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中曾根 康弘(なかそね やすひろ、新字体では中曽根 康弘とも、1918年(大正7年)5月27日 - 2019年(令和元年)11月29日)は、日本の政治家。第71 - 73代内閣総理大臣(在任:1982年11月27日 - 1987年11月6日)。
目次
人物[編集]
衆議院議員連続20回当選(1947年~2003年)。位階勲等は従六位大勲位。
現職は財団法人「世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長・理事長、名誉総長、東アジア共同体評議会会長。新憲法制定議員同盟会長。
職歴は内務省、大日本帝国海軍を経て、内務省に再勤、退官後、衆議院議員選挙に立候補。 以来、中曾根派を形成するなど自由民主党内で頭角を現し、科学技術庁長官をはじめとして運輸大臣、防衛庁長官、通商産業大臣、行政管理庁長官などの閣僚経験を経て、内閣総理大臣となる。
2004年7月19日に鈴木善幸が亡くなったことにより最年長の首相経験者であり、昭和の総理大臣の最後の生存者となった。
身長は178cmであり、歴代の内閣総理大臣の中では第二位である(第一位は180cmの大隈重信)。 総理大臣就任時に発達障害者支援法を制定して施行されなかった為に就職氷河期を起こしたA級戦犯の主犯格です!!
略歴[編集]
- 1918年(大正7年)5月27日 - 群馬県高崎市末広町に生まれる。
- 1935年(昭和10年) - 旧制高崎中学(現・群馬県立高崎高等学校)4年修了。
- 1938年(昭和13年) - 官立静岡高等学校(現・静岡大学)文科丙類卒業。
- 1941年(昭和16年) - 東京帝国大学法学部政治学科を卒業後内務省に入るが、海軍短期現役制度により海軍主計中尉に任官。広島の呉鎮守府に配属され第二設営隊の主計長に任命される。終戦時は海軍主計少佐。終戦後、内務省に復帰。
- 1946年(昭和21年) - 内務省を依願退職。
- 1947年(昭和22年) - 第23回衆議院議員総選挙で立候補、初当選。
- 1953年(昭和28年) - ハーバード大学の夏期セミナーに留学。少壮教授だったキッシンジャーが責任者であった。
- 1954年(昭和29年)- 3月、日本で初めて「原子力予算」を国会に提出し成立させる。正力松太郎にこの頃近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。共に政界における原発推進の両軸となる。
- 1959年(昭和34年) - 第2次岸内閣改造内閣の科学技術庁長官として入閣。原子力委員会の委員長に就任。
- 1966年(昭和41年) - 旧河野派が分裂し、中曾根派が結成される。
- 1967年(昭和42年) - 第2次佐藤内閣第1次改造内閣の運輸大臣に就任。 第12代拓殖大学総長に就任。(昭和46年まで。現・拓殖大学名誉総長)
- 1970年(昭和45年) - 第3次佐藤内閣で防衛庁長官となる。
- 1971年(昭和46年) - 第3次佐藤内閣改造内閣で自民党総務会長に就任。
- 1972年(昭和47年) - 第1次田中角榮内閣の通商産業大臣に就任(科学技術庁長官兼務)
- 1972年(昭和47年) - 第2次田中角榮内閣で通産大臣専任となる。
- 1974年(昭和49年) - 三木内閣で幹事長に就任。
- 1977年(昭和52年) - 福田赳夫内閣改造内閣でまた総務会長となる。
- 1978年(昭和53年) -自由民主党総裁選挙に初出馬する。
- 1979年(昭和54年) - 総選挙の敗北を受けた「四十日抗争」時には大平正芳首相に対して退陣を要求する。
- 1980年(昭和55年) - 鈴木内閣の行政管理庁長官に就任。
- 1982年(昭和57年) - 第71代内閣総理大臣に就任。第1次中曽根内閣を発足。国鉄、電電公社、専売公社の民営化を行う。外務大臣に安倍晋太郎を起用。
- 1983年(昭和58年)- 第2次中曽根内閣発足。内閣官房長官に藤波孝生、文部大臣に森喜朗を任命。
- 1984年(昭和59年) - 第2次中曽根内閣第1次改造内閣発足。内閣官房副長官に山崎拓を抜擢した。
- 1985年(昭和60年) - 第2次中曽根内閣第1次改造内閣発足。農林水産大臣に羽田孜を、自治大臣に小沢一郎を起用する。プラザ合意により、円高を容認。12月には内閣改造を行なう(第2次中曽根内閣第2次改造内閣)。
- 1986年(昭和61年) - 衆参同日選で大勝。第3次中曽根内閣発足。大蔵大臣に宮澤喜一を、運輸大臣に橋本龍太郎を任命。
- 1987年(昭和62年) - 売上税の導入失敗が原因で支持率が急降下するが、やがて人気を取り復した。竹下登を後継総裁に指名して退陣。
- 1989年(平成元年) - リクルート事件に関連して自民党から離党。
- 1990年(平成2年) - 派閥を渡辺美智雄に譲る。
- 1991年(平成3年) - 自民党に復党。
- 1996年(平成8年) - 比例区の終身一位となる。
- 1997年(平成9年) - 大勲位菊花大綬章を受章。
- 1999年(平成11年) - 江藤隆美、中尾栄一、与謝野馨、村上正邦、佐藤静雄らで構成する中曾根派と亀井静香率いる亀井グループが合併し村上(江藤)・亀井派を結成。中曾根は最高顧問に就任。
- 2001年(平成13年) - 森首相退陣後の総裁選に出馬した亀井静香に総裁選辞退を進言し、亀井はこれを受諾する。
- 2003年(平成15年) - 小泉純一郎首相から定年制導入のために引退を要請され、当初は反対するも最終的には政界から引退。
プロフィール[編集]
出生から大学卒業・内務省入省まで[編集]
群馬県高崎市に父・中曾根松五郎 母・ゆくの次男として生まれた。生家は関東有数の材木問屋「古久松」である。敷地は3ヘクタール(3万平方メートル)もあってそこに住居と工場があり、働いている職人が中曾根の学生時代には150人、住み込みの女中が20人ぐらいは常時いた豪商だった。
地元の小学校へ進学後、旧制高崎中学、旧制静岡高校を経て東京帝国大学法学部政治学科へ進む。
同大学を卒業後、内務省に入省。同期入省組に早川崇や小沢辰男、大村襄治らがいた。
海軍時代[編集]
短期現役制度に応募し、1941年(昭和16年)8月に大日本帝国海軍の経理学校にて初任教育を受ける。海軍主計中尉に任官、海軍主計科士官となって連合艦隊に配属されると、第一艦隊第六戦隊の旗艦である巡洋艦青葉に乗艦し、高知県の土佐湾沖の太平洋上で猛訓練を受けた。
