全学共闘会議
全学共闘会議(ぜんがくきょうとうかいぎ)は、1968年ごろの大学闘争・大学紛争の時期に日本各地の大学に作られた学生運動組織あるいは運動体である。通常は略して全共闘(ぜんきょうとう)と呼ばれ、全共闘による1960年代末の一連の学生運動は全共闘運動と総称される。
概要[編集]
発端[編集]
1968年5月、日本大学では東京国税局の家宅捜索により、22億円の使途不明金が発覚した。当時日大では学生自治会が認められていなかったが、この使途不明金問題をきっかけに、大学当局に対する学生の不満が爆発。5月23日に日大初めてのデモとなる「二百メートル・デモ」が行われた。5月27日には秋田明大を議長として日大全共闘が結成された。理事会は全共闘の要求に応じ、9月30日に学生と当局の交渉の場として「全学集会」を両国講堂で開催した。この集会には3万5千人もの学生が参加し、全共闘側は「大衆団交」(労働組合法における団体交渉になぞらえた表現)と呼んだ。12時間の交渉の末、当局は経理公開や理事全員の退陣など全共闘側の要求を一度は受け入れた。しかし翌日になり佐藤栄作首相が「大衆団交は常識を逸脱している」と横やりをいれた。当局側も学生との約束を撤回してしまった。
東大では、医学部インターン問題をめぐる学生への不当処分を発端として、大学当局に対する抗議活動が高まり、安田講堂を一時占拠するなどしたあと、7月5日には山本義隆を議長として東大全共闘が結成された(詳細は東大紛争を参照)。東大全共闘も日大と同様に大学内の建物をバリケード封鎖し、当局との「大衆団交」を要求した。
展開[編集]
全共闘運動は、68年初めから69年にかけて、東大・日大闘争に併行して自然発生的に、「燎原の火のように」全国の大学へ広がった。
全共闘は、はじめは各大学個別の問題(学費問題等)を扱う組織・運動として各大学の学生自治会の枠を超え、結成された。その後大学当局の硬直した対応や政府や機動隊の介入を経験する中で、次第に全学化し、「大学と学生・研究者のあり方を見直すという大学の理念と学問の主体をめぐる運動」となっていった。そして、現在の大学は、「帝国主義的管理に組み込まれた「教育工場」としてあり、教授会はその管理秩序を担う「権力の末端機構」となっている。そこにおいては「大学の自治」はもはや幻想にすぎず、そうした管理秩序総体を解体することこそが課題となる、とした。そして、全学バリケード封鎖を通じて解体を進めつつ、身分としての「学生・研究者であること」を内から否定する「自己否定」の思想的問いが進められばならない、とした。したがって、全学バリケード封鎖は帝国主義大学解体の政治性を持つと同時に自己否定の思想性をもつとされた」。そして、東大紛争において、「大学解体」「自己否定」というスローガンが登場することとなる。すなわち、大学内問題の枠を超え、「学生と国家権力との間の闘い」の様相を呈するようになった。
なお当時、学生で早大闘争にかかわった、呉智英は「『自己否定』とは『自己肯定』のことである。出世のためにということで学問をすればするほど学問の本義から遠ざかっている自分を発見する。それが自己否定である。自己否定は目指してするものではない。自己肯定の結果、現出するものだ」と述べていたという。
1968年11月22日、東大本郷安田講堂前で「東大、日大闘争勝利全国学生総決起集会」が行われ、2万人近くの学生が集まる。「この決起集会が後の各大学での全共闘運動の原点となり、またその運動のなかでの輝けるピーク」となった。なお11月1日には、東大大河内総長・全学部長・評議員が紛争の責任を取って辞任している。68年~69年にかけて30数大学がバリケード封鎖のまま越年した。
1969年1月18日・19日全共闘がバリケード封鎖する安田講堂に、8500人の機動隊が攻撃、72時間におよぶ攻防が繰り広げられ、東大全共闘は収束に向かった(安田講堂攻防戦)。
