朝鮮の歴史観
朝鮮の歴史観(ちょうせんのれきしかん)では、朝鮮の歴史観について説明する。
目次
植民史観[編集]
植民史観(しょくみんしかん)は、日本統治時代に内地で主流だった歴史観であるが、日本の植民地支配を正当化する目的で作られたとして批判する側から、植民史観または植民地史観(しょくみんちしかん)と呼ばれる。主に問題とされるのは、日鮮同祖論、他律性論、停滞性論、党派性論などである。
他律性論(たりつせいろん)とは、朝鮮の歴史は、常に外部の勢力によって他律的に動かされてきたという主張である。檀君を否定し、箕子朝鮮、衛氏朝鮮、漢四郡など朝鮮の出発点を中国の支配に置き、以後も中国の属国であったとする。また、朝鮮半島南部では、日本が任那を支配していたとする。
停滞性論(ていたいせいろん)とは、朝鮮の歴史は、日本のような中世の封建制がなく、古代のまま停滞しており、日本の平安時代のレベルに止まっているとするもの。福田徳三は、20世紀初めの朝鮮の経済を「借金的自足経済」とし、日本や欧州より1000年以上遅れているとした。
党派性論(とうはせいろん)とは、朝鮮民族は党派性が強く、不毛な党争ばかり続けていた、とするもの。
民族史観[編集]
韓国の民族主義参照
概要[編集]
民族史観(みんぞくしかん)は、植民史観を否定しようとして現れたもので、朝鮮民族の優秀性や自律性を強調する民族主義的な歴史観である。檀君の存在を主張したり、資本主義萌芽論、内在的発展論(朝鮮は、外部の要因ではなく、朝鮮自身で発展してきたとする)、植民地収奪論(日本の植民地支配により、朝鮮は収奪されたとする)などを唱える。
日本統治時代に、朴殷植、申采浩などが、朝鮮の民族精神を強調するために古代史を研究し、檀君を拠り所にした。朴殷植は「国魂」を、申采浩は「我」と「非我」の闘争を歴史の中心と見るなど精神論的な面が強い。
資本主義萌芽論は、李氏朝鮮後期には資本主義の萌芽が存在したが日本の植民地支配により芽が摘まれてしまったという説である。1950年代後半に北朝鮮で唱えられ始めた。日本には、1960年代に紹介され、1970年代に力を持つようになった。韓国には1980年代に日本経由で広まった。しかし、その後の実証的研究の進展により否定されてきている。
1970年代までは、日本統治時代に教育を受けた世代が韓国の歴史学界で中心になっており、朝鮮の近代化阻害要因を重視した実証的な研究を行っていた。しかし1980年代になると、歴史学者の世代交代により、主観的な民族史観が台頭し、従来の研究を植民史観的だと批判し、侵略がなければ朝鮮は自立的に発展していたはずだという見方が主流になった。
歴史教育[編集]
背景[編集]
韓国の建国当初の民族主義は「反日主義」一辺倒で、「日帝に対する闘争」を掲げることで民族の紐帯を醸成していった。朴正煕大統領は、自著『国家・民族・私』で、「我が半万年の歴史は、一言で言って退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった」「姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図に過ぎない」「わが民族史を考察してみると情けないというほかない」「われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあっても、この歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史は、むしろ燃やして然るべきである」と記している。また、朴は自著『国家、民族、私』で、「四色党争、事大主義、両班の安易な無事主義な生活態度によって、後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である」「今日の我々の生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史(韓国史)の悪遺産そのものである」「今日の若い世代は、既成世代とともに先祖たちの足跡を恨めしい眼で振り返り、軽蔑と憤怒をあわせて感じるのである」と記している。さらに朴は自著『韓民族の進むべき道』で、韓国人の「自律精神の欠如」「民族愛の欠如」「開拓精神の欠如」「退廃した国民道徳」を批判し、「民族の悪い遺産」として次の問題を挙げている。「事大主義」「怠惰と不労働所得観念」「開拓精神の欠如」「企業心の不足」「悪性利己主義」「健全な批判精神の欠如」「名誉観念の欠如」。朴正煕は独裁体制(維新体制)を確立すると、上記のような朝鮮民族の問題点を払拭するために、「民族の中興の使命を達成するための主体的民族史観」に基づいた「国籍ある教育」を掲げた。