同年11月20日に転勤命令が下り、広島県呉市の司令部に緊急配属されると、第二設営隊の主計長に任命され、参謀長より、工員2000名に多少の陸戦隊をつけて、敵の飛行場を奪取し、すぐに零戦を飛べるようにしろとの命令を受ける。この時の目的地と物資の量は「蘭印(インドネシア)三ヵ月分、比島(フィリピン)三ヵ月分」だった。それから出航する29日までは、昼間は編成に明け暮れ、夜は積み込みの指揮で、ほとんど寝る暇もなかったという。
29日は予定通り、14隻の船団で出航。中曾根は「台東丸」に乗船。この船にはかなりの刑余者(前科のある者)がおり、大学を出て海軍で短期訓練を受けただけだった中曾根は一計を案じ、全員を甲板に集めた。この中から一番凄そうな親分肌の者を選んで班長にすると、後で自らの部屋である主計長室にその男を呼んだ。そして、やってきた古田と名乗る前科八犯の男と酒を酌み交わし、人心掌握に努めた。
1941年12月7日に太平洋戦争に突入すると、最初はフィリピンのミンダナオ島のダバオに敵前上陸することとなる。上陸戦闘は獰猛なモロ族と闘い、アメリカ軍のボーイングB-17爆撃機の猛爆撃を受けた。また明け方近くになると、決まってB-17がやってきたという。
次にボルネオ島のバリクパパンに向かうのだが、途中のマカッサル海峡で14隻のうち、4隻が撃沈される。そしてようやくバリクパパンの湾に入って上陸しようとしたら、オランダとイギリスの巡洋艦から、いきなり攻撃を受けてしまう。こちらには軽巡洋艦神通がついていたが、船団の中に取り込まれてしまって身動きが取れない状態だった。中曾根が乗船している前後左右の4隻は、あっという間に撃沈されてしまい、さらに接近してきた敵艦から副砲や機関銃で攻撃され、それが船尾に当たり火災が発生してしまう。
消火班長でもある中曾根は飛んでいって火消しを行うが、そこは阿鼻叫喚の地獄絵図になっており、手や足が吹っ飛んでいるもの、血だるまになり「助けてくれ」とうめくもの。そしてどこからか「古田班長がやられている」という声に誘われて行ってみると、古田が誰かに背負われていた。足は砲弾にやられて皮一枚でようやくつながっており、中曾根に「隊長、すまねえ」とだけいうと、すぐに息を引き取った。この戦いで戦死した仲間達の遺体は、バリクパパンの波が打ち寄せる海岸で、荼毘(火葬)に付した。中曾根はそのときの思いを俳句にして詠んでいる。
友を焼く 鉄板を担ぐ 夏の浜
夏の海 敬礼の列の 足に来ぬ
当時の経験を振り返り、中曾根はこう語った。
- 「彼ら、戦死した戦友をはじめ、いっしょにいた二千人は、いわば日本社会の前線でいちばん苦労している庶民でした。美辞麗句でなく、彼らの愛国心は混じり気のないほんものと、身をもって感じました。『私の体の中には国家がある』と書いたことがありますが、こうした戦争中の実体験があったからなのです。この庶民の愛国心がその後私に政治家の道を歩ませたのです」
中曽根はその後も主計将校として従軍し、1944年10月の「捷一号作戦」(いわゆる「レイテ沖海戦」)には戦艦「長門」乗組みの主計士官として参加し、戦闘記録の作成に当たっている。
終戦時の階級は海軍主計少佐であった。
政治家への転身[編集]
少壮議員時代[編集]
戦後内務省に復帰し、 内務大臣官房事務官、香川県警務課長、警視庁警視・監察官を務める。その後退官し、1947年衆議院議員選挙に当選。以後1955年の保守合同までの所属政党は、民主党、国民民主党、改進党、日本民主党。この間、自主憲法制定や再軍備を標榜する反吉田勢力として、多くの期間を野党議員として過ごしている。
保守合同に際しては、長らく行動を共にした北村徳太郎が旧鳩山派である河野一派に合流したことから、河野派に属した。岸信介改造内閣において、渡邊恒雄を介して大野伴睦の支持を受け、科学技術庁長官として初入閣。党内で頭角を現し、河野派分裂後は中曾根派を形成し一派を率いた。
1956年には「憲法改正の歌」を発表するなど、改憲派として活発に行動し、マスコミからは青年将校と呼ばれた。同年11月27日の日ソ共同宣言を批准した衆議院本会議において、自由民主党を代表して同宣言賛成討論を行なったが、内容はソ連に対する厳しい批判だったりしたため、社会党や共産党が抗議、その結果、約50分間の演説全文が衆議院議事録から削除される異例の出来事もあった。
初当選した選挙で白塗りの自転車に日の丸を立てて運動をしたことはよく知られているが、若い頃から総理大臣を目指すことを公言し、憲法改正や首相公選論の主張など大胆な発言やパフォーマンスを好んだことや、同世代の日本人としては大柄な体躯や端正な風貌もあって、早くから存在感を示していた。なお、既に1965年には福井県の九頭竜ダム建設をめぐる落札偽計事件(九頭竜川ダム汚職事件)に名前が挙がるなど、疑惑とも無縁でなかった。
三角大福中[編集]
第2次佐藤内閣第1次改造内閣で運輸大臣、第3次佐藤内閣で防衛庁長官を歴任。運輸大臣として入閣した際にはそれまで佐藤を「右翼片肺内閣。」と批判していたのにもかかわらず入閣したため風見鶏と揶揄され以後これが中曽根の代名詞になった。防衛庁長官時代には三島事件を批判する声明を防衛庁長官として出したが三島に近い一部保守系団体や民族派勢力右翼団体等から強く批判された。(中曽根は自著の中で「三島と親しいように思われていたが深い付き合いがあったわけではない」と釈明している)、1972年には、殖産住宅事件では株取得で証人喚問される。翌年脱税容疑で逮捕された殖産住宅相互の東郷民安社長は旧制静岡高校時代からの友人であったため、親友も見殺しにすると囁かれた。
こうして要職を経験するなかで、いわゆる「三角大福中」の一角として、ポスト佐藤の一人とみなされるようになっていった。佐藤後継を巡る1972年の総裁選に際しては、野田武夫ら派内の中堅、ベテラン議員や福田支持派から出馬要請を受けるが、日中問題で福田の姿勢に不満を抱いていた派内の河野洋平を始めとする若手議員が田中角栄支持に傾いていた事等から自らの出馬を取り止め、田中支持に回った。このことは田中が福田に勝利するにあたり決定的な役割を果たしたが、角栄の買収等と後に週刊誌に憶測を呼ぶ事にもなった。
第1次田中角栄内閣の通商産業大臣兼科学技術庁長官となり第2次内閣では科学技術庁長官の任を離れ通産大臣に専任となる。三木内閣時代、自由民主党幹事長となり、福田赳夫内閣の総務会長を務めるなど党内の要職も務める。三木おろしの際には三木以外の派閥領袖としては事実上唯一の主流派となった。
