織田信行

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織田 信行(おだ のぶゆき、生没年不詳)は、戦国時代武将織田氏一門衆。織田信長の同母弟。他の兄弟に信広信包信治信時信興秀孝秀成信照長益長利らがいる。子に津田信澄津田信糺織田信兼津田信直、女(神田之成室)ら。名は信勝(のぶかつ)、達成(たつなり)、信成(のぶなり)と伝わる。信行の名乗りは後世の諸系図や物語、小説等で採用されており、文書上では信勝の名乗りが多い。『信長公記』では通称の勘十郎から勘十郎殿と記録されている。受領名は武蔵[1]

略歴

父は織田信秀、母は土田御前。信行は信長のすぐ下の弟である。生年は天文4年(1535年)や天文5年(1536年)説があり定かではない。『信長公記』によると父が亡くなりその葬儀の際に折り目正しい肩衣姿で現れた信行とうつけの姿で現れた信長の姿を対比し、この兄弟の性格の相違を強調している[1]。信秀の生存中から奇行を繰り返す信長より真面目な信行の後継を望む者が多かったが、信秀は死ぬまで信長の後継を譲らなかった。また母親の土田御前は信長より信行を溺愛した[2]

そのため信秀が亡くなると織田家は信長派と信行派に分裂し、信長に平手政秀佐久間信盛丹羽長秀らが、信行に柴田勝家林秀貞林通具らが付いた。天文20年(1551年)9月20日付の熱田座主坊に発給した安堵状、天文22年(1553年)10月に熱田羽城の加藤図書助に発給した国役免除状では信長・信行の双方が別々に書状を発給している[1]

『信長公記』によると信行は父の死後に末森城主となり、信長が清洲城を手に入れた際に信長をその祝いとして秀貞が信長を那古野城に呼んで暗殺する計画を立てたが失敗したという[2]。天文24年(1555年)6月、弟の織田秀孝が叔父・信次の家臣・洲賀才蔵に誤殺された。それを聞いた信行は激怒し、信次の居城・守山城の城下を焼き払った。これに対し信長は「無防備に単騎で行動していた秀孝にも非がある」として達成を牽制したが、織田家の家臣たちは親族のつながりを尊重した信行により当主としての期待を寄せる結果となった。弘治2年(1556年)4月、信長の岳父であり支援者でもあった斎藤道三が自身の嫡男・義龍との戦に敗れて死去したため、信行は林秀貞・林通具・柴田勝家らを味方につけて信長に対して挙兵し、信長の蔵入地である篠木三郷を横領しようとした。しかし8月24日、稲生で柴田勝家が敗れ、次いで林通具が討死した(稲生の戦い)。敗れた信行は末森城に籠城、信行は母・土田御前の取りなしにより林秀貞、柴田勝家共々赦免された。

その後、信行は岩倉城織田信安に通じるなどして再度謀反を企て、篠木三郷を横領しようとしたが、柴田勝家がこれを信長に通報した。『信長公記』によると、信行は若衆津々木蔵人を重用し、勝家は増長した蔵人に侮られ無念に思っていたという。その後、信行は信長が病気との報を受け、柴田勝家に事の真偽を仰ぐが「信長殿を騙して譲り状を書かせてしまえば信友殿もいない今、織田家はあなたのものです」と諭された。そして、11月2日に清洲城へ信長の見舞いに行ったが、清洲城北櫓天主次の間で信長の命を受けた河尻秀隆ら(『信長公記』巻首によると、信長が河尻青貝に命じた旨の記述があり、一般に河尻秀隆と詳細不詳の青貝なる人物の2名と考えられている)、あるいは池田恒興ら(『甫庵信長記』によると、山口飛騨守長谷川橋介・川尻青貝(この場合は1人の人物)の3人がまず斬り付け、土田御前のいる方へ逃げようとしたところを、池田恒興が取り押さえて殺害したとされる)によって暗殺された。ただし信長を謀殺しようとして返り討ちにあい、信長の目の前で自刃したともいう。

没年に関しては『信長公記』は弘治3年11月2日、あるいは永禄元年(1558年)11月2日とされているが[3]、『享禄以来年代記』『群書本織田系図』では弘治3年1月6日とされており、正確な没年は不明である[2]。享年は22歳か23歳くらいであった。

遺児の津田信澄は幼年であり土田御前の嘆願もあって助命され、信長に一門・側近として重用された[2]

織田信行が登場する作品

テレビドラマ

アニメ

漫画

※他にも信長が登場するテレビドラマ、アニメ、漫画、ゲームの大半に登場している。

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 西ヶ谷恭弘『考証、織田信長事典』、P228
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 西ヶ谷恭弘『考証、織田信長事典』、P229
  3. 阿部『戦国人名事典コンパクト版』、P219

参考文献

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