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+ | [[Image:石橋湛山と毛沢東.jpg|thumb||300px|1963年10月1日、中華人民共和国の国慶節の日に、天安門の城楼で石橋湛山元首相夫妻と会見する[[毛沢東]]主席]] | ||
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石橋 湛山 (いしばし たんざん)
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在任期間 | 1956年12月23日 - 1957年2月25日 |
生没年月日 | 1884年9月25日
- |
出生地 | 東京市麻布区芝二本榎 (現・東京都港区) |
出身校 | 早稲田大学 |
学位・資格 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 学士(早稲田大学) |
前職 | 衆議院議員 自由民主党総裁 |
世襲の有無 | 世襲ではない |
選挙区 | 静岡県第二区 |
当選回数 | 衆 |
党派 | 自由民主党 |
花押 | |
石橋 湛山(いしばし たんざん、1884年9月25日 - 1973年4月25日)は日本のジャーナリスト、政治家である。内閣総理大臣。自由民主党総裁。従二位勲一等。
戦前から一貫して日本流の植民地経営を批判し加工貿易立国論を唱え、戦後は日中米ソ平和同盟を主張し政界で活躍した。保守合同後初の自民党総裁選を制して総理総裁となるが、在任2ヵ月弱で脳梗塞を発症して退陣した。
なお湛山は日蓮宗の僧侶として得度してからの名前で、俗名は省三。
目次
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1884年、日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男として生まれた。父の湛誓は、東京大教院(現・立正大学)の助教補(助手)を務めていた。後に総本山身延山久遠寺第81世法主に選ばれた人物である。母・きんは江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋石橋家の娘。石橋家は日蓮宗承教寺の有力な檀家で同寺院内に所在した東京大教院に在学中の湛誓と親しかった。故あって、母方の姓である石橋を名乗った[1]。
1885年、湛誓が郷里山梨県南巨摩郡増穂村(現・同郡増穂町)の昌福寺住職へ転じたため、きんと共に甲府市稲門へと移住した。
1894年、湛誓が静岡市の本覚寺住職に転じることになり山梨県中巨摩郡鏡中条村(旧・同郡若草町、現・南アルプス市)の長遠寺住職である望月日顕(後に身延山久遠寺83世法主)の下で育てられた。以来実質的な親子の関係は絶たれ、幾度となく手紙を出したが父母からの返事はもらえなかったという。湛山自身は「もし望月師に預けられず父の下に育てられたら、あるいはその余に厳格なるに耐えずしくじっていたかもしれぬ。…望月上人の薫陶を受けえたことは一生の幸福であった。そうしてくれた父にも深く感謝しなければならない」と「湛山回想」に記している[2]。
1902年3月、山梨県立第一中学校卒業。4月、第一高等学校受験のため上京。しかし7月の試験は不合格となった。翌年、正則英語学校で学び再度受験したがまたもや失敗し早稲田大学高等予科の編入試験を受け合格、9月に入学した。こうして東京での下宿生活が始まった[3]。
ジャーナリスト時代[編集]
早大を卒業すると毎日新聞社、兵役を経て東洋経済新報社に入社し、主幹・社長を歴任した。
部下の高橋亀吉と共に経済論壇の一翼を担い、金解禁に当たっては新平価での金本位制復帰を主張し、旧平価での復帰や財界整理を主張した勝田貞次や堀江帰一たちや大蔵大臣として金解禁を旧平価で行った井上準之助と論争した。又、加工貿易立国論を唱えて満州の放棄を主張するなど、リベラルな言論人として知られた。
支那事変が勃発してから敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて、長期戦化を戒める論陣を張った。署名記事を書くことが困難だった多くのリベラリストたち(清沢洌など)にも同誌は匿名での論説の場を提供した。石橋や匿名執筆者の論調は常に冷静な分析に基づいており、かつ婉曲・隠微に読者を啓蒙するといった物であったため、同誌は政府・内務省から常に廃刊の標的にされ、インクや紙の配給を大きく制限されながらも『改造』や『中央公論』のような政府によって廃刊される事を免れた。
敗戦直後の1945年8月25日には、論説「更正日本の進路~前途は実に洋々たり」で科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする先見的な見解を述べた。
政界へ[編集]
戦後すぐに日本社会党からも総選挙出馬を誘われたが断り、自由党から総選挙に出馬して落選したが第1次吉田茂内閣では大蔵大臣として入閣した。
大蔵大臣在任時にはデフレーションを制えるためのインフレーションを進め、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進した。
