大東亜戦争
大東亜戦争(だいとうあせんそう、Greater East Asia War)は、日本対米英支などの連合国との間で1941年から1945年まで続いた戦争(支那事変は1937年から)。結果は連合国の勝利に終わった。本項では「支那事変」、「対米英蘭豪加戦」両方について記述する。 今日の教科書では前者は「日中戦争」、後者は「太平洋戦争」の名称で記述されることが多いがこれは戦後に作られた名称である。(後述)
大東亜聖戦と呼称されることもある。
目次
呼称について[編集]
「太平洋戦争」という呼称は、被占領期に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領政策における検閲(「大東亜戦争」の語を「太平洋戦争」へ強制的に書き換えさせた)によって定着した名称であり、当時の日本側の公式な呼称は「大東亜戦争」である。現在の日本政府は「太平洋戦争」と「日中戦争」(支那事変)と区別し呼んでいる。(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムも参照。)
イギリスでは「War with Japan(対日戦争)」と呼ばれ、アメリカでは「Pacific Theater(日本語に訳せば太平洋戦域)」という術語が広く使用された。ちなみに日本では一般的に1941年12月8日の真珠湾攻撃からを太平洋戦争と呼ぶが、西洋では特に第二次世界大戦と区別されず、日中戦争をふくめ盧溝橋事件の発生した1937年7月7日からを太平洋戦争とみなしている。ちなみにドイツ国がポーランドに侵攻・占領し、これに対してイギリスとフランスが宣戦したのが1939年9月1日で、対日講和条約ではこの日を勃発日と定義している。
中華民国と中華ソビエト(現中華人民共和国)では日中戦争として認識され、8年間としている。なお、日本では支那事変は1941年12月12日以降は大東亜戦争に組み込まれたが、対戦経緯の違いから前者は対中戦(日中戦争)・後者は対米戦(太平洋戦争)として区別し認識される。また日本では昭和に起きた戦争を総称し15年戦争、昭和戦争、アジア・太平洋戦争との呼称も一部で用いられる。
同様に「支那事変」という名称も戦後嫌避される様になった名称である。(日教組、左派勢力による圧力のため。)
開戦理由[編集]
日本
- 対日禁輸行為による治安維持(=革命・国内混乱防止)のための戦争。
- 大義上は開戦時、戦争目的は自存自衛を全うしアジアを欧米の支配から解放し、そして「大東亜共栄圏」を建設することであると宣言した。
アメリカ
- ドイツ第三帝国とのイデオロギー戦争。対英支援戦争。対日人種戦争。
開戦前史[編集]
支那事変の泥沼化と三国同盟の締結[編集]
1937年(昭和12年)に勃発した支那事変において、日本政府は現地解決・不拡大方針など事態を最小限で収拾しようと試みたが大紅門事件、蘆溝橋城中国軍発砲事件、郎坊事件、広安門事件、大山中尉殺害事件、第二次上海事変など度重なる中国軍側による挑発・攻撃行動が発生、通州事件(中国共産党の停戦妨害工作の一つとして行われた在支日本人大虐殺事件)[1]などが発生し在支邦人への危険性が迫ったことなどから軍事行動(対支一撃論)を主張する陸軍を抑えきることができず国民の大多数の支持もあり、日支両軍による大規模な全面衝突(事変)に発展してしまった。日本軍は、北京や上海などの主要都市を占領、続いて中華民国政府の首都が置かれた南京を陥落させたが、蒋介石率いる国民党は首都を後方の重慶に移し抗戦を続けた。国民党軍はアメリカやイギリス、ソ連から軍需物資や人的援助(援蒋ルート)を受け、地の利を活かし各地で抵抗、徐州会戦や武漢会戦が発生した。また正規戦法以外に督戦隊戦法やゲリラ戦術、清野戦術などの戦術を用い日本軍を撹乱した。一方、西安事件を通じ成立した国共合作に基づき中国共産党軍(八路軍)も山奥の延安を拠点に朱徳率いる八路軍や新四軍が日本軍にゲリラ戦を仕掛けた。支那事変の戦線は伸び未曾有の長期戦に陥っていた。
劣勢にあった蒋介石は国際世論(欧米世論)を味方につけるために国民党中央宣伝部国際宣伝処[2]を組織し地道なプロパガンダ戦術を展開した。(いわゆる「南京大虐殺もその一つ」)これに対しニューヨークタイムズをはじめ、グラフ雑誌ライフなどの欧米の民間メディアも協力し支那事変を題材とした記事を通じて世論誘導を行い読者に大きな影響(『Poor China(可哀想な中国)』という標語も生まれた)を与え、次第に欧米の世論は長引く一連の日本軍の軍事行動に対し厳しい反応を示すようになった。また中国大陸に大きな権益を持っていたイギリス、満洲(石井・ランシング協定)以来大陸進出の機会を窺っていたアメリカは日本による中国大陸の平定とそれに伴う中国の覚醒が欧米諸国が支配していたインドやアジア・アフリカなどの植民地に影響を及ぼすのを警戒し撤兵を求めた。一方、日本は1940年(昭和15年)9月27日にドイツ、イタリアと日独伊三国軍事同盟を締結し国際的な発言力を強めようとしたが、この外交政策はかえって独伊と英米との国際対立に巻き込まれる形となり、一層日米関係を悪くする結果となった。
第二次欧州戦線の勃発と欧米の情勢[編集]