内容[編集]
教科書では、「先進的な韓国が未開な日本に文明を授けてあげた」という歴史観が一貫して強調されており、日本に対して、日本の独自性の強い社会・文化や、日本が最も影響を受けた中国との東シナ海交易ルートや、日本から外国への文化伝播が存在しないかのような誤解を与えている。また、朝鮮半島が歴史上ほとんどの期間中国の従属国で政治・社会・文化の面で隷属していたことに殆ど触れられていないため、韓国人が「歴史的に朝鮮は文化先進国」という認識を一層強くする原因となっている。
例えば、小学校の社会科教科書の日本関連では、
- 「百済の文化を日本に伝えてあげた王仁」
- 「(三国時代)わが先祖は発達したわが文化をとなりの日本にも教えてあげた」
- 「高句麗の文化を日本に伝えてあげた」
- 「今も日本人は、王仁を日本文化の先生として崇めている」
等と朝鮮半島から日本への文物の「授与」が執拗に記述されている一方で、日本から朝鮮半島への影響については「残虐性」や「野蛮性」が誇張されて執拗に記述されており「日本人は文化的に劣等」という認識のもとで一貫して記述されている。
また、高校の歴史教科書では、
- 「倭族は大概東北アジア系統の族属と南洋族そしてアイヌ族の雑種」
- 「優秀な朝鮮民族と劣等な日本民族」
- 「東アジアの文化的後進国であった日本」
- 「朝鮮半島の先進文化を未開な日本に教えてあげた」
- 「近代化以前の日本の文化はすべて偉大な先進文化を持つ朝鮮半島から由来したもの」
- 「野卑な日本はいつも朝鮮半島を侵略して財物を奪っていった」
と示唆するような記述で一貫されていて「東アジアで文化的に劣等だった日本」とまで明記されている。
ただし実際は王仁は日本ではほとんど知られておらず、儒教と漢字を伝えたとされるが、当時の朝鮮半島の「文化」を伝えたとは書かれていない。また、王仁は日本側の資料にのみに登場する人物であるが、韓国は『古事記』の「応神天皇の命令を受け百済が献上した人物」と言う記述や『日本書紀』等の日本の大国ぶりが伺える記述については「捏造」と激しく否定しており、資料の都合の良い部分だけ採用し、それ以外は無視するという「つまみ食い(チェリー・ピッキング)」をし、二重基準を見せている。なお、実際の王仁は高句麗に滅ぼされた楽浪郡の漢人系の学者ではないかと言われている。
また、韓国の歴史教科書では檀君神話を史実として掲載し、「朝鮮半島の歴史は中国の歴史よりも長く、世界最古のひとつ」と教えて民族主義を扇動している面もある。この点について、日韓歴史共同研究委員会の日本側メンバーである井上直樹は、「韓国の教科書が朝鮮民族の始祖とされる檀君の神話をそのまま認めるような記述をしているのは、資料考証に基づく結論なのか疑問」と批判している。
批評[編集]
京仁教育大学校のパク・チョルヒ教授は、韓国の社会教科書が過度に民族中心的に叙述されていると批判している。たとえば、「高句麗と渤海が多民族国家だったという事実が抜け落ちている。高句麗の領土拡大は異民族との併合過程であり、渤海は高句麗の遺民と靺鞨族が一緒に立てた国家だが、これについての言及が全く無い」「渤海は高句麗遊民と靺鞨族が共にたてた国家だというのが歴史常識だ。しかし国史を扱う小学校社会教科書には靺鞨族に対する内容は全くない。渤海は高句麗との連続線上だけで扱われている」「高麗時代前時期にかけて異民族が帰化した数字は23万8000人余りに達する。帰化した漢族は国際情勢に明るく、文芸にたけていて官僚にたくさん進出した。帰化した渤海人は契丹との戦争に参加して大きい功績を立てた。崔茂宣に火薬製造技術を伝えた人物の李元も中国、江南地方出身帰化人だが、これらの存在と文化的影響に対し教科書は沈黙している」。また、6年生1学期の社会教科書の「一つに団結した同胞」の部分「私たちの同胞は最初の国・古朝鮮を建てて、高句麗、百済、新羅に続いて統一新羅へと発展して来た」との記述に対しては、「教科書では、『古朝鮮が立てられる前の私たちの先祖の生活がどのようだったのか調べててみよう』と記し、旧石器、新石器、青銅器時代を説明し、まるで旧石器時代から古朝鮮に至るまで同じ血統の民族がこの地域に暮して来たかのように記述されている」と批判している。6学年1学期社会教科書39ページの「新しい王朝は領土拡張と国防強化に努力した(中略)特に世宗の時は豆満江と鴨緑江流域に入ってきて生きていた女真族を追い出して、この地域に四郡と六鎮を設置して領土を広げた」との記述に対しては、「高麗時代に帰化した女真族は北方情勢を情報提供したり、城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。