しかし、「東大闘争は散ることで、全共闘運動は全国に燎原の火のごとくに燃え広がった」。1969年ごろには、京都大学をはじめ、北海道大学、東北大学、一橋大学、東京外国語大学、東京教育大学、静岡大学、信州大学、金沢大学、名古屋大学、大阪大学、大阪教育大学、大阪市立大学、岡山大学、広島大学、九州大学、熊本大学、明治大学、早稲田大学、慶應義塾大学、法政大学、日本大学、東洋大学、中央大学、同志社大学、立命館大学、関西大学、関西学院大学、など、日本の主要な国公立大学や私立大学の8割に該当する165校が全共闘による闘争状態にあるか全学バリケード封鎖をしている。
収束[編集]
一般に思われているのと異なり、全学共闘会議(全共闘)は、その経過の全貌、理念、形態は未だ充分明らかにはなっていない。当時街頭闘争を行っていた三派全学連やそれを指導した二次ブント・革共同その他のニューレフト諸党派との関連も、活字化された記録では不鮮明で、三派全学連と全共闘を混同するな、とする当事者も存在する。
一般には、「1970年代に入り、ニューレフト諸党派間で内ゲバが頻発したほか、赤軍派によるよど号ハイジャック事件や、連合赤軍によるリンチ事件および浅間山荘事件などの過激派事件により急進的な学生運動は急速に支持を失い、自然発生的な全共闘は事実上崩壊した」と言われる。しかし、「どこの党派にせよ無党派運動にせよ、連合赤軍事件により動員力が減ったという史実は存在しない」という指摘もある。
いずれにしても、「一気に発火した全共闘運動はまたたく間に鎮火した」。1969年9月5日に日比谷野外音楽堂において結成され、全国78大学、26,000人(主催者側発表)が参加した全国全共闘(東大全共闘の山本義隆が議長、日大全共闘の秋田明大が副議長)時点においては、具体的には、ニューレフト8派の「実質的な党派共闘」あるいは「カンパニア組織」となっていたという。一方、国会においては8月3日に佐藤内閣のもと、最悪の場合、文部省の命令で大学全体の業務を休止することができるとする大学運営臨時措置法が成立した。その内容は、「一つは紛争が起こった場合の学長は、その紛争の解決に努力しなければならないという、まあ、規定があって、それに伴って、学長がかなり大きな権限を持つことができるように規定されている。そしてさらには、その紛争解決のために、平常は置かれていない、特別な副学長であるとか、あるいは特別な運営機関であるとかを、設置することができる、しかも、その特別な運営機関等などには学外者が加わることができるということでさらにいわゆる紛争が起こったと認定されてから6ヶ月間、その紛争解決のために大学の業務を停止する権限が学長に与えられます。そしてさらには、6ヶ月を過ぎてもまだ、紛争が解決できない場合は、あと三ヶ月に限ってそれを延長して、業務を停止することができる。で、合計つまり9ヶ月の間、大学側の判断で業務を停止することができるということになっていて、それでもなお収拾できても収拾された以後、一年のうちに紛争が再発した場合には、再発して6ヶ月を経過した場合では、今度は文部省からの命令で、大学の当該の学部ないし、紛争が起こっていると認定されている学部、ないしはその大学全体の業務を休止することができることになっています。それでしかもその業務が止まっている間は、教職員については休職扱い、そして学生については育英会の奨学金はストップする、そういうふうな規定が盛り込まれていた。で、当然学外者も含む管理機関を作ると、あるいは文部大臣が指導するとか、そういうふうな学外からの力を導入する方向でのそういう法律に対しては、京大だけではなくて、全国の大学、様々な大学から様々な教授会や、評議会や、学長なんかが、反対ないしは、批判のアピールを出しました」(池田浩士『似而非物語』、「証言・京大闘争ー「時計台裁判」弁護側証人として」pp286-287、2005、インパクト出版)。これにより大学の自治を重視し自力解決を目指していた複数の大学構成員にも、大学がつぶれるのではないかという動揺が広がった。後期授業が始まる9月に入って、ほとんどの大学でバリケード解除のための機動隊が導入された。
