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+ | *書籍『超巨人・明の太祖朱元璋』([[呉晗]]著・[[堺屋太一]]ほか訳、[[講談社]]、1989年) | ||
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2011年11月6日 (日) 13:41時点における最新版
朱 元璋(しゅ げんしょう、天暦元年9月18日(1328年10月21日) - 洪武31年閏5月10日(1398年6月24日)、在位:1368年1月23日 - 1398年6月24日)は、中国の明朝の創始者であり、初代皇帝である。廟号は太祖(たいそ)。諡号は開天行道肇紀立極大聖至神仁文義武俊德成功高皇帝。その治世の年号を取って、洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。また、生まれた頃の名は、朱重八(しゅ じゅうはち)といい、後に朱興宗(しゅこうそう)と改名し、紅巾軍に参加する頃にさらに朱元璋と改名し、字を国瑞(こくずい)とした。
生涯[編集]
紅巾の乱[編集]
元末の天暦元年(1328年)、濠州の鐘離(現在の安徽省鳳陽県)の貧農の家の末子に生まれる。伝承によると母親は夢の中で仙人から赤い玉を授かって妊娠し、朱元璋が生まれると家全体が赤く光り輝き、近所の人々が火事であると勘違いして家の周りに集まってきたという。従兄弟も含めて八番目の子であったため、重八と名づけられる(もしくは排行でそのように呼ばれる)。元末の政治混乱に伴い飢饉・凶作が頻発しており、朱元璋の家族は食べるものも無く飢え死にした(流行病で家族を失った説もある)。朱元璋だけは皇覚寺という寺に身を寄せ托鉢僧となり、淮河流域で勧進の旅を続けながら辛うじて生き延びたが、ほとんど乞食同然の生活であった。中国はもとより全世界の帝王・王朝創始者の中でも最も悲惨な境遇から身を起こした人物といわれる所以である。
1351年、白蓮教徒の集団が各地で反乱を起こし、紅巾の乱が勃発した。この大乱により皇覚寺は焼け落ちてしまった。朱元璋は自分の将来を占ってみたところ、紅巾軍に参加することが大吉であると出たため、韓林児を教祖とする東系紅巾軍の一派として濠州で挙兵していた郭子興のもとに身を投じたという。朱元璋は郭子興の下で頭角を現し、養女の馬氏を妻に貰った。これが後の馬皇后である。
朱元璋が郭子興の軍に参加した時、最初は間諜と間違われ、殺されそうになったが、面構えが郭子興に気に入られて、幕下に入ったという逸話がある。それぐらい朱元璋の人相が悪かったとも言えるだろう。朱元璋は他の造反軍がただ食料欲しさに目の前の事しか考えないのに比べ、先のことを考えた行動をとった。自分の出自を逆に活かして貧民の味方という立場を打ち出し、元軍の中の徴兵された農民達を取り込んで勢力を増していった。
この時期、のちに功臣第一となる徐達や勇猛で知られる常遇春や後の謀臣・李善長と出会った。朱元璋は李善長から「乱れた天下を治めるのは貴方である。そのためには同じ農民出身の劉邦の真似をすれば良い」と言われた。これ以降朱元璋の行動は劉邦を意識したものが多くなる。朱元璋が皇帝になる野望を本当に抱き始めたのはこの頃からだろう。
江南の統一[編集]
1355年に郭子興が死ぬと彼の軍は息子の郭天叙、郭子興の妻の弟・張天祐、そして朱元璋の3人に受け継がれた。しかし郭天叙と張天祐の2人は、元軍との戦いで戦死したため(朱元璋による陰謀との説もある)、朱元璋はそれらの軍を吸収し1356年、集慶路(現在の南京)を占領し、応天府と改める。応天府を占領した朱元璋は長江下流の一大勢力となった。朱元璋の名声は大いに高まり各地から劉基、宋濂ら名望家がやって来るようになった。
