宏池会 (谷垣派)

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この項目では、2001年1月以後の加藤派と、2012年10月に結成された谷垣グループについて記述しています。2001年1月以前の加藤派および谷垣グループの前身については「宏池会」をご覧ください。

宏池会(こうちかい)は、自由民主党の派閥であるが、分裂により2つの宏池会が並立した時期がある。本記事では、加藤派→旧加藤派→小里派谷垣派の通称で呼ばれた宏池会について記述する。

2000年加藤の乱において、当時の宏池会会長であった加藤紘一を支持したグループによる派閥である。

現在の谷垣グループ・有隣会(ゆうりんかい)に連なる系譜の集団である。

この項目では有隣会についても扱う。

沿革[編集]

加藤派の結成[編集]

2000年加藤の乱をうけて、2001年宮澤喜一古賀誠ら反加藤グループは堀内光雄を代表とする宏池会(堀内派)を結成し、加藤派を離脱。加藤支持グループは、改めて加藤を代表とする宏池会(加藤派)として活動を始めるが、大半の議員が堀内派へと移ったため、第2派閥から第6派閥へと転落した。

小里代行、小里派時代[編集]

2002年3月に加藤が自身の秘書が逮捕される事件を受けて自民党を離党、派閥退会、議員辞職したため、小里貞利が旧加藤派会長代行を務め、その後、正式に小里派会長に就任した。2003年に加藤が衆院選で当選し、復会すると名誉会長に就任する。2005年8月、小里が政界引退を表明。

谷垣派の結成[編集]

同年9月、小里派最高顧問だった加藤が派閥を離脱したため、会長に谷垣禎一を選出して谷垣派となった。少数派である分、結束力は強く、谷垣が2006年自民党総裁選に出馬する際も総裁候補派閥として一致結束して谷垣を支えた。

総裁選では最下位に終わったが、とりわけ国会議員票において想定以上の票を集めるなど、総裁選出馬には一定の意味があったとする見方が多い。総裁選後成立した第一次安倍政権においては閣僚・党三役への登用はなく、外務大臣に留任した麻生太郎との処遇の差が際立つことになった(衆議院議院運営委員長に逢沢一郎が就任)。総裁選において安倍との対立軸を明確にしたことで、第一次安倍政権とは明確に距離を置いている。与党が過半数割れした第21回参院選後は、谷垣が第一次安倍内閣の政治姿勢に繰り返し疑問を呈したほか、中谷元園田博之らが公然と退陣論を唱えるなど、批判の度合いを強めていった。

9月の第一次安倍内閣退陣をうけた2007年総裁選では谷垣自身の出馬が検討されたが、福田康夫が出馬を表明するといち早く派として支持を打ち出す。第一次安倍政権で冷遇されたこともあり、安倍と近い関係もあり麻生擁立に反発する向きもあったため、谷垣派は福田支持で固まり、福田政権への流れを作った。

続く党役員人事で谷垣が政調会長となり、主流派に返り咲いた。

古賀派への合流[編集]

第一次安倍内閣退陣後の「麻生包囲網」を受け、谷垣派と古賀派の関係は緊密化し、2007年末になって麻生派抜きの「中宏池会」として古賀派と谷垣派が2008年5月にも再合流することで両派閥が合意し、 2008年5月13日、古賀派に合流した。 新宏池会では古賀が派閥会長になったものの、旧谷垣派からは谷垣が代表世話人、川崎二郎が副会長。逢沢一郎が事務総長に、それぞれ就任した。

自民党野党転落、谷垣総裁時代[編集]

2009年、自民党が野党に転落した第45回衆院選では宏池会も所属衆議院議員を25人と半減させたが、第1派閥の清和会、第2派閥の平成研がそれぞれ1/3に議席数を減らしたため、衆議院では第1派閥となった。

麻生総裁退任を受けた9月の2009年総裁選では、谷垣禎一が勝利。自派も含めて幅広く支持を集めての圧勝だったが、小野寺五典が自ら立候補を模索した上に河野太郎支持に回った他、菅義偉も派閥を退会して河野を積極的に支持するなど、総裁選は派閥単位の動きよりは世代対立の様相を呈した。宏池会が総裁派閥となるのは、皮肉にも前回の野党転落時の河野洋平以来14年ぶりだが、党中央への権限集中をもたらす小選挙区制が定着する一方、国政選挙での相次ぐ退潮で議員の数も減った状況で、総裁派閥としてのメリットを生かせるかは微妙な情勢となっていた。