李氏朝鮮を建国した李成桂は東北面出身で、この地域の女真族を自身の支持基盤とした。開国功臣だった李之蘭はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮の時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい。しかしこういう女真族との友好的な内容は教科書で探せない」と女真族を朝鮮民族を困らせる報復の対象にだけ描写していると批判している。
パク・チョルヒ教授は、「小学校教科書には民族文化の優秀性を強調するために他民族を貶す記述も多く、特に、日本人は文化的に我々よりも劣等だと一貫して記述されている」と批判している。たとえば、小学校4年生2学期の道徳教科書66~67ページには、記者と外国人がキムチの味について話し合う場面があり、キムチの味を問う記者の質問に外国人は「はい、よく食べます。韓国のキムチはとてもおいしいです。日本のキムチは比較にもならないですね」と記述され、韓国のキムチの優秀性を紹介する為に、日本のキムチを見下すことは、他文化を無視すると同時に他文化に対する偏見を助長しやすいと批判している。また、4年生2学期、道徳教科書89ページには、「一民族は強靭な所があります。中国歴代王朝、日本など周辺の国々がしつこく侵略を試みましたが、結局はすべて失敗してしまいました。(中略)例えば韓半島に韓民族ではなく日本や他の民族がいたらすぐに亡びたはずです」と、ここでは「日本人が半島に住んでいたら滅んでいた」とまで明記されている。
水野俊平は自著の中で韓国の「情」に言及している。朝鮮半島史は一貫して外敵との戦いの歴史(周辺の強国に侵略や占領され、事大する歴史)であり、「偉大なる民族史」に憧れる心情は「理解できないことでもない」としている。また、韓国大衆の間で、「朝鮮半島史が日帝や親日派により不当に矮小化された」と信じられている為、「植民地史観から歴史を回復(復元)する」という名目で行われる主張が非常に受け入れられやすく、正統派の歴史学者が民族史観に異議を唱えにくい状況になってしまっていると分析している。
唯物史観[編集]
日本統治期の朝鮮人の歴史学者には、民族史学、社会経済史学、実証史学という3つの流れがある。社会経済史学は、マルクス主義史観(唯物史観)による歴史学で、白南雲を中心として発達した。白南雲は、日本に留学してマルクス主義の影響を受け、朝鮮に戻って唯物史観に基づいて朝鮮史を研究し、『朝鮮社会経済史』(1933年)、『朝鮮封建社会経済史 上』(1937年)を著した。
その後、白南雲は朝鮮民主主義人民共和国に移り、マルクス主義歴史学は朝鮮民主主義人民共和国に引き継がれた。
実証史学[編集]
実証史学は、実証性を重視し、客観的、価値中立的、科学的な歴史研究を唱えた。李丙燾など、日本の歴史学界で専門教育を受けた歴史学者が中心となった。民族史観の立場からは、植民史観の亜流だと批判を受けることもある。
安秉直、李栄薫らは、経済史を中心にした実証的な研究に基き、植民地時代に朝鮮の近代化が進められたとする植民地近代化論を主張している。彼らは、それまで民族史観が唱えていた資本主義萌芽論、内在的発展論、植民地収奪論などは、実証的な裏づけがないと批判している。逆に民族史観側からは、植民地近代化論は植民地支配を正当化するものだとする非難を受けている。
並木真人、松本武祝、尹海東、林志弦らは、植民地時代の近代性の様々な様相に関する植民地近代性論(または植民地近代論ともいう)を研究している。植民地近代化論が経済史を主にしているのに対し、植民地近代性論は社会史を主にしている。植民地時代に朝鮮でも都市文化が生まれ、「支配-抵抗」という民族史観の二分法的図式では捉えきれない、様々な動きがあったとする。
大陸史観[編集]
朝鮮の大陸史観参照
大陸史観(たいりくしかん)は、民族史観を拡張したもので、朝鮮史の舞台を朝鮮半島の中だけでなく中国大陸にまで広げる歴史観である。古朝鮮・高句麗・渤海が満州を拠点としていたことを強調するだけでなく、新羅や百済も中国大陸を領有していた、古代においては中国に対して朝鮮が優越していたという説を主張する。歴史学界では相手にされてはいないが、在野の個人研究家や一般の支持は強い。
事例[編集]
朝鮮民主主義人民共和国#朝鮮民主主義人民共和国の主な歴史観参照