1939年、ドイツがポーランドに侵攻したことによって欧州では第二次世界大戦が勃発した。1940年頃には、西ヨーロッパの多くがその占領下となり、唯一ドーバー海峡を挟んで大英帝国が連合国最後の砦として苦しい抵抗を続けていた。一方、大西洋を挟んだアメリカ合衆国では、1940年10月に行われた米大統領選挙で三選を果たしたフランクリン・ルーズベルトが「アメリカは民主主義の兵器廠(工場)になる」と発表し、イギリスへの援助を公然と表明した。翌年にはイギリスへの武器貸与法を成立させ、さらに米英最高軍事参謀会議(通称ABC会議)を開いてABC協定[3]を成立させた。しかし、当時のアメリカは国民の多くがナチズムの台頭に恐怖を抱きつつも第一次世界大戦の教訓からモンロー主義を唱え、欧州での戦争に対し不干渉を望む声が多かった。ルーズベルトもウィンストン・チャーチルの再三の催促にも関わらず、11月の大統領選挙で「私は青年たちを戦場に送らない」と宣言し当選したばかりで直ちに欧州戦線に介入出来ない状況にあった[4]。もっとも国内世論だけでなく、参戦するには様々な準備が必要でヨーロッパ戦線に参入できるのは1943年7月以降になるとみていた。そんな中、ドイツと同盟関係にあり、中国と問題を起こして経済制裁を受けていた日本が交渉を求めてきた。日米交渉は米国にとって格好の引き延ばし戦術の材料となると共に、第一撃を日本に加えさせ[5]ことで、国内の孤立主義派を一挙に封じ込め、対独戦に介入する口実になると考えられた[6]。
日米交渉の決裂と南進論の活発化[編集]
米国は対日情報戦略を強化し、1940年9月には日本側(外務省・大日本帝国海軍)が使用していた暗号解読機(九七式欧文印刷機)のコピーマシンを完成させ、12月までに8台を製作。米政府・米軍・イギリス側に配備され、その後の対日外交・戦略に活かされた。
一方日本は、1940年、徹底抗戦を続ける重慶中華民国政府への軍事物資の補給ルートを遮断するために親枢軸的中立国のヴィシー政権との協定をもとに9月、フランス領インドシナに進駐し、援蒋仏印ルートを遮断したが、新たに援蒋ビルマルートが作られた。
1941年4月から日本の近衞文麿内閣は関係改善を目指してワシントンD.C.でアメリカと交渉を開始したが、日本軍は7月2日の御前会議における「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」[7](対ソ戦準備・南部仏印進駐)の決定に従い、7月28日に南部仏印へ進駐した。
これに対しアメリカ[8]は7月25日に在米日本資産を凍結[9]、8月1日には「全ての侵略国」への石油輸出禁止の方針を決定し、日本に対しても石油輸出の全面禁止という厳しい経済制裁を発令し、イギリスとオランダもただちに同調した(ABCD包囲陣)。この制裁は石油や鉄類、工作機械などの70%以上をアメリカから輸入していた日本にとって致命的[10]なもので、対日制裁を決めた会議の席上、ルーズベルトも「これで日本は蘭印に向かうだろう。それは太平洋での戦争を意味する」と発言している。
9月3日、日本では、大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議され、9月6日の御前会議で「外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」と決定された。近衞は日米首脳会談による事態の解決を決意して駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーと極秘会談し、日米首脳会談の早期実現を強く訴えたが、10月2日、アメリカ国務省は日米首脳会談を事実上拒否する回答を日本側に示した。
戦争の決断を迫られた近衞は対中撤兵による交渉に道を求めたが、これに反対する東條英機陸相は、総辞職か国策要綱に基づく開戦を要求したため、10月18日に近衞内閣は総辞職する。後を継いだ東條英機内閣は、11月1日の大本営政府連絡会議で改めて帝国国策遂行要領を決定し、要領は11月5日の御前会議で承認された。以降、大日本帝国陸海軍は、12月8日を開戦予定日として対米英蘭戦争の準備を本格化した。
11月6日、南方作戦を担当する各軍の司令部の編制が発令され、南方軍総司令官に寺内寿一大将、第14軍司令官に本間雅晴中将、第15軍司令官に飯田祥二郎中将、第16軍司令官に今村均中将、第25軍司令官に山下奉文中将が親補された。同日、大本営は南方軍、第14軍、第15軍、第16軍、第25軍、第55師団南海支隊の戦闘序列を発し、各軍及び支那派遣軍に対し南方作戦の作戦準備を下令した。
11月20日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使はコーデル・ハルアメリカ合衆国国務長官国務長官に対し交付し、最終交渉に当たったが、蒋介石、イギリス首相チャーチルの働きかけもある中、アメリカ大統領ルーズベルトは、11月26日朝、アメリカ海軍から台湾沖に日本の船団の移動報告を受けた[11]こともあり、ルーズベルトは両案とも拒否し、中華民国・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、いわゆるハル・ノートを来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使に提示した。これを日本に対する明らかな最後通告(事実上の宣戦布告)であり12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を決定した。
経過[編集]
序盤は日本が圧勝し続けた[12]がミッドウェー海戦後から戦局が悪化し後半は物量に勝る連合国が大反抗作戦を展開した。日本は連合国に甚大な被害を与えたが結局は物量に敗れた。1945年に日本軍は無条件降伏[13]した。
支那事変[編集]
盧溝橋事件を契機として勃発。支那軍は卑怯なゲリラ戦術、焦土戦術、プロパガンダ戦術を展開するも終戦まで日本軍は連戦連勝であった。
対米英戦の敗北に伴い撤退。日本軍死者は46万人、支那人死者は130万人であった。
1941年[編集]
12月8日(JST)、6隻の航空母艦から発進した日本海軍機による当時のアメリカ自治領ハワイ・真珠湾のアメリカ海軍太平洋艦隊に対する攻撃(真珠湾攻撃)が行われた。日本海軍は、アメリカ太平洋艦隊をほぼ壊滅させたが、第2次攻撃隊を送らず、オアフ島の燃料タンクや港湾設備を徹底的に破壊しなかった事、攻撃当時アメリカ空母が出港中で、空母と艦載機を破壊できなかった事が、後の戦況に影響を及ぼす事になる。