1976年(昭和51年)、ロッキード事件への関与を疑われ、側近の佐藤孝行が逮捕されたが、自らの身には司直の手は及ばなかった。ここでも悪運の強さが幸いしたとされる。刑務所の塀には登るがそこから落ちないと揶揄された。同年の衆院選では事件との関係から落選すら囁かれたが、辛うじて最下位で当選した。1978年に「明治時代生まれのお年寄りがやるべき時代ではない」と世代交代を訴える形で総裁選挙に名乗りをあげるが落選し、大平内閣では反主流派に位置したが、ハプニング解散の際には派内の強硬論に耳を貸さず早くから本会議での造反に反対するなど三木・福田とは温度差があった。大平後継では本命の一人だったが、当時は田中角栄の信頼を勝ち得ておらず、総裁の座を逃した。
鈴木内閣では主流派となるとともに、行政管理庁長官として行政改革に精力を注ぎ鈴木首相の信頼を得る。中曽根自身は蔵相ポストを希望していたものの、よりによって派の後輩の渡辺美智雄にその座を攫われるという屈辱を味わう。ところが、図らずも鈴木内閣の下で行政改革にスポットライトが当たる結果となったため、行政管理庁長官として職務に励み、首相就任後分割民営化等の答申をする事になる土光敏夫の信頼も得る事になった。
総理大臣就任[編集]
長期政権[編集]
田中派の支持も得た中曾根は党員による総裁予備選挙において圧倒的な得票を得て総裁の地位を獲得、1982年(昭和57年)に第72代内閣総理大臣に就任。行政改革の推進と「戦後政治の総決算」を掲げ1987年(昭和62年)まで一国の総理の座にあり小泉内閣に次ぐ歴代第4位の長期政権となる。従来の官僚頼みの調整型政治を打破し私的諮問機関を多数設け首相というより大統領型のトップダウンを標榜した政治姿勢は注目された。ただし、政権発足初期は、総裁派閥から出すのが常識だと思われていた内閣官房長官に田中派の後藤田正晴を起用し、党幹事長に同じく二階堂進を据え、その他田中派閣僚を7人も採用するなど、田中角栄の影響力の強さを批判され「田中曽根内閣」「直角内閣」などと揶揄された。一方で改憲こそ首相在任中は明言しなかったが、“戦後政治の総決算”を掲げ、教育基本法や“戦後歴史教育”の見直し、靖国神社公式参拝、防衛費1%枠撤廃等の保守色が強い姿勢により左派勢力から猛反発を買い、「右翼片肺」「軍国主義者」「総決算されるべきは戦後ではなく自民党」等といった激しい批判を浴びた。ただし教育改革については自身のの私的諮問機関である臨教審に日教組元委員長の槙枝元文 を入れた事が1988年に内示された所謂ゆとり教育に繋げられたという見方も存在している。石川忠雄、加藤寛、勝田吉太郎、小堀桂一郎等の所謂お気に入りの御用学者を諮問機関では重用した。
1986年の三原山噴火では首相権限で巡視船や南極観測船を出動させて島民の救出に成功。野党や国土庁の官僚からは非難されたものの、当時のスタッフであった佐々淳行等は後年の阪神大震災での村山内閣の対応の遅れと比較してその決断力と実行力を高く評価している。
また広島市の原爆病院視察の際の「病は気から」発言や「黒人は知的水準が低い」「日本に差別されている少数民族はいない」、その発言について中曾根事務所が出した謝罪文に関しての質問に、女性蔑視と取られるような「まあ女の子が書いた文章だから。」等の失言で物議を醸す事も多かった(これら一連の事象については知的水準発言を参照)。
1983年の第37回衆議院議員総選挙、1986年の第38回衆議院議員総選挙では現職首相でありながらトップ当選できなかった(当時は中選挙区制)。これは歴代首相で中曾根だけ。トップ当選したのはいずれも福田赳夫元首相で、首相経験者同士が同じ選挙区(旧群馬3区)で対決したことになる。
中選挙区時代の旧群馬3区は、福田のほかに同じく首相を務めた小渕恵三や社会党書記長などを務めた山口鶴男といった大物がそろった日本でも有数の激戦区でもあった(上州戦争を参照のこと)。なお、日本において現職首相が選挙で落選したことは過去に一度もない(首相経験者が落選した例は片山哲や石橋湛山、海部俊樹の例がある)。
任期後半には田中の影響を脱するとともに、バブル経済につながる好景気を演出し、支持率も概ね高水準を維持した。貿易摩擦問題も浮上したが、プラザ合意で円高路線が合意された後の内需拡大政策として民活(民間活力の意)と称し国有地の払い下げ等を行い、地価が高騰しそれに対する金融引締め政策を行わなかったためバブル経済を引き起こしたという批判も根強い。
外交[編集]
日米関係[編集]
1982年11月当時、日米関係は最悪と呼べる状態だった[1]。時代背景は、ソ連が大陸間弾道ミサイルSS20をヨーロッパに配備して、それに対抗する形でアメリカはパーシングIIを配備しようと計画しており、東西冷戦構造が一段と厳しさを増し、一触即発の事態にもなりかねない核の脅威の中で、西側の首脳達は厳しい外交の舵取りを行っていた。そんな中、アメリカのロナルド・レーガン大統領は、アジアがまったく無防備であることを念頭において、日米共同宣言の中で「日米で価値観を一体にして防衛にあたる」とした。
1981年5月、当時の首相である鈴木善幸は、初めて『シーレーン千海里防衛術』を公表するが、渡米の帰りの機中で「日米安保条約には軍事的協力は含まれない」と発言し、帰国後には「日米同盟に軍事的側面はない」と語って、共同声明に対する不満を表明してしまい、アメリカの世論を怒らせた。
そして参議院本会議では、伊東正義外務大臣と日米同盟の解釈をめぐって対立し、伊東正義外務大臣が辞任するという前代未聞の事態にまで発展してしまう。これに武器技術供与の問題が重なる事となる。大村襄治防衛庁長官がワシントンでワインバーガー国防長官と会談した際に、アメリカ側から武器技術供与は同盟国に対しては「武器輸出三原則」の枠外にしてほしいと頼まれていたのに、鈴木首相はこれに対応しなかった。
おまけに伊東正義外務大臣の後任である園田直が、韓国との関係まで損なう事件まで起こしてしまう。事の経緯は、韓国が、防衛および安全保障に絡み、5年間で60億ドルのドルの政府借款要請したことに対して、園田は経済協力の切り離しを要求して40億ドル以下に削減、その上「資金をもらう方が出す方に向かって、びた一文安くすることはまかりならんと言うのは筋違いだ」というような発言をしてしまい、韓国の反発を招く。中曾根は総理になる前から、最初にこれらの問題を解決してしまおうと密かに計画する。
1983年1月の訪米にあたって、直前に韓国を訪ね、急ぎ日韓関係の修復を図り、アメリカが御執心だった防衛費の増加と対米武器技術供与の問題は、中曾根の判断で反対する大蔵省主計局と内閣法制局を押し切って問題を決着させた。これらの成果を手土産に、中曾根は首相になって初めての訪米の途についたのである。