その頃、長江上流では西系紅巾よりのし上がってきた陳友諒が大漢国をうち立て、湖北から江西の一帯を支配していた。また非紅巾勢力の張士誠も蘇州を本拠に大勢力を築いていた。朱元璋を含めたこの3勢力で当時、中国で最も豊かであるといわれた江南の覇権を争うことになった。1360年、陳友諒は大軍を率いて応天府の目と鼻の先まで進軍し陣を敷いた。その上で張士誠に使者を送り、共に朱元璋を挟み撃ちにするよう促した。応天府では投降、首都放棄を主張する者まで現れるほど混乱したが、劉基が「陳友諒との決戦あるのみ」を主張し、部下の偽りの降伏によって陳友諒の軍を竜湾に引きずり出し勝利することができた。1363年3月、陳友諒は前回の敗北を挽回すべく60万を号する大水軍を率いて南昌を攻撃し、7月、朱元璋も水軍を率いて救援に向かった。これを鄱陽湖の戦いと言う。3日にわたる激戦の後、劉基の献策した火薬を用いた火計が当たり、漢の水軍の殲滅に成功し陳友諒自身も戦死した。翌年に陳友諒の後を継いだ陳理が降伏し大漢国を滅ぼした。
1364年、朱元璋は呉王を名乗った。同じ頃、張士誠も呉王を名乗っており、両者は江南の覇権をかけて激突した。朱元璋は張士誠側の要地を一つ一つ確実に落としていった。1366年に朱元璋は韓林児を応天府に呼び寄せたが、その途中、韓林児は水死してしまった(朱元璋の部下に暗殺されたとも言われる)。これを機会に朱元璋は方針を大きく転換し白蓮教と縁を切り、逆に邪教として弾圧するようになった。1367年、11ヶ月にもおよぶ包囲の末に蘇州に拠る張士誠を討ち、淮南、江南を統一した。
1368年正月、応天府(現在の南京)にて朱元璋は即位し、元号を洪武とし、国号を大明とした。
中国統一[編集]
太祖は元に内紛を生じたのを好機と捉え、20万を越える大軍を竹馬の友である徐達に授け北伐を行わせた。当時元軍の主力であるココ・テムルの軍は陝西で李思斉の軍と交戦中であり、中原の防備は手薄であった。北伐軍は快調に進撃し、山東、河南を次々に平定した。元の順帝は抵抗を諦め首都大都を放棄して北方へ逃走したため、明軍は抵抗を受けることもなく同年の8月に大都を占領し、北平府と改称した。元はモンゴルへ撤退し北元となった。1371年に紅巾の残党である四川の大夏国を滅ぼし、1381年には段氏の雲南を平定し中国を統一した。また北元を討つためモンゴルへ繰り返し出兵し、元の残党の多くを降らせることに成功した。1387年の遠征で北元最後の主力であったマンジュリア軍団を討ち、北元をほぼ壊滅させた。
即位後の政策[編集]
国家組織[編集]
洪武帝は独裁権力の確立を目指し中書省を廃止して六部を直属とした。また軍も皇帝直属とし、宦官の専横を抑えるために宦官は学問をしてはならないという布告を出した(詳細に関しては「明」の項を参照)。
民政[編集]
洪武帝は重農政策を打ち出し、大商人を弾圧して、大商人や大地主の財産を没収、荒地の開拓地への強制移住などを行った。また、貨幣流通の掌握のために銀山の官有や銅銭・紙幣の発行、民間における銀の通貨としての使用を禁じた。一方で1380年には不当な商税を廃して、生活必需品を扱うような零細な商人の保護も行っている。
重農政策のもと、1371年には地方官の治績の評価に流民の定着と農地回復の度合いを加え、1381年に全国一斉に魚鱗図冊(土地台帳)、賦役黄冊(戸籍台帳)を作り、里甲制(村落の自治的行政制度)・衛所制(兵農一致による軍事制度)を実施した。1394年には工部の官吏と国子監の学生を総動員して治水事業を一斉に行い、全国で49,007ヶ所の堤防を修繕したという。
官吏、知識人の弾圧[編集]
1381年、文字の獄と呼ばれる大弾圧を行った。「光」「禿」「僧」などの字を使っただけで、洪武帝が昔僧侶であったことをあてこすったとされて薛祥ら功臣が殺され、洪武帝が盗賊まがいのことをしていたので、「盗」の字と同音の道、「僧」と音の近い「生」の字を使った者がそれだけで殺された。
