打ちあがるシステムに2012年から移行した。ただし、札幌ドームでの主催試合に限る。
チーム成績・記録
北海道日本ハムファイターズ及びその前身球団の年度別成績一覧も参照
- リーグ優勝 6回 (1962年、1981年※、2006年 - 2007年、2009年、2012年)
- 日本一 2回 (1962年、2006年)
- クライマックスシリーズ優勝 3回(2007年、2009年、2012年)
- アジアチャンピオン 1回 (2006年)
- セ・パ交流戦優勝 1回 (2007年)
- Aクラス 27回 (1959年、1961年 - 1967年、1978年 - 1983年、1987年 - 1988年、1993年、1996年、1998年、2000年、2004年、2006年 - 2009年、2011年 - 2012年)
- Bクラス 41回 (1946年 - 1958年、1960年、1968年 - 1977年、1984年 - 1986年、1989年 - 1992年、1994年 - 1995年、1997年、1999年、2001年 - 2003年、2005年、2010年、2013年)
- 連続Aクラス入り最長記録 7年 (1961年 - 1967年)
- 連続Bクラス最長記録 13年 (1946年 - 1958年)
- 後期優勝 2回 (1981年後期、1982年後期)
- レギュラーシーズン優勝 4回 (1982年、2006年 - 2007年、2009年、2012年)
- 最長連勝 14連勝 (2007年)
- 最長連敗 14連敗 (1984年、3引き分けを挟む)
- 最多勝 83勝 (1961年)
- 最多敗 80敗 (1956年)
- 最多引分 13分 (1984年)
- 最高勝率 .611 (1961年)
- 最低勝率 .364 (1955年)
- 最小ゲーム差 1.0(2位:1993年)
- 最大ゲーム差 48.0ゲーム(8球団中7位:1955年)
※1981年の優勝はロッテとのプレーオフで勝利したことによる。年間最高勝率は西武とのプレーオフで敗退した1982年を含む7回。
その他の記録
- シーズン最多得点 771点(2000年)
- シーズン最多安打 1370本(2009年)
- シーズン最多二塁打 290本(2009年・日本プロ野球記録)
- シーズン最多三塁打 56本(1961年)
- シーズン最多本塁打 178本(2004年)
- シーズン最少本塁打 40本(1955年)
- シーズン最多打点 735打点(2000年)
- シーズン最少打点 312打点(1947年・2リーグ制以降は1951年の324打点)
- シーズン最多盗塁 185盗塁(1979年)
- シーズン最多三振 1151三振(2005年・パ・リーグ記録)
- シーズン最高打率 .281(2004年)
- シーズン最低打率 .216(1956年)
- シーズン最高防御率 2.39(1961年)
- シーズン最低防御率 4.98(1984年)
- シーズン最多セーブ 48セーブ(2006年・パ・リーグ記録)
- ゲーム最多得点 22点(1949年11月19日対大陽)
- ゲーム最多安打 28本(2008年10月1日対楽天)
- ゲーム最多二塁打 9本(2004年5月12日対ロッテ、2009年4月19日対西武)
- ゲーム最多三塁打 6本(1946年7月14日対ゴールドスター)
- ゲーム最多本塁打 7本(1950年5月31日対毎日)
- ゲーム最多盗塁 9盗塁(1979年6月5日対西武)
- ゲーム最多犠飛 4犠飛(1982年7月3日対近鉄・日本プロ野球記録)
- ゲーム最多死球 7死球(1979年5月12日対ロッテ・日本プロ野球記録)
- ゲーム最多暴投 5暴投(2003年4月18日対西武・日本プロ野球記録)
- ゲーム最多ボーク 4ボーク(1974年7月17日対近鉄・日本プロ野球記録)
- 5者連続本塁打(1971年5月3日対ロッテ10回表・日本プロ野球記録[16])
- 4者連続二塁打(2009年7月29日対ロッテ1回表・パ・リーグ記録)
- 先頭打者から4者連続二塁打(同・日本プロ野球記録)
- 5試合連続無失点勝利(2011年5月28日対広島1回戦から6月3日対ヤクルト3回戦まで・日本プロ野球記録[17])
- 52イニング連続無失点(2011年5月26日対中日2回戦6回裏から6月4日対ヤクルト4回戦2回裏まで・日本プロ野球記録[18])
2000本安打達成者
- 同じく名球会入りの基準である通算200勝及び通算250セーブ達成投手はいない。
- 特記無い場合の安打以外の記録は達成当時のもの
- 8413打席数での達成は史上最多、2205試合目は2番目に遅い記録
無安打無得点試合達成投手
- 高橋善正 (1971年8月21日 対西鉄(後楽園球場) スコア 4-0) ※完全試合達成でもある。
- 高橋直樹 (1973年6月16日 対近鉄(後楽園球場) スコア 1-0)
- 田中幸雄 (1985年6月9日 対近鉄(後楽園球場) スコア 12-0)
- 柴田保光 (1990年4月25日 対近鉄(東京ドーム) スコア 3-0)
- 西崎幸広 (1995年7月5日 対西武(東京ドーム) スコア 1-0)
- 参考記録[19]
- 先発八木が10回まで無安打無得点で抑えるものの、味方打線が点を取れないまま降板、その後11回を武田久、12回に挙げた1点をその裏MICHEALが抑えて勝利している。
- 1941年以来65年ぶりで64シーズンぶり、戦後かつ2リーグ制以降初めての継投によるノーヒットノーランで、延長戦かつ3人の投手で抑えたのは日本プロ野球史上初めてとなる。
- また、八木の「先発投手が安打も得点も許さないまま9回以上を投げて途中降板」と言うのも日本プロ野球史上初めてとなる。
サイクル安打達成打者
- 浅原直人 1952年4月20日 対近鉄(川崎球場)
- 毒島章一 1957年6月23日 対近鉄(駒沢球場)
- 張本勲 1961年5月7日 対近鉄(駒沢球場)
- 大宮龍男 1980年7月29日 対南海(大阪球場)
- 田村藤夫 1989年10月1日 対ダイエー(平和台野球場)
歴代本拠地
- 1948年 - 1953年 後楽園球場(※1)
- 1953年 - 1961年 駒澤野球場(※1)
- 1962年 - 1963年 明治神宮野球場(※2)
- 1964年 - 1987年 後楽園球場
- 1988年 - 2003年 東京ドーム
- 2004年 - 札幌ドーム
※1 1953年8月まで後楽園球場を使い、同年9月より駒澤野球場へ移転。
※2 学生野球シーズンの使用が認められず、その時期は後楽園球場などを使った。後楽園球場が本拠地となった1964年から1977年頃まで、後楽園球場で他球団の試合が開催され、且つ神宮球場を本拠地とするアトムズ・スワローズの試合が組まれていない場合に限り準本拠地として神宮球場を使用している
歴代監督
- 1946年 : 横沢三郎
- 1947年 - 1948年 : 苅田久徳 ※1・2・3
- 1949年: 井野川利春 (第1次) ※4
- 1950年 - 1951年 : 安藤忍
- 1952年 - 1954年 : 井野川利春 (第2次) ※5
- 1955年 : 保井浩一
- 1956年 - 1960年 : 岩本義行 ※6
- 1961年 - 1967年 : 水原茂
- 1968年 : 大下弘 ※7
- 1969年 - 1970年 : 松木謙治郎
- 1970年 - 1973年 : 田宮謙次郎 ※8
- 1973年 : 土橋正幸 (第1次)※9
- 1974年 - 1975年 : 中西太 ※10
- 1976年 - 1983年 : 大沢啓二 (第1次)
- 1984年 : 植村義信 ※11
