若宮啓文
若宮 啓文(わかみや よしぶみ、1948年 - )は、韓国の東西大学碩座教授、国立ソウル大学日本研究所客員研究員。元ジャーナリスト、コラムニストで、過去、朝日新聞論説主幹(2002.9~2008.3)、主筆(2011.5.1〜2013.1.16)、東京大学・龍谷大学・慶応大学の客員教授を歴任。
日々日本の国益を損ね、中国と韓国のプロパガンダに奔走している。
来歴[編集]
麻布高等学校卒。東京大学法学部卒業後、朝日新聞社に入社。政治部記者として日本政治、日中韓関係、国際政治について数々の記事、コラム、著書を発表。東京大学、慶應義塾大学、龍谷大学でそれぞれ客員教授を務めた。父は、朝日新聞政治部記者から鳩山一郎首相秘書官に転じた若宮小太郎。
人物[編集]
- 1948年(昭和23年)1月、東京生まれ。在学中に東大安田講堂事件に遭遇。
- 1970年(昭和45年)4月、朝日新聞の記者となり横浜支局へ赴任。飛鳥田一雄市長による「ベトナム行き米軍戦車ストップ事件」などを取材。
- 1972年(昭和47年)9月、長野支局へ移り、1975年(昭和50年)の元旦に起きた青木湖スキーバス転落事故などを取材する。長野では部落解放同盟長野県連合会の協力を得て長野版に「ルポ 現代の被差別部落」を長期連載し、のちに加筆して刊行された。
- 1975年(昭和50年)5月に本社政治部へ移り、ロッキード事件前後の三木武夫政権、新自由クラブの結成や大平正芳政権での「四十日抗争」など昭和から平成にかけて激動の政治を報道した。また、全斗煥韓国大統領訪日、中曽根康弘首相の靖国神社公式参拝、宮澤喜一政権での天皇訪中をはじめ冷戦終結前後のさまざまな外交問題を取材。その後、論説委員、政治部長を歴任する。
- 1979年(昭和54年)8月に山下元利防衛庁長官の同行取材で訪韓し、翌1980年(昭和55年)9月には北朝鮮を訪れて金日成とも会ったことから、南北朝鮮に関心をもち、1981年(昭和56年)9月から1年間ソウルに留学して朝鮮語を学ぶ。
- 以降、1993年(平成5年)に発足した「日韓フォーラム」に参加、近年では「東京=北京フォーラム」などの日中対話にも積極参加。日中韓の「和解」や「相互理解」を促す論評、コラム、著書を発表した。サッカー・ワールドカップの「日韓共催」を社説で提案した。
- 2001年(平成13年)5月に米国ワシントンのブルッキングス研究所で客員研究員となり、滞在中にアメリカ同時多発テロ事件が勃発。
- 2002年(平成14年)9月に論説主幹となり、5年7ヶ月にわたって朝日新聞の社説、論調を主導する。かつて「反対」していたPKO(国連平和維持活動)への自衛隊参加について積極論へ転換したほか、「有事法制」にも賛成へと大きくカジを切るなど、伝統的な朝日の反戦イメージを修正する現実路線に踏み出した。
- 2003年のイラク戦争には反対の論陣を張って読売新聞、産経新聞などと論争し、小泉純一郎首相の靖国神社参拝を批判した。
- 2006年2月、雑誌『論座』誌上で渡邉恒雄読売新聞主筆と対談し、「首相の靖国参拝反対」で一致した。
- 2007年(平成19年)5月3日には「提言・日本の新戦略」と題する21本の社説を一挙掲載して「地球貢献国家」を提唱。そこでは憲法9条の改正に反対する「護憲」の立場を改めて鮮明にしつつ、平和安全保障基本法(仮称)を設けて自衛隊の存在や役割を「準憲法」的に位置づけることを提唱した。こうした一連の社説づくりの内幕は、自ら『闘う社説』(2008年(平成20年)、講談社)で明らかにしている。
