吉村禎章

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吉村 禎章(よしむら さだあき、1963年4月27日 - )は、奈良県御所市出身の元プロ野球選手外野手)、野球解説者。サッカー元日本代表の岩淵功は岳父にあたる。

来歴・人物[編集]

プロ入り前~札幌円山球場での事故[編集]

PL学園高西川佳明若井基安らと共に1981年の第53回選抜高等学校野球大会にて優勝を果たした。1982年ドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。高いバッティングセンスと身体能力を武器に2年目の1983年に84試合の出場を果たし、規定打席未到達ながら打率3割2分6厘の好成績を挙げる。その活躍をきっかけに、翌1984年から右翼手のレギュラーに定着。俊足強肩の選手として将来を嘱望されていた。

1985年阪神ランディ・バースが54本を打って対巨人最終戦に挑んだため、当時巨人監督だった王貞治の持っていたシーズン55本塁打の記録更新かと騒がれ、巨人はバースに敬遠攻めをしたが、この結果バースはそれまで出塁率リーグトップであった吉村を最後の最後に抜き、吉村は最高出塁率のタイトルを逃した。

1986年は主軸として128試合に出場。打率5位、23本塁打を記録。1987年も打率5位、86打点をマーク、30本塁打も達成。30号目は、10月18日、対広島後楽園球場最終戦、ボール4つに達した際に球審がそれを失念しており、吉村自身もアピールしないまま白武佳久投手から次球を打ったものであり、後楽園球場の公式戦最後の本塁打であった。

1986年と1987年の二年連続でベストナインに選出され、若くして巨人の主力選手となった。その一方で1985年に交通事故で肩を負傷、さらに高校時代の反動から夜遊びや不摂生などで体重が増加し、守備走塁が早くも衰え始め、酷評されることも多かった。

1988年3月18日、阪神とのオープン戦東京ドーム完成後の第1号ホームランを放つ。7月6日の対中日ドラゴンズ戦(札幌市円山球場)では、3回に通算100号本塁打を記録した。ところが、8回の守備で中尾孝義の放ったレフトフライを捕球した際、この回から中堅手の守備に入った栄村忠広と激突。左膝の4本の靱帯のうち3本が完全に断裂し、さらに神経まで損傷するという、主治医曰く「交通事故レベル」という大怪我を負った。この試合は、直前の7回裏に吉村に打席が回れば吉村に守備固めが送られる予定であったという。長い療養生活を余儀なくされ、それでも後遺症が確実に残るあまりにも深刻な負傷であり、負傷直後は、本当に復帰が叶うか疑問視する報道が飛び交った。

リハビリ~復帰[編集]

左膝靭帯断裂は重度の障害者認定を受けるほどの大怪我であり、吉村自身も板前への転身を思い立った(あるいは知人に修行をすすめられた)などといった話が伝えられている。一旦北海道大学付属病院に入院したが、当時の日本の医療レベルでは手に負えるものではなく、渡米し、スポーツ医学の権威であるフランク・ジョーブ博士の執刀を受けた。リハビリで使用したギプスはジャイアンツの選手寮に飾られている。2度の手術と神奈川県厚木市の神奈川リハビリテーション病院にて1年以上の苦しいリハビリ生活を経て、最終的には特注品のレガースとシューズを付け、直線であれば100メートルを11秒台前半で走れるまでに復活した。

1989年9月2日代打で復帰した際は「バッター斎藤に代わりまして、吉村」というアナウンスがかき消されるというほどの大歓声に東京ドームが包まれた。この打席での相手投手は当時ルーキーの川崎憲次郎であった(セカンドゴロ)。1990年9月8日、チームのリーグ優勝を自らのサヨナラ本塁打で決めた。このときの相手投手も同じく川崎であった。巨人の優勝決定サヨナラ本塁打は、10年後の2000年9月24日の対中日戦で、この1990年に吉村が付けていた背番号と同じ「7」を付けた二岡智宏も記録している。川崎も後に吉村同様にカムバック賞を受賞した。1990年代前半は貴重な打てる外野手として貢献。

