馬皇后 (洪武帝)
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馬皇后(ばこうごう、1332年 - 1382年)は、中国明の初代皇帝朱元璋(洪武帝)の皇后。名は不明だが、野史や地方戯曲では「馬玉环」又は「馬秀英」と表記されることもある。かつて民間では「馬大脚」「大脚皇后」とも呼ばれていたが、これは貧しい生まれ故に纏足をしなかったためらしい。
生涯[編集]
紅巾の乱で頭角を現した郭子興の養女である。朱元璋が郭子興のもとに身を投じたとき、郭子興が朱元璋の人物を見出して気に入り、養女である馬氏を与えて結婚させたという。彼女は献身的な女性で夫を内助の功などでよく助け、猜疑心の強かった朱元璋も彼女だけには心を開き、深く愛したと伝えられている。朱元璋は彼女との間に長男朱標(建文帝の父)、次男朱樉、3男朱棡、4男朱棣(永楽帝)、5男朱橚らを儲けている。
1368年に明が建国された後、馬氏は皇后に取り立てられた。慎み深く質素だった彼女は、皇后に取り立てられても驕ることがなく、贅沢もほとんどしなかったといわれている。このため、周囲から人望があり、皇帝になって逆に猜疑心を増大させて粛清に走り出した朱元璋を時には支え、時には諫言したと伝えられている。
1382年、夫の朱元璋に先立って病死した。
洪武31年(1398年)6月、孫の建文帝によって孝慈昭憲至仁文徳承天順聖高皇后の諡号が贈られた。
嘉靖17年(1538年)、嘉靖帝によって孝慈貞化哲順仁徽成天育聖至徳高皇后の諡号が贈られ、後世の人々によって略して孝慈高皇后と称された。
人物・エピソード[編集]
- 皇帝になってから暴君への道を走り出した朱元璋に対して諫言できる唯一の人物だった。実際、彼女の存命中から朱元璋は功臣の粛清を行っているが、彼女が死去する1382年までは大した粛清は行っていない。粛清がひどくなるのは彼女の死後からで、1390年には10年前に馬皇后の取り成しで助けられた李善長が殺されている。
- 朱元璋は彼女以外にも多くの側室を持ち、子をなしたが、馬皇后の死後に新たな皇后を取り立てることはなかった。
- 晩年に病気を患った時に朱元璋が差し向けた医者を追い返し、薬も飲まなかった。担当の医者たちが責任を問われて、猜疑心の強い朱元璋に粛清されないための配慮が理由であった。
参考文献[編集]
- 檀上寛『朱元璋』白帝社、1994年