河上丈太郎
河上 丈太郎(かわかみ じょうたろう、1889年1月3日 - 1965年12月3日)は、東京都港区出身の日本の政治家。右派社会党委員長、日本社会党委員長を歴任した。息子は衆議院議員・社会党国際局長をつとめた河上民雄。
- 所属政党 = (日本労農党→)(日本大衆党→)(全国大衆党→)(全国労農大衆党→)(社会大衆党→)(翼賛政治会→)(日本社会党→)(右派社会党→)日本社会党
- 衆議院議員‥選挙区 = 兵庫県第1区 当選回数 = 6回
- 就任日 = 1952年10月2日 退任日 = 1965年7月3日 退任理由 = 在職のまま死去
- 第4代 日本社会党中央執行委員長‥就任日 = 1961年3月6日~退任日 = 1965年5月6日。退任理由 = 在職のまま死去することを拒み自ら辞職
生い立ち[編集]
古材木商河上新太郎の息子として生まれた。丈太郎が幼いときに、父がキリスト教に入信し、父の影響で丈太郎自身も敬虔なクリスチャンとなった。立教中学に通っている時に、たまたま買った『万朝報』に、社会主義者であった幸徳秋水の「退社の辞」が掲載されており、これに感銘を受けた河上は社会主義思想に関心を持つようになった。
第一高等学校を経て、1915年に東京帝国大学(現東京大学)法学部政治科を卒業した河上は、高等文官試験に合格していたにもかかわらず、あえて官僚の道を選ばず、立教大学・明治学院 ・関西学院 で教鞭をとった。関西学院教授時代、賀川豊彦と出会った河上は労働学校の講師をつとめるようになり、次第に社会主義の実践運動にのめりこんでいった。
無産党代議士として[編集]
1928年の第1回普通選挙に河上は日本労農党公認で出馬して当選し、8人の無産党代議士の一人となった。その後、1932年の総選挙で落選するが、1936年総選挙で返り咲き、以後、公職から追放された時期を除き、死ぬまで、衆議院議員であり続けた。その後日本大衆党・全国大衆党・全国労農大衆党に所属した。
1932年に日本の無産政党が社会大衆党として統一されると、河上も社会大衆党に属し、社会大衆党の国家社会主義的な政策を支持した。1940年、社会大衆党内で国家社会主義的な政策を推進していた麻生久が亡くなると、麻生の名代として大政翼賛会総務となった。このことを理由に、戦後、河上は戦争に協力したとして、公職から追放された。
右派社会党委員長として[編集]
1951年、公職追放を解除されると、1952年に右派社会党の委員長に推された。このとき、河上は「委員長は十字架である」と演説して、「十字架委員長」の異名をつけられた。1952年の第25回衆議院議員総選挙では、支持者に対して「私は長い追放生活を終えて、ようやくこうして諸君と相まみえることができるようになった。私の公職追放は、私がある団体に関与していたからである。私の真情をいえば、必ずしも進んでその団体に参加したわけではないが、今は多くを弁解しない。諸君の中に、私の戦時中の行動に批判を抱く人がいたら、どうか選挙を通じて厳正な批判を下していただきたい。また、この河上を許してくれる人は、河上一個人のためでなく日本社会党の前進のために御協力いただきたい」と演説して、自らの戦争責任を謝罪した。この選挙では、公職追放を解除された政治家が多く立候補したが、自らの戦争責任を認めたのは河上ただ一人であったと言われている。
1955年、社会党再統一となると、委員長の座を左派社会党の鈴木茂三郎に譲り、自らは党の顧問となった。その後の河上は平和運動に邁進し、元A級戦犯の岸信介が首相に就任すると、自らの戦争責任を認めた上で、岸に対しても戦争責任を認めるよう追及するなどしている。
1960年6月17日、衆議院議員面会所で請願を受けていた際に、右翼に左肩を刺され負傷。
日本社会党委員長として[編集]
1960年、西尾末広が民社党を結成すると、動揺した河上派の国会議員の一部が民社党に走った。その際、総評の太田薫議長が河上に対して選挙協力と引き換えに、河上派全体が民社党に移らないよう要請したと言われているが、太田の申し出を聞いた河上は激怒して、「自分たちは損得のためにやっているのではない」と太田を追い出したのが真相である。しかし、河上派の動揺を抑えるため、河上は1960年の委員長選挙に出馬し、鈴木派が推す浅沼稲次郎を僅差まで追い詰めた。予想外の支持が集まったことに河上派の国会議員は満足して、河上派の動揺は収まり、河上は社会党の分裂を最小限に食い止めることに成功した。しかし、同年、河上を破って委員長に就任した浅沼は刺殺されてしまい、翌年、河上が委員長となった。 晩年、遊説中に病に倒れ病状が悪化する中で、そのような状態で委員長を続ければ、後世に「地位に恋々とする政治家だったとの酷評を受けることになる」として、長男の河上民雄が委員長辞任届けを社会党に提出した。
エピソード[編集]
当時、新聞記者の間で政治家の話題が出たときは、呼び捨てにするか愛称で呼ぶのが普通だったが、新聞記者の間でも河上は人格者として知られており、誰もが河上のことを「河上さん」とさん付けで呼んだというエピソードが残っている。また、河上は学者出身らしく、遊説の合間に外国の新聞や雑誌に目を通し、常に政策の勉強を怠らなかったといわれている。
河上が死去したとき、旧制第一高等学校以来の友人である賀屋興宣は追悼文の中で理想、信念、信仰、正義、熱情、純情、善意等の言葉で河上のことを評した[1]。
参考文献[編集]
- 河上前委員長記念出版委員会編『河上丈太郎 十字架委員長の人と生涯』日本社会党、1966年。
- 田村祐造『戦後社会党の担い手たち』日本評論社、1984年。
- 高橋勉『社会党河上派の軌跡』三一書房、1996年。ISBN 4380963004
脚注[編集]
関連項目[編集]
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