自民党総裁であった谷垣が再選を目指し、2012年総裁選への立候補に意欲を示す中、谷垣の出身派閥の領袖である古賀誠が「若い人へバトンタッチするべき」として、谷垣の出馬に反対の意向を示した。谷垣に近い古賀派議員が反発する中、古賀は参議院議員から初めてとなる立候補を目指した林芳正の支援に乗り出した。最終的に谷垣は、当時の執行部の一員で幹事長の石原伸晃が立候補することを受け、執行部として候補を一本化するために立候補の断念に追い込まれた。こうした状況に派閥内部では対立が激化、古賀も会長職を辞任した。

古賀の会長辞任に伴い、宏池会は派閥の会長を岸田文雄に禅譲し、派閥の座長に林芳正が就任し、古賀は名誉会長に就任した。これを受け、マスメディアでは岸田派と呼ばれるようになる。この過程で、古賀の谷垣への再選不支持などに反発した谷垣に近い逢沢一郎や川崎二郎などの約10人の旧谷垣派出身議員が退会届を提出した。また、党の慣例に従い総裁任期中派閥を離脱していた谷垣が総裁退任後も宏池会への復帰を見送ったと報じられ、宏池会を退会した逢沢らが、谷垣が発起した勉強会に参加する等、事実上の分裂状態となった。

谷垣グループ「有隣会」の結成[編集]

2012年10月、旧谷垣派系議員らが会合を開き、谷垣と川崎を顧問とした政策研究会を立ち上げることを決定。同月31日、政策研究会として「有隣会」を結成した。会の名称は、論語の「徳不孤 必有隣」に由来し、「人間の素直な本性のままに生きる者は、独りにはならない。いつしか同志が集まり必ず隣に人がいるものだ」という意味を持つ。古賀派を離脱した旧谷垣派系議員以外にも、9月の総裁選で谷垣支持を表明していた棚橋泰文今村雅弘ら無派閥議員が加わり、衆院14名、参院3名の計17名が参加することとなった。

報道では谷垣グループと呼ばれている。既存派閥のように所属議員を締め付けず、派閥よりも緩やかな政策グループとして活動する方針であり、他派との重複参加も認められる。そのため、各派閥が定期例会を開く木曜日ではなく、毎週水曜日に勉強会を開催している。結成時には、岸田派の三ツ矢憲生金子原二郎、額賀派の二之湯智の3人の他派所属議員が参加している。

有隣会構成[編集]

役員[編集]

2013年8月6日現在

参加衆議院議員[編集]

谷垣禎一(11回、京都5区 川崎二郎(10回、三重1区 逢沢一郎(9回、岡山1区 中谷元(8回、高知2区
山本公一(7回、愛媛4区 棚橋泰文(6回、岐阜2区 今村雅弘(6回、佐賀2区 遠藤利明(6回、山形1区
佐藤勉(6回、栃木4区 三ツ矢憲生(4回、三重5区 小里泰弘(3回、鹿児島4区 徳田毅(3回、鹿児島2区
阿部俊子(3回、比例中国

(計13名)

参加参議院議員[編集]

二之湯智(2回、京都府 松下新平(2回、宮崎県 金子原二郎(1回・衆院5回、長崎県

(計3名)

旧谷垣派構成[編集]

役員[編集]

2008年5月13日合流前

所属衆議院議員[編集]

2008年5月13日合流前
谷垣禎一(9回、京都5区 川崎二郎(8回、三重1区 逢沢一郎(7回、岡山1区 園田博之(7回、熊本4区
中谷元(6回、高知2区 山本公一(5回、愛媛4区 遠藤利明(4回、山形1区 佐藤勉(4回、栃木4区
原田令嗣(2回、静岡2区 井沢京子(1回、比例近畿 小里泰弘(1回、鹿児島4区 土井真樹(1回、比例東海

(計12名)

所属参議院議員[編集]

加納時男(2回、比例区 岸宏一(2回、山形県 加治屋義人(2回、鹿児島県

(計3名)

関連項目[編集]