地元集中
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地元集中(じもとしゅうちゅう)とは、公立中学校において、地域の中学生が公立高校を受験する際に、地元にある特定の高校一校のみを選択するように進路指導する教育運動を意味する。地元集中は、大阪府の高槻市、枚方市、守口市、門真市、寝屋川市、交野市、茨木市、松原市、大阪狭山市、和歌山県などの一部の地域で1970年代前半から、1990年代中頃にかけて実施されていた。また地元集中は日本教職員組合が推進していたため、地元集中ではないが、それを意識した進路指導は組合員の多かった神奈川県や埼玉県などを中心に全国的に行われており、特に第二次ベビーブーム世代が中学校三年生となった1980年代中頃には顕著であった。
地元集中と学区[編集]
地元集中は、「地域の子どもを地域で育て、高校間の学力格差を解消する」ことを目的とした一種の運動であり、正式な制度ではない。大阪府や和歌山県の公立高校の普通科では、中規模な学区制を採用しているため、制度上は誰でも学区内の学力に応じた高校に進学することができる。
しかし、地元集中が展開されていた地域では、特定の地元公立高校一校のみを目指す進路指導が徹底して行われていたため、学区内にある他の高校への進学、および学区内の他の地域から地元集中高校への進学は非常に困難になっていた。
その背景のひとつとして、1970年代日教組の指導下強力に組織された中学校教職員の理想主義的な熱烈な社会主義・共産主義志向があり、本運動を教育による青少年の意識改革による将来の完全平等社会実現のための一里塚と捉える教師もいた。(当時は槙枝元文が日教組委員長であり、学校によっては「北朝鮮は地上の楽園」といった教育が行われていた。)
進路指導といっても能力(学力)に応じて高校を選ばせるのではなく、まったくその逆に全員一律に近所の高校を受験せよというものであるため、実際にはいわゆる「進学校」受験を希望する少数の生徒の希望を変更させることに多くのエネルギーが費やされた。これら少数の生徒は「自分勝手な勉強」に手を染め「能力差別」を行う差別者とされ、教職員の組織する全校生徒集会やホームルームなどで同級生から自己批判を迫られるといったケースもあった。中には地元集中に慎重な教師に難癖をつけさせたり、学力に関わらず学習塾に通ったり、学校外で実施する模擬試験を受験した生徒を次々に吊るし上げるという集会もあった。
茨木市内における部落地区在住の主婦数名によって1960年代後半から開始された運動として、正当な人権運動と位置づけ、教育指導を行っていた例もある。
また高槻市や枚方市のある中学校の教師は毎晩電話をかけ、クラス全員を地元高校へ進学させることを誇りとし、それを脅しに次年度以降の生徒も脅迫するということもあった。その後、枚方市は 市長の交代により(社会党と共産党が部落問題により決裂)地元集中をやめていき高槻市が最後の砦となる。
弁論大会を開催し、その思想を踏襲した発表のみ許可、思想統制を図っていた中学校も存在する。
もっとも、地元集中自体は、受験生が「自分の行きたい高校に進学する」という当たり前の行動を許さない運動(中学校によっては、学区が設定されていない公立高校の専門学科や、私立高校への進学すら許さない)なので、個人の自由が尊重されていない問題運動だと指摘されている。
地元集中における地元高校の選定[編集]
地元集中運動を展開していた公立中学校で、進学先として勧める公立高校は、特定の地元公立高校一校のみである。
通常は、公立中学校最寄りの公立高校の全日制普通科である。
ただし、中学校によっては、生徒の居住地区により、進学先として勧める高校を2校ないし3校に振り分ける場合もあった。これは、公立高校の入学定員を勘案し、不合格者を少なく抑えるために、市内の中学校間で生徒の進学先を調整するためである。
1970年代には、公立高校が増設期にあったため、高校増設や定員増に応じて、進学先として勧める地元高校がその都度変更になった。このため、地元校が一貫していないのではないかとする疑問も保護者などから出された。
なお、松原市には、府立高校として大阪府立松原高等学校、大阪府立大塚高等学校のほかに、大阪府立生野高等学校があるが、地元集中運動を推進する教職員からは、「生野高校はかつて大阪市内にあった学校が移転してきたもので、地元校ではない」「学区(当時第七学区)最難関校で、学力格差の頂点に立つ学校で、地元集中の理念に相容れない」として批判的にとらえており、生野高校を地元高校として位置づけようとしなかった。このため、松原市内に立地するにもかかわらず、地元集中運動が活発だった頃、松原市内の市立中学校から生野高校への進学は困難であった。
このように、地元高校の選定には恣意的な動きも見られた。
地元集中に対する公立高校側の反応[編集]
地元集中の進路指導により進学先とされた地元公立高校側では、あくまでも公立中学校の教職員が勝手に展開している運動であり、高校側が関与も賛同もしないとする立場が主流であった。
