池田大作サリン襲撃未遂事件

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池田大作サリン襲撃未遂事件は、1993年12月18日に発生したオウム真理教信者による池田大作暗殺未遂事件のこと。

概要[編集]

オウム真理教の教祖である麻原彰晃は、同じ新宗教である創価学会を敵視していた。麻原によれば、『創価学会は、仏教団体を名乗りながら煩悩を肯定している宗教』であり、『原始仏教チベット仏教を見下している』。また、在家で信仰をしているオウム信者を、オウムから学会に改宗させようと家庭訪問などを繰り返す妨害活動(折伏)をする学会員も現れ、『池田大作は日本を侵略するフリーメーソンの手先であり「仏法」を曲げている』、『オウムの信徒数を創価学会並みに増やしたいが、それに至らないのは池田大作が小沢一郎を使って国家権力を動かし妨害しているからだ』、『池田大作は「仏敵」であるからポア(殺害)しなければならない』、『池田大作はオウムを滅ぼそうとしているからできるだけ早くポアしなければ』などと独り言を呟いていた。

サリン製造成功を機に、麻原は池田をサリンで暗殺することを企図し、村井秀夫らに実行を指示した。そんな中、池田が創価大学の演奏会に出席するという情報を入手したオウム真理教はかねてからの計画を実行に移すことになる。

経過[編集]

1993年12月18日土曜日、東京都八王子市創価大学では演奏会が開かれる予定になっており、池田も出席することになっていた。事前に池田が演奏会に出席するという情報を入手していたオウム真理教はかねてからの計画を実行に移す。当日未明、創価大学の近隣にある創価学会施設「東京牧口記念会館」にオウム真理教のサリン噴霧車が到着し、3kgのサリン溶液を噴霧した。しかし、防毒マスクを着用していたせいで、会館の警備を担当している創価学会の牙城会の会員に怪しまれ、直ちに逃走した。その際、実行犯の新実智光は防毒マスクを外したせいでサリンを大量に吸引し、重体に陥った。新実は直ちにオウム真理教附属医院に搬送され、治療の結果一命を取り留めた。

池田本人には被害は無かったものの、当日、警備していた牙城会員が、一時的な視力減退や倦怠感などサリン中毒特有の症状を訴えたというが、後遺症は確認されなかったため、創価学会では警察への通報をしなかった。

その他被害[編集]

この日の前後、近所の自動車会社社員が現場周辺を試運転中に、前を走行していた山梨ナンバーの白いセダンが半開きのトランクから霧状の物を流出させながら走行しているのを目撃している。このとき助手席に乗っていた同乗者がフロントガラスの付着物に触れ、においを嗅いだところ一時的な呼吸困難に陥り、その後数日間の視力減退や倦怠感などサリン中毒特有の症状を訴えた。

この件で地元警察に相談するも「山梨ナンバーの白いセダン」だけでは特定できない、と言われ事件として扱われず、更に医療機関で受診したところ、縮瞳の症状がみられたというがやはり「薬物中毒の疑い」との診断で、逆に麻薬類の使用を疑われるまでに至った。

創価学会側の対応[編集]

牙城会員数名が、一時的な視力減退や倦怠感などの重傷を負ってはいたが学会側はこの事件を表沙汰にすることはなく池田大作サリン襲撃未遂事件の犯行の事実は、1996年1月の松本サリン事件公判で明らかにされるまでおよそ3年間公にされることはなかった。

しかし、池田大作の行動予定の漏えい、流出という事態を重く見た学会は事件以降、池田の行動予定の情報管理を厳しくするとともに、創価学会本部職員の中からボディガードを選抜した「第一警備」を発足させて池田を警護するとともに、信者から選抜した金城会牙城会創価班などに、各会館の警備を強化させている。

この後、オウム真理教は1994年6月27日に「松本サリン事件」、1995年3月20日に「地下鉄サリン事件」を起こした。

その他[編集]

1995年1月には幸福の科学大川隆法VXガスで襲撃する計画があがっていた。

関連項目[編集]