沖縄戦

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沖縄戦
Okinawa's Landscape in the south.jpg
沖縄南部を占領した米軍
戦争大東亜戦争 / 太平洋戦争
年月日1945年3月26日-6月23日
場所沖縄本島および周辺島嶼、海域
結果:アメリカ軍の勝利
交戦勢力
日本の旗 日本大日本帝国 Flag of the United States.svgアメリカ合衆国
Flag of Australia.svgオーストラリア
Flag of Canada 1921.svgカナダ
Flag of New Zealand.svgニュージーランド
Flag of the United Kingdom.svgイギリス
指揮官
日本の旗 日本牛島満陸軍中将
日本の旗 日本長勇陸軍中将
日本の旗 日本大田実海軍少将
Flag of the United States.svgサイモン・B・バックナー
Flag of the United Kingdom.svgブルース・フレーザー
Flag of the United States.svgレイモンド・スプルーアンス
Flag of the United States.svgジョセフ・スティルウェル
戦力
116,400人 548,000人
損害
死者・行方不明者 94,136人
民間人死者 94,000人
死者・行方不明者 12,520人
戦傷者 72,012人

沖縄戦(おきなわせん)とは、大東亜戦争太平洋戦争)末期の1945年昭和20年)、沖縄諸島に上陸した米軍日本軍との間で行われた地上戦。これは民間人を巻き込んだ日本国内での最大規模の地上戦であり、また日米最後の大規模戦闘となった(国内唯一の地上戦と言われる事もあるが、硫黄島の戦い占守島の戦い南樺太での戦闘があるため、厳密に言えば誤りである)。

沖縄戦は1945年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月23日で終了した。

アメリカ軍の作戦名はアイスバーグ作戦Operation Iceberg、氷山作戦)。大規模な戦闘沖縄島で行われた。米軍の作戦目的は本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であり、日本軍のそれは当時想定されていた本土決戦[1]への流れの中に位置づけられる[2]

沖縄戦での全戦没者は20~24万人とされ、その内、沖縄県の一般住民の戦没者は公式には9万4千人[3]とされているが、研究者による15万人以上という推計値もある。

概要

沖縄戦とは第二次世界大戦における、日本国内での最大の地上戦である。民間人が多く参加、ないし巻き込まれたのもこの戦闘の特徴である。主戦場は沖縄本島およびその周辺の島々である。なお、それ以外の地域では陸上戦はおこなわれなかったものの、空襲や戦争マラリアなどによる死者を出している。

日本軍は水際迎撃を避けて、持久戦闘を基本方針として戦った。特に首里(現那覇市の一部)北方で激戦となった。沖縄諸島周辺の海上でも、神風特攻隊を中心とした日本軍航空部隊などと、連合軍艦隊の間で戦闘が行われた。上陸後2ヶ月経った1945年5月末に、連合軍が首里を占領した。日本軍は南部に後退したが、6月下旬までに組織的戦力を失った。掃討戦は終戦まで続いた。

沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄県出身者が12万2228人、そのうち9万4000人が民間人である。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は1万2520人で、負傷者7万2千人であった。

使用された銃弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾6万18発と手榴弾392,304発、ロケット砲弾20,359発、機関銃弾約3,000万発弱が発射された[4]。また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄県では鉄の雨鉄の暴風(英:Typhoon of Steel)などと呼ぶ。[5]

沖縄戦の背景

日本軍の戦略

アメリカ軍の沖縄上陸作戦計画図

太平洋戦争で日本の劣勢が明確になると、アメリカ軍の日本本土への侵攻が予想された。その際、アメリカはまず沖縄本島を占領して前線基地とすることが考えられたため、日本はそれに対抗すべく1944年(和暦??年)2月、沖縄守備軍(第32軍)を編成、司令官には渡辺正夫中将が任命された。島全体を航空基地として航空機によって抗戦する予定で、当初の主な任務は飛行場建設であり、警備程度の兵力であった。4月には、海軍の沖縄方面根拠地隊が置かれるとともに、九州-沖縄県間の航路防衛を任務とする第4海上護衛隊が創設され、沖縄県方面への軍需輸送や本土への住民疎開船団の護衛を担当することとなった。しかし、これらの海軍部隊も防衛戦力というよりは、後方組織としての性格が強かった。

1944年7月のサイパン島玉砕という事態に大本営は司令部人事を一新し、新司令官に牛島満中将を任命した。ようやく沖縄県方面の兵力増強に努め、第9師団をはじめ本島に3個師団と1個旅団、第五砲兵司令部(和田孝助中将。第32軍直轄の大砲400門以上を指揮する。)を置いた。和田孝助中将は砲兵術の権威と知られ、敵上陸に際して砲兵部隊に援護された精鋭3個師団が水際から米軍を追い落とせると自信を深めた。石垣島などにも1個師団以上が置かれた。しかし、本島のうち第24師団は装備・訓練は行き届いていたが実戦経験が無く、また独立混成第44旅団は輸送中に輸送船富山丸がアメリカ軍潜水艦に撃沈される[6]など、先行きを不安視する部分もあった。

第9師団は精強・練達で知られており、第32軍の中核となる予定だった。ところが、レイテ決戦のために台湾駐留部隊が動員されると、穴埋めに沖縄から1個師団を台湾へ転用するとの方針が大本営で決定され、やむなく第32軍は第9師団の転出を決めた[7]。これで兵力の三分の一近くが失われ、第32軍は積極作戦から持久作戦への転換を余儀なくされる。更に補充兵力として第84師団の増援が通知されたが、その直後に中止されるという事態がおこり、第32軍と大本営の間で不信感と作戦・用兵思想に溝が生じ、その後の作戦に支障をきたす事となった。他方、大本営の戦略的見地から見ると、当時の連合軍の侵攻状況からは台湾を経由しての中国南部への上陸が予想されており、台湾の喪失はひいては南方との考えうる唯一の補給線にも影響するため、台湾の防衛も重要だった。また、補充部隊を海上輸送しようにも、海上護衛兵力が不十分で輸送中に消耗する危険が大きかった。