- 1984年 : 大沢啓二 (第2次)
- 1985年 - 1988年 : 高田繁
- 1989年 - 1991年 : 近藤貞雄
- 1992年 : 土橋正幸 (第2次)
- 1993年 - 1994年 : 大沢啓二 (第3次)
- 1995年 - 1999年 : 上田利治 ※12
- 2000年 - 2002年 : 大島康徳
- 2003年 - 2007年 : トレイ・ヒルマン ※13・14
- 2008年 - 2011年 : 梨田昌孝
- 2012年 - : 栗山英樹
※太字は優勝達成監督
- ※1 ここから東急フライヤーズ(第1次)
- ※2 ここから急映フライヤーズ
- ※3 1948年は8月16日まで指揮、残り試合は皆川定之が代理
- ※4 ここから東急フライヤーズ(第2次)
- ※5 ここから東映フライヤーズ
- ※6 1960年は前半戦まで指揮、残り試合は保井浩一が代理
- ※7 1968年は8月4日まで指揮、残り試合は飯島滋弥が代理
- ※8 ここから日拓ホームフライヤーズ
- ※9 シーズン後期のみ指揮
- ※10 ここから日本ハムファイターズ
- ※11 1984年は6月26日まで指揮、6月28日までは矢頭高雄が代理
- ※12 1996年は9月9日まで指揮、残り試合は住友平が代理
- ※13 ここから北海道日本ハムファイターズ
- ※14 2005年は7月18日から28日までの6試合を白井一幸が代理
主な出資企業
現在の本拠地移転にあたり2003年8月に設立した運営会社(新法人)「株式会社北海道日本ハムファイターズ」には、元々の出資企業である日本ハムの他、北海道内の主要企業が出資している。[20]歴史の項でも触れたとおり、旧法人である「日本ハム球団株式会社」(日本ハム100%出資子会社。前身の「セネターズ野球協会」時代の1946年設立)から新法人への事業(球団)譲渡という形をとり、旧法人は2004年に特別清算手続きにより解散・法人消滅となっている。
ゼネラルパートナー
グランドパートナー
- 札幌ドーム
- 北海道新聞社(ヘルメットスポンサー)
- 北海道旅客鉄道(JR北海道)(2013年に発生した一連のトラブルのため、2014年シーズンは公式サイトから消えている)
- 北洋銀行
- 北海道銀行
- 北海道電力
- 北海道ガス
- ホクレン農業協同組合連合会
- サッポロビール
- 札幌商工会議所
ユニフォームの変遷
ユニフォーム(一軍)
東京時代
- 1946年 最初のユニフォームは阪急軍からのお下がり(1936年創立当時のユニフォーム)で、阪急軍の「H」マークに変わりセネタースの「S」のマークを付けた。
- 1947年 球団名が東急フライヤーズとなり、「Flyers」のロゴが登場。現在のビジター用にあたるダークグレーのユニフォームには親会社の「TOKYU」のロゴが入っていた。
- 1948年 - 1949年 大映球団と合併し球団名が急映フライヤーズとなる。大リーグで使われていたジッパーユニフォームが登場。ビジター用は「FLYERS」で縁取りがブルー。
- 1949年 球団名が東急フライヤーズに戻り、ジッパーのロゴは親会社の「T.K.K」に変更。胸マークには、熊のマスコットが描かれている。
- 1950年 2リーグ分立を機にロゴを変更。左から右に寄るスタイルとアーチ型の2種類があった。
- 1951年 - 1952年 ヤンキースを参考にしたユニフォームが登場。また、縦縞が初登場。ビジター用は「TOKYO」。1954年に「TOEI」となるがデザインはそのまま。
- 1953年 - 1960年 東急時代の晩年から東映の初期に使われたユニフォームのロゴと縁取りは濃紺とオレンジ。1954年から球団の親会社が東映となり、球団名も「東映フライヤーズ」となる。ビジター用のロゴを「TOEI」に変更。帽子は、こげ茶地にオレンジ色で「F」で菱形風のデザイン。
- 1961年 - 1967年 水原茂監督就任に伴い、水原の古巣・読売ジャイアンツをモチーフに、こげ茶とオレンジを基調とした物に変わる。左袖には親会社・東映の社章(東映マーク)に「TOEI」のロゴが入る。
- ホーム用は「FLYERS」ロゴが大文字になって字体も一新され、頭文字の「F」の字に飛ぶ鳥の隠し絵が施されているという物だった。
- ビジター用は、グレーの地色が淡くなり、胸ロゴが「TOEI」から「TOKYO」に変更される。
- 1967年後半のみ、ビジター用ユニフォームが変更。地色が鮮やかなスカイブルーとなり、縁取り、ライン、東映マークに使われていたオレンジが金糸に代わり、胸ロゴが「TOEI」に戻る。
- 1968年 大下弘監督就任に伴い、赤と青を基調としたユニフォームに変更。帽子は紺色になり、Fマークは元の菱形風に戻る。袖、パンツ、ポケットには赤・青の2本ライン、アンダーシャツ、ストッキングは青地、ストッキングには白・赤・白のラインが入る。左袖の東映マークは赤地に白抜き、青のライン。また、Flyersロゴが戦後すぐに使われていた筆記体に戻る。
- 1969年 - 1971年 松木謙治郎監督就任により、モデルチェンジ。赤と紺を基調としたものになる。
- 1972年 田宮謙次郎監督就任により、ニット式ベルトレスユニフォームを採用。前ボタン1個がついたプルオーバー式になる。帽子は紺地に金糸でTとFを組み合わせたマークになり、ツバが赤。首、袖、腰、パンツに紺と赤のラインがつく(ビジター用はラインの模様がホーム用と逆)。背番号の書体がセリフ体となり、ビジター用のみ背番号の上に選手名が入る。
- 1973年前期 球団名が「日拓ホームフライヤーズ」となり、カラー、デザインは従来どおりで、帽子のマークがNとFの組み合わせとなり、左袖には日拓マーク、さらにビジター用の胸のマークが「NITTAKU HOME」(胸番号がなくなる)と、マイナーチェンジが行われる。
- 1973年後期 前年のユニフォームを一新し、7種類のユニフォームを採用する。(#7色のユニホームを参照。)
- 1974年前期 球団名が「日本ハムファイターズ」となり、デザインを一新。紺と赤のカラーは継続しつつも、形状はボタン無しのプルオーバーになる。帽子のマークと左袖には親会社・日本ハムのブランドマーク(社章)と「ニッポンハム」ロゴ(左袖のみ)。パンツのサイドには2本の極太ラインが入る。
- ホーム用は紺(縁取り:赤)の「Fighters」ロゴ。背番号、胸番号の書体は斜体がかった独特のものになる。首・袖・腰・パンツのラインは紺・赤で、紺地のストッキングには赤で親会社のブランドマークの刺繍が入る。
- ビジター用はスカイブルー地に赤(縁取り:白)の「Nippon Ham」ロゴ、ロゴと背番号にはナール式(丸)文字を採用。選手名、胸番号は無し。帽子もスカイブルー、首、袖、腰、パンツのラインは赤・白。
- 1974年後期 - 1981年 ホーム、ビジター用共モデルチェンジされ、ストライプを採用。基本カラーが青とオレンジに変わり、背番号と胸番号(ホーム用のみ)が角文字になり、袖とパンツのサイドラインが消える。首にはオレンジと紺の2本ライン、腰はオレンジ・紺・オレンジの3本ライン。途中、マイナーチェンジを繰り返しつつ、このユニフォームで1981年のリーグ優勝を果たした。
- 1982年 - 1992年 アストロズのレインボー・カラーをイメージしたものにモデルチェンジ。採用前年のリーグ優勝へのご祝儀と、継ぎ接ぎが目立っていた旧ユニフォームに対する評判を覆すためにモデルチェンジした[22]。胸ロゴはホーム用、ビジター用とも「Fighters」になり、帽子、アンダーシャツ、ストッキング、スパイクをオレンジ色にした。帽子のマークが白抜きの「Fighters」のロゴ、ロゴの右下に青字で「TOKYO」の文字の刺繍が入る。
