修二会
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修二会(しゅにえ)は、仏教寺院で行われる法会のひとつで、 修二月会ともいう。旧暦の二月はインドの正月にあたるので仏への供養を行なうといわれている。なお、旧暦1月に行われる法会は修正会(しゅしょうえ)という。奈良地方の古寺で行われるものが著名で、特に東大寺二月堂の修二会は「お水取り」の通称で一般的に知られている。また薬師寺の修二会は「花会式」の通称で知られている。他に法隆寺西円堂で行なわれるもの、長谷寺で行なわれるものがある。
目次
東大寺修二会(お水取り)[編集]
水取りや 籠りの僧の 沓の音――芭蕉
「お水取り」として知られている東大寺の修二会の本行は、かつては旧暦2月1日から15日まで行われてきたが、今日では新暦の3月1日から15日までの2週間行なわれる。二月堂の本尊十一面観音に、練行衆と呼ばれる精進潔斎した行者がみずからの過去の罪障を懺悔し、その功徳により興隆仏法、天下泰安、万民豊楽、五穀豊穣などを祈る法要行事が主体である。修二会と呼ばれるようになったのは平安時代で、奈良時代には十一面悔過法(じゅういちめんけかほう)と呼ばれ、これが今も正式名称となっている。
起源[編集]
「二月堂縁起」によると、天平勝宝3年(751年)良弁僧正の弟子の実忠和尚(じっちゅうかしょう)が笠置山の山奥で、天人の住む天界(兜率天 とそつてん)に至り、そこにある常念観音院で天人たちが十一面観音の悔過を行ずる行のを見て、これを下界でも行ないたいと願った。しかし兜率天の一日は人間界の四百年にあたるので到底追いつかないと思われた。それで、少しでも兜率天のペースに合わせようと走って行を行なうことを思いついたという。
初めての東大寺の十一面悔過は天平勝宝4年(752年)に行われたと伝えられる。
練行衆[編集]
修二会を行なう行者は練行衆と呼ばれる11人の僧侶で、三役や仲間(ちゅうげん)、童子と呼ばれる人達(大人である)がこれを補佐する。「練行衆」の僧侶の任命は毎年、東大寺初代別当良弁僧正の御忌日にあたる12月16日早朝、法要開始前に翌年度の練行衆11名の名が華厳宗管長から発表される。
練行衆のうちでも特に四職(ししき)と呼ばれる4人は上席に当る。四職は次の通りである。
- 和上(わじょう) 練行衆に授戒を行なう。
- 大導師(だいどうし) 行法の趣旨を述べ、祈願を行なう。事実上の総責任者。通称「導師さん」
- 咒師(しゅし) 密教的修法を行う。
- 堂司(どうつかさ)行事の進行と庶務的な仕事を行う。通称「お司」
これ以外の練行衆は「平衆(ひらしゅ)」と呼ばれる。 平衆は次の通り。
- 北衆之一(きたのしゅのいち) 平衆の主席。
- 南衆之一(みなみのしゅのいち) 平衆の次席。
- 北衆之二(きたのしゅのに)
- 南衆之二(みなみのしゅのに)
- 中灯之一(ちゅうどうのいち) 書記役。
- 権処世界(ごんしょせかい) 処世界の補佐役。通称「権処さん」
- 処世界(しょせかい) 平衆の末席。法要の雑用役。
また練行衆を三役(堂童子(どうどうじ)、小綱兼木守(しょうこうけんこもり)駆士(くし))をはじめ、童子、仲間(ちゅうげん)などの人々が支え、行事を進行させてゆく。
別火[編集]
3月1日の本行に入る前に「別火」と呼ばれる前行がある。戒壇院の庫裡(別火房)で練行衆が精進潔斎して合宿生活を行うのである。世間の火をいっさい用いず、火打ち石でおこした特別の火だけを利用して生活するのでこのように言われる。
初めての練行衆(新入 しんにゅう)と初めて大導師をつとめる人は2月15日から、それ以外の練行衆は2月20日から別火に入る。
