日本の首領
『日本の首領』(にほんのどん)は、1977年から1978年まで全3作が制作されたヤクザ映画シリーズ。東映京都撮影所製作、東映配給。1977年1月22日公開の『やくざ戦争 日本の首領』が大ヒットしたため、続編が決定し三部作のシリーズ作品となった。監督の中島貞夫他、主要スタッフは3作とも大体同じである。タイトルの"首領"と書いて"ドン"と読むアイデアは第一部の原作者・飯干晃一の命名でスペイン語だという。
目次
概要[編集]
第一部は山口組三代目組長・田岡一雄と山口組の全国制覇をモデルに、頂点に立つドンと彼の右腕の若頭・地道行雄を中心に、第二部では大阪と東京の二大暴力組織の闘いを、第三部では東西の対立に政財界のフィクサーが加わるという山口組に関わる出来事を集大成した壮大な内容となっている。ただし、三部作は現実の事件をいろいろヒントにしているが、山口組がモデルというより、山口組のイメージをベースとしたもの。第二部の経済事件は山口組とは無関係のフィクションも多い。プロデューサーの俊藤浩滋は「『日本の首領』は任侠映画でも実録映画でもなく、いうなれば両方の折衷みたいなシャシン」と話しており、1977年時点で既に確実にネタが行き詰っていた実録路線の、新たな方向性を模索したヤクザ映画といえる。脚本の高田宏治は本作は「"実録やくざ映画版オールスター映画"で、オールスターものはスケールが大きくなるだけでなく、芝居がかったドラマチックなものになるので、実録にとらわれず、原作を土台にしながら、大胆にフィクションを取り入れて脚本を書き上げた。その結果生まれた従来の実録映画にはないロマネスクな匂いを、やくざ映画を観なかった観客が喜んでくれた」などと話している。1982年の『制覇』も本シリーズ同様、山口組のイメージをベースに組織と家庭の内実に焦点を合わせた内容である。
やくざ戦争 日本の首領[編集]
やくざ戦争 日本の首領 | |
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監督 | 中島貞夫 |
製作総指揮 | |
製作 | 俊藤浩滋、田岡満、日下部五朗、松平乗道 |
脚本 | 高田宏治 |
出演者 | 鶴田浩二 千葉真一 菅原文太 佐分利信 |
音楽 | 黛敏郎、伊部晴美 |
主題歌 | |
撮影監督 | |
撮影 | 増田敏雄 |
編集 | 堀池幸三 |
配給 | 東映 |
公開 | 1977年1月22日 |
上映時間 | 132分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
制作費 | |
興行収入 | |
前作 | |
次作 | 日本の首領 野望篇 |
映画DB | allcinema / allmovie / IMDb |
- スタッフ
- 出演
ストーリー[編集]
関西最大の暴力団・中島組。その事務所に、大手紡績会社・アベ紡績の島原常務が訪れたのは、昭和41年(1966年)秋のことであった。首領である佐倉に、社長のスキャンダル問題の解決を依頼。その代償として、関西の優良企業グループ百社による親睦会を作り、半永久的かつ定期的な献金を申し出た。企業と暴力団の相互依存。しかし、中島組の若頭・辰巳は、あくまでも暴力による全国制覇の夢を抱きつづけているのであった。
孤児だったのを救った佐倉の長女の登志子は青年医師・一宮恭夫との結婚にやくざの父親が障害となり困っていたが、島原の養女として結婚にこぎつける。結婚式には党人派の小野伴水、右翼の大物の大山規久夫も顔を出す。その裏側で中島組の武力進攻が続く。関東の組織との決定的な対立は錦城会と関係が深い大山の政治団体結成の申し出を佐倉が拒絶したことで決定的となる。組員は15000人を超えるが、辰巳の暴力で対立は深まり、列島は血で染まる。