1382年には「空印事件」(「空印の案」とも)と呼ばれる官吏への残虐な懲罰を行った。当時の地方官らの間では、ある種の文書作成の手間を省くため、先に承認印だけを押した用紙(空印)を用意しておき、それを利用して報告書を作成することが常態となっていたのだが、それに気付いた洪武帝は、印の管理者を全員死刑とし、他の関係者にも厳罰を下したのである。鄭士利という地方官は、空印事件の関係者に冤罪の者が大勢いる旨を洪武帝に直訴したところ、かえって罪に処せられて労役に付かされた。
1385年には郭桓事件が起こる。これは、戸部侍郎の郭桓が不正経理を行ったとして死刑となった際、各布政使司の官吏も連座させられた事件で、殺されたものは数万にのぼったという。
文人たちは戦々恐々とし、洪武帝から離れようとしたがそれも許されず、文才のある者は官吏として半強制的に登用された。官吏を選抜するための科挙は極めて難しい試験を課され、及第するためには何年も勉強しなければならなかったが、明の時代に試験の難易度が下がり、定型文を暗記するだけでよくなった。これにより明の官吏の意識は低下し、事なかれ主義に走り、朝廷で目立つ行動を取ることを恐れるようになった。
粛清[編集]
洪武帝は自分が老いるに従い後の心配をするようになった。皇太子に選ばれたのは長男の朱標であったが、この皇太子は優しい性格で、洪武帝から見るとあまりにも甘すぎると感じられた。一連の粛清事件は、この後継者のことを心配したためとも言われる。
1375年には劉基が胡惟庸に毒殺された。廖永忠も殺されている。1380年には、功臣・中書左丞相・胡惟庸の疑獄事件をきっかけとしてそれまでの功臣の大粛清を始めた。これは胡惟庸の獄と呼ばれ、胡惟庸らの誅殺により一旦は終結した。この際、胡惟庸は隣国日本に通じたという容疑もかけられている。同年に宋濂も連座させられ、馬皇后のとりなしで刑一等を減ぜられて流刑となったが、翌年死んだ。1384年には李文忠が毒殺された。1385年に徐達が病死したが、これにも毒殺説がある。さらに胡惟庸の獄の10年後の1390年、事件を再び蒸し返して李善長ら功臣の大粛清を行った。自分の寿命が近づいたことを覚悟していたのか、前回よりもはるかに激しくなり、3万を越える人数が誅殺されたとされる。
これでやっと粛清の嵐も収まったかと思われた1392年、皇太子が早世した。洪武帝は皇太子の子の朱允炆を皇太孫としたが、幼い後継者に変わったことで更に後継者が心配になり、再び粛清を始めた。1393年には藍玉が謀反を起こしたとして、一族もろとも殺された。これは藍玉の獄と呼ばれ、先の胡惟庸の獄と合わせて胡藍事件とも言う。1394年には穎国公の傅友德と王弼が殺された。傅友德についてはなぜ殺されたのかが分からず歴史家も理由を探すのに難儀しているという。1395年には宋国公の馮勝が殺された。1396年には監察御史の王朴、1397年には欧陽倫が殺された。
洪武帝は死の間際まで功臣を殺し続け、1398年に崩御した。享年71(満69歳没)。後を孫の朱允炆(建文帝)が継いだ。
宗室[編集]
父母・兄弟姉妹[編集]
- 父 朱世珍(元の名(排行での呼び方)は朱五四、後に仁祖淳皇帝と追贈)
- 母 陳氏(後に淳皇后と追贈)
- 兄 南昌王朱興隆(本名・朱重四):朱文正・福成公主らの父。
- 兄 盱眙王朱興盛(本名・朱重六)
- 兄 臨淮王朱興祖(本名・朱重七)
- 姉 太原公主:王七一の妻
- 姉 曹国公主:李貞の妻・李文忠の母
后妃[編集]
- 皇后 孝慈高皇后馬氏
- 孫貴妃(成穆貴妃)
- 李淑妃
- 郭寧妃
- 郭恵妃
- 崔恵妃(荘靖安栄恵妃)
- 江貴妃
- 趙貴妃
- 胡充妃(昭敬充妃)
- 鄭安妃
- 達定妃(永楽年間に廃されて庶人となる)
- 胡順妃(建文年間に自焚死)