最終的な陸軍の沖縄守備軍の数は86,400人で、このほかに海軍陸戦隊が約10,000人弱、学徒隊などが20,000人で、総計116,400人がいた。なお、陸軍の戦闘員にも、兵力不足から現地で急ぎ調達された予備役などが多く含まれ、全戦闘員中約2万人は現地で召集された17歳から45歳までの者であった。

昭和20年に入り、米軍の沖縄上陸が必至な情勢となった時、沖縄防衛の第32軍司令部は、戦闘の支障にならないように、また軍民一体となった「玉砕」を防ぐために、島内に残っている老幼婦女子を半強制的に北部山岳地帯に疎開させようとした。多くの人々はわずかな食糧と身のまわりの品を持って避難をしたが、それでも激戦地になるであろう中南部には数10万人の住民が避難せず踏みとどまっていた。これは、台湾沖航空戦の誤報による影響が大きいとされる。

連合軍の戦略

十・十空襲に遭う那覇市街

連合軍は、沖縄本島の存在について、日本本土と中国大陸のいずれに侵攻する際の作戦拠点にもできる島と考えていた。また、沖縄諸島の基地化により、日本の南西方面の海上航路・航空路を遮断することもできると見ていた。他方、連合軍がフィリピンへ侵攻した場合には、日本軍の反撃拠点となりうる島であるとも警戒していた。

1944年8月時点での連合軍の戦略では、沖縄本島よりも先に台湾を攻略することが計画されていた。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄県のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦については具体的な検討が進められ、すでに上陸部隊の司令官にはアメリカ陸軍のバックナー(en:Simon Bolivar Buckner, Jr.)中将が決まっていた。

ところが、9月中旬になってレイテ島上陸の予定繰上げが決まり、フィリピンでの泊地確保もより早く行える可能性が出てくると、アメリカ海軍のニミッツ提督らは台湾攻略以外の選択肢について再検討を始めた。アメリカ陸軍も、ルソン島さえ占領すれば台湾は無力化できると考えて、台湾攻略中止に同調した。そして、新たな日本本土空襲の拠点を求めていたアメリカ陸軍航空軍が、台湾の代わりに沖縄本島を攻略することを提案し、検討の結果、10月5日に沖縄攻略作戦の実施が決定された。計画では10月20日のレイテ島上陸、12月20日のルソン島上陸、翌1945年1月20日の硫黄島占領に続いて、3月1日に沖縄諸島へと上陸することとなった。バックナー中将は、台湾上陸部隊の司令官から、そのまま沖縄上陸部隊の司令官へと任務が変更された[2]

さっそくレイテ島への侵攻作戦に着手した連合軍は、事前に日本軍の反撃戦力を削る航空撃滅戦として沖縄県周辺や台湾などを攻撃した。10月10日、アメリカ軍機動部隊が沖縄県などに対して大規模な空襲を行い、沖縄県周辺所在の日本軍航空機や艦船は大きな打撃を受けた(十・十空襲)。

1945年3月、連合軍は、予定よりは遅れながらもルソン島攻略硫黄島攻略をほぼ完了した。このときまでには、日本本土上陸作戦であるダウンフォール作戦の立案もされており、沖縄本島は、九州上陸を支援する拠点として利用されることに決まっていた。こうして、当初計画よりはちょうど1ヶ月遅れで、沖縄攻略を目的とした「アイスバーグ作戦」が発動されることとなった。

日本軍の配置

日本陸・海軍守備部隊指揮官と参謀の合影(1945年2月初)。(1)大田実海軍少将、(2)牛島満陸軍中将、(3)長勇陸軍中将、(4)金山均陸軍大佐、(5)北郷格郎陸軍大佐、(6)八原博通陸軍大佐

陸軍

このほか、先島集団(宮古島第28師団及び独立混成第59・第60旅団。石垣島に独立混成第45旅団)、大東島守備隊(第28師団の一部)、奄美守備隊(独立混成第64旅団)といった部隊がアメリカ軍による上陸を想定して配置された。しかし、アメリカ軍が上陸しなかったため、地上戦闘はおこなわれなかった。第32軍司令部の壊滅後、先島集団は台湾の第10方面軍の直轄下に入り、奄美守備隊は九州の第16方面軍隷下となった。

海軍

戦闘推移

事前攻撃

1945年、沖縄戦に参加するため、日本各地から集結した平均年齢17歳の特攻隊員達(陸海軍計2500機の特攻機が投入された)

アメリカ軍は、日本軍の反撃戦力を削ぐことなどを目的に、空母12隻を中心とした第58任務部隊を日本本土へと差し向けた。第58任務部隊は1945年3月18日以降、九州や瀬戸内海周辺の飛行場や艦隊などに対し空襲を開始した。これに対して日本軍は、海軍の第5航空艦隊を中心に反撃を行った。4日間の戦闘で、日本軍は空母3隻の撃破に成功したものの、第5航空艦隊は戦力の過半を失ってしまった(九州沖航空戦)。アメリカ艦隊の損害は、イギリス軍機動部隊の合流により回復することができた。