別火には「試別火」(ころべっか)と「総別火」(そうべっか)の二つの期間がある。試別火の期間は5日(新大導師は10日)であとは「総別火」に入る。
試別火の期間は自坊に物をとりに行く程度は許されているが、勝手な飲食も火にあたることもできない。境内の外に出てもならない。かつては自坊で行なったが、妻帯するようになってから合宿するようになった。
2月21日は「社参」が行なわれ、新入を除く練行衆が和上を先頭に列を作り、八幡殿、大仏殿、天皇殿、開山堂に参詣し、行の安全を祈願する。途中4箇所で平衆がほら貝を吹く。また、この日、二月堂の湯屋で、「試みの湯」が行われる。「例年の如く御加行なさりょうずるで候や」と問われ、修二会に参加する覚悟を固めるてから入浴する。
2月23日には「花拵え」「燈心揃え」が行なわれる。東大寺修二会では仏前に供える花として造花(椿と南天)を作る。また、この日、灯明に用いる燈芯を作る。この二つの作業に練行衆、三役らが総出で行い、椿400個、南天50個、多くの燈芯を用意する。2月24日には仏前に供える壇供(だんぐ)と呼ばれる餅をつく。
試別火の期間中、本行に備えて法具を準備したり、夜は声明(節をつけて経を読む)の練習をする。声明の節は複雑で、すべて暗記せねばならず、特に新入にとっては大変な仕事である。
総別火に入るのは2月26日で、順次入浴し、紙衣(かみこ。紙で作った衣)を着る。紙衣は清浄な物と考えられており、行の期間中はこれを着続ける。この期間中は別火房の大広間のテシマゴザという清浄なゴザのうえ以外に座ってはならず、私語は許されず、火の気は一切ない。湯や茶を勝手に飲むことができず、土の上に降りては成らない。
椿の造花を枝に指したり、紙衣の上に重衣という墨染めの衣を初めて着る「衣の祝儀」などがおこなわれる。また夕刻ほら貝の吹きあわせもする。夜は声明の練習である。
2月の末になると、戒壇院の別火房から本行の行われる二月堂に移動するためあわただしくなる。各種の法具などは香の煙をたきしめて清める「香薫」をしてから外に運び出す。最後に大広間で「大懺悔(おいさんげ)」を唱えてから、練行衆は二月堂に移る。本行のはじまりである。
本行に入る [編集]
本行の間に練行衆が寝泊まりするのは二月堂の北側、「登廊」と呼ばれる石段の下の「食堂(じきどう)」・「参籠宿所」と呼ばれる細長い建物である。この建物は鎌倉から室町時代に建てられた重要文化財である。
宿所入り(2月28日。閏年は29日)の夕方、「大中臣の祓い」が行われる。咒師が大中臣祓詞を黙誦し、御幣で練行衆を清める。神道の行事である。東大寺修二会には神道的要素が多く含まれている。
3月1日の深夜1時から「授戒」が行われる。戒を授けるのは和上で、和上は食堂の賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)に向かって自誓自戒した後、練行衆全員に守るべき八斎戒(殺生、盗み、女性に接することなど)を一条ずつ読み聞かせて「よく保つや否や」と問いかける。大導師以下、練行衆は床から降り、しゃがんで合掌し、戒の一つ一つに対して「よく保つ、よく保つ、よく保つ」と三遍誓う。なお3月8日にも改めて授戒が行われる。
受戒が終わると、1時40分、「ただいま上堂、ただいま上堂」のかけ声にあわせて練行衆は一団となって二月堂に上堂し、木沓にはきかえ、礼堂の床を踏みならす。これを開白上堂という。内陣の錠があけられ、扉が開くと、練行衆は内陣にかけいり、須弥壇の周囲を3周し、本尊を礼拝し、内陣の掃除や須弥壇の飾り付けを行う。
2時15分ごろ、二月堂内の明かりがすべて消され、扉が閉ざされる。堂童子が火打ち石を切り、火をおこす。この火を一徳火といい、常燈の火種とされる。