訪米中に中曾根が語ったとされる「日本は不沈空母である」「日米は運命共同体」発言、さらには三海峡(千島・津軽・対馬)封鎖発言により、アメリカとの信頼関係を取り戻し、ロナルド・レーガン大統領との間に個人的な親密関係(「ロン・ヤス」関係)を築くことにも成功して日米安全保障体制を強化した[2]。しかし、これは、米国への隷従と取るむきもあり、また、“ヤスはロンの使い走り”(Messenger boy)と批判されることもある。また、日米の通商、経済摩擦が深刻化したため、アメリカの貿易赤字に対処するために日本国民に輸入品の購入(特にアメリカ製品を最低100ドル分 当時の為替レートで1万3千円相当)を呼びかけるなど、アメリカの要求には素直に同じたりもした。この時の広告が「輸入品を買って、文化的な生活を送ろう」だった。
マイナス面として、自民党内の講演で「アメリカの知的水準は非常に低い」と発言してしまい、アメリカ下院に中曾根非難決議案が提出される一幕もあったが、この決議は首相の陳謝により後に取り下げられている。
不沈空母発言の真相[編集]
ワシントン・ポストの外交記者ドン・オーバードーファーの質問に「日本の防衛のコンセプトの中には海峡やシーレーンの防衛問題もあるが、基本は日本列島の上空をカバーしてソ連のバックファイアー爆撃機の侵入を許さないことだと考えている。バックファイアーの性能は強力であり、もしこれが有事の際に日本列島や太平洋上で威力を発揮すれば日米の防衛協力体勢はかなりの打撃を受けることを想定せざるを得ない。したがって、万一有事の際は、日本列島を敵性外国航空機の侵入を許さないように周辺に高い壁を持った船のようにする」と答えたものを通訳が「unsinkable aircraft carrier」つまり「不沈空母」と意訳したのだった。
後日オーバードーファーから、中曾根の秘書官に電話が入り、録音テープを調べなおしたが「不沈空母」なる言葉がなかったので、正確な内容をもういちど記載すると言ってきたが、中曾根は即座に訂正の必要はない、と答えさせた。
ウィリアムズバーグ・サミット[編集]
中曾根は、1983年5月に開かれたウィリアムズバーグ・サミットに出席している。議題の中心は、ソ連がヨーロッパで中距離核ミサイルSS20を展開したことに対し、アメリカがパーシングIIクルーズ・ミサイルを配備すべきか否か、であった。
だが、前向きな姿勢なのは、アメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相のみで、フランスのミッテラン大統領、西ドイツのコール首相、カナダのトルドー首相などは消極的な姿勢をとり、会議はいまにも決裂しそうな気配を見せていた。
そうした状況の中、中曾根は敢然と発言する。「日本はNATOの同盟国でもないし、平和憲法と非核三原則を掲げているから、従来の方針では、こういう時は沈黙すべきである。しかし、ここで西側の結束の強さを示してソ連を交渉の場に引きずり出すためにあえて賛成する。決裂して利益を得るのはソ連だけだ。大切なのは、われわれの団結の強さを示す事であり、ソ連がSS20を撤去しなければ、予定通り12月までにパーシングIIを展開して一歩も引かないという姿勢を示す事だ。私が日本に帰れば、日本は何時からNATOに加入したのか、集団的自衛権を認めることに豹変したのかと厳しく攻撃されるだろう。しかし、私は断言したい。いまや、安全保障は世界的規模かつ東西不可分である。日本は、従来、この種の討議には沈黙してきた。しかし、わたしはあえて平和のために政治的危機を賭して、日本の従来の枠から前進させたい。ミッテラン大統領も私の立場と真情を理解し同調して欲しい」これを聞いたみなは沈黙してしまったが、間髪入れずにレーガン大統領が阿吽の呼吸で「とにかく声明の案文を作ってみる」と提案して机上のベルを押すと、すぐさまシュルツ国務長官がレーガンの元に飛んできて、案文の作成を命じられた。
そして、政治声明は、ソ連との間でINF(中距離核戦力)削減交渉が合意に達しない場合は1983年末までに西ヨーロッパにパーシングIIを配備する、また、そのために、サミット構成国、ECに不退転の決意があることが謳われ、経済宣告も当然採択され、インフレなき成長の為の十項目からなる共同指針が示されたのだった。
クレムリンの機密文書[編集]
ソ連が崩壊し、クレムリンの機密文書が出て来た際、ウィリアムズバーグ・サミット直後の1983年5月31日に開かれたソ連指導部の政治局秘密会議での速記録には、ショックの大きさが色濃く反映された記述があり、当時のグロムイコ外相は「領土問題などで、日本に対し多少融和的に出る必要がある」と主張しており、アンドロポフ書記長も「日本との関係で何らかに妥協を図らねばならない。たとえば、戦略的意味を持たない小さな島々の共同開発はどうか」などと発言した記録があった。
このソ連政治局の対日政策の再検討発言は、ウィリアムズバーグ・サミットでの中曾根の発言が、ソ連に深刻な打撃を与えたことを物語っていると言えよう。
日中関係[編集]
以前より総理大臣の靖国神社参拝は恒例であったのだが、中曾根内閣の際に靖国神社参拝問題が持ち上がり、また日米同盟と防衛力の強化につとめたので反中派であったかのような印象もある。この問題が対中関係として際立った印象を与えているのは、中曾根が首相として初めて8月15日に公式参拝をしたこと(8月15日に公式参拝をしたのは中曾根だけである。小泉純一郎は首相在任中の2006年8月15日に参拝しているが、公私の別を明らかにしていない)当時中国共産党指導部の胡耀邦総書記ら親日傾向を持つグループとその反対勢力との権力争いがあり、その中で靖国参拝が問題として浮上、中華人民共和国からの抗議が激しくなっただけであるという見方もある。自身の著書の中で中曾根は「親日派の立場が悪くなることを懸念し靖国参拝を中止した」としており、このことからも在任当時反中派であったとは言い難い。
また中曾根内閣当時、中華人民共和国の鄧小平は、主敵はソビエト連邦であるとし、日米同盟や日本の防衛力整備を歓迎するコメントすら出してもいた。
角福対立時代には一貫して日中国交回復支持の立場をとっていることから、中曾根の姿勢は反中的でも一方的な対中追従でもなく、中華人民共和国を親日化することが目的であったと言える。いわゆる「21世紀委員会」の設立、中華人民共和国からの留学生の多数受け入れと日本人青年の中国訪問事業もその一環だった。