特徴[編集]
全共闘の最大の特徴は、従来の学生自治会・全学連を基盤とする学生運動とは異なる、ということにある。例外的に学生側の勝利に終わった、65~69年の中央大学学費・学館闘争の指導的立場にいた神津陽は、「上部組織としての全学連の加盟には自治会組織の特別参加決議が必要であり、加盟金も上納し役員も出さねばならぬし、上命下服の組織的拘束もあった」「だが全共闘の最大の特色は学校状況に不満を持つ有志があつまり結盟すれば、勝手に全共闘を名乗れた点だ。全共闘のこの気楽さといい加減さは、政治変革を志す意識的学生の集合体である全学連活動家像とは異なる広範な拡大を見せた」と述べている。
このことは組織形態にとどまらず、大学教員と学生の関係に及ぶ。「日本のみならず世界的に生起した68年学園闘争の、それ以前の学生運動との相違は、学生が教員を糾弾するスタイルの登場」であり、たとえばミシェル・フーコーは、パリ5月革命勃発を前にパリ大学ナンテール校で、「これらの学生たちが教師たちとの関係を階級闘争の用語で語るのは奇妙だ」と驚愕したという。全共闘では、アカデミシャンが、大学の「監視/管理体制の上に立ってのみ「良心的」=「進歩的」たりうるという事態にまったく無自覚」とされ、「学外で「民主的な」言辞を弄しながら、学内では学生の弾圧にまわる教員たちの欺瞞性が糾弾された」。
戦後初頭に結成された学生自治会(クラス単位で委員を選挙する)の基本的理念は、学生の、将来社会に市民として参加するための学問を修めるのに役立たせるための、かつ規律=訓練を自主的に行うものの互助団体であり、同じく大学の構成員であり、戦後民主主義社会の「市民」の理念型ともいえる大学教員との相互交流も成り立っていた。事実「60年安保までは教員と学生は対国家権力において、一種の親和的同盟関係にあった」という。「学生と教師はともに手を携えて進歩的・民主的な運動にのぞみえた」。しかし68年においては丸山真男は、東大全共闘の全学封鎖時の、研究室資料破壊に「ナチスもやらなかった蛮行」と激怒するに至ることとなる。当時、東大哲学科の助手だった加藤尚武は丸山眞男が学生たちから「吊るし上げられた」現場を目撃している。その回想は、加藤尚武『進歩の思想・成熟の思想―21世紀を生きるために』(講談社学術文庫 、1997)に詳しい。「吊るし上げられた」丸山眞男のその時の回想は、丸山のノートからの死後出版『自己内対話―3冊のノートから』(みすず書房、1998)に詳しい。なお当時、「吊るし上げた」学生(ポストドクター)の一人だった長谷川宏の『丸山真男をどう読むか』(講談社現代新書、2001)も参照。
この変化の原因に、絓秀実(すが秀実)は、多くの新制大学が誕生したことによる高等教育の普及・大衆化により、大学卒がアッパーミドル・クラスへの参入の保障ではなくなり、「国民=市民の理念型たる教員と同程度のアッパーミドル・クラスのステイタス」への保障によってなりたっていた大学の「信用」が崩れ、国民国家の中の大学の存立根拠そのものが問われたことに理由を見ている。学生は、「自らの置かれた無根拠な地位」に直面することとなる。事実全共闘は、多くのいわゆる「中堅大学」によって担われた。絓秀実は全共闘によって掲げられた「戦後民主主義批判」というスローガンもここに由来すると論ずる。
評価[編集]
自然発生的な盛り上がりが、68~69年にかけて、ついには「工場占拠」ならぬ「大学占拠」にまで至った「全学共闘会議」は、まず第一に、現代史であり、当事者が数多く存在する時代領域であるゆえ、未ださまざまな意見・評価がある。その現代的意味は、未だ議論の途上にあるといっていい。