2時30分、初めての悔過法要(開白法要)が行われる。これは3時頃終わり、就寝となる。 明けて正午になると鐘が鳴らされ食堂で「食作法(じきさほう)」が行われる。正午から約30分、大導師が信者の息災、過去者の成仏などを祈願したあと、一汁一菜または二菜の食事(正食)をとる。その給仕の作法は独特のものである。正食の後はその日は食事をとってはならない。この作法は本行の間、連日続く。
二月堂の本尊は「大観音」「小観音」と呼ばれる二体の観音像で、いずれも絶対の秘仏で練行衆も見ることができない。
悔過法要[編集]
言うまでもなくこの行事の中心部分である。
本行の期間中、日に六回(六時という)、十一面悔過法が行われる。6回の法要にはそれぞれ名前があり、「日中」「日没」「初夜」「半夜」「後夜」「晨朝」と呼ばれる。その唱える内容や節回し、所作などは六時それぞれのものがある。平衆が交代で導師をつとめ、その声に唱和して唱句を全員で唱える。この導師を時導師という。
悔過法要は次の通り行われる。
- 散華行道は悔過に先だって道場を荘厳するため、ハゼ(餅)をまきながら須弥壇の周りを回り、観世音菩薩の徳をたたえる。
- 大咒願は大導師が一同を代表して行法の趣旨を表明するものであり、漢音で唱えられる。「南無教主 釈迦如来」は「のうぼうこうしゅ せいきゃじょらい」と読む。
- 悔過は諸仏の名前を唱えた後、十一面観音の姿や功徳を列挙して唱句を斉唱し、一句ごとに礼拝を繰り返す。罪障懺悔の唱句はない。
- 宝号は時導師の音頭で観世音菩薩の名号を唱えては一礼することを繰り返す。
「南無観自在菩薩」を繰り返すうちに、「南無観自在、南無観自在」となり、「南無観、南無観」と短くなってゆき気分が高揚してくる。最後は「南無帰命頂礼大慈大悲観自在尊」と厳かに唱え締めくくる。宝号が終わり近くになると平衆の一人が礼堂に出て五体投地を行い、懺悔の心を体で表現する。そして、大懺悔、後行道と続き回向文でおわる。
大導師作法と過去帳読誦[編集]
初夜と後夜の悔過は「大事」といわれ特別丁寧に行われ、悔過作法の後に「大導師作法」「咒師作法」をおこなう。
大導師作法は聖武天皇、歴代天皇、東大寺に縁のあった人々、戦争や天災に倒れた万国の人々の霊の菩提を弔うとともに、現職の総理大臣以下の閣僚、最高裁の長官などの名を読み上げ、その働きが天下太平、万民豊楽をもたらすよう祈願する。
初夜の大導師作法の間には「神名帳」が読誦される。これも神道の行事である。1万3700余所の神明が読み上げられ呼び寄せる(勧請)。お水取りの起源となった遠敷明神は釣りをしていてこれに遅れたと伝えられている。
また3月5日と12日の2回過去帳読誦が行われる。過去帳では聖武天皇以来の東大寺有縁の人々の名前が朗々と読み上げられる。
これには怪談めいた話がある。鎌倉時代に集慶という僧が過去帳を読み上げていたところ、青い衣を着た女の幽霊が現れ、
「など我が名をば過去帳には読み落としたるぞ」
と言った。なぜ私の名前を読まなかったのかと尋ねたのである。集慶が声を潜めて「青衣の女人(しょういのにょにん)」と読み上げると女は満足したように消えていった。いまでも、「青衣の女人」を読み上げるときには声を潜めるのが習わしである。
咒師作法と達陀の行法[編集]
咒師作法(しゅしさほう)は咒師が須弥壇の周りを回りながら、清めの水(洒水)を撒き、印を結んで呪文を唱えるなど、密教的な儀式である。鈴を鳴らして四方に向かって四天王を勘定するのもその一環である。 3月12日以降の3日間は、後夜の咒師作法の間に達陀の行法が行われる。