辰巳の武力闘争への佐倉の反対、信頼していた迫田の自殺、奔放な末娘の真樹子の麻薬トラブル、組織暴力壊滅を目指す警察などによって、中島組傘下の各組は追いつめられ、次々と解散する。辰巳までも持病の悪化と警察の締め付けから、佐倉を救う唯一の道は解散しかないと覚悟する。佐倉の許しを得ず、辰巳は病床で解散声明を書こうとするが、一宮が辰巳に多量のモルヒネを注射。辰巳組解散を聞き、警察やマスコミが一宮病院に押し掛けるが、辰巳が息を引きとった後だった。『死因は何か?』と訊く佐倉に「お父さん、私はファミリーの一員ですよ」と一宮が答える。
製作経緯[編集]
- 企画
- 企画は日下部五朗。1973年に岡田茂東映社長と俊藤浩滋がタッグを組んだ田岡一雄の自伝『山口組三代目』、1974年の『三代目襲名』二部作の映画化実現には日下部も度肝を抜かれたが、プロデューサーとして参加したこの二部作が、田岡組長を二宮金次郎的に、修身教科書的に描きすぎたという悔いが残っていた。もっと迫真的・暴露的に権力と暴力が渦巻く世界を見せて、実録といっても末梢神経を刺激するようなものでなく、登場人物を多くして大河小説的な大作を作ってみたいと企画をまとめ岡田社長に提出した。ところが岡田に「もう実録はあかんぞ」と却下された。日下部は実録とは違う球でいきたい、どうしてもやりたいと裏技で東映館主会のボスで、全興連会長の山田敏郎大旺映画社長に頼み込むと「わかった、おれが岡田に言ってやる」といってもらえ無事企画が通った。山田は城戸四郎が元気な頃は、城戸にぴったりし、城戸が亡くなると岡田にぴったり付き、時の権力者をうまく自分の懐に巻き込んで動かす業界の"裏ドン"であった。「城戸賞」も山田の提唱といわれる。製作費4億円。
- タイトル
- 当初、映画のタイトルは飯干の原作と同じ『日本の首領』のままでいく予定だったが、東京の東映の館主が「わけのわからん題名だ」と言うので、岡田が頭に"やくざ戦争"というサブタイトルをくっつけた。これがジャーナリストから「一ぺんに映画が小さくなった」「『仁義なき戦い』の総集編かな」「まったく必要ない」などと酷評された。
- 原作・脚本
- 日下部は「俊藤の下でやっていたら俊藤流の任侠映画になって駄目だ」と独自に旧知の飯干に、大阪を舞台に和製『ゴッドファーザー』といった趣きの原稿を書いてもらい、俊藤に提出するとOKとなった。またいつものように安全弁のため田岡満にプロデューサーとして参加してもらった。三部作全てに飯干が原作としてクレジットされているが、飯干が関わったのは第一部だけで、第二部、第三部は高田宏治のオリジナル脚本である。
- キャスティング
- 日下部は田岡一雄をモデルとする組長役を鶴田浩二で、地道行雄をモデルとする若頭役を高倉健で構想し俊藤に頭を下げて頼むと「まかせておけ」と応えてもらえたが、高倉の出演がなかなか正式に決まらず。何度も念押したが結局ダメになった。高倉は1976年に東映を退社し俊藤の手に負えなくなっており、ヤクザ映画を嫌がっていた。やむなく鶴田を若頭にして組長役は最初は三國連太郎の名前が挙がり、監督の中島貞夫が頼みに行ったがけんもほろろに断られた。すると佐分利信はどうかというアイデアを俊藤が出した。佐分利はヤクザ映画とは結びつかない大物俳優で「やらないんじゃないか」と予想されたが、日下部が直接佐分利と交渉し、佐分利はマネージャーも兼務していてギャラ300万円で承諾した。中島貞夫の著書やインタビューでは最終的に中島と佐分利が会って長く話し、佐分利が出演を承諾したと話している。佐分利の抜擢には俊藤が晩年までそれを自慢していたといわれる。鶴田は実録路線に批判的な意見を公言して、一切実録映画に出ていなかったが、1974年の『あゝ決戦航空隊』以来3年ぶりに映画出演した。中島と鶴田は1969年の『日本暗殺秘録』で天皇制の解釈を巡って揉め、以後10年の間撮影所で逢っても頭も下げない仲であったが俊藤の仲裁で仲直りした。完全にそれまでのわだかまりは解け、佐分利の扱いに苦しむ中島の擁護に回ってくれた。鶴田は敵の多い人物だったが、一度懐に飛び込むと非常に面倒見のいい人だったという。鶴田の命令通り動く非情冷酷な殺し屋に千葉真一。組織悪を知るインテリやくざに松方弘樹。鶴田の女房役には、佐分利の新興成金家庭と対比的な下世話な女房にするため市原悦子がキャスティングされた。麻薬に走り、色情に溺れてヤケになる佐分利の娘役にシンガーソングライターの絵夢が抜擢されている。