しかし戦後補償打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題などでGHQと対立。進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品等の経費も含んでいて日本の国家予算の3分の1を占めていた。このあまりの巨額の負担を下げる様、石橋は要求した。アメリカは諸外国の評判を気にしたことと以後の統治をスムーズに進行させることを考慮し、日本の負担額を2割削減することにした。戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は国民から心臓大臣と呼ばれるもアメリカに嫌われ、1947年にGHQの公職追放令により公職を追放された。1951年に追放が解除された後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山一郎派の幹部として打倒吉田内閣に動いた。
1954年の第1次鳩山内閣で通商産業大臣に就任した。石橋は中華人民共和国、ソビエト社会主義共和国連邦との国交回復などを主張し国民の期待も高かったが、アメリカの猛反発を受ける。アメリカのダレス国務長官は「中共(中華人民共和国)、ソ連との通商関係促進はアメリカ政府の対日援助計画に支障をきたす」と通告してきた。このアメリカの強硬姿勢に動揺した鳩山一郎首相に対し、石橋は「アメリカの意向は無視しましょう」と言った。1955年11月、日中輸出入組合の結成を支援し中共との貿易が軌道に乗るようになる。
同年11月15日の保守合同により、鳩山の日本民主党と吉田を継承した緒方竹虎の自由党が合同して自由民主党が結成され、石橋もこれに入党した。
総理総裁[編集]
1956年10月19日に日本とソビエト連邦が日ソ共同宣言により国交正常化するも、同年12月、鳩山首相が引退。これを受けてアメリカ追従を主張する岸信介が総裁選に立候補、これに対し石橋は社会主義圏とも国交正常化することを主張、鳩山派の一部を石橋派として率いて立候補した。総裁選の当初は岸優位であったが、石井光次郎と2位・2位連合を組んだ。1回目の投票では岸が1位であったが、決選投票では石橋派参謀の石田博英の功績もあって岸に7票差で競り勝って総裁に当選、12月23日に内閣総理大臣に指名された。しかし組閣が難航したため、石橋自身が一時的に全閣僚の臨時代理・事務取扱を兼務して発足している。親中派でもある石橋政権の樹立によって日本を反共の砦としたいアメリカのアイゼンハワー大統領は岸を望んでいたために狼狽したという。
内閣発足直後に石橋は全国10ヵ所を9日間でまわるという遊説行脚を敢行、自らの信念を語るとともに有権者の意見を積極的に聞いてまわった。しかし帰京した直後に自宅の風呂場で倒れる。軽い脳梗塞だったが、報道には「遊説中にひいた風邪をこじらせて肺炎を起こした上に、脳梗塞の兆候もある」と発表した。副総理格の外相として閣内に迎えられていた岸がただちに総理臨時代理となったが、2ヵ月の絶対安静が必要との医師の診断を受けると石橋は「政治的良心に従う」と潔く退陣した。在任65日。国会で一度も演説や答弁をしないまま退任した日本国憲法下初めての首相となった。後任の総理には全閣僚を引き継ぐ形で岸があたった。
石橋はかつて『東洋経済新報』で、暴漢に襲われて帝国議会への出席ができなくなった当時の浜口雄幸首相に対して退陣を勧告する社説を書いたことがあった。もし国会に出ることができない自分が首相を続投すれば、当時の社説を読んだ読者をあざむく事態になると考えたのである。
退陣後[編集]
幸い脳梗塞の症状は軽く、若干の後遺症は残ったものの石橋はまもなく政治活動を再開するまでに回復した。
1959年9月、岸より「同盟国アメリカの意思に反する行為であるため日本政府とは一切関係ないものとする」と言われながらも中共を訪問。政府の一員ではない石橋は訪問してから数日はなかなか首脳と会える目処はつかなかったが、交渉に苦労の末、同月17日周恩来首相との会談を実現させた。冷戦構造を打ち破り、日本がその掛け橋となる日中米ソ平和同盟を主張。この主張はまだ国連の代表権を持たない中共にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意。周は台湾(中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束。「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」との石橋・周共同声明を発表した。1960年、中共との貿易が再開した。この声明が後に第1次田中角榮内閣での日中共同声明に繋がったともいわれる。
その後も少人数ながら石橋派の領袖として影響力を持ち、岸が主導した日米安保条約改定には批判的な態度をとるなど自民党内鳩派の重鎮として活躍したが1963年の総選挙で落選し、そのまま政界から退いた。
年譜[編集]
- 1884年9月:東京市麻布区芝二本榎(現・港区)に生まれる
- 1885年3月:父が山梨県南巨摩郡増穂村の昌福寺住職に転じたことに伴い母と共に甲府市稲門に転居
- 1894年9月:父が静岡市の本覚寺住職就任のため山梨県鏡中条村の長遠寺住職望月日謙に預けられる
- 1895年4月:山梨県立尋常中学校入学
- 1902年3月:省三を湛山と改名。山梨県立第一中学校卒業
- 1903年9月:早稲田大学高等予科に編入
- 1904年9月:早稲田大学大学部文学科(現・文学部)哲学科へ進級。当時の校長は鳩山和夫
- 1907年7月:早稲田大学大学部文学科を首席で卒業(英文科を含む)。特待研究生として宗教研究科へ進級
- 1908年7月:宗教研究科修了。島村抱月の紹介で東京毎日新聞社入社
