朱標

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朱標(しゅひょう、至正15年10月10日(1355年) - 洪武25年5月17日(1392年))は、中国・朝の皇太子・追尊皇帝。明の太祖洪武帝朱元璋の長男で、母は馬皇后李淑妃とする説もある)。第2代皇帝建文帝朱允炆の父。第3代皇帝成祖永楽帝朱棣の同母兄(異母兄とする説もある)。死後、懿文太子と諡され、建文帝即位によって皇帝位と興宗という廟号を追贈された。

元朝末期の至正15年(1355年)、太平(現在の安徽省黄山区)で朱元璋と馬氏の長男として生まれる。至正24年(1364年)に父朱元璋が応天府(現在の南京)で呉王を名乗ると、朱標はその世子に立てられた。

洪武元年(1368年)、明王朝が成立すると朱標は14歳で皇太子に立てられた。しかし朱標は温厚な人柄で儒教的教養を持ち、父が進める重臣たちの粛清を諌めたりしたために、父からは頼りなく思われたという。

洪武25年(1392年)、父に先立って38歳で病死した。朱標を失った洪武帝は非常に悲しみ、彼に「懿文太子」と諡した。その後、朱標の子・朱允炆(建文帝)が即位すると興宗の廟号と、諡号の孝康皇帝が追号された。しかし靖難の変によって弟の朱棣(永楽帝)が即位すると諡が懿文太子に戻された。その後、明朝末期の安宗弘光帝(在位1644年-1645年)によって帝号を回復し、興宗和天敬道憲懿勤敏淳文度武明仁慈孝康皇帝と諡された。彼の陵墓は明孝陵の東側にあり、世人から「東陵」と呼ばれていたといわれる。

彼の早すぎる死が却って父による粛清を加速させた上に、靖難の変の原因の一つになるなど、明の王室に数々の悲劇を生み出す原因となった。

系譜[編集]

  • 父:太祖洪武帝朱元璋
  • 母:孝慈高皇后馬氏
  • 正室:孝康皇后常氏‐開平王常遇春の娘
    • 長男:虞王朱雄英(1374‐1382)
    • 三男:呉王朱允熥(1378‐1417)
  • 側室:皇太后呂氏‐呂昌本の娘
    • 次男:恵帝建文帝朱允炆(1377-1402?)
    • 四男:衛王朱允熞(1385‐1402)
    • 五男:徐王朱允𤐤(1391‐1407)
  • 生母不明
    • 長女:江都公主‐耿璿(長興侯耿炳文の子)に嫁ぐ
    • 次女:宜倫郡主
    • 三女(夭折)
    • 四女:南平郡主