- ホーム用は胸に黄色、オレンジの2本ボーダーラインが入る。左袖の文字は「ニッポンハム」。
- ビジター用は上着はオレンジ色で、黄色、白の2本ボーダーラインが入る。左袖の文字は「Nippon Ham」。
- 1988年から東京ドーム完成を機に帽子の前面部が白くなる。スパイクも白地にオレンジラインに変更。
- 1993年 - 2003年 大沢啓二監督復帰により、デザインを一新。濃紺が主体(帽子、アンダーシャツ、ストッキング)になった。12年ぶりに縦縞が復活(ホームは白地に濃紺の縦縞、ビジターはグレー地に濃紺の縦縞)し、帽子のロゴが「Fs」になる。
- ホーム用は、左胸に濃紺にオレンジの縁取りで「Fs」、右胸に胸番号がつく。
- ビジター用は胸に濃紺にオレンジの縁取りで「NIPPONHAM」、胸番号は左につく。
- 2001年からは右胸に親会社・日本ハムの広告が入るようになる。
札幌時代
- 2004年 - 札幌移転に伴い、球団名が「北海道日本ハムファイターズ」となる。ユニフォームを一新。帽子、アンダーシャツ、ソックスが黒になり、袖や襟に青・金色のラインがつく。また、プロ野球初の左右非対称デザインを採用した(右肩は地の色と同じだが左肩が黒、甲冑をイメージしている)。ホーム、ビジター共に胸番号が消える。帽子のロゴは上から“ボール・七芒星・文字「F」”の順に重なったものとなっている。デザインはシアトル・マリナーズなどのCI(コーポレート・アイデンティティ)を手掛けている米企業のSME社である。
- 2007年 8月17日 - 19日の試合を「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ」と銘打ち、3連戦限定ユニフォームが登場。ユニフォームの胸の部分に「HOKKAIDO」の文字が入り、ユニフォームの生地の色は青、左肩は黒。帽子は本体が黒、つばが青のものを使用。
- 2008年 7月22日 - 27日の試合を「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2008」と銘打ち、6連戦限定ユニフォームが登場。ユニフォームの胸の部分に「HOKKAIDO」の文字が入るのは前年と同じだが、ユニフォームの生地の色は黒、左肩が青。帽子は本体が青、つばが黒で前年とカラーリングが逆転している。
- 2009年 札幌円山球場で6月10日に行われた対横浜ベイスターズ戦を除く道内地方(旭川・函館・帯広)開催の全試合と、9月11日 - 13日に札幌ドームで行われる3連戦を「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2009」と銘打ち、限定ユニフォームが登場。ユニフォームの胸の部分に「HOKKAIDO」の文字が入るのは前年までと同じだが、生地の色は紺色で、左肩と首回り、ボタン部分に北海道をイメージする花でもあるラベンダーカラー(薄紫)を採用。帽子は本体が紺、つばが薄紫(ラベンダー)。
- 2010年 7月9日 - 11日の試合を「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2010」と銘打ち、3連戦限定ユニフォームが登場。ユニフォームの胸の部分に「HOKKAIDO」の文字が入るのは前年までと同じだが、ユニフォームの生地の色は北海道の「豊穣の実り」をイメージした黄金色、左肩が黒。帽子は本体が青、つばが黄金色。なお、このユニフォームは「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2010」の3連戦限定の予定だったが、梨田監督の発案により、帯広・旭川で行われる計4試合でもこのユニフォームを着用することになった。
- 2011年 - 「HOKKAIDO PRIDE~北海道の誇りを胸に~」と銘打ち、ユニフォームデザインを一部変更。帽子・アンダーシャツの黒はそのままに、ホーム用は右肩の上部から左肩部を青に変更(新たに左脇下にも青を配色)し、左肩下部以降は以前と同じ黒とした。また「FIGHTERS」のロゴも下部に七芒星を付けたものに変更された。ビジター用は大きくモデルチェンジし、両肩が黒で、地色が北海道の「豊穣の実り」を表す「ハーベスト・ゴールド」となった(この他、青も北海道の空を表す「スカイブルー」、ホームの地色となる白も雪を表す「スノー・ホワイト」と命名されている)。またビジター用は帽子ロゴが「F」から北海道の「H」にし、胸のロゴは二段組で上段に「HOKKAIDO」、下段に「NIPPONHAM」が入る。さらにパンツ右には新たにスポンサーとなったニトリのロゴが入る。また、ホーム、ビジターとも帽子のつばが「ハーベスト・ゴールド」で縁取られている。
- 2011年7月15日 - 17日の試合を「北海道祭り」と銘打ち、本拠地・札幌ドームでビジターユニフォームを着用して行った。さらに、同年9月23日 - 25日の試合を「秋の祭典」と銘打ち、こちらも札幌ドームでビジターユニフォームを着用して行った。
- 2012年 - 主将・田中賢介のユニフォームの左胸にキャプテンマーク(黒文字で「CAPTAIN」の頭文字である「C」と金色の「七光星」の組み合わせ)のワッペンを導入。
- 2013年 7月12日~14日の千葉ロッテマリーンズ3連戦と7月15日・17日の埼玉西武ライオンズ戦において、「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2013」を開催する。ユニフォームの上着には北海道旗に描かれ、北海道民の「不屈のエネルギー」を意味する七光星の燃えたぎる「バーニング・レッド」をシンボルカラーに採用。また、過去9年間の輝かしい戦績を残した伝統を引き継ぐ意味を込め、ファイターズ独自の左右非対称デザインを踏襲。その非対称部分には北海道の美しい雪景色をイメージし、最後まで諦めることなく無心で戦うチームの精神を純白(ピュア・ホワイト)で表現する。キャップおよびヘルメットのロゴ・マークには、「H」のセカンダリーマークを採用し、北海道への普遍的な愛と誇りを込める。キャップおよびヘルメットのロゴ・マークとひさし部分にもシンボルカラーのバーニング・レッドをあしらっている。さらに今回、2013年に北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から、7つの市町村名をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。7市町村は、2013年応援大使による抽選で決定する[24][25]。
- 2014年 - 右袖に日本ハムグループの新CIが入り、ユニホームスポンサーのホクレンのロゴはその上部に掲示される。
- 7月11日~13日の福岡ソフトバンクホークス3連戦を中心に、セ・パ交流戦終了後からオールスターゲーム開催前までのビジターゲーム含め全16試合で「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2014」を開催予定。北海道移転から11年を迎え次の10年を見据え、今一度、北の大地の大空のもとで原点に立ち返り北海道の皆様とともに前進していくことを表現した「NEXT BLUE(ネクスト・ブルー)」をコンセプトカラーに採用。非対称の純白色とキャップの「H」マークは前年より据え置き。キャップおよびヘルメットのロゴ・マークとひさし部分にもコンセプトカラーのNEXT BLUEをあしらっている。北海道179市町村応援大使が就任した18市町村の中から、9つの市町村名をユニフォーム・キャップ・ヘルメットに掲出。9市町村は、2014年応援大使による抽選で決定[26][27]。