12月10日、日本海軍双発爆撃機隊(九六式陸上攻撃機と一式陸上攻撃機)の巧みな攻撃により、当時世界最強の海軍を自認していたイギリス海軍東洋艦隊の、当時最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを一挙に撃沈した(マレー沖海戦)。なお、これは史上初の航空機の攻撃のみによる行動中の戦艦の撃沈であり、この成功はその後の世界各国の戦術に大きな影響を与えた。なお、当時のイギリス首相チャーチルは後に「第二次世界大戦中にイギリスが最も大きな衝撃を受けた敗北だ」と語った。
イギリス軍への攻撃は宣戦布告無く開始され、アメリカ政府への宣戦布告文書交付は、駐米大使館での暗号文書き起こし、大使館員のタイプ遅延などのため、外務省の指令時間より1時間近くも遅れた。このため、英米への攻撃が「だまし討ちだ」と、その後長年に渡ってアメリカ政府によって喧伝される事となった(なお、1939年9月のドイツとソ連のポーランド攻撃は完全に宣戦布告が行なわれかったが、このように喧伝されることは無かった。さらに、戦時国際法では期限のない最後通牒を、事実上の宣戦布告とみなすことは可能、とするのが通説であることに鑑みれば、ハル・ノートを突きつけられた時点で、これは宣戦布告に等しい。
かねてより参戦の機会を窺っていたアメリカは、真珠湾攻撃を理由に連合軍の一員として正式に参戦した。また、既に日本と支那事変で戦争状態の中華民国は12月9日、日独伊に対し正式に宣戦布告 。12月11日には、日本の対連合国へ宣戦を受け、日本の同盟国ドイツ、イタリアもアメリカへ宣戦布告。これにより、戦争は名実ともに世界大戦としての広がりを持つものとなった。
当時日本海軍は、短期間で勝利を重ね、有利な状況下でアメリカ軍をはじめ、連合軍と停戦に持ち込むことを画策。そのため、負担が大きくしかも戦略的意味が薄い、という理由でハワイ諸島への上陸は考えていなかった。しかし、ルーズヴェルト大統領以下、当時のアメリカ政府首脳は、日本軍のハワイ上陸を本気で危惧し、ハワイ駐留軍の本土への撤退を想定していた。さらに、日本海軍空母部隊によるアメリカ本土西海岸空襲、アメリカ本土侵攻の可能性が高い、と分析していた。
日本陸軍は12月8日、タイ国国境に近いイギリス領マレー半島[14]・コタバルへ上陸し、シンガポールを目指し半島を南下。同日、日本陸海軍機がフィリピン[15]の米軍基地を攻撃し、12月10日にはルソン島へ上陸。さらに太平洋のアメリカ領グアム島も占領。12月23日にはウェーク島も占領。 ボルネオ(現カリマンタン)島[16]、ジャワ島とスマトラ島[17]などにおいて、イギリス・アメリカ・オランダなど連合軍に対する戦いで大勝利を収めた。12月25日にはイギリス領香港を占領した。しかし日本軍は、ポルトガル植民地東ティモールと、香港に隣接するマカオには、中立国植民地を理由に侵攻しなかった。[18]
中国戦線において、中国国民党の蒋介石率いる中華民国政府は、アメリカやイギリス、ソ連からの豊富な軍需物資、戦闘機部隊や軍事顧問など、人的援助を受けた。日本軍は、地の利が有る国民党軍の攻撃に足止めされ、中国共産党軍(八路軍と呼ばれた)はゲリラ戦を展開、絶対数の少ない日本軍を翻弄し、泥沼の消耗戦を余儀なくされた。なお、満洲国[19]や中華民国南京国民政府[20]も、日本と歩調を合わせて連合国に対し宣戦布告した。
1942年[編集]
東南アジア唯一の独立国だったタイ王国は、当初は中立を宣言していたが12月21日、日本との間に日泰攻守同盟条約を締結し、事実上枢軸国の一国となった事で、この年の1月8日からイギリス軍やアメリカ軍がバンコクなど都市部への攻撃を開始。これを受けてタイ王国は1月25日にイギリスとアメリカに宣戦布告した。
2月、日本海軍伊号第一七潜水艦が、アメリカ西海岸カリフォルニア州・サンタバーバラ市近郊エルウッドの製油所を砲撃。製油所の施設を破壊した。続く同6月、オレゴン州のアメリカ海軍基地を砲撃し被害が出た事も有り、アメリカは本土への日本軍上陸を危惧した。一方、早期和平を意図していた日本はアメリカ本土侵攻の意図は無かった。しかし、これらアメリカ本土攻撃がもたらした日本軍上陸に対するアメリカ政府の恐怖心と、無知による人種差別的感情が、日系人の強制収容の本格化に繋がったとも言われる。
日本海軍は、同月に行われたジャワ沖海戦でアメリカ、イギリス、オランダ海軍を中心とする連合軍諸国の艦隊を打破する。続くスラバヤ沖海戦では、連合国海軍の巡洋艦が7隻撃沈されたのに対し、日本海軍側の損失は皆無と圧勝した。
2月15日には、イギリスの東南アジアにおける最大の拠点シンガポールが陥落。 また、3月のバタビア沖海戦でも日本海軍は圧勝し、相次ぐ敗北によりアジア地域の連合軍艦隊はほぼ壊滅した。まもなくジャワ島に上陸した日本軍は疲弊したオランダ軍を制圧し同島全域を占領。この頃、フィリピンの日本軍はコレヒドール要塞を制圧し、太平洋方面の連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは多くのアメリカ兵をフィリピンに残したままオーストラリアに逃亡した。また、日本陸軍も3月8日、イギリス植民地ビルマ(現在はミャンマー)首都ラングーン(現在はヤンゴン)を占領。日本は連戦連勝、破竹の勢いで占領地を拡大した。しかし、4月18日、空母ホーネットから発進した米陸軍の双発爆撃機B-25による東京空襲(ドーリットル空襲)は、日本の軍部に衝撃を与えた。