けがによって、中長距離ヒッターにとってオーソドックスな軸足(左脚=けがをした脚)に体重を乗せる打ち方が不可能になり、リハビリを通じて前脚(右脚)を軸に回転する打ち方に取り組むことになったが、以後の数字は吉村がその非凡なセンスでそのイレギュラーな打ち方で中長距離ヒッターとして復帰したことを物語っている。

代打要員、現役引退以降[編集]

その後も、踵から足をついて歩けないという状態ながら、主に左の代打の切り札として福王昭仁後藤孝志らと共に活躍し、1997年シーズン終了後には監督の長嶋茂雄から第16代・キャプテンに指名された。1998年に現役引退後、巨人コーチや日本テレビの野球解説者などを務め、2006年には巨人の二軍監督に就任。

2006年はシーズン後半、怪我人が続出した1軍へ脇谷亮太を1番打者として送り出すなど貢献。2007年は世代交代を受け坂本勇人など4人のルーキーを優先起用した。このことも重なりチーム出塁率犠打数などはリーグ最低の数字となったものの、再調整中の1軍投手などにも助けられイースタン・リーグ優勝を成し遂げた。野手の入れ替えは少なかったが、頻繁に上下する投手の再調整などで1軍優勝にも貢献している。

2009年からは一軍野手総合コーチに就任。一塁コーチ・木村拓也内野守備コーチ急逝後の三塁コーチなども担当している。2011年からは一軍打撃コーチに転向するも、その年のシーズン終了を持って退団。2012年からは日本テレビの解説者に復帰する。

旅館女性との不倫で退団(2011年)[編集]

昨シーズン終了とともに、将来の監督候補とも目されていた男が静かに巨人軍を去った。“悲運の天才バッター”吉村禎章(48)。前一軍打撃コーチは、この4月から日本テレビのプロ野球解説者として再スタートを切ることになった。2002年からコーチ陣に加わり二軍監督、一軍野手総合コーチなどを歴任した原辰徳監督の“懐刀”は、なぜ球団を追われることになったのか。そこには火種燻る巨人軍が最も隠したい不祥事があった。

都会の喧騒を離れた九州の温泉街。ここに名の知られた老舗旅館がある。源泉かけ流し露天風呂、和洋4つのレストラン、日本庭園などを誇る宿には、有名人もお忍びで宿泊している。旅館関係者が言った。

「吉村さんはたびたびこちらに来ています。家族同伴? いや一人です。ウチの旅館と関係のある女性従業員に会いに来ていたんですよ」

 吉村が九州で会っていたS子さんは40歳前後の目鼻立ちの整った和風美人だ。

「髪が長くてとても清楚な感じです。芸能人にたとえると東ちづるに似ていますね」(同前)

 2人は、現役引退後の吉村が現地の少年野球教室にコーチとして訪れた際に知り合ったという。再び旅館関係者。

「周囲は黙認していましたが、数年前から関係がぎくしゃくしてきた。巨人の監督の目も出てきた吉村が、身ぎれいにしておこうと思ったのかはわかりませんが、幾度かS子さんに別れ話を持ちかけていたようです」

2人の仲違いは徐々にエスカレートしていき、遂に旅館社長の知るところになってしまう。それが2010年のシーズン終了ごろのことだった。

「社長はS子さんから詳しい事情を聞きました。その席で、S子さんは不倫関係がこじれたばかりか、吉村さんから暴力を振るわれたと訴えた。従業員の窮状を見かねた社長は、球団事務所に“吉村さんの態度はいかがなものか。球団の管理はどうなっているのか”といったクレームを入れたんです」(同前)   球団が吉村に話を聞くと、旅館社長からの訴えを全て認めた上で、「かみさんにはいえない」と弱り切った様子。さらに「2007年の時(※)に厳重注意したはずだ」との叱責に、「当時から続いていたので、どうにもならなかった」というばかりで、球団幹部もあきれ果てたという。ドロ沼化した両者を見かねた球団が間に入り、不倫清算のための示談交渉が始まった。

