黒シール事件

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強い強調(太字)新井将敬衆議院議員立候補者への中傷事件、通称黒シール事件1983年12月18日に執行された第37回衆議院議員総選挙自由民主党公認で東京2区(※ 中選挙制下での)に立候補して選挙活動していた際同じ選挙区から立候補していた同党公認候補の石原慎太郎の公設秘書によって自身のポスターに中傷シールを貼られるという嫌がらせを受けた日本国選挙におけるヘイトクライム石原慎太郎在日コリアン排撃主義者である事を満天下に知らしめた事件であり石原信者にとってのタブー事項といえる事件でもある。

事件のあらまし[編集]

1968年7月7日第8回参議院議員通常選挙に全国区に自由民主党公認で立候補して初当選した石原慎太郎は、「本道を歩みたい」との理由から1972年に任期を2年残して辞任。その年の12月10日執行の第33回衆議院議員総選挙で、当時の自宅のある東京都大田区を地盤とする東京2区から立候補して、鞍替え初当選。1975年には東京都知事選挙に立候補して一時辞任するが、1976年12月5日執行の第34回衆議院議員総選挙で復活当選し、以降3回連続でトップ当選。当該でもトップ当選しているが当選後「石原慎太郎が同じ党の公認候補を在日朝鮮人との理由で差別中傷するシールを貼っていた」と非難する声が湧き出ていた。

この年、同じ選挙区に同党公認で新井将敬が立候補したが、落選の憂き目を見た。そしてこの選挙中、何者かが新井の選挙ポスターに1966年北朝鮮から帰化」という差別中傷シールを貼るという事件が起こった。それを指揮していたのは石原の公設第一秘書(当時)。この公設第一秘書は大手ゼネコンの社員であったが、休職扱いで出向してきていた。第一公設秘書が指揮したとあれば、当然石原の指示があったかどうかが疑われる。結果として、これは石原が対戦候補を差別中傷して落選させた事件として、世間に知れ渡ることとなった。

新井将敬が黒シールを貼られた理由[編集]

同じ選挙区に立候補していた新井は東京大学を卒業後新日本製鐵勤務を経て大蔵省(現在は財務省)に入省。キャリアとして出世街道を驀進していたが渡辺美智雄の誘いを受ける形で辞職し第37回衆議院議員総選挙に立候補しているが新井は元々は在日コリアン(朴景在(パク・キョンジェ)が取得前の本名で新井は通名だった。)で日韓基本条約大韓民国と関係を結んだ翌年、1966年に日本国国籍を取得している。この年帰化した事は紛れもない事実であるが黒シールには"北朝鮮国籍"と書かれていた。

取得前の籍は朝鮮籍でありこれは明らかな間違いだ。また、在日コリアンであっても日本国籍を取得した以上、もはや朝鮮籍には属さない。このような中傷をしたのは、石原が在日の議員が誕生するのを好ましく思っていなかったためだ。では、なぜ石原は在日コリアンを「ゴミ」扱いしていたのか?これは石原の作家専業時代からの差別思想に遡る。

石原が在日コリアンを「ゴミ」扱いした理由[編集]

石原は作家専業時代から自分が好まない人々に屈辱的な暴言を浴びせて、非難されるや何が悪いと居直るという性質があるが、政治家兼業となって以降は、純粋な日本民族は他の民族を支配・差別する権利を持つという考えを世間に吹聴していた。

普通なら政治生命が絶たれても不思議ではないが、石原は(石原)裕次郎の兄』という肩書きに守られ、極端な差別思想を保持しつつも、政治家生命を保っていた。男性向け週刊誌フジサンケイグループという御用メディアの存在も有利に働いた。

環境庁(現在は環境省に昇格)長官時代には水俣病患者をIQが低い」と罵倒し、週刊新潮を使ってニセ患者探しをやらせるほど患者を不当差別したこともあったが、それは看過された。そのような経験から、石原は在日コリアンを差別しても許されると考えていたフシがある。事実、発覚後「秘書が勝手にやった事」と居直り、追求されるや「日本人は在日であるか否かを知る権利がある!!」と逆ギレするほど強気だった。しかし…打算は見事に外れる。

民族派右翼野村秋介に抗議された挙句…完敗[編集]

新井が黒シールを貼られた事にいち早く抗議したのは勧誘した渡辺である。発覚後「彼は日本人だ!!日本人が立候補して何が悪い!!」とインタビュアーの前で怒りをぶちまけた。しかし意外にも、黒シールを貼られた事に一番激怒していたのは民族派右翼の大物として知られた野村秋介であった。

右翼である一方で在日コリアンの人権向上に取り組んでいた野村は「日本民族の顔に泥を塗る破廉恥行為である!!」と烈火のごとく怒り、上記の居直り報道を知るや石原慎太郎事務所に押しかけ「全ての在日朝鮮人に土下座して謝れ!!!!」と石原を怒鳴りつけた。また、石原が当てにしていた御用メディアは、差別啓蒙メディアと社会から非難されるのを恐れたのか、石原の弁護をしなかった。さらに、当時石原が派閥の領袖であったことから党内の信用も失墜。社会的非難を浴び、やむなく石原は新井に謝罪した。こうして石原は在日コリアン排撃主義者として天下に知れ渡ることとなり、在日コリアンの憎悪の対象となってしまったのである。

ちなみに事件はポスターに貼られたものであることから公職選挙法違反事件でもあり、当然石原の関与が問われたが、逮捕されたのは公設第一秘書であり石原自身に捜査が及ぶことはなかった。こうして事件はうやむやのまま幕引きとなったのである。なお、新井は同じ選挙区で1986年7月6日執行の第38回衆議院議員総選挙に出馬、見事当選を果たした。

事件のその後[編集]

石原の公設第一秘書は書類送検され、秘書を辞めて元のゼネコンに復帰した。この秘書は実質そのゼネコンから派遣された人物で、建設大臣を務めた石原と建設業界の黒い癒着も浮き上がらせた事件である。