沖縄本島への侵攻作戦の可能性が高いと判断した大本営は、3月20日に天号作戦を下令した。現地の第32軍も24日に警戒度最高の甲号配備を発令した。

3月23日、第58任務部隊は沖縄県周辺に対する本格空襲を開始し、初日だけで延べ2000機を出撃させた。翌日には第59任務部隊の戦艦5隻などが本島南部に対する艦砲射撃を行い、上陸予定地点の掃海作業も始められた。このほか日本軍の反撃を妨害する目的で、アメリカ軍はB-29爆撃機による機雷投下を関門海峡などに行っている(飢餓作戦)。艦艇1500隻、輸送船450隻、兵員54万8000人(うち上陸部隊18万人)の攻略部隊もサイパン島やレイテ島から続々と出発し、沖縄洋上に集結した。

慶良間諸島の戦い

3月24日、沖縄戦開始初頭の夜間強行偵察で飛来した、岩本徹三少尉が単機で慶良間諸島に遊弋する米軍艦艇を銃撃し、大損害を与えた。このことは、慶良間海洋文化会館の記録と、岩本の手記とで一致している。日本軍守備隊があっけなく撃破され、島民が自決を迫られるなか、勇敢な日本の飛行機がたった1機で米軍に挑む姿が、今なお記憶に留められている。

3月26日、アメリカ軍は慶良間諸島座間味島など数島を占領し、作戦拠点となる泊地や水上機基地などを設置した。日本軍はこれらの島への初期侵攻を想定していなかったため、地上部隊をほとんど配備しておらず、本島防衛任務の特攻艇マルレ部隊である陸軍海上挺進戦隊3個などだけが存在していた。第32軍司令部は出撃困難と見てマルレの処分を命じ、すでに事前空襲で300隻のマルレの多くを地上撃破されていた各部隊はこれに従って島の奥へ後退した。慶留間島の4隻のみが出撃して、うち2隻が攻撃後に本島へ生還した。

連合艦隊は、天号作戦のうちの沖縄防衛計画である天一号作戦を発動して第3航空艦隊などを九州方面へ移動させるとともに、戦艦大和を中心とした第一遊撃部隊、回天特攻「多々良隊」(潜水艦4隻)にも出撃準備を命じた。陸軍も航空総攻撃の態勢に入った。これらの大規模攻撃以外に27日には最初の沖縄本島発の特攻機が出撃するなど、散発的な航空反撃が行われていた。29日には本島配備の海上挺進第29戦隊のマルレ19隻が出撃し、中型揚陸艦1隻を撃沈した。

3月31日、アメリカ軍は慶伊瀬島に上陸し、そのうち神山島に野戦重砲24門を展開させて那覇への砲撃を開始した。

米軍の上陸

上陸中の米軍 (4/13)
日本軍特攻攻撃を受け炎上する米軍空母バンカーヒル

4月1日、アメリカ軍は、守備陣の薄い本島中西部で、陸軍2個師団と海兵2個師団による上陸を開始した。北飛行場(読谷村)と中飛行場(嘉手納町)の占領が第一目標とされた。戦力で劣る日本軍は、戦力を宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針であったために、これらの中西部沿岸地域にはほとんど守備兵を置いていなかった。日本軍が水際作戦を放棄したため、米軍はその日のうちに北・中飛行場を確保、4月5日までには中部(現うるま市石川周辺)の東海岸までを占領した。これにより、第32軍は沖縄本島南北に分断された。

第32軍の持久戦方針による早期の飛行場の喪失は、大本営や海軍中央から消極的かつ航空作戦軽視と批判の的にされた。米軍の沖縄本島上陸前からの不信が戦いの最中に露見する結果となった。度重なる大本営や海軍の飛行場再確保の要請は第32軍司令部を混乱させ、第32軍内部でも積極反撃すべきか激論が交わされた。4月4日には、長第32軍参謀長主導で攻勢移転が一時決定されたが、島南東部の港川方面への連合軍上陸部隊接近との報告により、中止された。この港川方面への上陸部隊は、陽動作戦任務のアメリカ第2海兵師団で、実際には上陸はしなかった。

4月6日から、日本軍は特攻機多数を含む航空機による大規模反撃を、連合軍艦隊・船団に対して開始した(菊水作戦)。海軍による菊水一号作戦には約390機、陸軍の第一次航空総攻撃には約130機が投入された。さらに海軍は、戦艦大和以下の第一遊撃部隊も出撃させた。特攻機などの攻撃により連合軍艦艇6隻が撃沈されたが、他方で日本軍機は200機以上が失われ、大和も撃沈される結果となった(坊ノ岬沖海戦)。それでも日本軍は、以後も特攻機を中心とした攻撃を続行した。この空海からの反撃にあわせて、第32軍も再び総攻撃実施を決定していたが、またも港川方面への陽動部隊接近に惑わされ出撃を中止した。

北部の戦い

名護市街(1945年4月)
アーニー・パイル

日本軍第32軍の作戦計画では南部を主戦場とすることになっていたため、北部(国頭地区)には独立混成第44旅団の第2歩兵隊主力(1個大隊)程度しか配備されていなかった。これに対してアメリカ軍は第6海兵師団を主力として攻撃をかけた。八重岳などの山地帯に拠って日本軍は抵抗したが、4月18日に本部半島突端に達し、22日までに制圧が完了した。

第6海兵師団の損害は戦死・行方不明243人、負傷1061人であった[3]。なお、北部は住民の避難地域に指定されていたため推定15万人の住民が県内疎開してきており、そのままアメリカ軍の管理下に入ることとなった。ただし、北部にいた住民のうち、かなりの者はアメリカ軍の北上後に山中に逃れて南進し、すぐには収容所に入らなかった[9]