達陀の行法(だったんのぎょうほう)は、堂司以下8人の練行衆が兜のような「達陀帽」をかぶり異様な風体で道場を清めた後、燃えさかる大きな松明を持った「火天」が、洒水器を持った「水天」とともに須弥壇の周りを回り、跳ねながら松明を何度も礼堂に突き出す所作をする。咒師が「ハッタ」と声をかけると、松明は床にたたきつけられる。修二会の中でもっとも勇壮でまた謎に満ちた行事である。
この行法を終えて参籠宿所に戻るときには「ちょうず、ちょうず」と声を掛け合いながら石段を駆け下りる。「ちょうず」とは手洗い、トイレのことである。ある時、達陀の行法を終えて帰ると、天狗たちがやってきて達陀のまねをしていたことがわかったので、ちょっと手洗いにゆくのだと思わせるためにこういうのだそうである。
お松明[編集]
修二会のシンボルのような行事に二月堂の舞台で火のついた松明を振り回す「お松明」がある。この松明は上堂の松明といわれ、本来は、初夜の行を始めるために練行衆が登り廊を登るときに明かりとして焚かれるもので、童子が松明をかざして練行衆を堂内に送り込んだ後に、その松明を舞台に持ち出して、火を振り回すのである。本行の期間中連日行われるが、12日は一回り大きな籠松明が出るので見応えがある。この籠松明は長さ8m、重さ80kgあるものである。材料は1~2年かけて集める。
お松明の火の粉を浴びると健康になるとか、幸せになると信じられている。また燃えかすを持って帰り護符の代わりにする信者も多い。
12日のお松明には年によっては2万人から3万人の人出がある。
走りの行法 [編集]
走りの行法は3月5日からの3日間、および3月12日からの3日間、後夜の悔過作法の前に行われる。本尊十一面観音の11の面の内の頂上仏面を「南無頂上」「南無最上」などと礼拝し、須弥壇の周りを回りながら一人ずつ礼堂に出て五体投地する。だんだんと歩調が早くなり、はじめは木の沓(さしかけ)を履いているが、やがてそれを脱いでしまいはだしで走るようになる。この行法は前述の実忠和尚の伝説に由来する。
お水取り[編集]
3月12日、後夜の宝号が終わったところで悔過作法は中断され(午前1時)、咒師は蓮松明という松明に照らされながら5人の練行衆とともに石段を下りて閼伽井屋(あかいや 別名・若狭井)へ向かう。
大勢の参拝者の見守る中、雅楽も奏され、おごそかに行列が進む。途中小さな神社に立ち寄り法要を営んでから数人の童子と閼伽井屋に入り香水をくむ。香水は閼伽桶とよばれる桶に入れられ榊を飾った担い台に載せられ内陣に運ばれる。香水は須弥壇下の香水壺に蓄えられ、本尊に供えられたり、供花の水として用いられたりする。
この水は、若狭の遠敷明神(おにゅうみょうじん)が神々の参集に遅れたお詫びとして二月堂本尊に献じられたと伝えられ、若狭小浜市の神宮寺では今もこの井戸に水を送る「お水送り」の行事が行われている。お水取りが終わると悔過は再開される。
不退の行法[編集]
東大寺修二会は752年(天平勝宝4年)始められて以来、現在まで一度も途絶えることなく今日まで伝えられている、東大寺がある限り続く「不退の行法」である。「修二会」は1667年(寛文7年)に二月堂が火災で失われたときも三月堂で行われ、物資難から諸々の行事が中止せざるを得なかった太平洋戦争の戦中戦後も続けられた。2007年の3月に行われたものを含むと現在まで1255年、1255回を数える。
東大寺の修正会[編集]
東大寺では修二会のほかに修正会も行っている。1月7日のみの簡単なものであるが、初夜と後夜に別れ、初夜では如意輪観音に悔過し、後夜では礼仏偈ほか多くの法要が行われる。
修二会と芸術[編集]
- ドイツの作曲家シュトックハウゼンの電子音楽「テレムジーク」は、作曲者によって採集された世界各地の音を電子音と融合させた作品であるが、日本を代表する音として雅楽とお水取りの声明が選ばれている。実際にシュトックハウゼンは1966年に奈良を訪れお水取りに立ち会っている。