2009年刊行の、膨大な関連資料を引用した(当時の新聞・週刊誌や事後の回想・インタビューからの引用が多く、著者による直接のインタビューの形跡はなく、関係者自身が当時残した資料からの引用も少ない)大著『1968』、小熊英二(新曜社)においては、全共闘運動が発生した原因として、「小中学生時代に戦後民主主義の理想的教育をうけた彼らが、その後の受験競争に罪悪感を抱き、また大学のマスプロ教育に失望したこと」「日本が発展途上国だった時代に幼少期をすごした彼らが、高度成長の結果として先進国となった日本社会に違和感を抱き、また『豊かな社会』特有の『現代的悩み』を抱いていたこと」をあげている。また、ベビーブーマー世代が同様に学生運動を起こした欧米諸国と比して、日本の全共闘世代でその後、政治活動に関わった者が少ない理由として、「急速な勢いで先進国化した日本においては、学生運動は『政治運動』ではなく『自己表現』であったためではないか」としている。
もっとも小熊英二の、「権力の悪に対して純粋な正義感から反抗を開始したが、体制の厚い壁の前に挫折を余儀なくされ、ついには「連合赤軍事件(1972)をシンボリックな頂点とする「内ゲバ」によって自壊していった」」という、いわゆる「「自分」を探して「自分」を表現」しようとするが「挫折」した、という疎外論に集約させる視点(そこにおいて、その「典型像」として田中美津が「不可避的なターゲット」となっている)および心理主義的手法は「今なお多くのものを規定している通念にすぎない」」という意見もある。
また、小熊の当書は、最終的に60年代ベ平連及び、その象徴的存在であった小田実と鶴見俊輔に可能性の核心を求め、「「戦後民主主義の救済と再論のためのパラダイム創出を目的意識としている」がゆえに、「事実誤認や独断が少なからず存在」し、「一つの立場から記述される論理的構成は資料の文脈を横領」していて、またその全共闘運動と新左翼運動についての資料駆使は、「既刊資料による記述とそこで明らかにされてきた事実経過を出ている」わけではなく、「当事者に対する対面的な責任がかかる」「文字資料を裏づける聞き取りが不足」」しているという評もある。
一方、小熊英二の論考に対照的なものとして、1968年を中心にして起こった動きを「確かに68年が単にロマン主義的な反抗とその挫折としてのみ括りうるものであるなら、小熊の論も正鵠を得てい」るとしながらも、ウォーラステインの「世界革命は、これまで二度あっただけである。一度は1848年に起こっている。二度目は1968年である」(『反システム運動』(1989))や68年を決定的な歴史的結節点とする、リオタールの『ポストモダンの条件』や蓮実重彦の東大総長演説集『知性のために』(1998)などを部分的な参照先としながら、世界的な「68年の革命」及び、それを準備し、かつ触発された、フーコー・ドゥルーズ・デリダなどのいわゆる「68年の思想」にパラレルなものとして、かつ、「日本」という場に限定しつつ抽出しようとしたものに、すが秀実の『革命的な、あまりに革命的な-1968年の革命試論』がある。
なお、その著において、「68年(の革命)において決定的な重要性」をもつとしている、ノンセクトのアクティビストであった津村喬は、全共闘を、1984年になって『中央公論』誌上で、「国家権力奪取が革命だとはだれも考えなくなり、具体的な局所での国家との対峙が課題」となり「大義に頼らず、消費社会の相対主義に解体されてしまうことなしに、どうやって国家とのあらゆる局面での対峙を続けうるのか、「交通」を可能にするか、これこそが、ここ十余年にわたっていく十いく百万人の人々が必死で模索してきたことである。この実践の束と網の目にこそ全共闘の「総括」はあった」と総括している。確かに全共闘を経験したものが、今までとは違う自然派の生協運動やエコロジー運動、フェニミズム、マイノリティ運動など、多様で分散的な活動を維持し、うまくいっているところもある、という事実はある。