民営化推進[編集]
中曾根内閣は戦後の自民党で最も新保守主義・新自由主義色が濃い内閣であった。日本専売公社、日本国有鉄道および日本電信電話公社の三公社を民営化させる他、長年半官半民であった日本航空の完全民営化を推進させた。
次第に国民からの支持も安定し、1986年(昭和61年)の衆参同日選挙(死んだふり解散)では300議席をこえる圧勝となり、その功により総裁任期が1年延長された。また、経済政策ではアメリカの貿易赤字解消のためプラザ合意による円高ドル安政策をとり、これが結果的に日本をバブル経済に突入させたこともあり、批判の声も少なくない。
退任[編集]
同日選大勝後の中曽根にとって最悪の状態となった。藤尾正行文部大臣が中曽根の自虐史観転換を批判する発言を雑誌に行い罷免され、中曽根自身も「黒人は知的水準が低い。」「日本は単一民族。」「女の子が書いた事だから。」等の失言が問題化しさらに選挙中に「導入しない」と宣言していた売上税を導入しようとしたことから「公約違反」と追及されて支持率が一時的に急落。
1987年(昭和62年)4月の統一地方選を敗北し翌月に売上税は撤回を表明することになるが、選挙の敗北から18日後に行われた日米首脳会談でも準国賓待遇とは裏腹に下院本会議は貿易相手国に黒字減らしを強要する包括貿易法案を290対137の大差で可決した。 さらに、内需拡大と公定歩合の引き下げによるドル支えを露骨に強要した。このためNBCは「中曽根首相は『特別なあいさつ』を受けた」と皮肉っている。しかし、夏を越すと支持率が復活し、同年11月に余力を持ったまま退任する。ニューリーダーと呼ばれた竹下登、安倍晋太郎、宮沢喜一のうちから事実上の後継者指名権を得て竹下を後継に指名(中曽根裁定)した。
中曾根自身の回顧によれば、後継候補に必要な条件として、自身が断念した売上税(消費税)の導入について党内をまとめられる人物、当時容態が悪化していた昭和天皇の不慮に備え、「大喪の礼」を滞りなく行える人物、の2件があり、竹下がもっともふさわしいと判断したという。首相在任1806日は歴代6位(戦後4位)、中曾根内閣は3次4年11ヶ月に及ぶ20世紀最後の長期政権となった。
「印象に残る存在」[編集]
長期政権を務め(ちなみに彼と小泉純一郎を除く近年の首相はことごとく自由民主党総裁の任期を満了できずに退任している)、前述後述される様々な要因によって強い印象を与えたため、国民の間における知名度は極めて高く、また親しまれ、在職当時はアニメ映画『ゲゲゲの鬼太郎 激突!!異次元妖怪の大反乱』に、名前こそ出なかったものの顔がそっくりなキャラクター「首相」が登場したりなどした。ちなみにこの人物も防衛費GNP1%枠内での自衛隊維持を政策として実行していたことが、劇中での側近の台詞によって明かされている。
1990年代後期になってなお、中央の情勢に疎い田舎の住民から現役の総理大臣として健在であると誤解されている冗談があり(当時のバラエティ番組に出演し上京した田舎の青年が首相官邸を見て『あそこに中曽根総理がいるんですかね』と発言し、ツッコミを入れられる一幕があった)、知名度と印象度、存在感の高さがうかがえる。
また、陸上自衛隊の駐屯地へ視察(1泊し隊内生活している隊員と一晩を共にする)した際には、トイレットペーパーを自費で購入している話や事務仕事に使用する筆記具などを自腹で購入している話を聞き、それらを公費で購入するよう関係各署へ働きかけをし、自衛隊員の生活面を向上させた功績がある。そのため、当時の隊員が今でも若手にその話を聞かせるなど印象に残っている存在でもある。
一方でレーガン大統領との緊密さを「ロン・ヤス」関係として国民に強い印象を与えたが、そのコミットの実質は「岸・アイゼンハワー」の関係とは比較にならないとの評価もなされている。
退任後[編集]
1989年にはリクルート事件が直撃。野党は予算審議と引き換えに中曾根の証人喚問を要求したが中曾根はこれを拒否し、竹下政権は竹下自身の不始末も手伝って瓦解した。その後、リクルート事件の責任を取って党を離れるものの復党し1994年の首班指名選挙では村山富市首班に反発し小沢一郎とともに海部俊樹を担ぐが失敗するも党からは貢献度を重視し不処分であった。
鳩山由紀夫が旧民主党を創設した際には「政治は友愛だの何だのと綺麗ごとを言うが中身がなく薄っぺらい。ソフトクリームのようにすぐ解けてしまうだろう。」と酷評しこれが流行語候補になる等話題を集めた。自身は薩長連合になぞらえて保保連合を一貫として主張した。1996年(平成8年)には小選挙区比例代表並立制導入の際、小選挙区での出馬を他の候補に譲る代わりに比例区での終身一位の保証を受ける。
1997年(平成9年)、叙勲。大勲位菊花大綬章受章。同年、第2次橋本内閣改造内閣で腹心の佐藤孝行の入閣を希望したが、結果佐藤は短期間で辞任に追い込まれ、橋本内閣も支持率急低下で大打撃を受けた。中曽根派が山崎拓率いる近未来政治研究会と分裂した後1999年、亀井静香、平沼赳夫率いる亀井派と合併し志帥会となり、最高顧問に就任。竹下登、宮澤喜一とともに本会議場の通称長老席と呼ばれる最後尾に陣取り三人が居眠りをしている写真が老害の象徴として週刊誌や夕刊紙に取り上げられる事もあった。
政界引退後[編集]
2003年自由民主党の比例区における73歳の定年制導入により、2003年の総選挙では、自民党の比例区からの出馬が出来ず、立候補を断念し引退した。
中曾根は中選挙区制から小選挙区制への移行に際し、比例北関東終身1位を約束されていた。しかし「特例をもうけていいのか」と全国の県連などから批判があがり(群馬県連でも世代交代を求める声があった)、小泉純一郎総裁は中曾根と宮沢喜一の両長老に引退を勧告した。一度、党執行部が約束したことを、小泉総裁が一方的に破棄して中曾根に引退勧告したことは、一部で「きわめて非礼なものである」との批判も呼び、中曾根は「政治的テロだ」と強く反発した(詳細は上州戦争を参照)。なお、中曾根は宮沢とともに、第42回衆議院議員総選挙では、特例により比例区定年制対象外となっている。
現在は砂防会館内に個人事務所を設け各種政治活動を行う他、財団法人世界平和研究所の会長も務める。同研究所では中曽根康弘賞を創設し、世界の平和・安全保障に期す研究業績を表彰している。
2005年10月28日、党新憲法起草委員会が新憲法草案を発表した。中曾根が前文小委員長として前文をまとめたが、発表された草案では内容が変更されていた(中曽根原文はより大幅に簡略化された内容となる)。