- 備考
- 台湾プロ野球の中信ホエールズは札幌移転した当時の日本ハムのデザインを意識して、2005年から左右非対称デザインのユニフォームを採用した。
復刻ユニホーム
- 2005年に円山球場で開催されたデーゲーム時に、試合前の練習で1974年後期 - 1981年モデルのホーム用ユニフォームを上衣のみ着用した。プルオーバーだった当時の物と異なりボタン式となっていた。
- 2013年、パ・リーグ共同企画「レジェンド・シリーズ2013」で、球団史上初で復刻ユニフォームを着用して試合を行う。復刻されるユニホームは1993年から北海道移転前の2003年まで使用された、東京ドーム本拠地時代のピンストライプのホーム用ユニフォーム(ただし、復刻版ユニホームの左袖には「ホクレン」のワッペンが、ズボンには「ニトリ」のワッペンが付く)。
ユニフォーム(二軍)
- 二軍用も原則的には一軍と同じものだが、地域密着を目指しチーム・カラーを鎌ヶ谷市の色であるグリーンに。2008年7月20日・21日の鎌ヶ谷での試合に限り、胸に「KAMAGAYA」のロゴが入り、本体が緑、左肩が白、金色のラケットラインが入り、背中のネームは無しという特別ユニフォームが使われた。帽子は緑に前面が白のものでマークは「K」。
- 2010年 - 一軍のユニフォームをモチーフに、胸に「KAMAGAYA」のロゴが入った緑のユニフォームを正式採用。前述の特別ユニフォームをモデルチェンジ。緑をベースカラーとし、左肩から左わき・右わきがオレンジ。両わき腹部分に白のラインが入り、白とオレンジのツートンカラーのラケットラインが入る。背中のネームは無しで背番号は白文字にオレンジの縁取り。帽子は緑に左前面にオレンジのラインが入り、マークは「K(ボール・七芒星・文字「K」)」。左袖に球団ペットマーク、右袖に「NIPPON-HAM(白文字にオレンジ縁)」。
- 2012年 - 鎌スタ限定ユニフォームを2年ぶりにリニューアル。胸に「KAMAGAYA(KとAに緑の☆)」のロゴが入り、本体が緑、右側がゴールド、左側が黒、その間に白いライン。白のラケットラインが入り、背中のネームは無しという特別ユニフォームが使われた。帽子は黒地にマークは「K」、その上に緑の☆。
球団旗の変遷
- 1945年 - 1946年:上から青・白・赤の横線。青の部分に白字でセネタースの頭文字「S」。
- 1947年 - 1949年:球団名が「東急フライヤーズ」となる。上が赤・下が青のセパレート、右端に白の二等辺三角形。赤の部分に白字で「F」。
- 球団名が「急映フライヤーズ」となった1948年も使用。
- 1950年 - 1973年:2リーグ分立を機に球団旗を変更。右端の白の二等辺三角形はそのままだが、セパレートの色を上下逆に(上が青・下が赤)。青の部分に白字で「F」。東急・東映・日拓と親会社が変わっても継続して使用される。
- 1974年 - 1976年:球団名が「日本ハムファイターズ」となり、デザインを一新。橙色地に白のライン。白の部分には親会社・日本ハムのブランドマーク(社章)と「ニッポンハム」ロゴ。その下の橙色の部分に白文字で「Fighters」ロゴ。
- 1977年 - 2003年:大まかのデザインはそのままだが、「ニッポンハム」ロゴと「Fighters」ロゴを縮めたものに変更。
- 2004年 - :札幌移転に伴い、球団名が「北海道日本ハムファイターズ」となる。白地にペットマークの七芒星。下の部分は黒地に白文字で「HOKKAIDO NIPPON-HAM FIGHTERS」。
永久欠番
2009年1月30日に球団史上初めて永久欠番を制定することが発表された。該当者第一号は野球殿堂入りした大社義規初代オーナーである。
- 永久欠番一覧
- 100 大社義規(日本ハム球団初代オーナー)
- 準永久欠番
- 79 小林繁(2010-2011)(元コーチ。2009年に二軍コーチを務め、2010年より一軍コーチを務める予定であったがこの年の1月に急逝。これに伴い2年間欠番扱いとなった。)
- 86 大沢啓二(元監督。球団史上、他者の着用がない。)
なおこの他に、2009年より「番号が0から始まるのは違和感がある」として0と00の使用をしないことが決定されている。
マスコット
- 熊のマスコット(正式名称不明)
- 東急時代の1949年に、ユニフォームの胸マークの右上に入れていた。
- 帽子をかぶった少年の似顔絵(正式名称不明)
- 東映時代の1972年から日拓時代の1973年に、上記似顔絵が入ったペットマークを採用。球団発行印刷物に使用されていた。
- 弓を射るヘラクレス(正式名称不明)
- 日本ハム球団となってから1987年までペットマークに採用していた。
- ユニフォームを着た少年(正式名称不明)
- 上のヘラクレスのマークと同時期にペットマークとして使用された。背番号は「100」。
- ギョロタン
- 1980年、球団の着ぐるみマスコット第1号として登場。モチーフは太陽。名前の由来は「ギョロ目のタン吉」から。自転車が得意だった。晩年にはスクーターで走ることが多かった。
- ちなみにギョロタンは、パリーグ初の着ぐるみキャラクターであり、ヤクルトスワローズのヤー坊に続き、日本球界2体目の着ぐるみキャラクターである。
- ファイトくん
- 1988年の東京ドームへの移転に合わせて登場。翼をつけた戦士にバットとヘルメットをつけた1頭身の姿。ペットマークはもちろん、着ぐるみ化もされ、動物の着ぐるみ数体と共に球場を盛り上げた。
- 甲冑の戦士(正式名称不明)
- 1993年から2003年までのペットマーク。ユニホームを着た騎士が、剣の代わりにバットを振り上げているポーズ。
- ファイティー(100)
- 1993年に登場した、東京ドーム時代の翼竜型のマスコット。英語表記は「FIGHTY」。大社義規オーナーがモデルといわれており、背番号も同じ100だった。北海道移転の際に引退が予定されていたが、ファンによる存続希望の署名活動を受け、北海道移転後の2年間は東京ドームでの主催試合限定で登場していた。2005年8月17日に現役引退。この日東京ドームでは引退セレモニーが行われた。
- B・B(ブリスキー・ザ・ベアー)(212)
- 愛称「B・B(ビー・ビー)」。2004年、球団の北海道移転とともに登場。詳しくは当該項目を参照。
- カビー(カビー・ザ・ベアー)(337)
- B・Bの年の離れた弟で、2006年から登場している二軍マスコット。詳しくは当該項目を参照。
- ベビービー(baby☆B)
- B・Bの小学生時代の姿。2010年デビュー。
- ポリー(ポリーポラリス)
- 北海道移転10年目となる2013年シーズンに向けて2012年オフに登場した、球団初の女の子のマスコット。詳しくは当該項目を参照。
主な歴代の球団歌
- 東映時代
- 日本ハム時代以降
- 「それゆけ ぼくらのファイターズ」(作詞・作曲:石原美代子、補作詞・補作曲:中村泰士、編曲:高田弘、歌:ささきいさお)
- 「ファイターズ讃歌」(作詞:石原信一、作曲:中村泰士、編曲:高田弘、歌:ささきいさお/速水けんたろう[29])
- 「GO!GO!ファイターズ」(作詞・作曲・編曲:大島隆二、歌:宮本毅)(2004年 - 2008年)
- 「La La La FIGHTERS」(作詞:いしわたり淳治、作曲:福原美穂、福原将宜、大坪稔明、中村優規、編曲:安原兵衛、歌:福原美穂)(2009年5月1日 - )
- 「ファイターズと共に」(歌:TRIPLANE)※移転10周年記念ソング
年度別イメージソング
球場にて試合前や試合後に流されたイメージソング。歌手は公式戦の始球式にも登場。