- 日本の作曲家、柴田南雄は1978年、「修二會讃」を作曲した。東大寺の修二会の声明のほかに、華厳経の一部や小林一茶、大島蓼太、松尾芭蕉の俳句をテクストに用いたシアターピース(合唱劇)で、委嘱した東京混声合唱団によって同年に初演された。
- 日本のシンガーソングライター、さだまさしは1993年、この行事をテーマにした楽曲「修二会」を製作している(作詩・作曲:さだまさし アルバム『逢ひみての』収録)。さだは日本の古典的、民族的、仏教的なモチーフの作品を数多く作っているが、この曲もその1つである。また、さだは東大寺の管長らとも縁があり、大仏殿の昭和の大修理の際、落慶法要コンサートを行っている。
- 評論家の小林秀雄は達陀の行法に接して一言「バッハだ」と言った。
- 画家では杉本健吉や須田剋太などが修二会にちなむ絵を描いている。
- 写真では入江泰吉が昭和21年ごろから30年以上修二会に通いつめ撮影を行なった。こうした撮影活動の末、入江は写真集『東大寺とお水取り』昭和56年集英社を刊行する。
- また写真家土門拳は1967年東大寺修二会を撮影し、翌年、平凡社「太陽」1月号に特集記事として掲載された。
薬師寺修二会(花会式)[編集]
通称「花会式(はなえしき)」と呼ばれる薬師寺の修二会は例年、3月30日から4月5日にかけて行われる薬師悔過法である。4月5日は結願法要として、「鬼追い式」が行われている。薬師寺の修二会は、花会式と称されるように、十種の造花が本尊薬師如来にささげられる。
これは嘉承2年(1107年)、堀河天皇の皇后が病気になり、その平癒を薬師寺の本尊に祈願したところ回復したので、これに感謝して修二会に梅、桃、桜など和紙の造花を十種類の造花を供えたのが始まりであるといわれている。
悔過法が終わった5日の夜8時に「鬼追い」がある。松明を持った黒、青、赤の親子の鬼が堂外にあらわれ、大声で叫び堂をかけめぐる。やがて毘沙門天があらわれ鬼を退散させる。修二会の最後に鬼が現れるのは長谷寺のだだおしと共通している。
なお、修正会は1月1日から15日にかけて行われ、吉祥天女を本尊とする吉祥悔過を行う。
新薬師寺修二会(おたいまつ)[編集]
新薬師寺では、本尊薬師如来の縁日である4月8日に薬師悔過が行われる。夕方5時から東大寺の協力を得て11人の僧侶が「日中」の法要を行い、7時から大松明が11本境内を行道する。その後「初夜」の悔過行が行われる。
法隆寺修二会[編集]
毎年2月1日から3日にかけて西円堂で行なわれる。 弘長元年(1261年)以来続く伝統行事。本尊の薬師如来座像の前で「薬師悔過」を行う。
なお結願の3日、午後7時ごろから追儺式が行われる。西円堂で黒鬼、青鬼、赤鬼が松明を投げ、毘沙門天が現れて鬼を追い払う。薬師寺の修二会と共通するものがある。
なお、毎年1月8日~14日法隆寺の金堂では修正会も行われている。この行事は神護景雲2年(768年)にはじめて行われて以来続いており、吉祥天に向かって懺悔する吉祥悔過である。7日間にわたり、晨朝、日中、日没、初夜、半夜、後夜の法要が行われ、国家安隠、万民豊楽、寺門興降の祈願を祈願する。
長谷寺修二会(だだおし)[編集]
長谷寺では毎年2月8日から14日まで7日間、本尊十一面観音に対する悔過法要が行なわれる。結願の2月14日、ほら貝や太鼓が響く中、松明をもって本堂の周囲を赤・青・緑の鬼が走り回る「だだおし」が行なわれる。「だだおし」の「だだ」は東大寺で行なわれる「達陀(だったん)」と同語源であるという説がある。
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