日本海軍航空母艦を中心とした機動艦隊はインド洋にも進出し、空母搭載機がイギリス領セイロン[21]のコロンボ、トリンコマリーを空襲、さらにイギリス海軍の航空母艦ハーミーズ、重巡洋艦コーンウォール、ドーセットシャーなどに攻撃を加え多数の艦船を撃沈した(セイロン沖海戦)。 イギリス艦隊は大打撃を受けて、日本海軍機動部隊に反撃ができず、当時植民地だったアフリカ東岸ケニアのキリンディニまで撤退した。なお、この攻撃に加わった潜水艦の一隻である伊号第三〇潜水艦は、その後8月に戦争開始後初の遣独潜水艦作戦(第一次遣独潜水艦)としてドイツ[22]へと派遣され、エニグマ暗号機などを持ち帰った。イギリス軍は、敵対する親独フランス・ヴィシー政権の植民地、アフリカ沖のマダガスカル島を、日本海軍の基地になる危険性のあったため、南アフリカ軍の支援を受けて占領した(マダガスカルの戦い)。この戦いの間に、日本軍の特殊潜航艇がディエゴスアレス港を攻撃し、イギリス海軍の戦艦を1隻大破させる等の戦果をあげている。
日本軍は第二段作戦として、アメリカ・オーストラリア間のシーレーンを遮断し、オーストラリアを孤立させる「米豪遮断作戦」(FS作戦)を構想した。5月には、日本海軍の特殊潜航艇によるシドニー港攻撃が行われ、オーストラリアのシドニー港に停泊していたオーストラリア海軍の船艇1隻を撃沈した。
5月7日、8日の珊瑚海海戦では、日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘を交えた。この海戦でアメリカ軍は大型空母レキシントンを失ったが、日本軍も小型空母祥鳳を失い、大型空母翔鶴も損傷した。この結果、日本軍はニューギニア南部、ポートモレスビーへの海路からの攻略作戦を中止。陸路からのポートモレスビー攻略作戦を推進するが、オーウェンスタンレー山脈越えの作戦は困難を極め失敗する。海軍上層部は、アメリカ海軍機動部隊を制圧するため中部太平洋のミッドウェー島攻略を決定する。
6月4日 - 6日にかけてのミッドウェー海戦では、日本海軍機動部隊は作戦ミスと油断により主力正規空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙に失い(米機動部隊は正規空母1隻(ヨークタウン)を損失)。加えて300機以上の艦載機と多くの熟練パイロットも失った。この敗北は大東亜戦争の転換点となった。この海戦後、日本海軍保有の正規空母は瑞鶴、翔鶴のみとなり、急遽空母の大増産が計画されるが、終戦までに完成した正規空母は4隻(大鳳、天城、雲龍、葛城の4隻)のみであった(なお、アメリカは終戦までにエセックス級空母を14隻戦力化させている)。日本軍の圧倒的優位だった空母戦力は拮抗し、アメリカ海軍は予想より早く反攻作戦を開始する。また、大本営は、相次ぐ勝利に沸く国民感情に水を差さないようにするため、この海戦の大敗をひた隠しにする。
9月には日本海軍の伊一五型潜水艦伊号第二五潜水艦の潜水艦搭載偵察機零式小型水上偵察機がアメリカ西海岸のオレゴン州を2度にわたり空襲、火災を発生させるなどの被害を与えた(アメリカ本土空襲)。この空襲は、現在に至るまでアメリカ合衆国本土に対する唯一の外国軍機による空襲となっている。相次ぐ敗北に意気消沈する国民に精神的ダメージを与えないため、アメリカ政府も、爆撃があった事実をひた隠しにする。
8月7日、アメリカ海軍は最初の反攻として、ソロモン諸島のツラギ島およびガダルカナル島に上陸、完成間近であった飛行場を占領した。これ以来、ガダルカナル島の奪回を目指す日本軍と米軍の間で、陸・海・空の全てにおいて一大消耗戦が繰り広げることとなった(ガダルカナル島の戦い)。同月に行われた第一次ソロモン海戦ではアメリカ、オーストラリア海軍などからなる連合軍は日本海軍による攻撃で重巡4隻を失う敗北を喫する。
その後、第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤を失い敗北し、島を巡る戦況は泥沼化する。10月に行われた南太平洋海戦では、日本海軍機動部隊が意地を見せ、アメリカ海軍の空母ホーネットを撃沈、エンタープライズを大破させた。先立ってサラトガが大破、ワスプを日本潜水艦の雷撃によって失っていたアメリカ海軍は、一時的に太平洋戦線での稼動可能空母が0という危機的状況へ陥った。日本は瑞鶴以下5隻の稼動可能空母を有し、数の上では圧倒的優位な立場に立ったが、度重なる海戦で熟練搭乗員が消耗し、補給戦が延びきったことにより、新たな攻勢に打って出る事ができなかった。 それでも、数少ない空母を損傷しながらも急ピッチで使いまわした米軍と、ミッドウェーのトラウマもあってか空母を出し惜しんだ日本軍との差はソロモン海域での決着をつける大きな要因になったといえる。その後行われた第三次ソロモン海戦で、日本海軍は戦艦2隻を失い敗北した。アメリカ海軍はドイツのUボート戦法に倣って、潜水艦による通商破壊作戦を実行。日本軍の物資・資源輸送船団を攻撃。ガダルカナル島では補給が途絶え、餓死する日本軍兵士が続出した。長引く消耗戦により、1国でイギリス、アメリカ、オーストラリア、中華民国を相手にする日本は次第に守勢に回るようになる。
1943年[編集]
1月、日本海軍はソロモン諸島のレンネル島沖海戦でアメリカ海軍の重巡洋艦シカゴを撃沈する戦果を挙げたが、島の奪回は絶望的となっていた。2月には、日本陸軍はガダルカナル島から撤退(ケ号作戦)した。半年にも及ぶ消耗戦により、日米両軍に大きな損害が生じた。ソロモン諸島での戦闘は依然続き、7月のコロンバンガラ島沖海戦で、日本海軍艦艇は巧みな雷撃によりアメリカ艦隊に勝利するが、日本軍は物量に勝る連合軍によって次第に圧迫されていく。