- 1993年「WILD DREAM」 (作詞:石岡美紀 作曲:パンタ 歌:立川亮子)
- 1994年「Let's Get A Groove 〜Yo! Hips〜」 (作詞・作曲・歌:久保田利伸)
- 1995年「Get the Truth!」 (作詞・作曲:長友仍世 歌:INFIX )
- 1996年「あの瞳を忘れない」 (作詞:沢村大和 作曲:野中則夫 歌:BLOW)
- 1997年「太陽」 (作詞:TSUNAMI 作曲:パッパラー河合 歌:TSUNAMI)
- 1998年「Let Love Shine」 (作詞:萩原由美子 作曲:小松建祐 歌:水野由加里)
- 1999年「プラスのスマイル!!」 (作詞・作曲:永井ルイ 歌:CLOVER)
- 2000年「輝け!未来へ~Hit & Run~」 (作詞:門屋陽平 作曲:石川寛門 詞・曲・歌:速水けんたろう)
以下の2曲は、中日出身である大島康徳の監督就任を記念して中日ファンの山本正之がイメージソングを作り公認ソングとして発売されたものの、それまでのイメージソングと違い球場で流されたり始球式への登場は無し。
- 2001年:「熱血ファイターズの歌」(作詞・作曲・歌:山本正之)
- 2002年:「熱血ファイターズの歌2002」(作詞・作曲・歌:山本正之)
主なキャンプ地
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深夜のダブルヘッダー
1953年8月9日の対近鉄パールス戦(後楽園球場)のダブルヘッダー第1試合は17時から開始された。試合は両軍同点のまま決着がつかず、延長20回・試合時間は4時間46分の末に4-5で敗れた。当時は同一カードのダブルヘッダー第1試合についてはイニング制限が無く、変則ダブルの場合は12回までとなっていた。続く第2試合は22時11分に開始されたが、7回裏終了時点で当時のナイター時限だった23時45分が過ぎたため、コールドゲームで4-4の引き分けとなった。これも深夜の時限が来た場合、9回まで終了しなくてもそのイニングの攻撃が完了した時点でコールドとなる当時のルールによるものである。
1954年10月10日の同カード(大阪球場)で、今度は延長23回のパシフィック・リーグ延長イニング最長記録を作ったが、近鉄にサヨナラ負けを喫した。また、1981年10月10日の対ロッテオリオンズ戦(川崎球場・プレーオフ第1試合)では、9回・5-5の引き分けだったが、参考記録ながら5時間17分のロングゲームを戦った。
現在ではルールが改定され、ダブルヘッダーの場合、第1試合の終了が20時40分を過ぎたら第2試合は行わない取り決めとなっている。
7種類のユニフォーム
1973年に東映フライヤーズを買収した日拓ホームのオーナー・西村昭孝は、低迷するパ・リーグに活気を取り戻そうと、この年の後期シーズンに7種類のユニフォームを製作、選手に日替わりで着用させる画期的な試みを行った[30]。その7種類とは以下のとおりである。
- ホーム用
- 上下白地で前後中央オレンジ。袖にオレンジ色ラインが入る。胸マークは、黒文字の筆記体で「Flyers」。帽子はオレンジを地色につばが白、「NF」マークが黒。
- 肩から袖の下、パンツまでオレンジの太いラインが入る。胸マークは、黒文字の筆記体で「Flyers」。帽子はオレンジ、「NF」マークが黒。
- 上着がセパレートタイプで、上が紫、下が白。胸マークは、黄色の筆記体で「Flyers」。帽子は紫色を地色に「NF」マークが金色。
- 袖がブルーでロゴが赤く、背番号の後ろに太いラインが入る。胸マークは、赤文字の筆記体で「Flyers亅。帽子は水色、「NF」マークが赤[31]。
- ビジター用(全身を一色で統一)
- 全身が黄色で、肩・パンツに黒いライン。胸マークは、黒文字で上に「NITTAKU」下に「HOME」。帽子は黒を地色につばが黄色、「NF」マークが黄色。
- 全身が黒で、袖の下からパンツに至る太い黄色のライン。胸マークは、黄色の文字で上に「NITTAKU」下に「HOME」。帽子は黒を地色につばが黄色、「NF」マークが黄色。
- 全身が青で、肩に太いラインが入り、パンツのラインが白。右胸に白の「NF」マーク。帽子は青を地色につばが白、「NF」マークが白。
しかし、シーズン終了後に日本ハムに再身売りしたため、この7色ユニフォームは3ヶ月でお蔵入りとなった。
オールスター組織票問題
1978年のオールスターゲームのファン投票で、パ・リーグの9ポジションのうち8人を日本ハム勢が占めた[32]。
この年の日本ハムは、前期がリーグ3位ながら29勝31敗5分と負け越しているにも関わらず、投票期間中の7月6日-7日に約7万票が日本ハムに入ったため結果が大きく変わった。この事が報じられると各界著名人から批判が巻き起こったが、それに応える形でフロント陣が、オールスターゲームの第3戦が日本ハムの主催試合となることから、ファンクラブ「少年ファイターズの会」会員にダイレクトメールでオールスターのファン投票用紙を5枚セットで送ったことを悪びれずに公表した。
各界著名人から「組織票」と批判されると、日本ハムフロント陣は前言を撤回して事態の沈静化を図り、特に成績が悪かった古屋と菅野の出場辞退を発表した[33]。古屋は翌年にオールスター初出場を果たしたが、菅野は引退までオールスターに出場することはなかった。
本拠地移転後の東京ドームの公式戦
本拠地を札幌ドームへ移転した2004年以降も、年間で3カード8試合前後の主催試合を引き続き東京ドームで行われている。これは、東京都にも球団事務所がある事や、二軍施設は隣県の千葉県鎌ヶ谷市のまま継続されている事や、旧来の東京のファンの存在を考慮したものである。2003年11月に東京ドームで開催された最後のファンフェスティバルで球団社長(当時)の今村純二が「移転後も、東京ドームで12から15試合を引き続き開催します」とファンの前で宣言した。
2004年以降の東京ドームは、日本ハムの本拠地ではなくなったことで、関東地方以外に本拠地を置くパ・リーグの他球団も東京ドームで主催試合を行うようになった。
移転1年目の2004年は主催試合を日本ハムが12試合の他・オリックスが2試合・ダイエーが1試合を行った。このうちオリックス主催分は対戦相手が日本ハムだったため、東京ドームの公式戦で初めて三塁側のダッグアウトを使った[34]。
2005年は主催試合を日本ハムが10試合・オリックスが2試合(この年も対戦相手は日本ハム)を行い、2006年は日本ハムが9試合を、2007〜2009年は日本ハムが8試合・オリックスが2試合を、2010年は日本ハムが8試合・楽天が1試合を、2011年は日本ハムが5試合[35]・楽天が1試合を行った。
2012年、2013年は日本ハムが8試合・ソフトバンクと楽天が各1試合を行い、2013年のみソフトバンクと楽天の対戦相手はいずれも日本ハムで、2005年以来8年ぶりにパリーグのビジターチームとして東京ドームで試合を行った。2014年も日本ハム8試合・ソフトバンクと楽天が各1試合開催予定となっている。
移転当初は週末に多く組まれていた主催試合は、2007年4月20日(金)〜22日(日)の対ソフトバンク戦3連戦以来、2013年に至るまで全ての東京ドームでの主催試合を平日に行っていたが、2014年8月29日(金)〜31日(日)の対ロッテ3連戦で、7年ぶりに東京ドームの主催試合が週末に開催される予定である。
2005年よりセ・パ交流戦が開始されたため、巨人主催のロードゲームでも日本ハムは東京ドームでの試合を行っており、2006年までは3試合を、2007年以降は2試合を行っている。現在は、日本ハム主催試合と巨人など他球団の主催試合のロードゲーム数試合を合わせ、計10~12試合を東京ドームで行っている。
