エドウィン・バレロ
エドウィン・バレロ | ||||||
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2009年3月29日撮影 | ||||||
基礎データ | ||||||
本名 | Edwin Valero | |||||
通称 | KO Dinamita Thunder(雷神) | |||||
階級 | スーパーフェザー級 ライト級 | |||||
身長 | ||||||
リーチ | ||||||
国籍 | ベネズエラ | |||||
生年月日 | 1981年12月3日((2024-1981)+((11-12)*100+(25-3)>=0)-1歳) | |||||
出生地 | ベネズエラメリダ州ボレロアルト | |||||
没年月日 | 2010年4月19日((2010-1981)+((4-12)*100+(19-3)>=0)-1歳没) | |||||
死没地 | ベネズエラカラボボ州バレンシア | |||||
所属 | ||||||
構え | サウスポー | |||||
入場曲 | ||||||
アマチュアボクシング戦績 | ||||||
総試合数 | ||||||
勝 | 86 | |||||
KO・RSC勝 | 45 | |||||
敗 | 6 | |||||
分 | ||||||
無効試合 | ||||||
獲得メダル | ||||||
金 | 銀 | 銅 | ||||
オリンピック | 0 | 0 | 0 | |||
世界選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
ヨーロッパ選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
アジア選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
世界ユース選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
世界ジュニア選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
世界女子選手権 | 0 | 0 | 0 | |||
0 | 0 | 0 | ||||
獲得タイトル | ||||||
全日本選手権優勝 | 0 | |||||
全日本社会人選手権優勝 | 0 | |||||
全日本女子選手権優勝 | 0 | |||||
全国高校総体優勝 | 0 | |||||
全国高校選抜優勝 | 0 | |||||
国民体育大会優勝 | 0 | |||||
0 | ||||||
0 | ||||||
0 | ||||||
プロボクシング戦績 | ||||||
総試合数 | 27 | |||||
勝 | 27 | |||||
KO勝 | 27 | |||||
敗 | 0 | |||||
分 | ||||||
無効試合 | ||||||
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エドウィン・バレロ(Edwin Valero、1981年12月3日 – 2010年4月19日)は、ベネズエラのプロボクサー。元WBA世界スーパーフェザー級チャンピオン、WBC世界ライト級チャンピオン。
人物[編集]
試合開始直後から激しい突進で相手を倒しに行くスタイルからKO Dinamita(ダイナマイト)の異名を持っている。プロデビューから18戦連続初回KOという驚異的な記録を持つ。初回KOの連続記録は途絶えたが、デビューからの全27試合全てにKO勝利を記録した。
ちなみに、牛若丸あきべぇは、15戦連続KO記録であるが、もちろんすべて八百長である。その証拠に、2戦連続KO負けを喫している(笑)。
2012年まで帝拳ボクシングジムと契約しており、2006年10月から家族共々日本・東京を1年ほど拠点としていたが、後に米国・ラスベガスに拠点を移した。
来歴[編集]
2002年7月9日に18歳でプロデビューした。デビュー戦は初回TKO勝利で、その後も初回KO勝利を続けていくが、12連続初回KO勝利後、米国ニューヨーク州コミッションの検査で試合直前に脳に異常が発見され(数年前に起こしたバイク事故の後遺症と思われる)、ライセンス停止処分を受け2004年初頭からブランクを余儀なくされた。
しかし、コミッション以外の検査では異常が発見されず再起を目指していたところで、帝拳プロモーションの本田明彦会長の目に留まり、試合のできない米国以外での再起を進められ、帝拳プロモーションと契約し、再起。再起後も1年半近いブランクを感じさせないファイトで、2006年2月25日にはプロデビューから18戦連続初回KO勝利を達成。すでに少し前から、対戦相手を探すのが困難になるほどだった。初回KOの記録が途絶えたのは2006年3月25日神戸での試合だった(2回TKO勝利)。
その後、2006年8月5日にはWBAスーパーフェザー級チャンピオンのビセンテ・モスケラ(パナマ)に挑戦し、10回TKOで勝利してタイトルを獲得。デビュー以来の連続KO勝利の記録[1]を更新しての勝利だった。タイトル戦まで全ての試合を2回以内で決着付けていたため、バレロのスタミナや打たれ強さを疑問視する声も試合前にはあったが、途中ダウンを奪われながらも10回には持ち前の力強い連打を繰り出すという、そういった声を払拭するかのようなKO勝利だった。