- 興行形態
- 中島や高田らが、一本立て興行を主張したが、岡田社長が「1時間40分にせい」と至上命令を出して迫り、「切ったらわけ分らない」、「一本立ての時代です、一本に予算下さい」などと主張し衝突した。高田は脚本を投げ出しそうになったという。第二部の興行成績が第一部と変わらなかったため、岡田がようやく一本立てを了承、第一部『やくざ戦争 日本の首領』は『毒婦お伝と首斬り浅』(主演:東てる美、監督:牧口雄二)との二本立てだったが、二作目『日本の首領 野望篇』から、東映では長らく続いた二本立て(三本立て)を、大作映画に限り一本立て興行とした。角川映画から一年遅れの実行であった。当時の『キネマ旬報』に「東映23年ぶりの一本立て興行」と書かれている。
- 興行成績・その他
- ケチな東映にしては珍しく、完成披露のデモンストレーションが大阪桜宮の太閤園で行われ、関西の東映館主、ジャーナリストら200人が招待された。岡田社長があいさつに立ち、最近京都で作る映画が関西で当たらないのはジャーナリストが協力しないからだなどとイヤ味を言ったが、実録映画が下火になっていた東映にとっては久々の大ヒットを記録、続編製作が決定しシリーズ化された。すると先の東映館主会ボス・山田が日下部に「企画を通してやったんだから、わしの言うことも聞け」と、山田は明治大学の出身でラグビーを応援してると無理やり『ラグビー野郎』(矢吹二朗主演・清水彰監督、1976年5月15日公開)を作らされてこちらは大コケした。
日本の首領 野望篇[編集]
日本の首領 野望篇 | |
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監督 | 中島貞夫 |
製作総指揮 | |
製作 | 俊藤浩滋、日下部五朗、松平乗道、田岡満 |
脚本 | 高田宏治 |
出演者 | 佐分利信 松方弘樹 岸田今日子 金沢碧 高橋悦史 菅原文太 三船敏郎 |
音楽 | 黛敏郎、伊部晴美 |
主題歌 | |
撮影監督 | |
撮影 | 増田敏雄 |
編集 | 堀池幸三 |
配給 | 東映 |
公開 | 1977年10月29日 |
上映時間 | 141分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
制作費 | |
興行収入 | |
前作 | やくざ戦争 日本の首領 |
次作 | 日本の首領 完結篇 |
映画DB | allcinema / allmovie / IMDb |
- スタッフ
- キャスト
- 【横浜・中島組系桜商事(松枝商事)】
- 【加古川・中島組系河元組】
- 【政財界】
- ジャパンシップ(モデル・ジャパンライン/現商船三井前身のナビックスライン)
- 【関東同盟】
- 【その他】
ストーリー[編集]
昭和四十六年、一宮病院を退院した中島組組長・佐倉一誠の盛大な全快祝賀パーティが開催された。構成員四百団体、一万二千人は全盛時にくらべやや減ってはいるものの、あいかわらず全国一の勢力を誇っていた。危機に追い込まれていた組をここまで再建したのは、一宮恭夫と松枝四郎であった。佐倉の退院を機に中島組の関東進出は急務となり、その第一歩として新組織「桜商事」を設立し、その指揮に松枝が当った。「桜商事」の目的は中央の政財界に強力なコネクションをつけることで、最初の仕事がジャパンシップ乗っ取りの介入だった。これをいち早く察知したのは東京の暴力団の大物、松風会会長・大石剛介だった。大石は東京の暴力団を連合する「関東同盟」を結成し、右翼の巨頭・大山規久夫を顧問に迎えた。大山は後藤通産大臣に圧力をかけ、中島組が買占めたジャパンシップの株式の買戻しを強行する。「桜商事」の若宮洋一郎がこの事件の餌食となって殺された。これがきっかけとなって、中島組対関東同盟の抗争は表面化するが、中島組内部では辰巳の死以来空席となっている若頭の地位をめぐって、野心と思惑が入りみだれる。