ただし、ごく一部の地元公立高校では、地元集中運動に賛同・連携する場合もあった。松原市にある大阪府立松原高等学校はその一例で、例えば、1978年から、入学試験では合格が困難な、知的障害を持つ地元公立中学校卒業生を、「準高生」(交流生)として、ホールルーム活動などで受け入れる実践に取り組んできた。これは、「地域の子どもを地域で育て、高校間の学力格差を解消する」地元集中運動の理念を高校側が応じた最たるものとして挙げられる。
また、公立高校の教員個人として運動に賛同する場合もあった。
地元集中への批判[編集]
- 憲法違反の疑い
日本国憲法第26条で規定される条文「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」に違反するとの意見がある。出身地や居住地によって受験資格を与えないことは表面的な平等を装った差別であり、人権侵害であるという論理である。また、条文中の「その能力に応じて」を意図的に無視しているとも指摘できる。
- 教員の服務規程違反
地元集中は、公立中学校教員により、制度に基づかず展開される運動であり、教育委員会の審議を経て正式に制度化されたものではないため、教育行政のあり方として疑問がある。教員は内心の自由や表現の自由は保障されるものの、職場である学校において生徒にそれを押し付けたり、生徒の意思を無視して進学先を押し付けるのは教師として不適切である。あくまでどの高校を受験するか、また入学するかは生徒自身で選ぶべきであり、教師は助言はするものの強制してはいけないという論理である。
- 進路関連情報の隠匿
学校内で実施された模擬試験や定期試験などの点数・偏差値・順位などを生徒・保護者に知らせず、生徒が自分の学力を数値的に把握できない状態を作り出した。この結果学習塾等に通っていない大多数の生徒とその保護者が客観的なデータを元に進路を検討することが出来なくなり、教師の指示に従い地元の高校を受験せざるを得ない立場に追い込まれた。
- 内申書を人質とした脅迫行為
高校入試においてはしばしば内申書の内容が入試における評価に使われるが、中学校教員は内申書を書くため、地元集中に批判的な生徒に対して、内申書の評価を低くすると脅し、屈服させることが出来てしまう。このようにして脅迫的な行為や嫌がらせ、あるいは内申書の不当な記入が実際あったか確かな記録はないものの、内申書という入試上重要な要素を教員に握られていた以上は生徒や保護者が教員に抗議することは難しくなってしまう。懇談時に内申書を見せないとの抗議があった為裁判になった事もある。
- 学校間格差是正、地元高校育成を働き掛ける対象のすり替え
もし、公立高校の学校間格差を是正するのであれば、入試制度そのものを改編しなければならず、それは府県の教育行政・教育委員会の役割である。また、地元高校育成は、高校自らが取り組む課題である。地元集中運動を推進する公立中学校教職員は、本来であれば、府県の教育行政・教育委員会に学校間格差是正を、地元高校に、育成のための取り組みを働き掛けるべきである。それが実現できないために、立場の弱い生徒と保護者に学校間格差是正と地元高校育成の責任をすり替えたとする批判である。
- 地元集中でも学校間格差がなくならない
高校間の学力格差を解消するはずの地元集中運動であるが、全市域で地元集中運動を展開していた高槻市や枚方市で、複数ある地元公立高校間で学力格差が存在していた。これは、進学元となる公立中学校の学力格差、つきつめると市内各地域の経済力格差に行き着く。地元集中により、地域の経済力格差をかえって際立たせてしまうとする批判である。
地元集中の終焉[編集]
地元集中は、1990年代中頃以降低調になり、2000年代前半頃にはほぼ終息したとされている。その背景は、
- 上に記されている、地元集中への批判が高まって来たこと。また、内申書を、生徒や保護者の求めがあれば開示する動きが起こり、地元集中の進路指導が難しくなってきたこと。
- 教育制度の変化
地元集中運動がとくに激しかった一つとされる松原市で、地元公立高校である大阪府立松原高等学校が、1996年に普通科から総合学科に改編され、大阪府の総合学科は学区制無し、入試は普通科よりも前の日程でおこなうため、広範囲から受験生が応募するようになった。また、もうひとつの地元公立高校である大阪府立大塚高等学校が、1992年に体育科を併設するのにともない、普通科の定員が削減された。結果、松原市内の市立中学校から、地元公立高校である2校への進学が減少することとなった(大阪府立生野高等学校が松原市の地元公立高校扱いではない理由は、上記の地元集中における地元高校の選定項目参照)。
- 高校の統廃合
同じく地元集中運動が激しかった高槻市や門真市、守口市、枚方市で、2000年代前半以降、府立高校の統廃合がおこなわれ、地元集中運動をおこなおうにも、その受け皿となる地元公立高校が減少したこと。
また、地元公立高校の統廃合は、地元集中運動が、地域の生徒や保護者に受け入れられなかった結果を示すこととなった。
が挙げられ、市全体・中学校全体での地元集中運動は見られなくなった。また、教職員個人でも、一部を除き、地元公立高校進学を生徒に押しつける進路指導は見られなくなった。
ただし、現在でも、地元集中の理念を持ち続ける一部教職員が、ホームルームや個人面談などで、生徒や保護者に地元高校の進学を薦めることもあるとされるが、その場合でも、以前のような強要的な性格は薄らいでいるとされる。