- 2007年大韓民国大統領選挙に立候補した許京寧経済共和党総裁は、「中国諸国と連邦をしてアジア連邦を作り、失われた高句麗領土を取り戻したい」「失われた渤海の旧領と、三国時代にヨーロッパまで伸ばした韓半島の故土を取り戻すのが私の夢だ」としている。
- 韓国KBSの番組「満洲大探査」は、「満洲はもともと韓民族の土地。清朝を樹立したアイシンギオロ氏も、祖先は韓国人」と主張している。
- 大田大学校哲学科の林均澤教授が2002年12月に韓国書鎮出版社から出版した『韓国史』において、唐の時代に、高句麗、新羅、百済が中国の大半を有しており、唐の版図は雲南省や四川省などのわずかな部分に過ぎず、高句麗、百済を滅ぼしたあとの新羅の版図は、現在の東シベリア、モンゴル、華北地域など三北(中国北部全体)、華中地域、西蔵自治区、新疆ウイグル自治区など広大なものとなり、唐は華中地域や華南地域をおさえるにとどまったと主張している。
- 韓国の圓光大学校教授が広西チワン族自治区の百済郷を調査し、「この地はかつて、百済の殖民地だった」と発表した。
- 歴史学者オ・ジェソンの著書『隠された歴史を探して』『地図で見る韓国歴史』の本の図表には、高句麗・百済が活動した範囲が、内蒙古・山東省・福建省などに至っている。中国のネチズンは、「唐の新疆統治組織だった安西都護府が、統一新羅のチベット統治機構に伝えられたのはとんでもないこと」と指摘している。
日本観[編集]
歴代朝鮮王朝は日清戦争まで中国の冊封体制下におかれ、「中華文化こそ正しい文化、朝鮮独自の文化は卑しい文化」と考える事大主義と「中国に地理的・文化的に近い朝鮮が優越で、遠い日本は劣等」という小中華思想の時代が長く続いた。また、このような小中華思想に儒教思想が加わることによって「優越な長男の中国と次男の韓国(朝鮮)、劣等な三男の日本」、「優越な母の韓国と劣等な捨て子の日本」という認識が発生し、さらには、民族主義が重なり「先進的で文化的で優秀な朝鮮が、未開で野蛮で劣等な日本に、先進的な文明を授けてあげた」「日本は韓国の優れた文化を受け入れるだけの文化劣等国」「(日本は)有史以来一枚見下げるべき文化的劣等者」「全ての日本文化は朝鮮に源流がある」「百済人が日本を建国した」という歴史観が広く浸透している。
また、「古代に韓民族の中の質の悪い犯罪者を「おぼれ死ね」と丸太に縛って海に流して島にたどり着いたのが国際的なならず者の低質日本民族の正体だ」「『日本猿』と『チョッパリ』、どちらが日本人の呼び名に相応しいか?」などと、極度に侮蔑的な対日論評を日常的に行っている。このように、韓国社会全般では「韓国人の優秀性」と「日本の劣等性・未開性・野蛮性」を扇動する傾向が強く醸成されている。
韓国教授(88)が告白「殺される覚悟で言う。韓国人は強制従軍慰安とか歴史捏造をやめるべきだ」[編集]
"私は88才です。 もう事実を話したいと思います。" チェ・キホ伽耶大学客員教授
朝鮮末期の私は1923年の生まれです。もう韓国のためでも、日本のためでもなく「事実」を話したいと思います。それは相当な覚悟が必要です。 生命の危険も覚悟しています。しかし、これは私の使命であると信じています。
私はソウルに住んでいました。そして、時々、平壌や東京に行きました。その当時の韓国人は「日本人以上の日本人」でした。
「親切でやさしい日本人」という印象を、必死に消すために「反日」を指導者はそそのかしてきました。韓国と日本の歴史教育を比較すると、日本が10%の歪曲といえば、韓国は90%が歪曲です。
朝鮮末期の正常ではないで政治腐敗を教えず、日本が関与しなければ独立ができたことのように使われています。韓日合邦によって「教育」 「医療」 「工業」 「社会インフラ」が整備されました。近代国家の基礎が出来たことは明らかな事実です。
その実績を「日本帝国主義の侵略政策の産物だ!」と糾弾する韓国にはあきれます。より一層「日帝が民族産業を停滞させた!」という主張にはコメントする気持ちもなくなります。
民族産業を殺したのは、朝鮮王朝です。近代化を主張する先進的な思想家は反逆者とし、親族までも処刑されました。韓国人は「日帝の虐待! 性奴隷!」と叫んでいますが、私は信じることができません。歴史の真実を知っているためです。
朝鮮語でキウン「地獄」でした。それは大韓帝国時代になっても同じでした。1904年、日本は朝鮮の惨状を救うために、財政支援を決断します。例えば1907年度、朝鮮王朝の歳入は748万円だったが、歳出は3000万円以上でした。その差額は日本が負担していました。1908年にはより一層増加し、3100万円を支出しています。