- 任順妃
- 李賢妃
- 甕妃
- 劉恵妃
- 葛麗妃
- 碽妃
- 韓妃
- 余妃
- 楊妃
- 余妃
- 周妃
- 李婕妤
- 崔美人
- 張美人
- 郜氏
子[編集]
朱元璋には26人の息子がいた。
- 懿文太子朱標、母は馬皇后[1]
- 秦愍王朱樉、母は馬皇后
- 晋恭王朱棡、母は馬皇后
- 燕王朱棣(永楽帝)、母は馬皇后[2]
- 周定王朱橚(建文年間に廃位、永楽年間に復位)、母は馬皇后
- 楚昭王朱楨、後の、母は胡充妃
- 斉王朱榑(建文年間に廃位、永楽年間に復位)、母は達定妃
- 潭王朱梓(胡惟庸の獄で妃の家である于氏が連座、追及を恐れ自焚死)、母は達定妃
- 趙王朱杞(夭折)、母は不明
- 魯荒王朱檀、母は郭寧妃
- 蜀献王朱椿、母は郭恵妃
- 湘献王朱柏、母は胡順妃(建文年間に自焚死)
- 代簡王朱桂(建文年間に廃位、永楽年間に復位)、母は郭恵妃
- 粛庄王朱楧、母は郜氏
- 遼簡王朱植、母は韓妃
- 慶靖王朱栴、母は余妃
- 寧献王朱権、母は楊妃
- 岷荘王朱楩(建文年間に漳州へ配流、永楽年間に復位)、母は周妃
- 谷王朱橞(永楽年間に廃されて庶人となる)、母は郭恵妃
- 韓憲王朱松、母は周妃
- 瀋簡王朱模、母は趙貴妃
- 安恵王朱楹、母は不明
- 唐定王朱桱、は李賢妃
- 郢靖王朱棟、母は劉恵妃
- 伊暦王朱㰘、母は葛麗妃
- 朱楠(夭折)、母は不明
女[編集]
- 臨安公主:李祺(李善長の子)に嫁ぐ
- 寧国公主(母は馬皇后):梅殷(梅思祖の甥)に嫁ぐ
- 崇寧公主:牛城に嫁ぐ
- 安慶公主(母は馬皇后):欧陽倫に嫁ぐ
- 汝寧公主:陸賢(陸仲亨の子)に嫁ぐ
- 懐慶公主(母は孫貴妃):王貞亮に嫁ぐ
- 大名公主:李堅に嫁ぐ
- 福清公主(母は鄭安妃):張麟に嫁ぐ
- 寿春公主:傅忠(傅友徳の子)に嫁ぐ
- 十公主(夭折)
- 南康公主:胡観(胡海の子)に嫁ぐ
- 永嘉公主(母は郭恵妃):郭鎮(郭寧妃の兄郭英の子)
- 十三公主(夭折)
- 含山公主(母は韓妃):尹清に嫁ぐ
- 汝陽公主(母は郭恵妃):謝達に嫁ぐ
- 宝慶公主:趙輝に嫁ぐ
家臣[編集]
定遠攻略(1353年)に参加した24将[編集]
徐達、湯和、費聚、呉良、呉楨、花雲、陳徳、顧時、耿再成、耿炳文、唐勝宗、陸仲亨、華雲龍、鄭遇春、郭興、郭英、胡海、張龍、陳桓、謝成、李新材、張赫、周銓、周徳興[3]
明の建国時(1368年)に重職を与えられた者[編集]
李善長、徐達、常遇春、馮宗異、胡廷端、廖永忠、李伯升、趙庸、王溥、楊憲、傅瓛、康茂才、張興祖、顧時、孫興祖、呉楨、耿炳文、鄧愈、湯和、劉基、章溢、文原吉、範顕祖[4]
洪武2年(1369年)の叙勲[編集]
侯爵:湯和、唐勝宗、陸仲亨、周徳興、華雲龍、顧時、耿炳文、陳徳、郭子興、王志、鄭遇春、費聚、呉良、呉楨、趙庸、廖永忠、兪通源、華高、楊璟、康鐸、硃亮祖、傅友徳、胡美、韓政、黄彬、曹良臣、梅思祖、陸聚[5]。
洪武9年(1376年)に認定された功臣[編集]
徐達、常遇春、李文忠、鄧愈、湯和、沐英、兪通海、張徳勝、胡大海、趙得勝、耿再成、桑世傑[6]
功臣として太祖廟に祀られた者[編集]
徐達、常遇春、李文忠、鄧愈、湯和、沐英、胡大海、趙徳勝、華高、兪通海、呉良、曹良臣、呉復、孫興祖、馮国用、耿再成、丁德興、張徳勝、呉楨、康茂才、茅成[7]
その他の家臣[編集]
人物・逸話[編集]
- 洪武帝の死後、孫の朱允炆が即位して建文帝となった。洪武帝は孫のために万全の策を尽くしたと思ったのであろうが、翌年には靖難の変で建文帝と息子の朱棣が戦うことになる。洪武帝は家臣には異常な程猜疑の目を向けたが、自分の家族は全面的に信じ、大きな兵を預けたままであった(若い頃に家族を失い、孤児となった記憶から家族を強く愛し、疑わなかったのであろう)。戦術に長けていた功臣は既に殺し尽くされていたので、建文帝軍は二流の将軍しか持たず、結局建文帝は敗死した。