製作経緯[編集]
- 製作
- 当時の併映作品の製作費が5000万~6000万円ぐらいだったので、その分を投入して一本立てのスタイルにした方がいいという意見が前作のときに出て、本作から大作の場合の一本立て興行が始まった。飯干の原作は一本目で終わり、スポーツニッポンに連載されていた高田の原作と映画が同時進行で製作が行われた。エッセンスは一本目で使い切っているため、かなりフィクションを入れていく作業になった。デヴィ夫人(演者:金沢碧)のモデルが出るなど、「それまでのやくざ映画にはなかった女たちのドラマを入れた」と高田は話している。本作に描かれた最大のエピソードは、スカルノ大統領を巡るインドネシアの戦後補償であるが、これには山口組は関わっておらず、この仕掛け人は自民党政権や伊藤忠商事に太いパイプを持っていた東日貿易社長・久保正雄で久保は長嶋茂雄や高倉健の後援者でもあった。
- キャスティング
- 目玉は三船敏郎の東映初出演。"松竹三羽烏"として大船調メロドラマをホームグラウンドにした知性派スター・佐分利信vs黒澤映画での超男性的な演技で国際的評価を獲得した"世界のミフネ"、ともに日本映画を代表する名優がスクリーン上で対峙する構図の実現は大きな話題を呼んだ。中島貞夫は当時三船プロダクションが経営が苦しく1978年の『犬笛』を三船プロが製作するため、中島が撮りに行く交換条件として、「菅原文太も貸しましょう、代わりに三船さんを」となって話が決まったと話している。当時の『キネマ旬報』には元々、第一部でキャスティングされたが、映画の公開が変更になってご破算になり、その後、俊藤が三船に何度も会い出演を要請し、1977年7月のモスクワ国際映画祭に岡田社長と三船が同行し、岡田が口説いて出演が決まったと書かれている。この頃、角川映画の大成功で、外部からの映画界進出を歓迎するムードに一変。三船プロを主宰する三船にとっても好ましい状況が出現し、本来の映画製作に乗り出せる、自身も「邦画に積極的に出演する、東映初出演はそのための第一歩だ」と話していた。三船は「東映のヤクザ映画は観たことない。菅原文太は当然名前は知ってるがグラビアで見たくらいだ」と話した。
日本の首領 完結篇[編集]
日本の首領 完結篇 | |
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監督 | 中島貞夫 |
製作総指揮 | |
製作 | 俊藤浩滋、日下部五朗、松平乗道、田岡満 |
脚本 | 高田宏治 |
出演者 | 三船敏郎 菅原文太 大谷直子 高橋悦史 片岡千恵蔵 佐分利信 |
音楽 | 黛敏郎、伊部晴美 |
主題歌 | |
撮影監督 | |
撮影 | 増田敏雄 |
編集 | 堀池幸三 |
配給 | 東映 |
公開 | 1978年9月9日 |
上映時間 | 131分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
制作費 | |
興行収入 | |
前作 | 日本の首領 野望篇 |
次作 | |
映画DB | allcinema / allmovie / IMDb |
- スタッフ
- キャスト
- 【大阪・中島組】 (モデル・山口組)
- 【中島組系川西組】総会ゴロ、サルベージ、整理屋、手形のパクリ、麻薬と手広く稼ぐ
- 【関東同盟】 650の関東ヤクザが加盟する表向きは合法組織
- 【政財界】
- 片岡千恵蔵(特別出演)(右翼の黒幕・大山喜久夫)(モデル・児玉誉士夫)全国の博徒を束ねる大日本同志会(モデル・東亜同友会)の結成をもくろむ日本の首領。
- 小林稔侍(大山の秘書・志賀竹之幼)
- 金子信雄(政民党幹事長・平山英格)(モデル・田中角栄)総裁選に出馬
- 成瀬正(四国平山会の司会者)
- 仲谷昇(伊庭官房長官)
- 西村晃(政民党中同会会長/前建設政務次官・刈田重徳)長野出身