4月16日に、アメリカ軍第77歩兵師団は、本島の北西海上に浮かぶ伊江島に飛行場を設置するため上陸した。伊江島には独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊650名を基幹とする日本軍守備隊2000人(約半数は現地召集の特設部隊)が配置されていたほか、陸軍飛行場も存在したが、連合軍の上陸が迫った3月に飛行場は破壊放棄されていた。島民は人口8000人のうち5000人が残留していた。日本軍は島民多数とともに抵抗し激戦となったが、21日までに全島が占領された。

アメリカ軍によれば、日本側は民間人多数を含む4706人が戦闘により死亡し、149人が捕虜となった。アメリカ軍は218人が戦死または行方不明となり902人が負傷したほか、戦車・自走砲5両完全喪失などの大きな物的損害を受けた[4]。アメリカ軍の戦死者の中には、前年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者のアーニー・パイルも含まれていた。アメリカ軍は、伊江島飛行場の本格使用を5月10日に開始した。

首里戦線

南部の日本軍は賀屋支隊を主体として、島袋方面から嘉数陣地へ遅滞行動をとりつつアメリカ軍を誘導した(嘉数の戦い)。アメリカ軍は首里(現那覇市の一部)の司令部を目指して南進するが、途中の宜野湾市付近には守備軍が丘陵地形と地下壕を利用した陣地で構え、進軍してくるアメリカ軍を何度も撃退した。賀屋支隊をはじめ、主陣地を守備した第62師団、第2線陣地を守備した第24師団の歩兵第22連隊などが激しい抵抗を見せている。戦闘は約50日間続き、この遅滞作戦は一定の成功を収めた。この間、4月12日には日本軍の夜間攻撃が行われたが、第62師団の1個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった。

4月9日、船舶工兵第26連隊の決死隊50人が神山島に潜入し、野戦重砲陣地の破壊を報じた。これに合同して海上挺進第26戦隊のマルレ40隻が出撃し、駆逐艦1隻を撃沈した。その後も、4月中に延べ60隻以上のマルレが出撃し、若干の小型艦艇を撃破している。

5月4~5日に、日本軍は反転攻勢に転じた。第32軍は、温存していた砲兵隊に砲撃を開始させ、第24師団と戦車第27連隊などを繰り出して普天間付近までの戦線回復を図った。船舶工兵第23、26連隊と海上挺進第26~29戦隊は、舟艇で海上を迂回しての逆上陸を試みた。本土の日本軍も、菊水五号作戦と第六次航空総攻撃を実施して掩護した。しかし、この総反撃は大打撃を受けて失敗し、日本軍は継戦能力を一気に喪失した。火砲や戦車の大半が破壊され、第32軍の戦死者は7000人に及んだ。第32軍の八原高級参謀はこうした結果になることを予想し、総攻撃実施には反対していた。

シュガーローフ・ヒル(安里52高地)

5月12日~18日にかけては、北部戦線より転進したアメリカ軍の第6海兵師団が、安謝川を渡り、首里西方の安里付近の高地で日本軍の独立混成第44旅団配下の部隊と激しい攻防戦を繰り広げた(シュガーローフの戦い)。アメリカ軍は著しい損害を受けるも一帯を制圧し、日本側は首里の防衛も困難な状態となった。この危機に大本営は、菊水七号作戦を発動し、制空権確保のために空挺部隊を飛行場に突入させる義号作戦も行ったが、戦況を動かすことはできなかった。

5月24日、第32軍司令部は南部島尻地区への撤退を決定。5月27日に津嘉山、30日にはさらに本島南端の摩文仁(まぶに)に撤退して新たな防御陣をたてた。この時点で第32軍は戦力の80パーセントを消耗していた。31日までにアメリカ軍は首里市を占領した。

日本軍守備隊の壊滅

サイモン・B・バックナー中将
牛島満中将

5月26日、日本陸軍参謀本部は沖縄諸島方面での継戦を断念し、以後は航空作戦を縮小することとした。他方、日本海軍はなお戦闘に固執し、練習機まで投入して菊水作戦を継続した。

日本の海軍部隊である沖縄方面根拠地隊は、主に飛行場設営隊などを陸戦隊に再編成したもので本来の戦闘部隊は少なく、航空機用機銃を陸戦用に改造するなどの努力はしたものの装備は劣悪であった。比較的戦力のある4個大隊を陸軍の指揮下に入れて首里戦線に送った後、本隊は陸軍守備隊と別行動をとり、小禄地区に篭って抗戦した。接近したアメリカ軍駆逐艦1隻を砲撃して撃沈するなどの戦果を挙げた。6月4日にアメリカ軍は第6海兵師団を迂回上陸させ、沖縄方面根拠地隊に対して包囲攻撃を開始した。沖縄方面根拠地隊は第32軍の撤退命令を受けて5月末から南部への移動を開始していたが、連絡の齟齬から行動時期がずれるなどしたため、最終的に包囲突破は不可能として撤退拒否し6月中旬に壊滅した。海軍部隊司令官の大田実少将は6月6日に海軍次官宛に有名な『…沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』という訣別電報を打った後、豊見城の海軍司令部壕内で6月13日頃に自決した。

日本陸軍部隊も急速に戦力を失いつつあった。八重瀬岳方面の独立混成第44旅団は、6月14日までにほぼ全滅した。6月15日頃、第32軍司令部への侵攻を防ぐため第62師団は全力反撃を実施したが、残存戦力の大半を失った。喜屋武地区の第24師団も、6月17日には師団としての組織的抵抗が不能の状態となった。

6月18日、アメリカ軍司令官バックナー(Simon Bolivar Buckner, Jr.)中将は、喜屋武半島の最前線視察中に砲撃され死亡したが[10]、アメリカ軍有利の状況には変化がなかった。むしろ、この後数日はバックナー司令官が殺害された地域を中心にアメリカ軍が徹底的な掃討作戦を行い、日本軍の被害は一気に増大した。