4月18日、日本海軍の連合艦隊司令長官の山本五十六海軍大将[23]が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空でアメリカ海軍情報局による暗号解読を受けたロッキードP-38戦闘機の待ち伏せを受け、乗機の一式陸上攻撃機を撃墜され戦死した(詳細は「海軍甲事件」を参照)。しかし大本営は、作戦指導上の機密保持や連合国による宣伝利用の防止などを考慮して、山本長官の死の事実を5月21日まで伏せていた。この頃日本海軍の暗号の多くはアメリカ海軍情報局により解読されており、アメリカ軍は日本海軍の無線の傍受と暗号の解読により、撃墜後間もなく山本長官の死を察知していたことが戦後明らかになった。なお、日本政府は「元帥の仇は増産で(討て)」との標語を作り、山本元帥の死を戦意高揚に利用する。
5月には北太平洋アリューシャン列島のアッツ島にアメリカ軍が上陸。日本軍守備隊は全滅し(アッツ島の戦い)、大本営発表で初めて「玉砕」という言葉が用いられた。。
ニューギニア島でも激戦が続いていたが、物資補給の困難から、8月頃より日本軍の退勢となり、年末には同方面の日本軍の最大拠点、ラバウルは孤立化し始める。一方、初戦の敗退を乗り越え、戦力を整えたアメリカ軍はこの年の11月からいよいよ反攻作戦を本格化させ、南西太平洋方面連合軍総司令官のダグラス・マッカーサーが企画した「飛び石作戦(日本軍が要塞化した島を避けつつ、重要拠点を奪取して日本本土へと向かう)」を開始する。11月にはギルバート諸島のマキン島、タラワ島の戦いで日本軍守備隊が全滅、同島はアメリカ軍に占領された。
11月に日本の東条英機首相は、満洲国、タイ王国、フィリピン、ビルマ、自由インド仮政府、南京国民政府などの首脳を東京に集めて大東亜会議を開き、大東亜共栄圏の結束を誇示する。しかしこの年の年末には、完全に態勢を立て直したアメリカ軍に加え、イギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、中華民国軍など、数カ国からなる連合軍と、さしたる味方もなく1国で戦う上、兵士の補給や兵器の生産、軍需物資の補給に困難が生じる日本軍との力関係は、連合国有利へと傾いていった。
1944年[編集]
ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開するため9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を無視した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。これ以降、ビルマ方面での日本軍は壊滅状態となる。同作戦の失敗により翌年、アウン・サン将軍率いるビルマ軍に連合軍へ寝返られ、結果として翌年に日本軍はビルマを失うことになる。
5月頃には、米軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。作戦自体は成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。6月からは中国・成都を基地とするB-29による北九州爆撃が始まった。
連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けた。
6月、最重要地点マリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍はこれに反撃し、マリアナ沖海戦が起きる。ミッドウェー海戦以降、再編された日本海軍機動部隊は空母9隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し迎撃したが、アメリカ側は15隻もの空母と艦艇、日本の倍近い艦載機という磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムで遅れをとっていた日本軍は惨敗を喫する。旗艦大鳳以下空母3隻、多くの艦載機と搭乗員を失った日本海軍機動部隊は壊滅した。しかし、戦艦部隊はほぼ無傷で、10月末のレイテ沖海戦ではそれらを中心とした艦隊が編成される。
陸上では、艦砲射撃、空爆に支援されたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島、テニアン島、グアム島に次々に上陸。7月、サイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕。多くの非戦闘員が死亡した。続く8月、テニアン島、グアム島が連合軍に占領され、アメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着可能な滑走路の建設を開始した。この結果、日本の東北地方北部と北海道を除く、ほぼ全土がB-29の航続距離内に入り、本土空襲の脅威を受けるようになる。この年の11月24日から、サイパン島の基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京の中島飛行機武蔵野製作所を爆撃し、本土空襲が本格化する。太平洋上の最重要拠点・サイパンを失った打撃は大きく、この段階で日本の勝利の可能性は完全に無くなったといってよい。
アメリカやイギリスのような大型戦略爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、気球に爆弾をつけてアメリカ本土まで飛ばすいわゆる風船爆弾を開発。アメリカ本土へ向けて約9,000個を飛来させた。しかし与えた被害は市民数名の死亡、数ヶ所に山火事を起こす程度であった。また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四〇〇型潜水艦」で、当時アメリカ管理下のパナマ運河を、搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃する作戦を考案したが、これも戦況の悪化により中止された。
