平安京
平安京(へいあんきょう)は延暦13年(794年)に桓武天皇により定められた日本の首都である。平安城ともいう。
概要[編集]
平安京は現在の京都府京都市中心部にあたる、山背国葛野・愛宕両郡にまたがる地に建設され東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城であった。都の北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心に朱雀大路を通して左右に左京・右京(東側が左京、西側が右京である)を置くという平面プランは基本的に平城京を踏襲し隋・唐の長安城に倣うものであるが、城壁は存在しなかった。この地の選定は中国から伝わった風水に基づく四神相応の考え方を元に行われたという説もある。
平安京の範囲は現在の京都市街より小さく北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅のやや南の九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたる。西限の西京極大路の推定地はJR嵯峨野線花園駅や阪急京都線西京極駅を南北に結んだラインである。
京内は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120m)四方の「町」に分けられていた。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていた。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれた。
道路の幅は小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上あった。現存する京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっている。朱雀大路に至っては28丈(約84m)もの幅があった。また、堀川小路と西堀川小路には並行して川(堀川、西堀川)が流れていた。
歴史[編集]
桓武天皇は延暦3年(784年)、山背国に遷都して長岡京を造営したがこれは天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。しかしそれから僅か10年後の延暦13年(794年)、桓武天皇は改めて山背国北部に遷都し平安京が成立した。この再遷都は、長岡京で興った藤原種継暗殺から早良親王廃太子に至る一連の騒動や長岡京の造営がなかなか進まなかったことが影響しているとみられている。
平安京の造営はまず宮城(大内裏)から始められ、続いて京(市街)の造営を進めたと考えられる。もっとも右京の地は桂川の形作る湿地帯にあたるため9世紀に入っても宅地化が進まず、律令制がほとんど形骸化した10世紀には荒廃して本来京内では禁じられている農地へと転用されることすらあった。貴族の住む宅地は大内裏に近い右京北部を除いて左京に設けられ藤原氏のような上流貴族の宅地が左京北部へ密集する一方、貧しい人々は平安京の東限を越えて鴨川の川べりに住み始め鴨川東岸には寺院や別荘が建設されて市街地がさらに東に広げられる傾向が生じた。天元3年(980年)には朱雀大路の南端にある羅城門(羅生門)が倒壊し、以後再建されることはなかった。こうして次第に平安京の本来の範囲より東に偏った中世・近世の京都の街が形作られた。
平安京(京都)は、関東地方を基盤とする鎌倉幕府や江戸幕府の成立によって行政府としての機能を次第に失った。また明治維新の際には江戸を東京とすることにより遷都は避けられたものの、天皇の東京行幸で留守の都となった(→東京奠都)。以降、京都への還幸は延期されているが明治天皇の指示で皇居は保存され、天皇の在所を示す高御座も京都御所の紫宸殿に置かれている。
名称[編集]
平安京は後世においては音読みの「へいあんきょう」と読むが、当初は「たいらのみやこ」と訓読みした。普通、京の名前は地名を冠するのが一般的であるため本来なら「葛野京」(かどののみやこ)としても良かったが、前項で記されている長岡京での騒動が原因のひとつとして再び遷都された理由により新京では悪いことが起こらず「平安」(訓読みは「たいら」)であって欲しいという意味が込められている。
平安京全体図(仮)[編集]
ファイル:Heiankyo map.png 注意:図に描かれているもの以外にも、複数の町にまたがる邸宅などにより小路が途切れていることがある。
平安遷都記念事業[編集]
その他[編集]
- 「鳴くよ(794)ウグイス平安京」の年号語呂合わせは有名。
- 「京都市平安京創生館」では平安京復元模型(1/1000:京域・鴨東・北山部分)、豊楽殿復元模型(1/20)、豊楽殿鴟尾実物大模型の他、平安時代の出土品を多数展示している。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 京都市 平安京創生館 - 平安京復元模型(1/1000)を展示。
- 京都市埋蔵文化財研究所(京都市考古資料館を含む) - 平安京の遺跡の調査。京都市考古資料館では平安京出土遺物を展示。
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