田中伊三次

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田中 伊三次(たなか いさじ、1906年1月3日 - 1987年4月11日)は、日本政治家衆議院議員)、弁護士法学博士

来歴・人物[編集]

京都府出身。1934年立命館大学法学部夜間部を卒業。京都市議、京都府議を経て、1942年第21回衆議院議員総選挙翼賛選挙)にて非推薦で衆議院議員に初当選。以後、通算当選14回。無所属倶楽部、民主党自由党を経て、1955年保守合同自由民主党に参加し、緒方派→石井派に所属する。

衆議院副議長、衆議院ロッキード問題調査特別委員長、国務大臣自治庁長官(石橋内閣及び第1次岸内閣)、法務大臣第1次佐藤内閣第3次改造内閣及び第2次佐藤内閣第2次田中角榮内閣)、自民党相談役、自民党顧問、自民党司法制度調査会長、自民党党紀委員長、自民党京都府連会長などの要職を歴任した。法務大臣時の1967年10月13日、新聞記者の前で一度に23人分の死刑執行命令書に署名したと発表し、記事にするよう要求した(産経新聞のみが写真つきで報じた)。ただ、提出された命令書の中に平沢貞通の名を見つけた時には、「これは冤罪だろ」として署名しなかったといわれている。

1976年にはロッキード問題調査委員長として、児玉誉士夫を臨床尋問。事件に関与した疑いの強い灰色高官の氏名を公表した。また、法務大臣当時に発生した金大中拉致事件では、韓国中央情報部(KCIA)の関与を示唆する「第六感」発言で注目された。石井派が解散した後に三木派に参じ、反田中大平を鮮明にして、1980年ハプニング解散による第36回衆議院議員総選挙では「大平総裁の下では戦えない」と、自民党からの公認を拒否し、離党。無所属で当選し、その後も復党せず信念を通した。1983年、総選挙に出馬せず政界を引退。

1987年4月11日、81歳にて死去。

主な著書[編集]

  • 「新憲法の解明」
  • 「憲法の心 −新憲法の基本原則−」
  • 「共産主義批判」
  • 「理想主義政治学の理論構成に関する研究」


議会
先代:
日本の旗 日本 衆議院副議長
第44代:1963年 - 1965年
次代:
官職
先代:
日本の旗 日本 法務大臣
第22・23代:1966年 - 1967年
第31代:1972年 - 1973年
次代:
先代:
日本の旗 日本 自治庁長官
第7・8代:1956年 - 1957年
次代:
歴代の法務大臣
法務大臣(中央省庁再編前)
木村篤太郎 - 犬養健 - 加藤鐐五郎 - 小原直 - 花村四郎 - 牧野良三 - (石橋湛山) - 中村梅吉 - 唐沢俊樹 - 愛知揆一 - 井野碩哉 - 小島徹三 - 植木庚子郎 - 中垣國男 - 賀屋興宣 - 高橋等 - 石井光次郎 - 田中伊三次 - 赤間文三 - 西郷吉之助 - 小林武治 - 秋田大助 - 植木庚子郎 - 前尾繁三郎 - 郡祐一 - 田中伊三次 - 中村梅吉 - 浜野清吾 - 稲葉修 - 福田一 - 瀬戸山三男 - 古井喜実 - 倉石忠雄 - 奥野誠亮 - 坂田道太 - 秦野章 - 住栄作 - 嶋崎均 - 鈴木省吾 - 遠藤要 - 林田悠紀夫 - 長谷川峻 - 高辻正己 - 谷川和穂 - 後藤正夫 - 長谷川信 - 梶山静六 - 左藤恵 - 田原隆 - 後藤田正晴 - 三ヶ月章 - (羽田孜) - 永野茂門 - 中井洽 - 前田勲男 - 田沢智治 - 宮澤弘 - 長尾立子 - 松浦功 - 下稲葉耕吉 - 中村正三郎 - 陣内孝雄 - 臼井日出男 - 保岡興治 - 高村正彦
法務大臣(中央省庁再編後)
高村正彦 - 森山眞弓 - 野沢太三 - 南野知惠子 - 杉浦正健 - 長勢甚遠 - 鳩山邦夫