甘粕景持
甘粕 景持(あまかす かげもち、生年不詳- (1530年?) 慶長9年6月26日(1604年7月22日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上杉氏の家臣。越後国飯塚(現新潟県長岡市)桝形城主、越後国三条城主。上杉四天王、越後十七将の一人。初名は長重(ながしげ)。後に主君・長尾景虎(上杉謙信)の一字を拝領して景持と改名した。通称は近江守。妻は黒金景信の妹。子に、甘粕尚政(長男)、甘粕重政(次男)。
なお本項では、景持として記述するものとする。
出自
景持の甘粕氏は、出自について以下のような諸説があり、甘粕近江守景持(長重)の登場が歴史上で初と考えられている。
- 新田氏の一族で上野国(群馬県)に住したが、新田氏の衰退後、上杉・長尾氏両氏に伝えたという説(『清和源氏甘粕家系譜』『源姓天河瀬氏系譜』『上杉謙信伝(布施秀治著)』)
- 上田庄の出身で、長尾為景に仕え、上杉謙信に仕えたという説(「温故の栞」第二巻五十七貢・「上杉三代記」上杉資料集下)
- 甲信国境白峰山中に住し、狩猟を生業としていたが、上杉謙信に見出され家臣となった説(本朝武功正伝)
なお、同じく上杉氏の家臣である甘糟景継は遠縁にあたる。
生涯
出生時期については、現存する家系図の中に記述がなく不明(『甘粕近江守家系図』『清和源氏甘粕家家譜』『源姓天河瀬氏系譜』)。
越後上杉氏に仕え、桝形城や三条城の城主であったといわれる。ところが、領有の経緯や真偽については不明な点が多く、『温故の栞』『越後古城記』『飯塚村誌』『上杉謙信伝(布施秀治著)』に景持の居城であったと記され古くから伝承もある一方、『甘粕近江守家系図』『清和源氏甘粕家家譜』『源姓天河瀬氏系譜』では、三条城将であったとしか記されていない。
永禄2年(1559年)、主君・長尾景虎が上洛して帰国した際に、越後の諸将は景虎の壮挙を祝して太刀を贈ったが、景持も「披露太刀之衆」の一人として金覆輪の太刀を贈っている。
永禄3年(1560年)、景虎による関東管領・上杉憲政を奉じた関東出陣に従い、北条氏康が立て籠る小田原城攻撃にも従軍した。また、景虎が関東管領職と上杉名字を譲られ、鎌倉鶴岡八幡宮で就任式を行ったとき、宇佐美定満・柿崎景家・河田長親とともに御先士大将をつとめている。
長尾景虎改め上杉政虎(謙信)は、永禄4年(1561年)8月、川中島に出陣して甲斐国の武田信玄と対峙した(第四次川中島の戦い)。この戦いで景持は殿軍を承り、千曲川に布陣して妻女山から下ってくる武田軍の別働隊と激戦を繰り広げた。そのため武田軍では、謙信自ら殿軍となったと勘違いした者が多かったという。また景持について、『甲陽軍鑑』では「謙信秘蔵の侍大将のうち、甘粕近江守はかしら也」、『松隣夜話』では「勇気知謀兼備せる侍大将」と激賛している。なお、この戦いの帰途の際に、上杉本陣に祀り、謙信自ら戦勝祈願の護摩を厳修したと伝えられる不動明王立像を柿崎景家・直江景綱とともに現在の長野県須坂市にある米子不動尊の奥之院の本尊として安置したという。
謙信が死去すると上杉景勝に仕えた。天正10年(1582年)、新発田重家の乱に際して、景勝から三条城将(6千石、含む同心分)に命じられ、木場城の補佐や新潟城・沼垂城攻略にあたり、城攻撃の兵站基地を守備する重責を担った。天正14年(1586年)8月18日、新発田征伐に際して第二陣に加わり、鉄砲大将として笠堀に布陣、河田憲親・高梨薩摩守・千坂対馬守・竹俣房綱らとともに敵将を討ち取る戦功をあげる。のちに景勝から戦功を賞賛され感状を受ける。
文禄4年(1595年)、家老・直江兼続の命により、上松弥兵衛と共に蒲生郡出雲田庄、大槻庄、保内の検地奉行となる。
上杉氏が慶長3年(1598年)の会津若松、慶長6年(1601年)の米沢の2度の移封に従い、1千1百石を領した。また、慶長7年(1602年)には米沢に天正寺を開基した。
慶長9年6月26日(1604年7月22日)、米沢にて死去。法名は巒樹院殿昌林盛繁景持居士。曹洞宗竜言寺に葬られた。現在は、甘粕氏の歴代の墓は、栄松寺(廃寺)にある。
なお、子孫は代々米沢藩士として仕えた。主に山形県・東京都・愛知県に現存している。
家臣
『文禄三年定納動員目録』に記載されている家臣は、以下の通りである。
- 青木清右衛門
- 小幡喜兵衛
- 小池半助
- 山田弥左衛門
- 福崎彦七郎
- 丸山平左衛門
- 片桐助平衛
- 石黒孫次郎
- 鈴木勘助
- 平賀総次郎
- 吉益縫殿助
- 竹俣次郎右衛門