6月23日午前4時ごろ(6月20日、6月22日との説もある)に沖縄守備軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が摩文仁司令部で自決した。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅した。大本営も、6月22日の菊水十号作戦をもって菊水作戦を終了し、6月25日に沖縄本島における組織的な戦闘の終了を発表した。

その後の戦闘

しかし、この後も残存兵力による散発的な戦闘は本島各地で続いた。この戦闘継続の原因は、牛島中将の最後の命令が「最後の一兵まで戦え」として降伏を許さないもの(『…爾後各部隊は各局地ニオケル生存者ノ上級者コレヲ指揮シ最後マデ敢闘シ悠久ノ大義ニ生クベシ』 文を実質作成したのは長野作戦参謀であり、最後の文を付け加えたのは牛島では無く、長勇参謀長である)であったことや、指揮系統の崩壊により司令官自決の事実や大本営発表が明確に伝わらなかった為とされる。しかし、摩文仁の司令部ですら混乱状態であり、劣悪な通信状況を考えれば牛島中将の命令が沖縄本島全体に伝わったとは考えにくく、戦闘継続は牛島中将の命令ではなく、個々の判断で行われたのだとする意見もある。いずれにせよ、この指揮系統無き戦闘継続は、民間人を含め死者数を増やすこととなった。

第24師団配下の歩兵第32連隊(連隊長:北郷格郎大佐)、並びに同連隊指揮下の2個大隊などが降伏まで徹底抗戦している。(北郷大佐をはじめとするこれらの部隊の生き残りの将兵たちが米軍に投降したのは、日本政府が8月15日に国民へ停戦を発表してから2週間後の8月29日のことである)。最終的な沖縄守備軍の降伏調印は9月7日に嘉手納で行われた。沖縄守備軍司令部の中では、高級参謀の八原博通大佐が捕虜になり、また航空参謀の神直道少佐(後に中佐)が大本営報告の命令で本土に脱出して生き残っている。[11] 一方、長野作戦参謀、薬丸情報参謀、木村後方参謀、三宅通信参謀はそれぞれ遊撃戦指導、大本営報告のため司令部を出て北部への脱出を計ったが成功せず、全員戦死している。

主に海軍により、特攻機を含む沖縄県方面への航空攻撃も続けられ、7月29日には93式中間練習機が特攻により駆逐艦1隻を撃沈している。8月15日の玉音放送後にも、菊水作戦の指揮をとった宇垣纏海軍中将が沖縄県方面へ特攻出撃している。

アメリカ軍は、上陸地点付近で上陸部隊のあとにやってきた工兵隊などによって、来たるべき日本本土攻撃に備えた基地整備を進めていった[12]

終戦後の状況

詳細は アメリカ合衆国による沖縄統治 を参照

戦後、沖縄守備軍の守備範囲であった沖縄県などはアメリカ軍の占領下に入り、1950年12月まで軍政が続いた。その後も琉球列島米国民政府による統治が行われ、全てが日本に返還されるのは1972年5月15日のことであった。最後の激戦地となった南部地域の村は、いくつもの集落で住民が全滅、またはそれに近い人口の激減により、自治体としての規模維持のため合併を余儀なくされた(三和村)。

なお、返還に先立つ1961年、琉球立法院は6月22日を「慰霊の日」と定めている(1965年に6月23日に改定)。返還後の1974年10月には、県議会でもあらためて制定決議が行われた。現在は毎年6月23日に摩文仁の平和祈念公園において追悼式典が行われる。

住民犠牲について

犠牲者数

洞くつから出て投降する老人=1945年6月 沖縄
白旗を掲げ降伏する日本兵 1945年6月25日沖縄・沖縄南部
日本軍がひそむ壕を爆破する米軍兵士=1945年6月 沖縄・沖縄本島
「降伏を促すビラを手に降参する地元住民」[13]
避難民の子ども

沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず正確な数は不明だが、1950年の沖縄県援護課の発表では以下の数値である。C+Dの9万4000人が住民犠牲とされる。

  • 沖縄戦の日本側死亡者:18万8136人
    • A:県外出身日本兵戦死者 6万5908人
    • B:沖縄県出身軍人・軍属(現地召集を受けた正規兵のほか、防衛隊・鉄血勤皇隊など) 2万8228人
    • C:戦闘参加者(援護法で日本軍に協力して死んだと認定された人数[14]) 5万5246人
    • D:一般住民(推定、県の避難勧告を拒否したものが多数[15])3万8754人

うちDが推定となっているのは援護課が一般住民の犠牲者を直接に調査せず、1945年と1946年の沖縄県住民数の差から、援護課で戦闘参加者として認定した数Cを差し引いた数をDとした為である。終戦直後の1946年統計は戸籍が焼失したり一家全滅が少なくないなどの事情により誤差が大きいと思われ、また、昭和21年の人口には、沖縄戦の後で生まれた子どもや、戦時中は沖縄県に不在だった本土への疎開者、海外からの引き揚げ者・復員兵が多数含まれるため、計算上の人口減少より実際の戦没者数の方が大きいと推定される。

なお、沖縄県民の犠牲者15万人とする場合もあるが、これは沖縄県出身軍人(上記B)や地上戦域外での餓死者・病死者までも含めた数値である。

沖縄戦初期の住民避難

1944年7月7日にサイパン島が陥落すると東條英機内閣は緊急閣議を開き「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断、沖縄本島・宮古・石垣・奄美・徳之島の5島から60歳以上と15歳未満の老幼婦女子と学童を本土及び台湾へ疎開させることを決定、沖縄県に通達し、それまで戦争を身近に感じていなかった沖縄県民に大きな衝撃を与えた。 軍も「県民が軍の懐に入り込むことにより軍の活動を妨害することになる」との作戦上の考えから県民の疎開を希望していた。また、沖縄県では消費米の2/3を県外からの移入に頼っているという事情もあった。