独裁体制を強化する東条英機首相兼陸軍大臣に対する反発は強く、この年の春頃、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心に倒閣運動が行われた。さらに、近衛文麿元首相の秘書官細川護貞の戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派の高松宮宣仁親王黙認の暗殺計画もあったと言われている。しかし計画が実行されるより早く、サイパン島陥落の責任を取り、東条英機首相兼陸軍大臣率いる内閣が総辞職。小磯国昭陸軍大将と米内光政海軍大臣を首班とする内閣が発足した。 日本は大量生産設備が整っておらず、武器弾薬の大量生産も思うように行かず、その生産力はアメリカ、イギリス一国のそれをも大きく下回っていた。また本土の地下資源も少なく、石油、鉄鉱石などの物資をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた。連合軍による通商破壊戦で、外地から資源を輸送する船舶の多くを失い、航空機燃料や艦船を動かす重油の供給もままならない状況であった。
10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が起きる。日本海軍は空母瑞鶴などを米機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和、武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)で、レイテ島上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この海戦で日本海軍連合艦隊は、空母4隻と武蔵以下戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅。組織的な作戦能力を喪失した。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、米海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。アメリカ軍はフィリピンへ上陸し、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、M4中戦車や火炎放射器など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍は敗走した。
1945年[編集]
1月にはアメリカ軍はルソン島に上陸した。2月には、首都マニラを奪回。日本は南方の要所であるフィリピンを失い、南方から日本本土への資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、資源の乏しい日本の戦争継続は厳しくなった。[24]
2月から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。圧倒的戦力を有する米海兵隊と島を要塞化した日本軍守備隊の間で大東亜戦争中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者(米軍の死傷者が日本軍を上回った)を出した末に、硫黄島は陥落した。
前年末から、アメリカ陸軍航空隊のボーイングB-29爆撃機による日本本土への空襲が本格化していた。日本軍は単発エンジンの戦闘機で体当たりするなど必死に迎撃したが、8,000m以上の高々度を高速で飛来し、武装も強固なB-29を撃墜するのは至難の業であった。
3月10日未明、東京大空襲によって、一夜にして10万人もの市民の命が失われ、約100万人が家を失った。それまでは軍需工場を狙った高々度精密爆撃が中心であったが、カーチス・ルメイ少将が爆撃隊の司令官に就任すると、夜間無差別爆撃で焼夷弾攻撃が行われるようになった。東京、大阪、名古屋の3大都市の他、仙台、横浜、神戸、福岡、岡山、富山、徳島、熊本、佐世保など、全国の中小各都市も空襲にさらされる事になる。
アメリカ軍は占領した硫黄島を、B-29護衛のP-51D戦闘機の基地、また損傷・故障してサイパンまで帰還不能のB-29の不時着地として整備した。この結果、B-29迎撃はさらに困難となった。迎撃する戦闘機、熟練した操縦士も、底をついていた日本軍は、十分な反撃もできなかった。当時ドイツの技術を参考にジェット機「橘花」を開発し、敗戦直前の8月7日に初飛行に成功するが、結局実用化には至らなかった。また、連合軍の潜水艦攻撃や、機雷敷設により日本は沿岸の制海権も失っていく。アメリカ軍空母機動部隊は日本沿岸の艦砲射撃や、艦載機による空襲、機銃掃射を行った。
4月1日、連合軍は沖縄本島へ上陸。多数の民間人をも動員した凄惨な地上戦が行われた。支援のため沖縄に向かった戦艦大和も4月7日に撃沈。残るはわずかな空母、戦艦のみとなり、ここに日本海軍連合艦隊は完全に壊滅した。連合軍の艦艇に対する神風特別攻撃隊による攻撃が毎日のように行われ、連合軍艦艇に甚大な被害を与える。日本軍は練習機さえ動員し、必死の反撃を行うが、やがて特攻への対策法を編み出した連合軍艦艇に対し、あまり戦果を挙げられなくなっていた。沖縄戦は両軍と民間人に死傷者数十万人を出し、日本国内で民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本の軍民総動員の反撃で、アメリカ軍に大きな被害を与えたが、6月23日には沖縄は陥落する。