- また、社説とは別に朝日新聞には署名コラム「風考計」(現在は「ザ・コラム」に改称)も連載。2005年(平成17年)3月には竹島問題について「竹島と独島 これを「友情島」に…の夢想」を書いた。日韓の友好を固めるために「いっそ日本が竹島を譲ってしまい、韓国がこの英断を称えて『友情島』となづけて周辺の漁業権を日本に認める」といった戦略的な「夢想」を提示したもの。この内容は強い批判を招いた。これらのコラムはすべて英訳されHerald Tribune Asahiに Japan Notebookのタイトルで掲載されている。コラム集は『右手に君が代 左手に憲法――漂流する日本政治』(2007年(平成19年)、朝日新聞社)として出版され、英文も収録されている。
- 2011年(平成23年)5月1日、朝日新聞主筆に就任。
- 2012年(平成24年)3月1日、若宮は欧州の新聞幹部らとともにロシア首相だったプーチン大統領に会見した際、北方領土問題について妥協の意思があるか問いただし、「引き分けがいい」「『はじめ』の号令をかける」という柔道用語による答えを引き出した。3月26日、日韓の懸案になっている従軍慰安婦の問題について、アジア女性基金の実績を生かし、改めて野田総理大臣の謝罪を伝えるなどの打開策を朝日新聞のコラムで提案。4月5日には韓国の東亜日報で同じ趣旨のコラムを執筆した。[3]4月5日、韓国の東亜日報にて、従軍慰安婦問題に関して野田総理大臣が謝罪すべきであり、朝日新聞を介して提案を行ったとのコラムを執筆した。
- 週刊文春は2012年5月17日号の「朝日新聞主筆 若宮啓文氏 女・カネ・中国の醜聞 」にて、若宮啓文主筆が論説主幹だったときに出張費の問題があったとした。それによると、「若宮氏が2008年2月に北京や上海に3~4泊で出張した際、50歳前後の女性秘書を同行させ、会社の経費で航空機のビジネスクラスに乗せたり高級ホテルに宿泊させたりした。朝日には中国支局があることから秘書を連れて行く必要はなく、しかも内勤職は社内規定で海外出張が認められていなかった。朝日の内部監査室による調査で不正が発覚したが若宮氏はこれを認め、全額を会社に返済した」と報じている。又、若宮氏は、著書の出版記念パーティーを外務省の外郭団体のような中国の外交学会に開いてもらったとし、「独裁国家の政府機関に自らの言論活動をお祝いされるというのは本来ありえない」と他紙幹部の批判を紹介している。朝日新聞は2012年5月9日、週刊文春の記事に対し、「事実無根の記述で本社主筆と本社の名誉、信用を著しく毀損する」として、謝罪と訂正記事の掲載を求める抗議書を前日に送ったことを紙面で明らかにした。
- 2012年(平成24年)12月13日付の東亜日報の記事にて、「韓国人が気を遣うのは安倍政権の登場で日本の右傾化が一気に進むのではないかということだ。」と述べたが、同年12月18日付の産経新聞の記事にてアメリカCSISのマイケル・グリーンが「米側ではいわゆる慰安婦問題を機に左派のエリートやニューヨーク・タイムズ、ロサンゼルス・タイムズが安倍氏を『危険な右翼』としてたたきました。安倍氏の政府間レベルでの戦略的な貢献を認識せずに、でした。その『安倍たたき』は日本側で同氏をとにかく憎む朝日新聞の手法を一部、輸入した形でした。今後はその繰り返しは避けたいです」と語り、朝日新聞の報道姿勢を批判した。また、同記事で若宮は「憲法改正に強く同調したのは日本維新の会の石原慎太郎代表程度だ。」とも述べたが、自身が主筆を務める朝日新聞の同年12月18日付の記事にて衆院選の当選者のうち憲法改正の賛成派が89%に達した事が報道された。。