その後の通達で疎開目標は「本土へ8万、台湾へ2万の計10万」と決定された。県民が疎開に応じるか不安視した県は、短期間で徹底して遂行するにはある種の威令や組織力・機動力が必要と考え、一般疎開を本来の社事兵事を司る内政部ではなく警察部に担当させることに決定した。一方、学校との連絡が欠かせない学童疎開のみは内政部教学課の担当として、その指揮下に各国民学校長が推進することとした。

しかし、県民の疎開機運は一向に盛り上がらなかった。理由としては、一家の大黒柱を欠いた状態で身寄りのない本土や台湾に疎開するという不安や、船舶に頼らざるを得ない県外疎開そのものへの不安があったとされる。1944年6月29日には増援部隊を乗せた輸送船富山丸が鹿児島県徳之島の亀徳沖約4キロで潜水艦に撃沈され、将兵4,600人中約3,700人が犠牲になる大惨事が発生していた。軍はこの事件を「軍極秘」として箝口令を敷いていたが、県民の間に口伝で広まり、疎開に対する不安を煽る結果となった。さらには、第32軍司令部の方針が末端部隊まで徹底しなかったことによる末端将兵の放言も、県民に、日本軍が勝つという希望的観測を生じさせていた。

荒井退造警察部長を始めとする県の必死の努力により、疎開第1船である天草丸は7月21日に警察官、県庁職員の家族ら752人を乗せて那覇港を出港した。続く7月末の疎開第2船での220人、8月初めの第3船での1566人はほとんどが本土に縁故のある人々であったものの、その後8月10日に出航した第4次の約9000人は縁故のない県民が中心となり、ようやく県の努力が実りつつあった。

皮肉なことに県民の疎開を一挙に促進させたのは米軍による1944年10月10日の5次に渡る大空襲(十・十空襲)であった。

その後の沖縄県の調べでは、県外疎開は1944年7月から米軍により交通が途絶する翌年3月まで、海軍艦艇を含む延べ187隻の疎開船により学童疎開5586人を含む6万2千人[16]に達し、これに加えて沖縄本島北部への県内疎開は約15万人と推定されている。県内疎開の正確な犠牲者は不明だが、県外疎開の疎開船延べ187隻のうち犠牲になったのは対馬丸一隻のみであるとされている。また、先島諸島への集団疎開も実施されたが、食料・衛生器材の不足で多くの病死者をだしている。[17]

八重山諸島では疎開により、多くの住民がマラリアに感染し、死亡したものも多く、これを戦争マラリアと呼んでいる。(詳細は当該項目を参照)

真喜志(まきし)文子によると父母を疎開させるために那覇港に見送りに行くと、水兵がたくさん艦から降りて来て、「艦長命令です! 全員乗ってください。まもなく米軍は上陸します」ということで、そこにいた人力車の車夫から、労働者まで、かたっぱしから三隻の艦艇に乗せられている。そして那覇港を出て熊本の三角港に着く。その結果、この一家は全員助かっている[15]

米軍上陸後の住民避難

米軍の上陸後すぐに島は南北に分断されたため、日本側の交通は絶たれ、本島北部山岳地帯への疎開は不可能になった。北部への疎開ができなかった住民は、アメリカ軍の収容下に入るほかは南に避難するしかなく、最終的に島尻地区にかなりの住民が集まることになった。人口密集地だった沖縄県の首里、那覇では避難誘導すべき警察官は逃げていた。代わりに憲兵が各家を一軒一軒回って避難誘導している。富名腰(ふなこし)ツルによれば「自分の家で死ぬのが本望です」と言うと憲兵に叱責され、「死に急ぐな! 生きることを考えなさい」と言われ避難壕に誘導されている。その憲兵は避難住民に兵糧を配給し、そして戦場に戻り戦死している。

集団自決

詳細は 沖縄戦における集団自決 を参照

サイパンの戦いなどと同様に、沖縄戦においても一般住民までが集団で自殺する集団自決が発生した。読谷村のチビチリガマの事例(83人[5])などが知られ、集団自決者の総数は1000人以上とする研究者もいる[6]

日本軍による住民殺害

沖縄における収容所

アメリカ軍の攻撃及び住民による自決以外に、日本軍による直接的な住民殺害があったとも言われる。具体的には久米島守備隊住民虐殺事件(22人)、名護市照屋忠英校長殺害[18]などが挙げられ、スパイ容疑で殺害されたなどとしている。日本軍により殺害された住民数を1000人と推定する見解もある。

連合軍による住民暴行、殺害、及び、収容下での扱い

アメリカ軍によって保護された住民が収容された収容所や野戦病院も決して万全の状態ではなく、「飢えと負傷とマラリアで老人や子供が続々と死んでいった」という。一例として、浦添村(現浦添市)の場合、全犠牲者の1割以上にあたる312人は、収容所での生活中に死亡している[19]

また、米軍の占領地域では、米軍兵士による住民への暴行や強盗行為が多発した。無抵抗の住民を背後より射殺するなどの蛮行が報告されており、住民女性への拉致、暴行、強姦も多数証言されている