いずれにしても、全共闘を、68~69年に起った「工場占拠」ならぬ「大学占拠」という事実、あるいは当時のイデオロギー的なスローガンだけで捉えるより、もっと幅広い視点で捉え議論する必要があるだろう。
なお当時のデータとしては、1968年に行われた内閣府世論調査においては、学生運動を支持するあるいは共感するとした回答者は全体の7%程度である。親に生活費や学費の支援を受けていた学生が勉学より学生運動にのめり込むことに対する批判もあった。
ちなみに1968年の代表的な動きとして挙げることができるフランス5月革命は、パリオデオン座占拠などの学生運動をきっかけとして、さまざまな職種の労働者を巻き込み、ストはフランス全土に広がっていった。1968年5月20日には全労働者の半分にあたる約800万人の労働者がストに参加したといわれている。ド・ゴールは5月30日の演説により、事態をはやばやと回収したものの、議会解散にまで追い込まれた[1]。
もっとも、1969年の「安田講堂攻防戦」以降、全国各地で青年労働者で構成する反戦青年委員会は「東大闘争報告集会」を労働者を対象に開催し、各地で盛況のうちに成功している。この1967年から1969年にかけての学生運動の高揚が、とりわけ青年労働者運動の戦闘化を促した。
東大全共闘議長の山本義隆は運動終息後、大学院を中退して駿台予備校で物理の講師となり、2003年には著書『磁力と重力の発見』で大佛次郎賞を受賞した。全共闘に関しては運動後一切発言せず、マスコミによる取材も断っているが、1992年には運動当時の資料を纏めた『東大闘争資料集』を国立国会図書館に寄贈している。
総選挙への影響[編集]
全共闘、あるいは、68年の他の世界の学生反乱においては共通して、拠点の占拠と大衆団交という戦術がとられた。これは当時珍しい現象であり、ヨーロッパにおける19c末から20c初頭の歴史上のアナルコ・サンジカリズムの定石といえる戦術が冷戦時、突然復活した。「1968年」の問題系とは、民主主義の問題を代議制の機能の問題に縮約することを断固として退け、その代議制からあふれだすような「政治」の次元が存在することを強調して、既存の政治・社会制度や民主主義の問い直しを行うことにあった。
村上信一郎は、西欧の左翼政党は「68年世代」の反乱によって大混乱に陥ったが、そのエネルギーの少なくとも一部を吸収することを通して、大きく変貌していった、しかし日本では、「68年世代」が「企業社会」に飲み込まれていったことによって、従来の左翼政党にはほとんど何の変化も生じず、このことが全般的な「左翼」の退潮につながったと論じている。言い換えれば全共闘世代(「団塊」の世代)の多くが、高度成長がピークを迎えるころには、はやばやと政治の季節を「卒業」して、「企業社会」の主要な担い手となり、欧米諸国のように「脱物質主義的価値」の唱道者にもならなければ、「新しい社会運動」の担い手にもならず、西欧の68年世代とは根本的に異なるコースを辿っていった。
短期的には、1969年12月の総選挙では、当時の佐藤栄作内閣を支える自民党が20議席増やし300議席を超えた。一方、社会党は新聞社の当落予想を(朝日新聞はプラス・マイナス8の118議席)を大きくこえて、約50議席を減らし90議席に転落、大敗した。公明党は25議席から47議席に躍進。全共闘・新左翼勢力と激しく対立した日本共産党も5議席から14議席に躍進し、多党化が進行した。投票率は前回より5.5%減の68.5%に急落した。また、この1969年以降から、無党派層が急増し始め、一方で社会党支持率が停滞を始めた。