- 京唄子(刈田の妾/クラブのママ・庄内良子)
- 織田あきら(刈田の庶子/ジゼルのマネージャー・庄内春夫)
- 田口久美(春夫と同棲する混血歌手・ジゼル)
- 相馬剛三(松原産業社長・松原太一郎)56歳
- 永井秀明(松原産業役員・石渡)
- 北村英三(松原産業の子会社社長・木村宇市)
- 大谷直子(木村の娘・由紀子)
- 田島義文(信州銀行常務・松井)
- 安部徹(帝国興業会長・横川健太郎)(モデル・横井英樹)
- 稲葉義男(住宅公団総裁・里見)
- 【検察】
- 鈴木瑞穂(鬼島検事正)
- 【大阪府警本部捜査四課】
- 【その他】
- 中村錦司(三島武明)
- 疋田泰盛(岩野惣吉)
- 桐島好郎(村田保男)
- 高田宏治(山根惣吉)
- 大木晤郎(森田)
- 細川ひろし(戸杉)
- 森山秀幸(末永)
- 高並功(三木)
- 津野途夫(重松)
- 笹木俊志(遠藤守和)
- 白川浩二郎(桑野貴臣)
- 川浪公次郎(舟瀬一郎)
- 平河正雄(石川進一)
- 幸英二(辻保明)
- 池田謙治(松下勇次)
- 司裕介(森山建司)
- 勝野健三(門田肇)
- 片桐竜次(ブラウン)
- 奈辺悟(村上勝)
- 志茂山高也(前田豊)
- 河合絃司(島田隆男)
- トニー・ダイヤ(ジェラード)
- 大月正太郎(川添)
- 稲垣陽子(吉見)
- 森源太郎(杉)
- 芦田鉄雄(リカルト・アベイラ)
- 片岡五郎(マイク清島)
- 穂高稔(近松)
- 秋山勝俊(正木)
- 蓑和田良太(青野)
- 唐沢民賢(小山)
- 榊淳(美枝)
- 山科みゆき(邦子)
- 星野美恵子(看護婦)
- 島田秀雄(医師)
- 大江光(老婆)
- 友金敏雄(アナウンサー)
- 堀越欣彦(川西の少年時代)
- 壬生新太郎(新聞記者)
- 下之坊正道(安藤)
- 三浦徳子(松下しのぶ)
- 戸田ユカ(誠子)
製作経緯[編集]
- キャスティング
- 撮影時に佐分利信の体調がよくなく、佐分利を中心とした話が書けず三船敏郎が主演になった。東映の宣材にも「三船敏郎8年ぶりの主演」と書かれた。三船、佐分利に対抗する、その上を行くような人物が欲しいと片岡千恵蔵の名前が挙がり、「御大はヤクザ映画は出ないだろう」という予想に反し「中島貞夫なら出る」と出演を了承した。片岡は1972年の『純子引退記念映画 関東緋桜一家』以来の映画出演だった。片岡は二作目で内田朝雄が演じた児玉誉士夫をモデルとする大山喜久夫を演じる。三船、佐分利、片岡のギャラが特に高く、一本立て大作でもサイパンロケが少数でしか行けないほど圧迫した。菅原文太は三部作でそれぞれ別の役柄で登場するが、この完結編でのモデルは山本健一である。三部作の脚本を担当した高田が総会屋の役で端役出演している。
影響[編集]
- 本シリーズは一本立て興行の始まりという点でも、それまでプログラムピクチャー体制を維持していた東映にとって1970年代後半に於けるエポック・メイキングな映画となった。当時、角川映画の影響を受けて日本の映画界は日活を除き、全社一本立て興行を始めたが、岡田茂はこの頃から角川春樹や西崎義展ら、外部プロデューサーとの提携を図っておりさらにプログラムピクチャーを低予算で外注させるため1977年暮れ東映セントラルフィルムを設立させた。この東映セントラルフィルムは独立プロに映画の製作を発注し自社製作の場合は黒澤満を長とするセントラル・アーツが行ったため日活OBを中心としたセントラル・アーツは東映の撮影所(東京・京都撮影所)を使わず日活撮影所を使った。このため東映の映画製作は急激に減った。1978年には本作を含め『柳生一族の陰謀』、『宇宙からのメッセージ』、『冬の華』、『赤穂城断絶』の5本の一本立て興行があり、これが合計5ヶ月、春休みと夏休みの東映まんがまつりが計6週間、大映映画が3週間、東映セントラルフィルム製作が計6週間あり、東京・京都撮影所の作品数は前年の約半分、計13本になった。これを受けて岡田は東京・京都撮影所の合わせて約250人の他事業部門への配置転換を実行した。