沖縄戦についてのアメリカ軍による評価の一端

圧倒的な戦力差があったにもかかわらず、洞窟陣地を利用した粘り強い防御戦闘と反斜面陣地などの巧みな陣地形成で苦戦を強いられたアメリカ軍は、この日本軍の防御戦闘を「歩兵戦闘の極み」と評した。これについて八原参謀の作戦計画は、反対斜面陣地戦法と野戦重砲兵の長距離援護砲撃を前提としており『寝技戦法』とも呼ばれた。これは、長身のボクサーを柔道家が寝技に持ち込み、相手のパンチをよく防いで超接近戦に持ち込んで相手の戦意を挫こうとするものであった。それには、まずアメリカ軍部隊を大部隊の展開が困難で地形が複雑な日本軍陣地前方に誘導する。そして小銃、軽機関銃で掃射して戦車部隊と歩兵部隊を分離させる。戦車部隊は速射砲、地雷または破甲爆雷によって破壊、そして重砲兵の支援砲撃により駆けつけてきた敵の応援部隊を叩くことが基本戦術であった。唯一の有効兵器は満州から転出してきた重砲兵という状況において、八原の戦術的判断は的を射ている。 また、八原戦術を理解し、その実行を委ねた牛島満中将は、自身の出生地である薩摩に伝承される捨て奸を意識していたといわれる。

史跡

平和の礎
ひめゆりの塔
嘉数高地の慰霊塔

特に戦闘が激しかった本島南部は「沖縄戦跡国定公園」に指定されている。日本国内の国立公園国定公園の中で戦跡であることを理由に指定されているのは現地だけである。なお、海軍部隊大田司令官が自決した海軍司令部壕跡は現在「海軍壕公園」として整備されており、壕内の一部が見学できる他、資料館が併設されている。一方、沖縄守備軍牛島司令官と長参謀長が自決した壕は現在平和祈念公園となっている区域の中にあり、壕の近くには「黎明の塔」が建てられている(塔の手前の展望台の下に壕があり、入口までは階段で降りることができる。内部は立入禁止)。平和祈念公園内には県立平和祈念資料館や平和の礎(へいわのいしじ)がある。

ひめゆりの塔の敷地内にはひめゆり平和祈念資料館がある。また、南風原町の陸軍病院壕一帯は黄金森(こがね もり、方言名「クガニ ムイ」)公園となっており、近くにある南風原文化センターには資料室が設置されている他、2007(平成19)年6月から第20号壕が南風原町によって一部復元され、一般公開されている。

読谷村北谷町には「米軍上陸の地」碑がある。また、最初の激戦地となった嘉数高地は嘉数高台公園となっており、複数の慰霊塔がある他、トーチカの跡が残っている。

米軍司令官が戦死した真栄里の高台には「サイモン・ボリヴァー・バックナー・ジュニア中将戦死の碑」が建てられている。周辺はその後アメリカ軍による報復戦が行なわれたのに加え、追い詰められた日本軍が最後の戦闘を繰り広げたため、それに巻き込まれた住民の一家全滅が極めて多い地域である。また、戦死者も多いことから「白梅の塔」など多くの慰霊塔が建てられている。

これら以外にも、戦時中に避難先に使用されたガマの一部が見学可能となっている他、平和祈念公園や米須霊域の一帯、糸満市内を中心として慰霊塔慰霊碑が島内全域に無数に存在している。

嘉手納基地内には、旧日本軍の滑走路の近く、昭和20年9月7日の沖縄戦の降伏文書調印式が行われた場所に平和公園 peace parkが作られた。屋外であるが、約1メートルの碑に各種の文書がみられる。米軍と日本人の共同で作ったとある。

沖縄戦全体を描いた映像作品

脚注

  1. 本土決戦は1945年1月の『帝国陸海軍作戦計画大綱』、『決戦非常措置要綱』等を元に1945年後半を想定して決戦準備がなされていた。
  2. 沖縄戦は本土決戦への時間稼ぎ、いわゆる「捨石作戦」(出血持久作戦)であったといわれる[1]
  3. 沖縄県生活福祉部援護課が1976年3月に発表
  4. 数値は、ジョージ・ファイファー『天王山』による
  5. 日本語の呼称鉄の暴風は、1950年に刊行された沖縄タイムス社編『鉄の暴風』に、英語での呼称the Typhoon of Steel鉄の台風の意味)はベローテ兄弟の同名の著書にちなむ。
  6. 4000人近くの将兵が死亡し、目的地に到達したのは約600人だった。
  7. 第9師団は1944年12月中旬から翌45年1月中旬にかけて台湾へ移動していった。
  8. 旅団の海没による損失を受け、1944年7月に空輸により急遽補充された。
  9. 豊田純志「『読谷村戦没者名簿』からみた戦没状況」『読谷村史 第5巻』
  10. 米軍資料による。日本側の証言では狙撃との説もあり
  11. 八原博通は、のちに司令部内部の出来事の貴重な証言をしているが、自ら立案した作戦が多数の住民の死を招いたことから自責の念に駆られ、知人の招きでも再び来島することはなかった。
  12. このときの基地が、現在の沖縄駐留米軍基地の元になっている。そのため、現在も米軍基地が上陸地点に程近い読谷村から南側の平地に集中している。
  13. 沖縄県公文書館 米国政府撮影写真/占領初期沖縄関係 陸軍1
  14. 軍部隊への地下壕明渡しが大半を占める。大田「総史沖縄戦」208頁。
  15. 15.0 15.1 惠隆之介 「虚構の『軍命令・強制説』の復活を許さない国民決起集会」(2007年11月13日)における証言
  16. 疎開者数を8万とする史料もある。
  17. 以上、この章の主な出典は田村洋三『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』
  18. 『秘録・沖縄戦』
  19. 藤原100頁。

関連文献(著者名順)