- 現代に残っている洪武帝の肖像画には2種類が知られている。一方はいかにも君子然とした温和そうな老人であり、もう一つはねじくれた顔をした醜い人相のものである。後者が実像で、前者は画家に粉飾させたものと推察される。豊臣秀吉にも似たような話があるが、洪武帝の場合は本人の二重性格を表しているとの指摘もある。また逆に、前者が実像で、後者のほうが粉飾であるという異説もある。暗殺を恐れて、あえて醜悪な顔であると広めたという説である。
- 文字の獄のような政策は政治上の必要から行われたこともあったろうが、その基盤となったのは洪武帝の文人や商人に対する不信感、あるいは憎悪によるものでもあったであろう。少年時代の極貧生活の記憶が常に洪武帝の頭の中にあった。文人や功臣を大量に殺す一方で肉刑を禁ずる布告を出したり、治水工事を熱心に行うなど農民に対しては常に心を砕き、恤れみの心を持っていた。
- 洪武帝と永楽帝が中国における皇帝の独裁を確立したと言われている。洪武帝は重農主義と民族主義を基調として国を作ったが、永楽帝によって全て覆され、その後の明は洪武帝の方針と永楽帝の方針の間で揺れ動くことになる。なお近年では、洪武帝の重農主義を彼個人の性格と並んで、長年の戦乱で貨幣体系が崩壊して一時的な自然経済への回帰現象の中で発生したという側面を指摘する歴史学者もいる。
- 明建国以前の1361年、応天府(南京)に宝源局(今日で言う造幣局)を設置して大中通宝を鋳造するが、その際に1貫=10両=100銭=400文という単位を導入した。これは当時の元の鈔が至元通行宝鈔5貫=中統元宝交鈔2.5貫=銅銭1貫(1000文)であったことに関係している。朱元璋は大中通宝の価値を理念上の貨幣価値である銅銭1貫=1000文(枚)に拘らず、当時最も通用していた現実的な通貨である中統元宝交鈔1貫と大中通宝400文(枚)を直接結び付けることで、自らの通貨を強引に元の通貨体系に織り込むと同時に、不足を補うための代替貨幣として元の鈔を使わせることで経済的な混乱を防止しながら自らの経済圏の確保を計ったのである。
- 朱元璋は歴代王朝が宦官や外戚の政治介入を招いて滅びたことから、彼らを重用しなかったという。
総合的な評価[編集]
趙翼は朱元璋の事を「一身において聖賢、豪傑、盗賊を兼ねた才物」と評している。
現代中国への影響[編集]
朱元璋を題材にした作品[編集]
- 映画『デブゴンの太閤記』(1980年代、香港映画)=主演:サモ・ハン・キンポー
- テレビドラマ『大明帝国 朱元璋』(2006年、中国。日本では2011年にチャンネル銀河にて放映)=主演:胡軍
- テレビドラマ『伝奇皇帝朱元璋』(2006年、中国)=主演:陳宝国
- 書籍『超巨人・明の太祖朱元璋』(呉晗著・堺屋太一ほか訳、講談社、1989年)
- 書籍『明の太祖朱元璋』中国歴史人物選(檀上寛著、白帝社、1994年)
- 小説『紅嵐 明王朝太祖異聞』(高橋和島著、青樹社、1993‐1995年)
- 小説『朱龍賦』(伴野朗著、徳間文庫、1995年)
- 小説『朱元璋 皇帝の貌』(小前亮著、講談社、2010年)
ほか多数
脚注[編集]
- ↑ 長男朱標・次男朱樉・3男朱棡については母を李淑妃とする説もある。
- ↑ 4男朱棣・5男朱橚については母を碽妃とする説もある。
- ↑ 川越泰博著『明史』(中国古典新書続編28)明徳出版社、2004年 ISBN 4-89619-828-X。
- ↑ 明史・列伝第3
- ↑ 明史・輿服4
- ↑ 明史・礼6
- ↑ 明史・礼4
関連項目[編集]
参考文献[編集]
外部リンク[編集]
- 画师据实画像被杀 朱元璋奇特长相成谜(中国語) 2種類の肖像画が掲載されている
- 朱元璋-明の開国君主
- 朱元璋(Wikipedia中国語版)