斎藤隆夫

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この項目では政治家の斎藤隆夫について説明しています。

斎藤隆夫(1920年)

斎藤 隆夫(さいとう たかお、1870年9月13日明治3年8月18日) - 1949年昭和24年)10月7日)は日本弁護士政治家である。姓は「齋藤」とも記述する。

戦前期に、弁舌により帝国議会軍部ファシズムに抵抗した。

経歴

現在の兵庫県豊岡市出石町中村に斎藤八郎右衛門の次男として生まれる。8歳になり福住小学校に入学したが12歳の頃、「なんとしても勉強したい」という一念から京都の学校で学ぶことになった。ところが彼の期待していた学校生活とは異なり、1年も経たず家へ帰ってきた。その後、農作業を手伝った。

21歳の冬に、東京まで徒歩で移動する[1]。上京後は後に徳島県知事である桜井勉書生となる。1891年(明治24年)9月に東京専門学校(現・早稲田大学)行政科に入学、1894年(明治27年)7月に同校同学科を首席で卒業。同年判検事試験(現・司法試験)に不合格も、翌年1895年(明治28年)弁護士試験(現司法試験)に合格(この年の弁護士試験合格者は1500名余中33名であった)。その後、アメリカのイェール大学法科大学院に留学し公法政治学などを学ぶ。

帰国後の1912年(明治45年・大正元年)に立憲国民党より総選挙に出馬、初当選を果たす。以後、1949年(昭和24年)まで衆議院議員当選13回。生涯を通じて落選は1回であった。第二次世界大戦前は立憲国民党立憲同志会憲政会立憲民政党と非政友会系政党に属した。普通選挙法導入前には衆議院本会議で「普通選挙賛成演説」を行った。この間、浜口内閣では内務政務次官第2次若槻内閣では内閣法制局長官を歴任している。

腹切り問答を行った浜田国松人民戦線事件で検挙される加藤勘十とともに反ファシズムの書籍を出したり卓越した弁舌・演説力を武器にたびたび帝国議会で演説を行って満州事変後の軍部の政治介入、軍部におもねる政治家を徹底批判するなど立憲政治家として軍部に抵抗した。

反軍演説が軍部とこれと連携する議会、政友会革新派(中島派)や社会大衆党時局同志会など親軍部である党派の反発を招き3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名されてしまった。しかし1942年(昭和17年)総選挙では軍部を始めとする権力からの選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし衆議院議員に返り咲く。

第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)11月、日本進歩党の創立に発起人として参画、翌年の公職追放令によって進歩党274人のうち260人が公職追放される中、斎藤は追放を逃れ総務委員として党を代表する立場となり翌1946年(昭和21年)に第1次吉田内閣の国務大臣(就任当時無任所大臣、後に初代行政調査部[3]総裁)として初入閣する。

1947年(昭和22年)3月には民主党の創立に参加、同年6月に再び片山内閣の行政調査部総裁として入閣、民主党の政権への策動に反発し1948年(昭和23年)3月に一部同志とともに離党し日本自由党と合体して民主自由党の創立に参加、翌年心臓病肋膜炎を併発し死去。享年80。

故郷の出石に記念館「静思堂」がある。

演説

「普通選挙賛成演説」、「粛軍演説」、「反軍演説」を斎藤の三大演説と扱われる。

普通選挙賛成演説

粛軍に関する質問演説

粛軍演説 を参照

岡田内閣の施政方針演説に対する質問演説

国家総動員法案に関する質問演説

政府の独断専行に依って、決したいからして、白紙の委任状に盲判を捺してもらいたい。これよりほかに、この法案すべてを通じて、なんら意味はないのである.....

など議会の審議、決議なしで国民を戦時体制のために統制する国家総動員法の危険性を指摘した。

演説後、同僚議員に「この案はあまりに政党をなめている」「僕は自由主義最後の防衛のために一戦するつもりだ」と語っている。しかし斎藤の反対もむなしく、懐疑的であった二大政党もついに賛成に回り国家総動員法は可決された。

支那事変処理中心とした質問演説

反軍演説 を参照

逸話

「ネズミの殿様」とのあだ名で国民から親しまれ、愛され、尊敬された政治家であり、その影響力は尾崎行雄犬養毅に並ぶと言っても過言ではないほどであった。あだ名の由来は小柄でイェール大学に通っていた時に肋膜炎を再発し肋骨を7本抜いた影響で演説の際、上半身を揺らせる癖があったことによる[4]

反軍演説で除名処分を受けた後、「第七十五帝国議会去感」という色紙を残している。

吾が言は即ち是れ万人の声

褒貶毀誉は世評に委す

請う百年青史の上を看る事を

正邪曲直自ずから分明

日本史家の磯田道史は大学時代、古道具市の露天商でこの色紙を偶然入手。来歴や背景を知った後の感想として「読んで涙が出てきた。斎藤は『百年後の歴史の上』をみて国を誤らぬよう命がけで自説を述べたのだ。自分は歴史家の卵だ。自分がきちんと歴史を書かねば正しいことをして不遇に終わった人物は犬死にになる、と思った。」と、その感激ぶりを語っている。(2009年平成21年)8月28日・読売新聞「古今あちこち」)

著作・日記

中公文庫 1987年、新版が2007年に刊行。新版解説は松本健一
  • 『斎藤隆夫政治論集 斎藤隆夫遺稿』(演説の草稿・論文掲載) 新人物往来社 1994年
  • 『斎藤隆夫日記』 伊藤隆編(上巻 1916年から1931年、下巻 1932年から1949年、中央公論新社 2009年9月、11月)。

参考文献

脚注

  1. 『回顧七十年』「上京し、弁護士となる」より。
  2. 正式名称『国防の本義と其強化の提唱』
  3. 現総務省行政評価局・行政管理局
  4. 『回顧七十年』「アメリカに留学」を参照。グレース・ホスピタルでの治療が理由のようである。

関連項目

外部リンク

官職
先代:
(創設)
行政調査部総裁
初代:1946年 - 1948年
次代:
先代:
法制局長官
第28代:1931年
次代:
党職
先代:
日本進歩党総務会長
第2代
次代: