東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(とうきょう・さいたま れんぞくようじょゆうかいさつじんじけん)とは、1988年から1989年にかけて東京都北西部および埼玉県南西部で発生した、幼女を対象とした一連の事件。
警察庁公式名称は「警察庁広域重要指定117号事件」。『現代用語の基礎知識』には「連続幼女誘拐殺人事件」の名で掲載された。犯人の名前から「宮崎事件」や「宮崎勤事件」、またイニシャルをとって「M君事件」もしくは「M事件」とも呼ばれる。
概要[編集]
この事件は、3歳から7歳という低い年齢の女児が被害者となったり、犯行声明を新聞社に送り付ける・野焼きされた被害者の遺骨を遺族に送りつけるなどの、極めて異常な行動を犯人が取った事から、欧米を中心に多発する児童への性的暴行を目的とした誘拐・殺害事件等との比較も行われ、戦後日本犯罪史上にて初めてプロファイリングの導入が検討された。
特異性が強い事件であったため、事件発生当初から激しい報道合戦が繰り広げられ、後に犯人の父親が自殺した事で「メディアスクラム」をはじめとする報道のあり方が疑問視された事件でもあった。
1989年7月23日、この事件の犯人である宮崎勤が別のわいせつ事件を起こしているところを被害者の父親に取り押さえられ、現行犯で逮捕された。なお、逮捕される前から宮崎が過去の性犯罪者リストによって捜査線上に浮かんでいたとも言われている。
宮崎が自室に所有していた「5763本ものビデオテープ」を家宅捜索により押収した警察側は、これらを分析するために74名の捜査員と50台のビデオデッキを動員した。2週間の調査によって、被害者幼女殺害後に撮影したと見られる映像を発見した。そして1989年9月2日に起訴に踏み切り、後に宮崎の供述により遺体が発見されたため、一連の事件犯人として追起訴した。
1997年4月14日に東京地方裁判所で死刑判決が下る。判決の朗読では冒頭で主文の死刑判決を言い渡された(通常、死刑判決では判決理由を朗読した上で主文を後回しにする)。控訴するも、2001年6月28日に東京高等裁判所でも控訴棄却され、一審判決の死刑を支持。弁護側は、宮崎が東京拘置所で幻聴を訴え、継続的に投薬を受けていることなどを挙げ、高裁に差し戻して再鑑定するよう求め上告したが、2006年1月17日に最高裁第3小法廷は、弁護側の上告を棄却、死刑が確定した。この自身の死刑確定について宮崎本人は著書の中で「あほかと思う。あの裁判官は後から泣くことになる」と述べており、面会に訪れた人物にも「あの判決は何かの間違い」と話していた事が明らかになっている。
死刑確定後、宮崎死刑囚は手紙の中で絞首刑に対する恐怖を訴えており、アメリカで行われる様な薬殺刑を希望していた。これについては宮崎が獄中で書いた手紙をまとめた著書に詳しく記されており、絞首台から落下する瞬間を「どん底の恐怖に陥れられ、それは人権の侵害にあたる」と主張している。また同書の中で自身の最高裁判決が大きく報道された事を「やっぱり私は人気者だ」と語り、殺害した被害者や遺族に対しての思いの程を問われ「特に無い。良い事が出来て良かったと思う」と答えた事は遺族をはじめ世間から強い非難を浴びた。
2008年6月17日、東京拘置所に於いて当人の死刑が執行された。宮崎の口から遺族に対する謝罪、事件に関する反省の念が語られる事はついに最期まで無いままであった。
事件[編集]
- 第一の事件
- 1988年8月22日、4歳の今野真理(以下KM)が誘拐・殺害される。殺害後しばらくたち、死後硬直で固くなった遺体にわいせつ行為をするビデオを作成している。動機について簡易鑑定の問診記録では、鑑定人にどうして写真だけでは済まなくなったかを聞かれた際は「やはり二次元ではなく三次元の方がいい。感覚的に触れた感触がどうだろうかとか」と答えたが、第一次鑑定では「よく分かんない」、最後の被告人質問では「急に子供の頃が懐かしくなった」と、証言が曖昧であった。
- 第二の事件
- 1988年10月3日、7歳の小学1年生の吉沢正美(以下YM)が誘拐・殺害される。こちらはすぐさまわいせつ行為をしたが、この時点ではまだわずかに息があった模様で足がピクピク動いていたという犯人の証言がある。動機について供述調書では「何ともいえぬスリルがあった」、第一次鑑定では「よく覚えていない」「一番印象が無い」と述べ、やはり不明瞭。
- 第三の事件
- 1988年12月9日、4歳の難波絵梨香(以下NE)が誘拐・殺害される。NEは失禁した。焦ったのか犯人は被害者を山林に投げ捨てた。12月15日、NEの全裸死体発見。12月20日NE宅に葉書が届く。この遺体の発見後、テレビで被害者の父親が「死んでいても見つかってよかった」と発言するのを見た犯人が他の被害者の遺体も送ることを計画するが、YMの遺体を発見できなかった。
- 犯行声明
- 1989年2月6日、KM宅に紙片と骨片などの入った段ボール箱が置かれる。2月10日には「今田勇子」名でKM事件の犯行声明が朝日新聞東京本社に郵送される。11日には同内容の犯行声明がKM宅に届く。3月11日、「今田勇子」名での告白文が朝日新聞東京本社とYM宅に届く。(今田勇子とは「今だから言う」という説もある)
- 第四の事件
- 1989年6月6日、5歳の野本綾子(以下NA)が誘拐・殺害される。NAの指をもぎ、醤油をかけて焼いて食べた。また、ビニール袋に溜まった血を飲んだ。11日NAのバラバラ殺人遺体発見。
- 現行犯逮捕
- 1989年7月23日、東京都八王子市で猥褻事件中に取り押さえられ、現行犯逮捕。
- 1989年8月9日、NAの殺害を自供。
- 1989年8月10日、NAの頭部発見。当日マスコミが嗅ぎ付ける。
- 1989年8月13日、KM・NEの誘拐殺人を自供。
- 1989年9月1日、警察庁広域重要指定117号に指定。
- 1989年9月2日、検察が起訴に踏み切る。
- 1989年9月5日、YMの殺害を自供。
- 1989年9月6日、五日市町でYMの遺骨発見。
- 1989年9月13日、KMの遺骨発見。
幼女を殺すたび、自宅に藁人形を置いて部屋を暗くし、頭に鉢巻きをして蝋燭を数本付け、黒っぽい服を身に付け手を上げ下げし、祖父復活の儀式を執り行ったという。
犯人[編集]
宮崎勤参照
動機[編集]
事件の奇異さから、さまざまな憶測が飛び交い、また宮崎自身が要領を得ない供述を繰り返していることから、裁判でも動機の完全な特定には到っていない。
おたく研究家大塚英志は、幼少の孤独が彼の精神を幼児期のまま停滞させたため、子供のような性格と性的嗜好を有していたと指摘する。事実、宮崎は強制わいせつに相当する行為(体を触る等)はしたが強姦はしておらず、幼児退行をきたしたある種のペドフィリアの行動に合致する。これは、フロイトの射精欲求はある時期に接触欲求から派生するため、子供の精神を持った者は性的結合をする意思がない…という説に由来する。また殺人も、かっとなった子供が暴力をふるうのと同じ行動を、大人が行ったため死に到ったのだと指摘した。
鑑定に当たった医師たちによると、彼は本来的な小児性愛者(ペドフィリア)ではなく、あくまで代替的に幼女を狙ったと証言されている。「成人をあきらめて幼女を代替物としたようで、小児性愛や死体性愛などの傾向は見られません」(第1次精神鑑定鑑定医 保崎秀夫 法廷証言)および「幼児を対象としているが、本質的な性倒錯は認められず…幼児を対象としたことは代替である」(簡易精神鑑定)。
影響[編集]
この事件は、メディアにかつてない影響を与えた。宮崎がいわゆるおたく・ロリコン・ホラーマニアとして報道されたことから、同様の趣味を持つ者に対して強い偏見が生じた。特に、宮崎が殺害後の幼女をビデオカメラで撮影、これらを膨大な数に及んだコレクション・ビデオテープの中に隠し持っていたという点で、現実と空想・妄想と犯罪行為の境界が曖昧で、明確な規範意識の無さが犯罪に及ばさせたと見なされた。
これには少なからず、前出の報道合戦の影響が見られ、特に各メディアとも宮崎の異常性の見られる性格を強調、一時は同傾向の見られる独身男性に対する、あからさまな社会的嫌悪感まで形成されるという、モラル・パニック的な風潮も見られた。特に、当時のおたく文化には提供側の趣味もあって、極端に幼女を対象に据えて性的興奮を煽る内容が散見されたことから、1990年代前半の電脳学園・宮崎県有害図書指定訴訟、沙織事件、有害コミック騒動などの規制強化に向けた騒動の引き金となってしまった。
一連のバッシングはかなりの偏見も含まれたものであったが、この事件の異常さが世間一般に与えた衝撃はバッシングと関係無しにあまりに大きかった。それまでアニメオタクの存在は水面下では知られていたものの、それまでは世間一般には露出していなかったアニメオタクの存在が初めて世間に露呈したのが、この衝撃的な事件だっただけに、世間一般においてのアニメや特撮番組、そしてそれを好む人に対するイメージは極端に悪化した。
21世紀に入ってオタク系漫画と通常の漫画との境が曖昧になってきたこと、メディアでのオタクやオタク文化の露出機会が増えたことなどで、オタクやアニメに対するイメージは変わりつつある。しかし、それでも幼女に対する性犯罪など発生したときには、たとえ事件と無関係であっても何かとオタクやオタク文化がバッシングされる傾向にある。大谷昭宏の「フィギュア萌え族犯行説」などがその典型である。
ホラー[編集]
部屋から押収された大量のビデオテープの中に、スナッフフィルムをリアルに再現したホラービデオ、ギニーピッグシリーズの第2作の存在をマスコミが報道。ビデオに影響されて猟奇殺人を犯したというマスコミの一方的な解釈が世間に浸透していき、とうとう「ギニーピッグ」全シリーズが廃盤に追い込まれるほどの騒動にまで発展。さらに「ギニーピッグ2」を監督した漫画家の日野日出志やホラー映画にまで根拠なき批判が波及した。だが実際、部屋から押収されたのは作風がまるで違う「ギニーピッグ4」で、当の宮崎は「ギニーピッグ2」を見ていないと供述。また逮捕後の数年間、全国のテレビ局は深夜時間帯ですらホラー映画放送を自粛していた。
ポルノ[編集]
この事件後、1989年あたりから性的なものを感じさせるあらゆるものに圧力がかかり、その余波は90年代前半ぐらいまで続いた。特に顕著だったのは漫画業界である。例えば小林よしのりは自身の漫画で、いやらしさを全く目的としていないページに、女性の乳首が見えているとして編集者から修正を加えられ、激怒したという。このころの業界は乳首の描写ですら規制する風潮であった。また遊人の青年誌漫画『ANGEL』などの人気作品も連載中止に追い込まれたり、圧力を受けた漫画は数知れない。
しかし、ポルノに関する印象はやらせもしくは捏造ではないかという声は、宮崎に否定的か協調的かの立場に関わらず存在していた。一橋文哉によると、この事件の頃は昭和天皇の崩御で右翼団体の活動が活発で、彼らが宮崎を死刑にと主張しており、マスコミも犯罪を時代論と結び付けたがり、それが結果的に裁判のため宮崎を凶悪犯にしたいという警察の意図と結びついてしまい、その対象として現代病を探し当てたいという若い記者たちの好奇心が利用され、総合的にそのようになってしまったと推理している。
ネット上の話であるが、2005年11月21日に、当時この事件の取材をしていた木村透が、読売ウイークリーのブログにて偏向報道があったことを告白している(当該エントリーはすぐに削除された。関連記事)。削除されたエントリーで木村は、部屋の隅に数十冊あった雑誌の大半は20代男性なら誰でも読むような雑誌類などだったのに、ある民放カメラマンが成人向け書籍をワザワザ一番上に乗せて撮影するという意図的な行為があったと告白した[1]。また、大量のビデオテープの中でいかがわしいビデオは少数で、幼女関連のビデオは5787本中44本で全体の1%に満たず、大半は「男どアホウ甲子園」や「ドカベン」など普通のアニメの録画テープだったという。
なおこれらのテープだが、その殆どは一般のテレビ放送を録画したものや、そのテレビ録画がマニアによってダビングされたもので、これらは文通などの形で交換されあったものという話がある。当時の報道によれば、こういったマニア間でのテレビ録画したダビングビデオの交換は方々で行われていたが、宮崎はこの交換で望みのテープを入手する際に、相手への返礼が遅くなったり十分でないといったトラブルもあったという。宮崎が自分の欲しい作品をどんどん入手する割に人の頼みは出来るだけ断るという行動を取ったため、除名したサークルもあった。また、宮崎は「完録マニア」(全話を録画しないと気がすまないタイプ)であり、子供っぽいという印象も持たれていた。
小児児童への影響[編集]
この事件をきっかけに、年端もいかない小児に性衝動を覚えるペドフィリア嗜好の存在が広く知られることとなり(それまではそうした行為は明らかな異常者・変質者のみのものと考えられていた)、保護者が子供をめぐる性犯罪に対して強い恐怖感を抱くようになった。
また、TVの幼児番組などでも、児童(女児)の裸・下着が画面に映ることを避けるようになった。さらに、宮崎が年少のころより、動物に対して残虐な行為を行っていたという報告もあり、他の事件においての事例も含め、動物虐待行為が、これらの異常性も見られる犯罪行為の予兆であると考える向きもある。
統計データ[編集]
最近では、児童への性的暴行行為で逮捕・起訴された者に、高い再犯率が見られると報道されている。ただし、犯罪白書では、性犯罪の「累犯者(過去に同一罪種で処分を受けていた者)率」は約10%程度で、犯罪全体の中で低い部類とされている。
また、児童に多大な心身への悪影響を与えるとする統計も発表され、米国同様に性犯罪者情報公開法の制定を求める声もある。(ミーガン法参照の事)
その他[編集]
- 1989年3月11日に「今田勇子」名義で告白文を朝日新聞本社と殺害された女児の家に送っているが、その告白文で昨年1988年に河川敷で白骨遺体が発見された群馬小2女児殺害事件について触れられている。群馬小2女児殺害事件の白骨遺体の現場が河川敷だったこと、白骨遺体は白骨遺体が両腕の肘から先と両脚の膝が見つからなかったことが、宮崎勤が起こした事件は河川敷に置かれた白骨遺体であったことや2事件が白骨遺体が両腕の肘から先と両脚の膝から先が分かれていたことなど群馬小2女児殺害事件と共通点があった。そのため群馬小2女児殺害事件を宮崎勤の犯行と疑うメディアもあったが、殺害時期が宮崎勤の第1の殺害事件から1年近く前であること、事件現場がやや離れていたこと、宮崎勤と結びつける証拠がみつからなかったこともあり、群馬小2女児殺害事件は宮崎勤の犯行としては立件されず、2002年9月15日に公訴時効が成立して未解決事件となった。
- つくば母子殺人事件の犯人は1989年6月に発生した第四の事件の被害女児の叔父(但し、裏付けとなる証拠は出ていない)という噂も流れた。事実であれば、事件の被害者3人は被害女児にとっては義叔母や従弟や従妹にあたる。
- 日本のロックバンドのA.R.B.楽曲の「MURDER GAME」の歌詞の内容が当事件に酷似しているとNHKから指摘があった為、放送禁止になったという逸話がある
関連書籍[編集]
- 「宮崎勤裁判」(1995年5月、佐木隆三) ISBN 978-4022640710
- 「宮崎勤 精神鑑定書―「多重人格説」を検証する」(1997年1月、瀧野隆浩) ISBN 978-4062085434
- 「宮崎勤事件夢の中―彼はどこへいくのか」(1997年12月、小笠原和彦) ISBN 978-4906531325
- 「夢のなか―連続幼女殺害事件被告の告白」(1998年12月、宮崎勤) ISBN 978-4924718302
- 「宮崎勤精神鑑定書別冊 中安信夫鑑定人の意」(2001年8月、中安 信夫) ISBN 978-4791104505
- 「M/世界の、憂鬱な先端」(2001年1月、文庫2003年1月、吉岡忍) ISBN 978-4167547035
- 「宮崎勤事件―塗り潰されたシナリオ」(2001年6月、文庫2003年8月、一橋文哉) ISBN 978-4101426242
- 「夢のなか、いまも」(2006年2月、宮崎勤) ISBN 978-4924718722
- 「“宮崎勤”を探して」(2006年12月、芹沢俊介) ISBN 978-4876722112