社会党のこの突然の支持率の急落に対して、全共闘運動の直接的な影響と関連を見出すものには、石川真澄の言説がある。石川によれば、社会党はこの総選挙に際し、「一部学生の暴力的行動」を全面否定する統一見解を出していた。しかし、下部組織の社青同に新左翼系の勢力を抱え、三派全学連については「各全学連の共通する思想であるトロツキズムと誤った戦術については思想闘争を強め、広範な学生のエネルギーをわれわれの戦列に加えるよう努力する」という見解を示すなど、共産党と比べ新左翼・全共闘勢力との峻別の度合いが低かった。共産党は、当時委員長の宮本顕治が東大紛争に直接乗り出し、指導した。共産党は、当時「70年代の遅くない時期に民主連合政権の樹立を」というスローガンの下に、議会主義に転換していく過程であった。したがって、ゲバルト(暴力)には敏感だった。共産党も、東大紛争時、新左翼との「抗争」の対抗上、非公然に通称「あかつき行動隊」というゲバルト学生部隊を大規模に組織していたが、1969年1月の安田行動攻防戦の前夜に、宮本の指導のもと、「ゲバ棒」一本も残さず撤収するなど、内ゲバの悪いイメージが自分たちのところに及んでくるのを避けることに成功した。当時の共産党の学生組織、民主青年同盟に所属していた当事者の回想として川上徹・大窪一志『素描・1960年代』、同時代社2007、第5章東大紛争前後、および当時「あかつき行動隊」の隊長格であった、宮崎学『突破者』が当時の共産党から見た東大紛争に詳しい。石川真澄は、社会党のこのような態度がチェコ事件や中国の文化大革命など社会主義へのマイナスイメージにつながる事件に対する曖昧な対応と重なり、社会党支持者層が大量棄権、総選挙大敗、そして社会党離れによる無党派層の増大に結びついたと指摘している。
全共闘内部の世代格差[編集]
一口に全共闘と言っても、参加者には20代後半の大学院生から学部の下級生にいたるまで、10歳以上もの年齢の幅がみられた。千坂恭二の全共闘論によれば、大学院生や学部の3・4年生と入学間もない教養部の1年生との間には学生運動に対する意識にかなりの差違があった。大学院生や学部の上級生は、ある程度自我を確立した年齢で学生運動を行い、運動もまた反戦平和志向の最盛期だった。一方で教養部の下級生は、それより若い年齢で学生運動を行い、運動は革命戦争の軍事的志向となり、その中で自我の形成をしていったと言う。このことから、大学院生や学部上級生を「理想主義的でヘーゲル主義的、反戦青年的」とすれば、学部下級生は「ニヒリズム的でニーチェ主義的、軍国少年的」であったと評している。
院生や学部上級生は運動が衰退しても医者や弁護士、研究者・大学教員などとして社会へ適応していったのに対し、学部下級生は中退・除籍の末、非正規雇用へと流れていく者も多かった。そこに院生・学部上級生の「昨日の世界の市民」性と、学部下級・高校生の「今日のフライコール(義勇軍)」性の深淵があるとも言われる。
現在、マスメディアや出版物などで諸般の「全共闘論」などを展開しているのは、主に大学院生や学部の上級生の世代であり、そこには学部の1年生など下級生の世代のニヒリズムはあまり盛り込まれていない。前記の千坂によれば、俗に「全共闘世代」といわれるものに該当するのは主に前者、つまり当時の大学院生や学部の上級生であり、それに対して当時の学部の下級生や浪人、高校生は、全共闘の中でも運動の最前線におり、全共闘の上級世代とは内部的に区別され「バリケード世代」(突撃隊世代、前線世代とも)と表せるとのことである。
このような世代的な格差は、小阪修平(三島由紀夫が東大全共闘と対話集会をもったときの積極的な発言者の一人である)の全共闘論においても確認できる。
動画[編集]
エピソード[編集]