- 1909年
- 8月:東京毎日新聞を退社
- 12月:東京麻布の歩兵第3連隊に入営
- 1910年11月:軍曹に昇進し除隊
- 1911年
- 1月:東洋経済新報社に入社。『東洋時論』編集を担当
- 9月:見習い士官として3ヶ月召集を受ける
- 1912年11月:岩井うめと結婚。岩井家は江戸時代、米沢藩士として家老職を務めた家柄
- 1913年:陸軍歩兵少尉
- 1915年11月:東洋経済新報社の合名社員に選ばれる
- 1924年
- 9月:鎌倉町議会議員に当選(~1928年8月)
- 12月:東洋経済新報社第五代主幹に就任
- 1925年1月:東洋経済新報社代表取締役・専務取締役に就任
- 1935年9月:内閣より内閣調査局委員に任ぜられる
- 1940年11月:東洋経済研究所を設立し所長ならびに理事に就任
- 1941年2月:東洋経済新報社の社長制新設にともない代表取締役社長に就任
- 1945年3月:早朝の大空襲で芝の居宅焼失
- 1946年
- 1947年
- 4月:静岡県第2区より立候補し初当選
- 5月:公職追放となる
- 1951年
- 1953年3月:政策審議会会長に就任
- 1954年
- 11月:岸信介とともに自由党より除名処分を受ける
- 12月:第1次鳩山一郎内閣の通商産業大臣に就任
- 1956年12月:自由民主党第2代総裁に当選、内閣総理大臣に就任
- 1957年
- 1月:脳梗塞発症(公式発表は老人性急性肺炎)
- 2月:自民党総裁・総理大臣辞職
- 1959年9月:中華人民共和国を訪問し、周恩来と会談
- 1963年
- 9月:日本工業展覧会総裁として中華人民共和国を訪問
- 11月:第30回衆議院議員総選挙で落選、政界引退
- 1964年9月:ソビエト連邦を訪問
- 1968年:立正大学学長を退任
- 1973年4月:死去
エピソード[編集]
石橋が首相を退陣した時にその潔さを国民は高く評価したが、一人弁護士の正木ひろしだけは私的な感情で「公務(首相の地位)を放棄した」と厳しく批判した。
その後、石橋の全集が作られる事になった時に東洋経済新報社の編集者は全集に封入するコラムの執筆をその正木に依頼した。かつて石橋の部下であったその編集者は、石橋への賛美一色のコラムを集めたのでは一方の意見に偏らない言論の必要性を唱えて来た石橋の信念に反すると考えたのである。正木が書いた石橋への批判はそのまま掲載される事になった。
著書[編集]
評論集[編集]
- 石橋湛山評論集(松尾尊兌・編、岩波書店、岩波文庫:ISBN 4-00-331681-9、ワイド版岩波文庫:ISBN 4-00-007005-3)
- 小日本主義-石橋湛山外交論集(増田弘・編、1984年5月、草思社、ISBN 4-7942-0186-9)
- 石橋湛山評論選集(1990年6月、東洋経済新報社、ISBN 4-492-06052-9)
- リベラリストの警鐘 石橋湛山著作集1-経済論(長幸男・編、1995年11月、東洋経済新報社、ISBN 4-492-06081-2)
- エコノミストの面目 石橋湛山著作集2-経済論(中村隆英・編、1995年11月、東洋経済新報社、ISBN 4-492-06082-0)
- 大日本主義との闘争 石橋湛山著作集3-政治・外交論(鴨武彦・編、1996年1月、東洋経済新報社、ISBN 4-492-06083-9)
- 改造は心から 石橋湛山著作集4-文芸・社会評論(谷沢永一・編、1995年12月、東洋経済新報社、ISBN 4-492-06084-7)
- 石橋湛山全集(石橋湛山全集編纂委員会・編、全15巻、東洋経済新報社、ISBN 4-492-06010-3ほか)
回想録・日記[編集]
- 湛山座談(1994年2月、岩波書店、ISBN 4-00-260173-0)
- 湛山回想(1985年12月、岩波書店、ISBN 4-00-331682-7)
- 石橋湛山―湛山回想 人間の記録47(1997年12月、日本図書センター、ISBN 4-8205-4290-7)
- 石橋湛山日記(上下巻、石橋湛一ほか・編、2001年3月、みすず書房、ISBN 4-622-03676-2)
- 単品としては、上巻:ISBN 4-622-03677-0、下巻:ISBN 4-622-03678-9であるが、新刊の分売はない模様。
参考文献[編集]
- 増田弘 『石橋湛山 リベラリストの真髄』 1995年 中央公論社
栄典[編集]
家族・親族[編集]
脚注[編集]
関連項目[編集]
関連人物[編集]
外部リンク[編集]
歴代内閣総理大臣 | |||||
第54代 鳩山一郎 |
第55代 1956年 - 1957年 |
第56代 岸信介 | |||
第代 [[]] |
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高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 |
廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 |
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歴代の財務大臣(大蔵大臣) |
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歴代の郵政大臣 |
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