総説

  • 大田昌秀『これが沖縄戦だ 写真記録』琉球新報社、1979年/改訂版: 1985年/改訂版: 那覇出版社、2002年、ISBN 4930706009
  • 大田昌秀(編著)『総史沖縄戦 写真記録』岩波書店、1982年 [7]/増刷版: 1994年、ISBN 4000012223
  • 沖縄タイムス社(編)『鉄の暴風 沖縄戦記』(第10版)、沖縄タイムス社、1993年 - 『鉄の暴風 現地人による沖縄戦記』(朝日新聞社、1950年8月)を改題
  • 防衛研修所戦史室(編)『戦史叢書(11) 沖縄方面陸軍作戦』朝雲新聞社、1968年
  • 防衛研修所戦史室(編)『戦史叢書(17) 沖縄方面海軍作戦』朝雲新聞社、1968年

テーマ史・研究書

  • 安仁屋政昭『沖縄戦学習のために』平和文化、1997年、ISBN 4938585723
  • 安仁屋政昭、徳武敏夫(共著)『沖縄戦と教科書』草の根出版会、2000年、ISBN 4876481539
  • 石原昌家ほか『争点・沖縄戦の記憶』社会評論社、2002年、ISBN 4784514201
  • 上原正稔『沖縄戦トップシークレット』沖縄タイムス社、1995年
  • 大城将保『沖縄戦 民衆の眼でとらえる〈戦争〉』(改訂版)、高文研、1988年、ISBN 487498097X
  • 大江健三郎『沖縄ノート』岩波書店〈岩波新書 青版 762〉、1970年、ISBN 4004150280 [8]
  • 大田昌秀『血であがなったもの 鉄血勤皇師範隊/少年たちの沖縄戦』那覇出版社、2000年、ISBN 4890951296
  • 大田昌秀『有事法制は、怖い 沖縄戦が語るその実態』琉球新報社、2002年、ISBN 4897420482
  • 大田昌秀『沖縄戦下の米日心理作戦』岩波書店、2004年、ISBN 400022381X
  • 影山昇『男たちの「ひめゆりの塔」 沖縄戦―知られざる悲劇の学徒たち』大空社出版部、1997年、ISBN 4756804373
  • 曽野綾子『沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実 日本軍の住民自決命令はなかった!』ワック、2006年、ISBN 4898315453 [9] - 『ある神話の背景』(文藝春秋、1973年)の改訂版
  • 田村洋三『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』 中央公論新社、2003年、ISBN 4120033902/中公文庫、2006年、ISBN 4122047145
  • 野村正起『船工26の沖縄戦』亜細亜書房、1998年、ISBN 4947727098
  • 野村正起『沖縄戦遺族の声』叢文社、2002年、ISBN 4794704151
  • 林博史『沖縄戦と民衆』大月書店、2001年、ISBN 4272520679
  • ジェームス・H・ハラス(著)猿渡青児(訳)『沖縄シュガーローフの戦い 米海兵隊地獄の7日間』光人社、2007年、ISBN 4769813457
  • 藤原彰(編著)『沖縄戦 国土が戦場になったとき』青木書店、2001年、ISBN 4250201392
  • 宮良作『日本軍と戦争マラリア 沖縄戦の記録』新日本出版社、2004年、ISBN 4406030417
  • 吉田健正『沖縄戦米兵は何を見たか 50年後の証言』彩流社、1996年、ISBN 4882024071

体験記

  • 安里要江、大城将保(共著)『沖縄戦ある母の記録 戦争は親も子も夫も奪ってしまった…』高文研、1995年、ISBN 4874981550
  • 親里千津子『ちーちゃんの沖縄戦』ニライ社、1994年、ISBN 4931314104
  • 小橋川千鶴子『黒砂糖のかけら チーコの沖縄戦日記』耕文社、2002年、ISBN 4906456286
  • 神直道『沖縄かくて潰滅す』原書房、1967年
  • 創価学会青年平和会議編『命(ぬち)どぅ宝 沖縄戦・痛恨の記憶』第三文明社〈レグルス文庫〉、2003年、ISBN 4476012442
  • 武田英子『いくさ世(ゆー)にいのち支えて 沖縄戦を生きた助産婦の記録』ドメス出版、1992年、ISBN 4810703436
  • 富村順一『沖縄戦語り歩き 愚童の破天荒旅日記』柘植書房、1995年、ISBN 4806803588
  • 仲田精昌『島の風景 少年の心に記録されたもうひとつの〈沖縄戦〉』晩声社、1999年、ISBN 4891882891
  • 船越義彰『狂った季節 戦場彷徨、そして――。』ニライ社、1998年、ISBN 4931314287
  • 真鍋和子『いのちの重さ伝えたい 沖縄戦1フィート運動と中村文子のあゆみ』講談社、2004年、ISBN 4062123584
  • 宮城晴美『母の遺したもの 沖縄・座間味島「集団自決」の新しい証言』高文研、2000年、ISBN 4874982492
  • 宮城巳知子『ずいせん学徒の沖縄戦 最前線へ送られた女学生の手記』ニライ社、2002年、ISBN 4931314538
  • 八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』読売新聞社、1972年
  • 山城高常『戦場のトンボ 少年がみた沖縄戦』ニライ社、1995年、ISBN 4931314163
  • 吉田久一『八重山戦日記』ニライ社、1999年、ISBN 4931314325
  • 歴史を拓く女の会(編)『オキナワいくさ世のうないたち いたみの共有』ドメス出版、2004年、ISBN 4810706273

その他

  • 大田昌秀(監修)『沖縄戦 写真集』那覇出版社、1990年 [10]
  • ひめゆり平和祈念資料館『ひめゆり平和祈念資料館ガイドブック』(新版)、2004年
  • 成沢未来『沖縄哀歌』里文出版、2007年

関連項目


外部リンク

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