滝精一
滝精一(たきせいいち, 1873年12月23日 – 1945年5月17日)は美術史学者、美術研究者である。元東京帝国大学教授。夏目漱石の知人である。
概要
1873年(明治6年)、日本画家滝和亭の長男として東京で生まれる。1897年(明治30年)東京帝国大学文科大学を卒業し、同年、東京帝国大学大学院に入学し、美学を専攻する。1899年(明治32年)、東京美術学校の美学授業を嘱託される。1901年(明治34年)、国華社業務担当員となり兼任で編集に従事する。 1909年(明治42年)、京都帝国大学文科大学講師を嘱託され、1911年(明治44年)、東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)講師を嘱託される。 1914年(大正3年)、東京帝国大学文学部に美術史学講座が開設された時、東京帝国大学教授となり美術史学講座初代教授となる。1915年(大正4年)文学博士の学位を得る。概説として日本美術史を講じ、特殊講議として支那絵画史、印度仏教美術等を講述し、美術史を教えた。1916年(大正5年)、帝室技芸員選択委員となる。1920年(大正9年)、東宮御学問所御用掛となる。1925年(大正14年)、帝国学士院会員となる。1927年東京帝国大学文学部長。 1921年(昭和6年)、依願により東京帝国大学文学部長を免ぜられる。昭和9年、依願により本官を免ぜらる。従3位に叙せられる。東京帝国大学名誉教授の名称を受ける。1945年(昭和20年) 勲2等授瑞宝章に叙せられる。品川区上大崎の自邸で急逝する。
国華
「国華」の編集主幹として,東洋美術の研究と紹介に尽力する。国華は岡倉天心が創刊した日本・東洋古美術研究誌である。
小野秀雄の批判
1928年(昭和3年)、東京帝国大学文学部に開設が決まりかけた新聞学講座を、当時文学部長であった瀧によりつぶされた小野秀雄は瀧を「象牙の塔に立てこもって学問の応用面を蔑視する古い頭の学者の集まり」[1]と酷評した。
墨画の歴史
以下は滝精一の講演概要である[2](これはすでにパブリックドメインである)。 墨画は西洋にもないわけではないが、西洋のブラックホワイトの絵は完成品ではなく、スケッチ下書きであった。例外はフィレンツェのウフィッツイ美術館にあるアドレーションがある[3]、これも完成画でなく、着色がされなかった絵である。東洋の墨絵は西洋に見ることはできない。唐の時代の画家に王維がある。彼は「画道は水墨を以て最上等とする」と言明した。宋の時代になると山水画すなわち水墨画による風景画が盛んとなった。そこでは空気と煙霞を重視した。西洋で空気を重視するようになったのははるか後年である。日本の水墨画は中国の影響で始まったが、中国にもみられない長所を発揮した。平安時代は細い線を使用した濃淡の区別、自由な筆遣いが特徴の大和絵であった。鎌倉末から足利時代に水墨画が生まれた。功績があった人物は明兆、周文、雪舟の3名である。明兆は筆力を重視した。周文は深みのある水墨画を描いた。その弟子が雪舟である。その後は狩野派である。狩野派は水墨画を最上等とした。狩野探幽が第一人者で、洗練の極致に到達した。丸山応挙は墨画に工夫を凝らした。
受賞
- 1940年(昭和15年)、朝日文化賞
- 1945年、勲2等授瑞宝章
論文
- 滝精一(1914)「アジャンタの石窟寺」心理研究 5(27), pp.288-294
- 滝精一(1940)「仏教と日本芸術」美術研究(100), pp.1-8
- 滝精一(1923)「東大寺大佛の建立に就て」龍谷大学論叢 251, pp.65-73
- 滝精一(1920)「東寺七祖畫像の研究」密教研究 1920(5), pp.60-72