2007年3月23日午後(ブルームバーグ)における日本外国特派員協会での記者会見で、慰安婦問題について質問され、「日本軍による慰安婦の強制動員事件について、個人的に知っていることは何もない。新聞で読んだことがすべてだ」と語った。また、自身の回顧録で海軍将校だった時にボルネオ島で設営したと書かれている「慰安所」とは兵隊相手の慰安婦による売春が行われていたものではないかとの質問には「徴用した工員たちのための娯楽施設を設営した」、「慰安所は軍人らが碁を打つなど、休憩所の目的で設置した」と説明した[3][4][5]。
2008年9月3日付の読売新聞朝刊に、9月1日に辞任会見を行った福田康夫に関する文章を寄稿。文中で「我々先輩の政治家から見ると、2世、3世は図太さがなく、根性が弱い。何となく根っこに不敵なものが欠けている感じがする」と述べている。
2008年12月7日には自宅で転倒し右肩を骨折して入院したが順調に快復し、2009年3月7日に開かれた鳩山一郎没後50年の会合でも演説するなど活動を続けている。
大連立構想を仲介[編集]
自民党と民主党の大連立を裏で仲介していたと報道されている。
ライフワーク[編集]
「自主憲法制定」をライフワークとしており、防衛力増強や「国労つぶし」など革命指向の労働運動への敵対に力を入れたことから、長く左派・中道派や「護憲派」などからは右派、改憲派の頭目として批判を受けてきた。しかし、小泉総裁との関係が悪化した事から、自民党は新憲法起草委員会で前文小委員長であった中曾根が作成した憲法前文の試案を使用せず、中曾根は身内であった自民党によって憲法改正論議の蚊帳の外へ追い出された。
政治姿勢[編集]
憲法改正[編集]
核武装[編集]
- 日米同盟が破棄された時に備えて日本は核武装の準備をするべきと主張している。
小泉内閣への評価[編集]
- 小泉内閣の最大の功績として「アフガニスタン、イラクでの国際貢献を目的とした自衛隊の海外派遣」を挙げる。
- 最大の失政として「憲政の常道に反し、参議院で否決された郵政民営化法案を成立させようと衆議院を解散したこと」を指摘。
- 「小泉内閣は、私がやったような政治の本道―たとえば財政とか行革とか、教育―ではなくて、道路と郵政をやっただけだ。どちらかと言えばはじっこのことだ。それを劇場政治として面白くやったんだな。俺に言わせれば印象派の政治だ(笑)。」と発言。(R25ロングインタビューVol.202)
保守意識[編集]
戦後政治の生き証人[編集]
松村謙三から「緋縅の鎧を着けた若武者」と賞賛された新人議員時代や、いち早く一派を率いた時代から平成の世まで保守政界の一方の核にあった。保守合同以前は野党、自民党においても反主流時代が長く、保守本流の嫡流とも言える宮澤喜一とは別の意味で、国会や内閣、派閥取引の裏事情を知る生き証人として知られ、本人も長い政治生活を背景とした過去との比較などの発言を度々行う。
とりわけ、保守合同の立役者であり、自民党史上最高の軍師として鳴る三木武吉を比喩として使い、その時代の参謀型・調整型政治家を持ち上げる手段としていた。鈴木内閣時の金丸信に対しては、「三木武吉以来の人材だ!」とおだて上げ、加藤の乱鎮圧後の野中広務には、「三木武吉を超えましたなあ」と褒め上げている。
交友関係[編集]
- ロナルド・レーガン
- レーガンとは互いに「ロン」「ヤス」と呼び合うほどの親密な仲を築き、自著の中でも「たぐい稀な人間的魅力」と評している。
- 1983年1月16日、中曾根がブッシュ副大統領の晩餐会に招待された席上での事、「今回の渡米に同行している次女の美恵子は、小学生だった11歳の時、インディアナ州ミシガンシティのモルト・ウィンスキー氏のお宅にホームスティしたのです。高校時代には互いに1年間、交換留学させました。ウィンスキー家とは20年近い交流が続いてます。今回の渡米に際しても、一家をあげてわざわざワシントンまで駆けつけてくれて、一同抱き合って再会を喜び合ったばかりです。かつて11歳の娘の美恵子をアメリカに送り出すとき、家内と『いつか総理大臣なって渡米する時が来たら、その時は美恵子が通訳をやってくれるといいなあ』と夢見たものですが、その後20数年、政治家として家族とともに幾山河を越え風雪に耐えて、ここワシントンを訪れ、それが今、現実になって感無量です。国と国との関係も、ウィンスキー家と私の家とのように友情と信頼で築き上げたい」この話の途中で中曾根は感情がこみあげ言葉を詰まらせてしまう。これを聞いていたブッシュ副大統領、シュルツ国務長官、ワインバーガー国防長官、ブロック通商部代表、ボールドリッジ商務長官など、並んでいた閣僚がハンカチを取り出して目頭を押さえる一幕があった。翌朝シュルツ国務長官から前夜の話を聞いたレーガン夫妻も目に涙を浮かべたという。
- 1983年1月17日、ワシントンポスト紙の社主だったキャサリン・グラハム女史の朝食会に招かれ、その席上で「日本は不沈空母である」「日米は運命共同体である」と発言したと、ワシントン・ポストは大きく取り上げた。この会食の翌日にレーガンがホワイトハウスの私的な住居で朝食に招き、その時レーガンから「今後はお互いファーストネームで呼び合おう」と言われたという。
- キッシンジャーは「もし政治が可能性の芸術であるならば、レーガンは掛け値なしに一流の芸術家」と発言し、中曾根もこれに同意している。
- マーガレット・サッチャー
- 大英帝国伝統の血を引いた現代宰相で卓抜な能力を備え、強気ながらも一方で女性らしい非常にきめ細やかな繊細さを持っていると中曾根は評した[6]。
- 竹村健一
- 中曾根は竹村を畏友と評し、竹村とは中曾根がまだ、総理・総裁候補だった頃からの付き合い。その当時から「体の中に国家を持っている」政治家として、竹村は中曾根を敬愛し続けているという。「竹村会」という勉強会の一月の全国大会では、毎年中曾根が基調講演を行っている。
- 渡邉恒雄
- 読売新聞会長の渡邉恒雄とは盟友関係にあり、小泉純一郎の推し進めた郵政民営化や靖国神社参拝などには異議を唱えた。
- 田中角栄
- 永遠の競争相手として認めており、代議士会では論戦に明け暮れた仲。同じ1918年5月生まれでもある。
- 胡耀邦
- 『三国志演義』の登場人物のようで、英雄的要素を持ち、度量も視野も広かったと評し、兄弟のような付き合いをした仲だという。
- 1984年9月、「日中友好二十一世紀委員会」が発足。これは胡耀邦と中曾根が「これからの日中関係は、外交辞令ではなく、本音で話し合えるチャンネルを作っておく必要がある」という意図の元に作られたという。
- 全斗煥