札幌ドーム移転後、東京ドームでの日本ハム対西武戦の公式戦は未だに行われていない[36]。また、日本ハム主催の東京ドームでの交流戦も未だに行われていない。
東京の球団から北海道の球団へ
日本ハムの同年の観客動員数は、ドーム初年度の景気もあって2,458,500人(1試合平均37,800人)でパ・リーグ1位。同年最後まで優勝を争った西武や近鉄のそれを大きく上回り、また、セ・パ12球団を合わせても巨人に次ぐ2位で、同年セを制した中日や、5万人超[37]の収容能力を誇る阪神甲子園球場を本拠地とする阪神をも上回った。しかしこの日本ハムの動員数は、いわゆる“ドーム見たさ”の観客が多かったことが原因にあり、巨人戦のチケットが取れなかった野球ファンが、巨人戦に比べて座席に余裕のある日本ハム戦のチケットを購入し、ドーム見物ついでで観戦した、というのがその実情だった。また、当時日本ハムの所属選手の中では前年新人王を争った西崎幸広や、同年西崎と共に最多勝を獲得した松浦宏明ら数人の若手選手が全国的な人気を誇っていたものの、スター性の強い選手が少なく、球団のオフィシャルブックの表紙は1996年まではほとんどのシーズンで西崎が被写体となっていた(1997年は落合博満・田中幸雄・片岡篤史の3人が表紙であった)。
この間フロントは「ドームさえあれば、何もしなくてもお客さんは来てくれる」と“ドーム景気”に依存してしまい、結果としてファンサービスやチームの補強策は次第におざなりになっていった。チームも常時優勝争いをすることができぬまま低迷した。さらに西崎ら主力選手との契約交渉上のトラブルが多発し(結局西崎は1997年オフに西武へトレードされる)、1993・1996・1998年には優勝争いに加わるものの、翌年に尻すぼみとなる悪循環を繰り返した。また1993年には福岡ドーム、1997年には大阪ドーム、ナゴヤドームが相次いで開場し、ドームの稀少価値が相対的に低下。観客動員数は1988年をピークに減少し、2003年の動員数は約133万人にまで落ち込んだ。
日本ハムはこの反省を教訓に、札幌移転を機にCIの導入を決定し、アメリカのSME社と共同で球団のイメージアップに本格的に着手する。その一環として「地域密着」の方針を打ち出し、北海道内でのチームの認知度アップとファン層開拓を目指した。新庄を獲得したのも、ファン獲得の一環でもあった。移転当初は「北海道は巨人ファンが圧倒的に多い」という現実があったが、道内での野球教室やファンイベントの開催、メディアへの露出促進などといったさまざまな活動が奏功して観客動員数は年々増加。また、トレイ・ヒルマンら首脳陣の下で森本、ダルビッシュらが成長し、高田繁らフロント陣の編成策によってチームの戦力層が強化された。
札幌ドームで初めて開幕戦を迎えた2006年に実施した「43,000プロジェクト」は、開幕戦など年間数回にわたってドームを満員にするために行われたスペシャル企画で、開幕戦では42,393人(パ開幕戦3球場中最多)、翌日も29,170人の観客動員を記録し、動員数増加に大きく貢献した。12年ぶりの開幕2連勝を飾ったチームも優勝を争い、シーズン終盤には連日3万人超の観客が札幌ドームを訪れた。そしてチームはパ・リーグ優勝を果たし、日本シリーズでも中日を退けて日本一に輝いた。新庄が引退し、小笠原道大がFAで巨人へ移籍した2007年も2年連続でリーグ優勝し、クライマックスシリーズも制すなど、ピークといわれた前年の観客動員をさらに上回った。また、移転当初は隔年開催だった旭川スタルヒン球場と函館オーシャンスタジアム、釧路市民球場と帯広の森野球場(道東シリーズ)での道内開催公式戦を、4球場とも毎年開催するよう改めた。
この道内各所での遠征シリーズ、あるいは札幌ドームでの主に夏季に行われるある3連戦は「We Love Hokkaido」シリーズとして、オリジナルユニフォームの着用や、2011年の札幌ドームでの西武戦(「北海道祭り」シリーズ)では外野席に道内179市町村と北海道の自治体旗が掲揚されたり、道内物産展や民俗芸能の紹介、花火大会(2011年)など、様々な趣向を凝らした地域密着応援シリーズを行っている。
しかし、それでも平日(特にシーズン序盤)の試合の観客動員数が2万人を割り込むことが多いため、球団では北海道在住者や午後7時台以降に来訪する観客を対象とした企画チケットを発売するなど、数々の観客獲得策を実施している(#チームの特徴も参照)。2007年には、財政破綻した夕張市の市民を札幌ドームに招待する「夕張シート」を創設し、2009年には札幌ドームのファウルエリアにフィールドシートを増設するなど、さらなる誘客策と地域密着策の開拓に力を注いでいる。[38]
札幌ドーム以外の道内の開催球場には照明設備がないため、これまでは必然的に上記4球場の試合はデーゲームだったが、2013年から旭川にナイター設備が常設されることが決まり、そこでのナイター開催も実施された(2013年は4試合、うち2つは交流戦でナイターを実施)。
放送
テレビ
- 全国向け放送
- 熱パ・プロ野球→なまら!ファイターズ中継→GAORAプロ野球中継(GAORA)
- ドラマティック プロ野球・パ!(スポーツ・アイESPN)
- J SKY STADIUM(J SKY SPORTS)
- 月刊ファイターズTV・週刊ファイターズTV(GAORA)
1990年代当初は東京ケーブルネットワーク制作(試合日によってテレビ埼玉、または千葉テレビ放送と共同制作としたものあり)の番組を、GAORAとスポーツ・アイESPNと本数調整しながら中継した。その後はほぼGAORAの独占となるが、1999年の一時期、J SKY SPORTSと放送本数を調整して中継した試合があった。
- 北海道内
全体的な総数では各局ごとにばらつきが見られるが、特に2006年の日本一を境に中継数が大幅に増加している。移転初年度から数年間は本拠地の試合を中心に数試合放送される事がほとんどであったが、近年ではビジター中継も積極的に行っている。
- NHK札幌放送局
- 現在
- 『ネットワークニュース北海道』内スポーツコーナー
- 過去
- ほくほくスポーツ(『ほくほくテレビ』内)
- 『まるごとニュース北海道』内スポーツコーナー
- HBC 北海道放送
- 現在
- Bravo!ファイターズ(『グッチーの 今日ドキッ!』内スポーツコーナーとテレビ中継の番組名)
- 侍プロ野球(2010年以降はBravo!ファイターズ)
- 過去
- STV 札幌テレビ放送
- 現在
- ファイトF(ファイターズ)
- どさんこワイド!!朝!
- どさんこワイド
- マハトマパンチ
- ぞっこん!ファイターズ(対戦相手の地元局へのネットがある場合は、ネット局への配慮から全国ネット時と同じ『Dramatic Game 1844』として放送)
- 過去
- HTB 北海道テレビ放送
- 現在
- 朝までファイターズ
- FFFFF(エフファイブ)
- イチスポ(『イチオシ!』内スポーツコーナー)
- 朝いちSPORTS(『イチオシ!モーニング』内スポーツコーナー)
- スーパーベースボール イチオシ!ファイターズ
- 解説は、岩本勉が務めることが多い。
- 過去
- UHB 北海道文化放送
- 現在
- ファイコンEXP.(コンサドーレ札幌の情報も含む)
- さあ!トークだよ
- U型テレビ
- サタすぽ
- UHBスーパーニュース内ファイターズコーナー
- BASEBALL SPECIAL
- 解説は、金村曉が務めることが多い。
- 過去
- えきニジ
- スポーツワイド Fの炎〜SPORT HOKKAIDO〜
- タカアンドトシのどぉーだ!