2007年1月3日、東京でWBA世界スーパーフェザー級タイトルの初防衛戦を行い、ミチェル・ロサダ(メキシコ)に初回1分12秒KO勝ちを収めた。
2007年5月3日、東京でWBAタイトル2度目の防衛戦を行った。これは指名試合だったが、WBA1位のマニー・パッキャオ(フィリピン)はWBCタイトル挑戦を念頭に置きつつアメリカでのビッグマッチを計画中のため、WBA2位の本望信人(角海老宝石)が繰り上がりで挑戦者となった。8回TKOで勝利し、2度目の防衛を決めた。
2007年12月15日、メキシコ・カンクンでWBAタイトルの3度目の防衛戦を行い、サイド・サバレタ(メキシコ)に3回1分18秒TKO勝ちを収めた。なお、この試合はバレロの強打に恐れをなして挑戦者がなかなか現れない中でようやく決まった世界戦であったという。
当時戦場としていたスーパーフェザー級は、マニー・パッキャオ、ファン・マヌエル・マルケス、マルコ・アントニオ・バレラとスター揃いで、本人も彼らとのビッグマッチを望んだが、アメリカ合衆国でのライセンス停止処分解除とライセンスの再発行が難航した。
その後、2008年3月下旬にテキサス州コミッションでライセンスが認可された(ただし、ニューヨーク州コミッションのサスペンデットは現状では解除されておらず、テキサス・ニューヨーク州以外での試合出場は、現状では米国各州コミッションのその場での判断による不透明な状況であった)。
2008年6月12日、東京・日本武道館に於いて嶋田雄大(ヨネクラ)を挑戦者に迎え、WBAタイトル4度目の防衛戦を行った。試合は7回1分55秒TKO勝ちで嶋田を退け、24戦連続KO勝ちで4度目の防衛を果たした。
減量苦のためライト級に転向。WBCライト級チャンピオンとなったパッキャオとの対戦を熱望し、2008年9月4日にタイトルを返上した。夫人のホームシックもあり契約期間途中であったが帝拳との契約を解消し、ベネズエラへ帰国した。
2009年2月にボブ・アラムが主催するトップランク社に移籍して米国に拠点を移し、同年4月4日にはアメリカ合衆国・テキサス州でアントニオ・ピタルアとのWBC世界ライト級王座決定戦に2回TKO勝ちを収め、同タイトルを奪取。2階級制覇を達成した。
しかし同年9月24日の夜、泥酔した後の金銭トラブルがきっかけで暴力をふるい逃走。その後、現地の警察官に取り押さえられて逮捕された。11月14日のマニー・パッキャオ vs. ミゲール・コットの前座カードとしてウンベルト・ソトとの対戦が予定されていたが、米国から滞米ビザ発給を拒否され断念した[2]。12月19日、自国ベネズエラにてヘクター・ベラスケスに6回TKO勝ちを収め、初防衛に成功[3]。
2010年2月6日、メキシコにて暫定チャンピオンのアントニオ・デマルコとの王座統一戦に臨みデマルコ陣営が9回終了後ギブアップ、王座統一と共に2度目の防衛に成功。27戦連続KO勝ちとなった[4]。この試合が生涯最後の試合となった。この直後にスーパーライト級への転向を希望して同タイトルを返上したが、WBC会長のホセ・スライマンからは2010年2月9日付でライト級休養チャンピオンとして認定された[5]。
2010年4月18日、ベネズエラ・カラボボ州バレンシア滞在中のホテルにて妻をナイフで刺殺した容疑で逮捕され[6] 翌19日に警察署内の留置場にて首吊り自殺した[7][8][9]。
脚注[編集]
- ↑ デビュー以来の連続KO記録の最長はアセリノ・フレータスの29連続
- ↑ バレロの米国進出困難に ビザ発給されず ボクシングニュース「Box-on!」 2009年9月22日
- ↑ バレロ26連続KO ライト級王座防衛 ボクシングニュース「Box-on!」 2009年12月21日
- ↑ バレロ、27連続KOで王座統一 WBCライト級 ボクシングニュース「Box-on!」 2010年2月7日閲覧
- ↑ バレロが王座返上! WBCは休暇王者扱いに ボクシングニュース「Box-on!」 2010年2月10日閲覧
- ↑ 衝撃!バレロ 妻刺殺容疑で逮捕 ボクシングニュース「Box-on!」 2010年4月19日
- ↑ Aparece muerto el boxeador “Inca” Valero en los calabozos de PolicaraboboBoxeo-boxing.com 2010-4-19閲覧
- ↑ 妻殺害で逮捕の元WBC王者が独房内で自殺 スポーツニッポン 2010年4月20日閲覧
- ↑ ショック! バレロ自殺 ボクシングニュース「Box-on!」 2010年4月20日
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
前チャンピオン ビセンテ・モスケラ |
第39代WBA世界スーパーフェザー級チャンピオン 2006年8月5日 – 2008年9月4日(返上) |
空位 次タイトルホルダー ホルヘ・リナレス |
空位 前タイトルホルダー マニー・パッキャオ |
第33代WBC世界ライト級チャンピオン 正規:2009年4月4日 – 2010年2月9日 |
空位 次タイトルホルダー ウンベルト・ソト |
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