結局、吉村に全面的に落ち度があるとのことで、総額約1500万円を分割で支払うことで解決をみた。取材で得られた情報を巨人番記者にぶつけたところ、吉村退団について合点がいったといい、こう解説した。

「騒動が2010年の年末に起こっていたのなら、首脳部がすぐに吉村を切れなかったのも当然です。すでにコーチ人事を発表した後に突然の退団となれば、様々な憶測を呼ぶのは必至。おそらく、吉村を信頼していた原監督も相当にかばった結果、どうにか首がつながったのでしょう」

だが、球団は女性トラブルを繰り返す吉村をこのまま残しておくわけにはいかなかった。昨年の不可解な退団の裏には、この女性スキャンダルがあった。

※2007年、『FRIDAY』が「巨人、“次期監督最有力候補”吉村『不倫愛人に300万円!』手切れ金の授受現場」というスキャンダルを報じた。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1982 巨人 4 3 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
1983 84 104 95 26 31 1 4 5 55 11 3 0 1 0 8 1 0 11 1 .326 .379 .579 .958
1984 115 298 260 56 89 26 3 13 160 34 8 8 4 1 29 1 4 30 0 .342 .415 .615 1.030
1985 120 418 344 57 113 19 1 16 182 56 8 6 4 6 59 3 5 36 4 .328 .428 .529 .957
1986 128 534 474 84 148 25 6 23 254 72 10 4 7 5 41 3 7 68 8 .312 .372 .536 .908
1987 127 464 428 76 138 21 2 30 253 86 5 1 8 3 24 3 1 62 9 .322 .357 .591 .949
1988 65 256 222 33 67 12 1 13 120 39 4 0 1 5 26 1 2 23 3 .302 .373 .541 .913
1989 17 31 28 0 5 0 0 0 5 4 0 0 0 1 2 0 0 3 0 .179 .226 .179 .404
1990 84 241 208 26 68 11 0 14 121 45 0 0 0 1 29 6 3 25 4 .327 .415 .582 .997
1991 93 271 242 25 55 6 0 10 91 42 0 1 0 1 27 2 1 31 6 .227 .306 .376 .682
1992 91 248 224 25 71 10 0 6 99 32 1 0 0 2 20 2 2 22 5 .317 .375 .442 .817
1993 94 351 311 26 84 14 1 8 124 43 0 1 1 6 28 1 5 46 6 .270 .334 .399 .733
1994 81 174 160 14 28 6 0 3 43 23 0 0 0 0 14 0 0 20 9 .175 .241 .269 .510
1995 53 75 66 5 19 2 0 4 33 13 1 0 0 0 9 1 0 8 4 .288 .373 .500 .873
1996 53 65 61 2 15 0 0 2 21 11 0 1 0 1 3 0 0 9 1 .246 .277 .344 .621
1997 69 69 62 2 16 6 0 1 25 14 0 0 0 3 4 1 0 11 3 .258 .290 .403 .693
1998 71 76 65 2 17 2 0 1 22 10 0 0 0 0 11 2 0 12 1 .262 .368 .338 .707
通算:17年 1349 3678 3253 459 964 161 18 149 1608 535 40 22 26 35 334 27 30 418 64 .296 .364 .494 .858

表彰[編集]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 55 (1982年 - 1985年)
  • 7 (1986年 - 1998年)
  • 87 (2002年 - 2003年)
  • 77 (2006年 - 2011年)

関連情報[編集]

書籍[編集]

ビデオ[編集]

  • 『奇跡の背番号7 吉村禎章 再起不能からの復活物語 [VHS]』(バップ、1999/3)

関連項目[編集]

テンプレート:読売ジャイアンツ1981年ドラフト指名選手