- YASUのえき☆スタ@noon
- 土曜えき☆スタUP
- えき☆スタ1
- えき☆スタ発
- のりゆきのトークDE北海道
- TVh テレビ北海道
- 現在
- TVh道新ニュース内スポーツコーナー(毎週木曜日だが、他のスポーツも含む)
- TVhファイターズ戦の中継
- Do!ろーかる
- 過去
道内の地上波局が全てファイターズ主催試合の放映権を持っていることも特筆すべき点である。中でも2008年まではTVhが一番力を入れていた[39]。
但し、TVhは札幌・旭川・函館・室蘭を中心にした道央と道南のほぼ全域、道北の一部でしか見ることができず、帯広・北見・釧路・稚内を中心にした道東全域、道北の一部では見られないことから、これらの地域の視聴者からの苦情が少なくなかった。特に2006年のプレーオフ第2ステージ第2戦で優勝を決めた時はTVhが中継していたため、大量の苦情が殺到(HBCラジオとSTVラジオでは聞けた)。
その後TVhは、地上デジタル放送設置経費増加に伴う制作費削減に伴って2009年は原則として中継を行わず、2010年も試合中継数が少なかった。2011年には前年に総務省から「後発民放支援スキーム」という後発民放の置局格差解消に伴う開局費用が補助される支援で道東の一部でも開局することになり、釧路放送局開局記念特番として3年ぶりに自社中継が復活した。2012年以降は主要都市のほぼ全域でTVhが視聴できる体勢となるため、苦情の数は次第に収まると見込んでいる。
しかし、東京ドームでの主催ゲーム(テレビ東京からの裏送り)については2012年まで放送実績がなかった。
- 2009年9月26日にソフトバンク対日本ハムの中継を行った。また、11月8日に日本シリーズ第7戦・北海道日本ハムファイターズVS読売ジャイアンツを放送する予定だったが、第6戦で巨人の日本一が決まったため、第7戦が開催されず放送されなかった。
- 2010年は3試合中継を行った(主に九州放送からのソフトバンク戦ネット受け)。
- 2011年は5試合の中継を行った(ネット受け2試合、自社制作3試合)。
- 備考
2006・2007年の優勝パレードは、全局優勝パレード中継を生放送した。2009年はNHKを除く全民放が互い違いに放送した。2012年はSTV・HTB・UHBが生放送、HBCがパレード終了後の午後3時から録画放送を行った[40]。NHK・TVhは放送なし。 ビデオリサーチ社の視聴率調査で北海道の2012年4月期の高視聴率番組トップ10が全てファイターズ戦の中継で1位が30%という快挙を達成し球団の密着度と人気が伺える結果となった。[41]
- その他
- テレビ東京
- 東京12チャンネル時代に『戦国ナイター』で一部試合を放送していたが、その後しばらく主催ゲームの中継が途絶えた。
- 1990年代後半から、日本ハム提供でテレビ中継を再び行うようになった。また、1996年度から2003年度の8年間に渡って、『超野球ファイターズ』という日本ハム提供の球団情報番組を、毎週日曜日に放映していた。
- 札幌移転後の2004年4月からは内容を全面的に一新し、球団監修のミニアニメーション番組『超ぽじてぃぶ! ファイターズ』をテレビ東京とテレビ北海道で放送した。開始当初の半年は日本ハムの選手(実名で登場する)をデフォルメしたギャグアニメーション形式だったが、同年10月の放送からストーリー性を重視して「闘魂野球伝」シリーズ、さらに監督が岸誠二に代わり2005年度上半期は北海道の野球少年やファンとの友情を描いた「燃えるぜ!焼けるぜ!」シリーズ、下半期は「燃えるぜ!焼けるぜ!」のメインキャラが野球勝負でファイターズ以外の11球団を擬人化した魔人にさらわれたファイターズ選手達を救出する「11魔人」シリーズを放送し、2006年3月に終了した。
- 過去には、テレビ北海道など系列局への裏送りを実施している。
ラジオ
- 北海道内
- HBCファイターズナイター
- ファイターズDEナイト!
- 朝刊さくらい
- ガンちゃんの世界一面白いプロ野球の番組
- プロ野球三都物語(開幕前に放送する特別番組。東北放送・RKB毎日放送と毎年持ち回りで制作)
- おぢさんツインカム
- にちようサウンドボックス
- 携帯サイト『HBC熱闘!スポーツ』も運営していた(2010年1月 - 3月)。
- 『ファイターズ中継ナンバーワン』「120%応援実況」をスローガンに年々中継試合数を増やして2007年からは公式戦はほぼ全試合を中継し(ネットの関係で東京ヤクルトスワローズとのビジターゲームを中継できないため、全試合はこれまで達成できていない)、時には敵地にも自社アナウンサーを派遣する熱の入れようである。さらに試合後やオフシーズンにも応援番組も充実させている。
- ファイターズ戦中継を増やし、STVラジオとの差別化を図ったことが聴取者から支持され、聴取率でSTVラジオを破った。
- STVアタックナイター ぞっこんファイターズ中継
- ぞっこん!スポーツ(『みのやと幸代のときめきワイド』内)
- アタックナイター直前情報(『牧やすまさのスーパースクランブル』内)
- ナマスポ!(『News&Sportsチャートなまらん』内)
- なまらん
- 月刊梨田のはなしだ
- スポーツトレイン(『オハヨー!土曜日』内)
- 「オハヨー!チェック・ザ・チェック」「オハヨー!朝からファイターズ」「オハヨー!スポーツ情報」(『オハヨー!ほっかいどう』内)
※2007・2008年度は、ナイターはホームの全試合とビジターの大半、日曜日のデーゲームを中継していた。2009年~2012年は札幌ドームのナイターを中心に放送し、ビジターはヤフードームのソフトバンク戦など一部の試合のみ放送。その他は全国ネットの巨人戦を放送。2010年~デーゲームはワイド番組を優先する関係で、主管試合でも放送することがなくなった。2013年は「ファイターズ公式戦はナイター開催に限り、全試合中継」を宣言。背景には長年聴取率調査で首位の座にいたが、HBCラジオに2012年12月調査で譲り渡したことがある。
- AIR-G'
- 現在
- 『ビビッド・クルール』内ファイターズ情報
- 過去
- AIR-G' Morning Pax内広瀬哲朗のファイターズ情報
- GOTCHA! 〜Fun's Radio〜内坪井智哉のツボチカ7(セブン)
- MOTTO FIGHTERS(『SPICY FRIDAY』内)
- G1sports(『G1-MOTION』内)
- DAY-TIME TRIPPERS(木曜日)
- 過去
- Weekly Fighters Press
- その他
- 文化放送
- 現在
- 過去
- えのきどいちろう意気揚々→フォークトレイン内日本ハムファイターズエキサイティングネットワーク→ミュージックトレイン内北海道日本ハムファイターズエキサイティングネットワーク
インターネット中継
2006年6月16日に「Yahoo!動画」上でインターネット配信を開始し、シーズン後半の1位通過争いやプレーオフの時は回線がパンク状態になった。SHINJOの引退セレモニーも中継したが、GOGOファイターズがずっと流れていた。2007年はオープン戦から配信している。CS放送のGAORA映像を使っている。2009年9月22日に「オンエアーステーション」上で2軍戦のラジオ中継が行われた。
補足
- 東映時代、同一資本系統の日本教育テレビ(NETテレビ。現在のテレビ朝日)がテレビ中継の優先権を確保していた。球団が日拓ホーム→日本ハムとなった後、関係は緩やかに解消され、1990年代以降は上述の通りテレビ東京等との結びつきが強くなっていった。