満洲国は南方戦線から遠く、日ソ中立条約により、ソ連との間で戦闘にならず、開戦以来平静が続いたが、前年の末には、昭和製鋼所(鞍山製鉄所)などの重要な工業地帯が、中華民国領内発進のB-29の空襲を受け始めた。また、同じく日本軍の勢力下にあったビルマでは開戦以来、元の宗主国イギリスを放逐した日本軍と協力関係にあったが、日本軍が劣勢になると、ビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗する」との名目で、指導者アウン・サンはビルマ国軍をラングーンに集結させたが、集結後日本軍に対する攻撃を開始。同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始され、5月にラングーンから日本軍を放逐した。
5月7日、唯一の同盟国ドイツが連合国に降伏。ついに日本はたった一国で連合国と戦う事になる。内閣は鈴木貫太郎首相の下で、連合国との和平工作を始めた。
すでに2月、ヤルタ会談の密約、ヤルタ協約で、ソ連軍は満州、朝鮮半島、樺太、千島列島へ北方から侵攻する予定でいた。次いで7月17日からドイツのベルリン郊外のポツダムで、米英ソによる首脳会談が行われた。同26日には、日本の無条件降伏と、戦後処理に関するポツダム宣言が発表された。
またアメリカ、イギリスを中心とした連合軍による、九州地方上陸作戦「オリンピック作戦」、その後関東地方への上陸作戦も計画されたが、日本の軍民を結集した強固な反撃で、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、計画は実行されなかった。 アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、日本本土侵攻による自国軍の犠牲者を減らす名目と、日本の分割占領を主張するソ連の牽制目的、日本の降伏を急がせる目的、さらに非白人種への人種差別意識も影響し、史上初の原子爆弾の使用を決定。8月6日に広島市への原子爆弾投下、次いで8月9日に長崎市への原子爆弾投下が行われ、投下直後に死亡した十数万人にあわせ、その後の放射能汚染などで20万人以上の死亡者を出した。なお、当時日本でも、独自に原子爆弾の開発を行っていたが、必要な資材・原料の調達が不可能で、ドイツ、イタリアなどからの亡命科学者と資金を総動員した、アメリカのマンハッタン計画には遠く及ばなかった。
ソビエト連邦は、上記のヤルタ会談での密約を元に、締結後5年間(1946年4月まで)有効の日ソ中立条約を破棄、8月8日、対日宣戦布告し翌9日、満州国へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。当時、満洲国駐留の日本の関東軍は、主力を南方へ派遣し、弱体化していたため総崩れとなり、組織的な抵抗もできずに敗退した。逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れ、後に中国残留孤児問題として残る事となった。また、ソ連参戦で満洲と朝鮮北部、南樺太などの戦いで日本軍人約60万人が捕虜としてシベリアへ抑留された(シベリア抑留)。彼らはその後、ソ連によって過酷な環境で重労働をさせられ、6万人を超える死者を出した。満洲・南樺太・朝鮮半島に住む日本人女性は、流刑囚から多く結成されたソ連軍によって集団的に強姦され(ソ連軍による組織的強姦)、満洲から引き上げる日本人女性の一部は中華民国国民党軍や中国共産党軍に拉致され慰安婦にされるなど、多大な被害を受けた。
御前会議では鈴木首相が昭和天皇に発言を促し、天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事により、議論は収束した。8月14日、同宣言受諾の意思を通告し、翌8月15日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言受諾を表明、全ての戦闘行為は停止された(日本の降伏)。なお、この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろんで8月15日未明、宮内省などを襲撃する事件(宮城事件)を起こし、鈴木首相の私邸を襲った。また玉音放送後、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をした他は大きな反乱は起こらず、ほぼ全ての日本軍は戦闘を停止した。
翌日、連合軍は中立国スイスを通じ、占領軍の日本本土受け入れや、各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼。19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたスターリンの命令で、ソ連軍は日本の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続した。8月22日には樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、「第二新興丸」、「泰東丸」がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没した。北方領土の択捉島、国後島は8月末、歯舞諸島占領は9月上旬になってからであった。
日本の後ろ盾を失った満洲国は崩壊し8月18日、退位した皇帝の愛新覚羅溥儀ら満洲国首脳は日本への逃命を図るが、侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。8月28日、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。8月30日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着、続いてイギリス軍やオーストラリア軍、中華民国軍、ソ連軍などの日本占領部隊も到着した。