- 「全共闘」ではなく「全学闘(ぜんがくとう)」という言い方もあった。また、個別の組織ごとに独自の呼称があることもあり、中央大学のものは「全中闘」と称した。
- 全共闘は戦う部隊=闘争委員会が直接結合してゆく組織・運動形態であったことから、日本共産党とその青年組織日本民主青年同盟が主張するような、学生自治会中心の代表制民主主義の方針を革命主義の立場から「ポツダム民主主義」あるいは「ポツダム自治会」として全面的に否定した。日本共産党=民青は「民主的教官や民主的当局者も含めた大学民主化」を掲げ、全共闘の「帝大解体」路線とは相容れる部分はまったくなかった。むしろ、民青はバリストを快く思わない学生を組織し、大学での支持者を増やしていったといえる。東大では全共闘と民青との対立が特に激しく、両者が武装し、襲撃や衝突がたびたび起こった。武装のための角材を全共闘は「ゲバ棒」、民青は長さ太さが一律に決められた樫の棍棒を「民主化棒」と名付けていた。また、民青は全共闘のことを「全狂頭」と呼んだ。
- 大学の建物を占拠した際、運動の精神に理解ある進歩派やマルクス経済学者の教官さえも体制側とされ、多くの教官の研究室はことごとく破壊された。「安田講堂攻防戦」において篠原一教授の研究室が破壊されてマイクロフィルム資料などが焼失したことについて、東大法学部教授(当時)の丸山眞男は「ナチスもやらなかった蛮行」と全共闘を非難した(この事件については「丸山自身の研究室が破壊された」という誤解が流布されている)。のちに第四インターは「たまたま自分たちが担当した建物に篠原の研究室があったのであって、ただ単に寒かったから書類やフィルムを手当たりしだい燃やして暖を取っただけ。丸山の感情的な物言いは『日本の進歩派はこんな程度なのか』と当時こちらが驚いた」と当時の第四インター部隊の指揮者が機関紙で明かした。
- 関東の大学だけでなく、関西でも学生運動の長い歴史を持つ京都大学の全共闘などが百万遍解放区闘争を行い、龍谷大学では本願寺解体闘争が展開された。また、立命館大学の全共闘は「わだつみの像」を破壊し、「形式的」として戦後秩序を批判した。
- 皇室所縁の学習院大学にも全共闘があり、キャンパスでの集会の後、散らかったビラなどをきれいに片付けたことから、「さすがは学習院の全共闘は育ちが良い」と冗談に言われた。
- 体育会系右翼の牙城とされた国士舘大学でも学生による運動が形成され、元憲兵下士官の教官や当局側の体育会系学生と対立する全共闘に、陸軍士官学校出身で元陸軍将校の退職教員が与するという光景が見られた。
- 運動の広がりは一部の民族派の学生たちにも影響を及ぼし、駒澤大学の全共闘には、元日学同国際部長で北方領土に日の丸を立てに行った者が合流し、早稲田大学の全共闘には、全共闘“昭和維新派”と称する早大尚史会関係の者が極一部だが参加していた。早大全共闘は、解放派=反帝学評、ブント、黒ヘルが主流であり、それに中核派、アナキストが続き、さらにはべ平連から社青同協会派=反独占(赤松広隆)などが参加し取り巻くというのが実態であった。民族派は、早大ではせいぜい数十人のごく少数派であったが、斉藤、森田必勝などの日学同、日本学生会議などを中心として生息しており、運動の高揚を受けて、正門前で右翼同士が日本刀と木銃で渡り合うというという小事件などを展開している。ごく少数とはいえ早大の民族派は右翼とされる学生の中では人員が多いほうであった。
- 保守派の牙城を自負していた京都産業大学では、全共闘阻止のためにいわゆる「白色バリケード」を展開した。
- 学生の立場から大学解体を主張するという矛盾の中で、運動主体の「自己変革」「自己否定」「自己批判」の必要性が説かれた。「自己批判」の概念は、その後連合赤軍の組織内部では主観的でモデルのない「兵士一人ひとりの革命主体形成=共産主義化」の論理へと昇華し、「共産主義化できない弱者」を指導部が抑圧し集団リンチ殺人事件にまで発展する力学として作用した。逆に「自己否定」「自己批判」を裏返し、自己を肯定することから生まれたのがウーマンリブ運動や反差別運動である。