- 2013年(平成25年)、著書「新聞記者 現代史を記録する」 (ちくまプリマー新書)において、従軍慰安婦問題について、「朝日新聞もこれを熱心に報じた時期があった。中には力ずくの『慰安婦狩り』を実際に行ったという日本の元軍人の話を信じて、確認のとれぬまま記事にするような勇み足もあった」とし、従軍慰安婦問題に関する朝日新聞のキャンペーンに根拠がないことを暴露した。虚偽報道に対して、朝日新聞は謝罪せず、取消のみを2014年8月に行った。慰安婦 も参照
- 2013年1月16日、65歳になり朝日新聞社を退社、朝日新聞主筆を退任、公益法人日本国際交流センターのシニアフェローとなった。彼の退任後、朝日新聞はその左翼色を薄めつつある。また、1月30日、韓国の東西大学は若宮を「碩座教授」に任命。3月には国立ソウル大学日本研究所が客員研究員として招請した。8月、韓国の中央日報のインタヴューに朝鮮語で応じ、在日韓国人の事を在日同胞と表現。
主張[編集]
- 小川榮太郎著の『約束の日 安倍晋三試論』によれば、朝日新聞の主筆時代に三宅久之との対談で、三宅「朝日は安倍というといたずらに叩くけど、いいところはきちんと認めるような報道はできないものなのか」、若宮「できません」、三宅「何故だ」、若宮「社是だからです」との発言があったとされる。
- 平成26年10月30日午前の衆議院予算委員会の枝野幸男への答弁で安倍晋三首相は、「朝日新聞は安倍政権を倒すことを社是としていると、かつて主筆がしゃべったということです」と述べた。これに対し、平成26年10月31日の朝日新聞朝刊および朝日新聞デジタルの記事、「「撃ち方やめ」報道、首相側近「私が言った」説明修正」において、「朝日新聞社に安倍政権を倒すという社是はなく、主筆が話したこともありません。」としている。
「竹島を譲ったら」コラム執筆朝日元論説主幹。韓国で活躍中(2014年10月)[編集]
慰安婦報道に関する検証・訂正記事を朝日新聞が載せると、国内では朝日批判が吹き荒れたが、それとは逆に、こぞって朝日擁護論を展開したのが韓国紙だ。韓国メディアは反日が基調なのに、なぜ朝日はこれほどの支持を獲得したのかといえば、常に朝日が日本ではなく、韓国の立場に立った「韓国ヨイショ」の記事を載せ続けてきたからだ。
朝日の「韓国ヨイショ」記事の極めつけが、当時論説主幹だった若宮啓文氏による「竹島と独島 これを『友情島』に…の夢想」(2005年3月27日付)と題されたコラムだ。韓国での反日旋風に、彼らの島に対する深い情念を思い知り、考察の結果〈いっそのこと島(竹島)を譲ってしまったら、と夢想する〉と書き、波紋を呼んだ。
実はこのコラムには続きがある。2008年7月21日付では、日本国内にも竹島が日本の固有の領土かどうか長い論争があり、政府見解を否定する学者が少なからずいるとして、その説を紹介している。
〈明治政府は竹島を韓国領だと見ていながら、軍事的な思惑などで1905年に島根県に編入した。そんな見方を著書や論文で展開している。もしそうなら、日本の竹島編入は確かに韓国併合への前段だったわけで、韓国が「奪われた島」に格別な思いを抱くのも理があることになる〉
この韓国への寄り添いぶりには驚く。江戸時代の古地図に松島(竹島)が日本領として描かれているなどの研究には触れず、〈古来の文書は島の名称からして入り乱れ、歴史も法的解釈もややこしい〉としか触れていない。
若宮氏はその後、主筆を経て、昨年朝日新聞を退職。2013年1月に韓国の東西大学の碩座教授に任命され、コラム執筆や講演など、韓国でも活躍している。そこで、過去の竹島問題に関するコラムや古巣の慰安婦報道訂正について意見を聞きたいと問い合わせたところ、秘書を通じて「何もお話しすることはありません」と断わられてしまった。