- 中曽根首相の就任から間髪を入れない訪韓は、教科書問題が沸騰した直後にという微妙な時期であったが、晩さん会での韓国語でのスピーチや全大統領のカラオケで韓国語の歌を披露するといったパフォーマンスも奏功してか、学生など少数の左翼過激派を除く韓国人一般に好意的に受け止められた。日韓関係はその後、紆余曲折を経ることとなり、全大統領も部下だった盧泰愚が大統領となるや政治力を奪われ、金泳三政権のもとで冷遇された。そうしたなかで中曽根氏が、全氏の来日の際には必ず付き添うなど、過去の盟友に対しての一貫した友情は植民地支配も経験した保守的な韓国人高齢者の間でも好意的に受け止められている。
宗教関連[編集]
- キリスト教
- 中曽根はTV番組に出演した際、「軍隊に入った際にも聖書を持っていった」と述べている。
- 禅
- 中曾根は自著において宗教観を語っており、どの宗教も心の底から信じられないとするが、座禅だけは好んで行っている。また雑誌の読書特集のインタビューで道元『正法眼蔵』を座右の書としていると語った。
- 世界基督教統一神霊協会
- 世界基督教統一神霊協会(統一教会)・国際勝共連合との関係について以下の指摘がある。
- 1992年3月、出入国管理及び難民認定法の規定で日本に入国できなかった統一教会の教祖、文鮮明が特例措置で14年ぶりに日本に入国した際、文鮮明と会談した。
- 1992年9月、統一教会発行「中和新聞」によると、桜田淳子や山崎浩子が参加したことで注目を浴びた1992年の統一教会の合同結婚式に中曾根は元総理の名で祝辞を送ったとされている。
- 1994年8月 勝共連合の幹部の誘いで文鮮明の側近である朴普煕(パク・ポーヒー)と会談。1991年の文鮮明と金日成の会談の報告を受ける。金丸信が(「東京佐川急便事件」で)失脚したので、北朝鮮と日本を結ぶパイプ役をお願いしたとされる。
- 2006年3月21日、千葉県の幕張メッセで開催された統一教会系列の「天宙平和連合 (UPF)日本大会」にその活動趣旨に深い理解を示し、祝電を送ったという。
渾名[編集]
栄典[編集]
位階勲等は平成9年4月29日に大勲位菊花大綬章を授かっている。その他の栄典として従六位、フランスレジオン・ドヌール勲章、ドイツ共和国功績勲章大十字章受章。
称号は名誉博士(ルイ・パスツール大学と高麗大学 またタマサート大学からは政治学)。その他、受けた表彰としては国会議員在職50年表彰などがある
家族・親族[編集]
- 自家
- 妻 蔦子(元明治大学教授小林儀一郎三女)
- 長男 弘文(政治家・外務大臣(麻生内閣))
- 長女 美智子(元明治大学専務理事双川喜一の孫で弁護士双川喜文の長男・文吾に嫁する) - 孫(長女・美智子と双川文吾の息子)の双川正文は中曾根の縁でフジテレビに入社し、現在はバラエティ制作センター勤務のサラリーマンである。
- 二女 美恵子(元NHKアナウンサー、元大阪商船取締役渥美育郎の孫で元鹿島建設(鹿島)名誉会長渥美健夫の長男直紀に嫁する) - 1973年入局 同期アナに宮本隆治、大塚範一
- 他家
系譜[編集]
- 中曾根家
三井高長━━━━博子 ┃ ┏豊田章一郎 豊田喜一郎━━┫ ┗和可子 ┃ ┏斉藤滋与史 ┏斉藤公紀 斉藤知一郎━┫ ┃ ┗斉藤了英━━━╋斉藤斗志二 ┃ ┗斉藤知三郎 ┃ ┃ ┏八重子 (1) ┃ ┏中曾根吉太郎 ┃ ┃ ┃ ┗中曾根康弘━━━┫ ┃ ┃ ┗光子 川上寿一 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━━━川上冽 ┃ 平山信━━━━千枝 (1) ┏中曾根吉太郎 ┃ ┏中曾根弘文 ┃ ┃ 中曾根松五郎━┫ ┃ ┃ ┃双川文吾 ┃ ┃ ┃ ┗中曾根康弘 ┃ ┣━恵吾・正文 ┃ ┃ ┃ ┣━━━╋美智子 ┃ ┃ 小林儀一郎━━━━蔦子 ┃ ┃ ┃ ┗美恵子 ┃ 渥美育郎━━━━渥美健夫 ┃ ┃ ┏渥美直紀 ┣━━┫ ┃ ┗渥美雅也 ┏伊都子 ┃ ┃ ┃平泉渉 ┃ ┃ 鹿島守之助 ┣三枝子 鹿島精一 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━┫石川六郎 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━卯女 ┣よし子 ┃ ┃ ┃ ┃ 鹿島岩蔵━━━いと ┗鹿島昭一 ┃ ┃ ┏公子 梁瀬次郎━━━━┫ ┗弘子 ┃ ┃ 稲山嘉寛━━━━稲山孝英
主な著作[編集]
著書[編集]
- 『青年の理想』(一洋社, 1947年)
- 『日本の主張』(経済往来社, 1954年)
- 『南極』(弘文堂, 1963年)
- 『日本のフロンティア』(恒文社, 1966年)
- 『新しい保守の論理』(講談社, 1978年)
- 『心のふれあう都市-21世紀への提言-』(サンケイ出版, 1980年)
- 『政治と人生-中曽根康弘回顧録-』(講談社, 1992年)
- 『天地有情-五十年の戦後政治を語る-』(文藝春秋, 1996年)
- 『二十一世紀日本の国家戦略』(PHP研究所, 2000年)
- 『自省録-歴史法廷の被告として-』(新潮社, 2004年)
- 『日本の総理学』(PHP研究所[PHP新書], 2004年 )
共著[編集]
- (竹村健一編)『内閣総理大臣中曽根康弘、防衛・憲法を語る-亡国の非武装中立論を撃つ-』(山手書房, 1984年)
- (佐藤誠三郎・村上泰亮・西部邁)『共同研究「冷戦以後」』(文藝春秋, 1992年)
- (宮沢喜一)『対論改憲・護憲』(朝日新聞社, 1997年/朝日文庫, 2000年「憲法大論争 改憲vs.護憲」に改題)
- (石原慎太郎)『永遠なれ、日本-元総理と都知事の語り合い-』(PHP研究所, 2001年/PHP文庫, 2003年)
- (竹村健一)『命の限り蝉しぐれ-日本政治に戦略的展開を-』(徳間書店,2003年)
- (木下義昭編)『戦後60年日本の針路を問う-世界日報30年の視点-』(世界日報社, 2005年)
参考文献[編集]
- 編者 - 週刊ブックス特別取材班『新総理 中曾根康弘の研究』 1982年
- 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 149-152頁
- 広瀬隆 『私物国家 日本の黒幕の系図』 2000年 156、172、190、210、342頁
- 神一行 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』 角川書店 2002年 166-180頁、290-291頁
- 中曽根康弘 『天地有情』