- 岸井成格によると、第2次佐藤内閣第1次改造内閣〜第3次佐藤内閣で内閣官房長官であった保利茂は、極秘に公邸に全学連各派の委員長を呼んだ。また、警察庁長官であった後藤田正晴とも会わせたという。
- 女子学生の参加者もいたが、その比率は、女子の大学進学率の低さに比例して低かった。そのため、左翼運動においても、女性は中枢にかかわることが少なく(一部に女性リーダーは見られた)、「炊事当番」などの後方支援を押し付けられることになった。村上春樹の小説、「ノルウェイの森」にも、学生運動で女子学生に当然のように炊事当番が押し付けられるありかたにヒロインが憤慨するシーンがある。
- 韓国の民主化・学生運動においては「チョンゴントゥ(全共闘の朝鮮語読み)のように闘おう」が合言葉になったと言われている。
- 舛添要一は当時東大の学生だったが、全共闘及び学生運動全般に反対派であり、早く卒業させろ、というアピールを出した。そのアピールのビラは、山本義隆たちが、編集し、国会図書館に寄贈している『東大闘争資料集』全23巻に収められている。
脚注[編集]
- ↑ 篠原資明『ドゥルーズ』、講談社、1997、p96
関連項目[編集]
主要参考文献[編集]
- イマニュエル・ウォーラーステイン 『大学闘争の戦略と戦術』 公文俊平訳、日本評論社、1969年
- 津村喬 「<逃走>する者の<知>-全共闘世代から浅田彰氏へ」『中央公論』99巻9号、1984年9月
- 日本大学文理学部闘争委員会書記局・『新版・叛逆のバリケード』編集委員会編著 『叛逆のバリケード:日大闘争の記録』 三一書房、2008年9月
- 山本義隆 『東大闘争資料集』全23巻、'68・'69を記録する会編、1992年(国会図書館に寄贈)
- 全共闘白書編集委員会 『全共闘白書』 新潮社、1994年
- 神津陽ほか 『全共闘30年-時代に反逆した者たちの証言』 実践社、1998年
- 神津陽 『極私的全共闘史-中大-1965‐68』 彩流社、2007年 - 例外的に学生側の勝利に終わった、65~69年の中央大学学費・学館闘争の指導的立場にいたものの証言。
- 島泰三 『安田講堂-1968‐1969』 中央公論新社〈中央公論新書〉、2005年 - 当時「本郷学生隊長」として安田講堂に立てこもる。
- 渡辺眸(寄稿・山本義隆) 『東大全共闘1968-1969』 新潮社、2007年
- 米田隆介 「明大学費と闘争資料集」 2006年
- 池田浩士『似而非物語』 インパクト出版、2005-京大「造反教官」第一号による、当時の京大闘争の資料及び竹本処分までの証言
- 小阪修平 『思想としての全共闘世代』 筑摩書房、2006年 - 三島由紀夫が東大全共闘と対話集会をもったときの積極的な学生側の発言者。
- すが秀実 『革命的な、あまりに革命的な-「1968年の革命」史論』 国文社、2003年
- 小熊英二 『1968』 新曜社、2009年
- 加藤尚武『進歩の思想・成熟の思想―21世紀を生きるために』(講談社学術文庫 、1997)東大紛争時、丸山真男と学生との対話の、大学助手の立場からの目撃の回想
- 丸山真男『自己内対話―3冊のノートから』(みすず書房、1998)ノートからの死後出版。学生との対話の回想含む
- 長谷川宏『丸山真男をどう読むか』(講談社現代新書、2001)当時丸山との対話を行った学生(ポストドクター)の一人。
- 西田慎 『ドイツ・エコロジー政党の誕生-「六八年運動」から緑の党へ-』 昭和堂、2009年 ISBN 978-4-8122-0960-8 -ドイツ「68年運動」の成果=緑の党の結成過程を追いつつ、日本の全共闘と比較。