9月2日、東京湾内停泊のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上において、イギリスやアメリカ、中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなど連合諸国17カ国の代表団臨席[25]の元、日本政府全権重光葵外務大臣、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに1939年9月1日より、足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。
各国の死者[編集]
大東亜戦争全体の死者。最も信憑性の高いものを記述。第二次世界大戦全体の死者については第二次世界大戦の死者を参照。
- 大日本帝国 兵員死者400万人、民間人死者100万人。
- アメリカ合衆国 兵員死者107万人、民間人死者3000人。
- 中華民国 兵員死者、民間人死者含めて130万人。
- ソ連 兵員死者、民間人死者含めて不明。ソ連政府は2000万人を公式数字にするもハッキリとした裏付け無し。
- イギリス 兵員死者92万人、民間人死者6万人。
評価[編集]
現在では大東亜戦争は多数の知識人が「自衛戦・解放戦」と評価している。しかし少数の左派勢力は未だに「侵略戦争」と評している
解放者としての見方は、アジア諸国が大東亜戦争後に独立を果たせたのは、大東亜戦争がアメリカやイギリスなどの植民地化政策を行った国々との間での戦争であることが要因の一つであるとされ、大東亜戦争そのものを肯定的に評価することが多い。つまりは日本は加害者であるという戦争理解や、近隣アジア諸国に対する謝罪への要求といった事態は、自虐的過ぎるということになる。
また、自衛戦としての見方は、ABCD包囲網によって日本が圧迫され、これを打開するために対英米蘭戦に踏み切ったとするものである。また、アメリカが日本の大陸利権を否定することで圧力を加え、併せて人種的偏見による移民規制や、日系アメリカ人に対して人種差別的な政策を行ったことが、当時の新聞メディアに先導された日本人の反米感情を刺激し、対米戦へと踏み切らせたとの考えであり、当時の日本政府が大義名分とした「自存自衛とアジアの解放」に基づく評価である。
脚注[編集]
- ↑ 当時国共内戦で追い詰められていた中国共産党が日本と国民党を戦わせために意図的に反日挑発行為を行った。
- ↑ 東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』草思社、2006年、ISBN479421488X
- ↑ 協定はアメリカが参戦した場合の米英統合の戦略を定めたもので、ドイツを打倒を第一として、その後に対日戦に入るとした
- ↑ 当時、ホワイトハウスの前では反戦運動家や婦人団体、孤立主義者達がイギリスと蒋介石を援助するルーズベルトを批判するデモ活動が盛んに行われていた
- ↑ ルーズベルト大統領の側近ハリー・ロイド・ ホプキンスは解読された暗号文を読み、「我々が第一撃を加えて第一撃を阻止できないことは残念だ」といったとされる
- ↑ アメリカ合衆国の真の敵は、欧州で膨張するナチス・ドイツであり、日本を過小評価していたこともあって、ここまで太平洋戦線が拡大するとは予想していなかったといわれる。出典:太平洋戦争研究会編著、『オール図解30分でわかる・太平洋戦争戦争-太平洋で繰り広げられた日米の死闘のすべて-』、2005年7月29日初版 ISBN 4-807-499181
- ↑ もし、日米交渉が失敗し戦争を行うことになった場合、南仏印が連合軍によって占領されると南方進出及びビルマルートの遮断が困難になると予想されたことから南部に移駐した。
- ↑ 7月2日の御前会議では「対米英戦も辞せず」という強硬なものだったが、アメリカ側はその際決定された事項について事前に知っていたという
- ↑ 大英帝国・フィリピンは7月26日、オランダ領東インドは27日に同様の凍結措置をとった。
- ↑ 例えば日米開戦時の国内における石油の備蓄は民事・軍事をあわせても2年分しかなかった。
- ↑ 実際は輸送船でアメリカ海軍が故意に過大な報告をした。
- ↑ この日本の勝利が当時の東南アジアの被支配層に独立の気運を刺激し戦後残留日本軍と共に独立戦争を戦った。
- ↑ 日本政府は有条件降伏であり戦後の国家改造は不当行為であるといわれる。
- ↑ 当時はイギリスの植民地。
- ↑ 当時はアメリカの植民地。
- ↑ 当時はイギリスとオランダの植民地
- ↑ オランダの植民地。
- ↑ しかし後にポルトガル政府の暗黙のもと、両地を事実上統治下においた。
- ↑ 1932年に日本の協力の元に設立された「五族協和」を国是とした国家。
- ↑ 1940年3月、日本の協力の元に汪兆銘を首班として南京に設立された政権。
- ↑ 現在のスリランカ
- ↑ 正式にはドイツ占領下のフランス。
- ↑ 戦死後海軍元帥となる。
- ↑ 日本は1940年以来、ヴィシー政権との協定をもとにフランス領インドシナに進駐し続けていたが、前年の連合軍のフランス解放、シャルル・ド・ゴールによるヴィシー政権と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、進駐していた日本軍は3月9日、「明号作戦」を発動してフランス植民地政府及び駐留フランス軍を武力で解体し、インドシナを独立させた。なお、この頃においてもインドシナ駐留日本軍は戦闘状態に陥る事は少なく、かなりの戦力を維持していたので連合軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のため目立った軍事活動を行なわなかった。
- ↑ 8月8日に参戦したばかりのソビエト連邦の代表団も戦勝国の一員として臨席した。