- 本澤二郎 『平成の妖怪中曽根康弘の大野望』
- 『中曽根康弘悪の構図』
関連項目[編集]
- 総理大臣官邸:旧官邸からの建て替えを中曽根内閣で閣議決定
関連人物[編集]
- 渡邉恒雄
- 三宅久之
- 長嶋茂雄 - 一時期中曾根は長嶋所有の家に住んでいた
- 福本豊 - 中曾根内閣からの国民栄誉賞の授与を断った
- 石原慎太郎 - 回顧録では批判しているがその後は共著がある
- 斉藤了英
- 小泉純一郎
- 江藤隆美
- 中尾栄一
- 佐々淳行
- 与謝野馨 - 元秘書
- 村上正邦
- 五島昇 - 東京急行電鉄元会長・社長。生前親交を深めており、東急グループ内の1社を譲渡している。
脚注[編集]
- ↑ 一方で、「総理就任時、日米関係は最悪と呼べる状態だった」「自分(中曽根)が外交関係を改善した」という認識を強く持ち、公式発言でも度々重ねたことが、鈴木善幸を始めとする宏池会の逆鱗に触れ、(鈴木内閣と鈴木善幸本人への非難・皮肉とも受け取れた)二階堂擁立構想を生む原因となる。
- ↑ これ以後、日本国内閣総理大臣から、“アメリカ大統領と、名前で呼び合う親密な関係”を築く事が流行した。後任・竹下登の「ロン・ノブ」、ブッシュと小泉純一郎の「ジョージ・ジュン」など
- ↑ 旧海軍時代に慰安所つくった記憶ない(Bloomberg.co.jp)
- ↑ 慰安婦:中曽根元首相、強制動員を否認(Chosun Online 『朝鮮日報』)
- ↑ 自著『二十三歳で三千人の総指揮官』、関連書『終わりなき海軍』松浦敬紀著、『いま明かす戦後秘史に詳しい』鹿内信隆著)
- ↑ サッチャーの愛国心はかなりのもので、トルコのダーダネルス海峡に架ける橋の工事を日本企業が請け負った際には、サミットの開会前に中曾根の元に来て、英国の勢力圏の仕事を日本が持っていくのはひどいと抗議している。
- ↑ 報道2001において、中曾根が語る先見性を予言者ノストラダムスに見立てて名づけられた。
外部リンク[編集]
官職 | ||
---|---|---|
先代: | 内閣総理大臣 第71・72・73代:1982年 - 1987年
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次代: |
先代: | 行政管理庁長官 第45代 : 1980年 - 1982年
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次代: |
先代: | 通商産業大臣 第34・35代 : 1972年 - 1974年
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次代: |
先代: | 科学技術庁長官 第7代 : 1959年 - 1960年
第25代 : 1972年 |
次代: |
先代: | 防衛庁長官 第25代 : 1970年 - 1971年
|
次代: |
先代: | 運輸大臣 第41代 : 1967年 - 1968年
|
次代: |
党職 | ||
先代: | 自由民主党総裁 第11代 : 1982年 - 1987年
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次代: |
先代: | 自由民主党幹事長 第15代 : 1974年 - 1976年
|
次代: |
先代: | 自由民主党総務会長 第16代 : 1971年 - 1972年
第21代 : 1977年 - 1978年 |
次代: |
先代: 集団指導体制より移行
|
新政同志会会長 初代:1968年 - 1978年
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次代: 改称
|
先代: 改称
|
政策科学研究所会長 初代:1978年 - 1990年
|
次代: |
先代: | 拓殖大学総長 第12代 : 1967年 - 1971年
|
次代: |
歴代内閣総理大臣 | |||||
第70代 鈴木善幸 |
第71・72・73代 1982年 - 1987年 |
第74代 竹下登 | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
伊藤博文 黑田清隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 |
高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 |
廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 |
幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 |
三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曾根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護熙 羽田孜 |
村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 |
歴代の経済産業大臣(通商産業大臣) |
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通商産業大臣 |
稲垣平太郎 - 池田勇人 - 高瀬荘太郎 - 横尾龍 - 高橋龍太郎 - 池田勇人 - 小笠原三九郎 - 岡野清豪 - 愛知揆一 - 石橋湛山 - 水田三喜男 - 前尾繁三郎 - 高碕達之助 - 池田勇人 - 石井光次郎 - 椎名悦三郎 - 佐藤栄作 - 福田一 - 櫻内義雄 - 三木武夫 - 菅野和太郎 - 椎名悦三郎 - 大平正芳 - 宮澤喜一 - 田中角栄 - 中曽根康弘 - 河本敏夫 - 田中龍夫 - 河本敏夫 - 江崎真澄 - 佐々木義武 - 田中六助 - 安倍晋太郎 - 山中貞則 - 宇野宗佑 - 小此木彦三郎 - 村田敬次郎 - 渡辺美智雄 - 田村元 - 三塚博 - 梶山静六 - 松永光 - 武藤嘉文 - 中尾栄一 - 渡部恒三 - 森喜朗 - 熊谷弘 - 畑英次郎 - 橋本龍太郎 - 塚原俊平 - 佐藤信二 - 堀内光雄 - 与謝野馨 - 深谷隆司 - 平沼赳夫 |
経済産業大臣 |
平沼赳夫 - 中川昭一 - 二階俊博 - 甘利明 |
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