- 東京ドーム関連のCATV(東京ケーブル)制作ナイター番組をテレビ埼玉(過去には試合により千葉テレビ放送にも)・GAORA(毎日放送系列のCS)・日テレG+(日テレ系列のCS)が購入して放送。北海道移転後もGAORAで引き続きナイター中継が放送されている。日本ハム本社は、GAORAに開局当初から出資している主要株主である。
- 1990年代前期、FM富士(当時JFN加盟)が不定期で放送していたラジオ番組『FIGHTERS ROCKS&BASEBALL』があり、日本ハム情報とロック音楽を放送していた。それを同タイトルでテレビ化した番組が1992年秋ごろから1994年ごろまで、テレビ埼玉制作で同局とテレビ神奈川・千葉テレビ放送・びわ湖放送の4局でネットしていた。
- この他、北海道内のコミュニティFM放送局でも以下の番組が放送されている。
脚注・出典
- ↑ これは、読売ジャイアンツの前身の東京巨人軍が「巨人」の愛称で呼ばれることを受けて、鈴木惣太郎が「他の球団も巨人と同じように愛称で呼ぶことにしよう」と考え、大阪タイガースを「猛虎」、セネタースを「青鞜」、パシフィックを「太平」と命名した名残である。しかし、巨人以外の他球団が愛称で呼ばれることを拒否したため、定着しなかった(参照)。
- ↑ 東急の参事で強羅ホテル社長・猿丸元が、小林次男(横沢三郎の兄)の仲介で、五島慶太と永田を会わせてフィフティの合併、急映フライヤーズを誕生させた(関三穂『プロ野球史再発掘 5 』、P232、262)。
- ↑ 西村昭孝は、現在の社長である西村拓郎の父である。
- ↑ 継投による完全試合は参考記録である。
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」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ アメリカ合衆国ではオレゴン州・ポートランドで、1975年から1982年まで北米サッカーリーグのポートランド・ティンバーズとAAA級のパシフィック・コーストリーグに所属するポートランド・ビーバーズが、また、2001年から現在までユナイテッドサッカーリーグのティンバーズと同じくビーバーズが、共にPGEパークをホームスタジアムとして使っている。また、アメリカではメジャーリーグベースボールとアメリカンフットボール・NFLの本拠地を共有する事例がある
- ↑ 逆転・勝ち越しの時は、「ファイターズ讃歌」。
- ↑ 東京ドームの主催試合のみ、基本的に移転前のスタイルが継続されている。ただし、2007年以降には太鼓を使うようになった。
- ↑ 途中で男性パートと女性パートに別れる。また、クライマックスシリーズ限定で関東以外の球場でも披露された。
- ↑ 2008年と2009年のクライマックスシリーズと2009年の日本シリーズでは、両方とも使われた。
- ↑ 2006年までは銀色だった。また、「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ」では銀と青の2色で、2009年5月の「ファミリーシリーズ・さくらまつり」ではピンクメタリック、10月の「炎の最終シリーズ」ではレッドメタリックのテープが発射された。
- ↑ ロケット風船全面解禁!開幕シリーズ限定で来場者プレゼント! - 北海道日本ハムファイターズ 2012年3月16日
- ↑ http://www.hokkaido-np.co.jp/cont/fs_ballpark/64843.html 敵より先に「幸運」つかめ 球界初「ラッキー6」
- ↑ 札幌移転前のラッキー7のBGMであり、移転後も2008年までは5回裏に応援団のトランペット演奏で流していた
- ↑ 勝利で試合終了後も同様のセレモニーがあり、ヒーローインタビュー後に場内アナウンスの号令で打ち上げる
- ↑ 作道烝、大下剛史、大橋穣、張本勲、大杉勝男の5者。作道の本塁打は代打満塁本塁打。
- ↑ 2010年シーズンに中日ドラゴンズが記録して以来。
- ↑ 1942年シーズンに阪神軍が記録して以来。
- ↑ NPBでは継投によるノーヒットノーランは認められていない。
- ↑ 球団公式サイト スポンサー&パートナー
- ↑ 『野球小僧』、白夜書房、2009年4月号、198、199頁。
- ↑ 綱島理友「プロ野球ユニフォーム物語」より。
- ↑ ちなみに対戦相手のロッテは、日本ハムがブラックを基調とした特別ユニフォームを着用するのに伴い、普段のブラックのビジター用ユニフォームではなく、ホーム用のストライプユニフォームを着用。
- ↑ 「WE LOVE HOKKAIDO シリーズ 2013 」開催のお知らせ
- ↑ 掲出される市町村はユニフォームが函館市(12日 - 15日・17日)、キャップが芦別市(12日・13日)と猿払村(14日・15日)、ヘルメットが網走市(12日)・池田町(13日)・留萌市(14日)・白老町(15日)。
- ↑ 「WE LOVE HOKKAIDOシリーズ2014」企画概要および限定ユニフォームを発表
- ↑ 掲出される市町村はユニフォームが長沼町(全日程)、キャップが鶴居村(6月27日 - 29日・7月1日 - 3日・7月5日 - 6日)と湧別町(7月8日 - 10日・11日 - 13日・15日 - 16日)、ヘルメットが七飯町(6月27日 - 29日)・厚沢部町(7月1日 - 3日)・名寄市(7月5日 - 6日)・中標津町(7月8日 - 10日)・江別市(11日 - 13日)・鹿追町(15日 - 16日)。
- ↑ CD『作曲家研究 名作選/古関裕而』(日本コロムビア、1999年)収録ブックレットの解説。
- ↑ 現在、札幌ドームでの主催試合の勝利時の試合後に、2014年からビジター(ラッキー7)では上杉周大(THE TON-UP MOTORS)のカバーバージョンが、それぞれ流されている。
- ↑ 前期に使ったユニフォームは基本的に東映時代のデザインを踏襲したものだが、袖や襟のラインに使われた赤と青が入れ替わるなど、若干のマイナーチェンジが施されていた。
- ↑ 当時の中日ドラゴンズのホーム用ユニフォームのデザインに近い。
- ↑ 投手:高橋直樹、捕手:加藤俊夫、一塁手:柏原純一、二塁手:富田勝、三塁手:古屋英夫、遊撃手:菅野光夫、外野手:ミッチェル・千藤三樹男で、外野手の残り1枠は阪急の福本豊。
- ↑ この2人は怪我以外の理由で出場辞退した初のファン投票選出選手となった。
- ↑ 但し、前身の後楽園を含め、オープン戦や1981年の日本シリーズなどで使ったケースは多数ある
- ↑ 2011年、日本ハムは従来通り8試合を行う予定をしていたが、東日本大震災による計画停電の影響を受け、3月29日~3月31日の日本ハム主催の3試合が中止となり、その振替試合は全て札幌ドームで行われ、東京ドームでの主催試合は5試合となった。
- ↑ 2005年のオープン戦で、このカードの東京ドームでの試合が組まれたケースはある。
- ↑ ただし、これは実数発表を行うようになった2005年よりも前の数字であり、現在の最大収容人数は47,808人で5万人超にはならない。
- ↑ 「捨てる」決断の価値を体現した北海道日本ハムファイターズ
- ↑ これは、TXN系列自体のゴールデンタイムにおける全国ネット番組の縛りが緩く、まとまったローカル差し替えが容易なためといえる。同じ系列のTVQ九州放送も同様の傾向で福岡ソフトバンクホークスの中継に積極的である。
- ↑ HBCは、パレードの時間帯はTBSの『王様のブランチ』を放送。
- ↑ [1]
関連項目
外部リンク
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