加藤シヅエ
加藤 シヅエ(かとう しずえ、1897年 - 2001年)、広田 静枝(ひろた しずえ)、石本 静枝(いしもと しずえ)
目次
経歴
生い立ち
1897年(明治30)3月、東京市本郷区西片町で、父・広田理太郎と母・敏子の間に、6人きょうだいの2番目(長女)として生まれる[1]。父・理太郎は工学博士で設計技師、母敏子はカナダ系ミッションスクールの出身で、リベラルな家庭環境で育った[2][3]。
結婚
1914年(大正3)3月、女子学習院中等科を卒業。同年12月に、10歳年上の男爵・石本恵吉と結婚。[4]
1915年1月、恵吉の赴任先となった、三井鉱山三池炭鉱へ移住[5]。炭鉱労働者の貧困に触れたことが、その後の思想や行動の原点になったという[6]。
1918年、夫・恵吉が健康を害したため、帰京。同年10月、次男・民雄を出産。[5]
産児調節運動
1918年(大正7)に夫・恵吉が労働運動の研究のため渡米。自身も翌年9月に息子2人を母に託して渡米し、ニューヨークのバラード・スクールで秘書学を学ぶ[8][5]。在学中の1920年1月にアグネス・スメドレーからの紹介で、産児調節運動をしていたマーガレット・サンガーと面識を得る[9]。このとき、サンガーの避妊の思想と方法を日本に伝えることを決意したという[6]。
1920年5月にバラード・スクールを卒業。同年初めに単身欧州へ渡っていた恵吉と合流して、同年9月に日本に帰国した。[9]
同月、東京・小石川区高田豊川町(椿山荘の隣地)の石本邸で、夫・恵吉を訪ねて来た加藤勘十と初めて出会う[10][11]。
1921年、夫・恵吉と朝鮮半島・中国を旅行[12]。京橋第一相互館に毛糸店「ミネルバ・ヤーン・ストア」を開店[13][14]。
1922年に、マーガレット・サンガーの来日を契機として、加藤や夫・恵吉とともに日本産児調節研究会を結成[11]。1923年には、加藤からの依頼を受け、足尾銅山で産児調節の講演をした[11]。同年、マーガレット・サンガー著『文明の中枢』を翻訳[14]。
1924年4月、恵吉と再度渡米し、のち欧州を旅行[12]。同年、婦人参政権獲得期成同盟を結成し、中央委員となる[14]。1925年2月に麗日会(婦選同盟後援団体)を結成[14]。同年10月、婦人問題研究所を設立[14]。
別居
1922年の銀行恐慌により石本家の資産は減少。翌年の関東大震災で夫・恵吉が経営していた洋書輸入業が打撃を受け、家計は更に悪化した[15]。1924年頃、夫・恵吉は朝鮮半島や旧満洲での事業経営を志すようになり、静枝と別居。その後も、他人の事業資金貸付の連帯保証人になったり、騙されたりして家財・資産を減らしていき、静枝は留守宅に届く借金返済の督促状に苦しめられたという[15]。
1925年から1930年にかけて、社会運動の一線から身を引き、日常的に石本家の負債の整理に携わる。この間、赤坂檜町から曙橋、青山1丁目へと借家を移る。1929年に夫・恵吉が購入した渋谷区羽根沢の家に転居し、1931年に結成された日本産児調節婦人連盟の事務局は同所に置かれたが、1932年、借財のため家を売却。1931年の満州事変以降、夫・恵吉は家に戻らなくなっていた。[16]
1932年10月、米国へ講演旅行[17]。講演で得た収入が経済的自立の契機になったといい、帰国後、品川区大井金子山にあった叔父・鶴見定雄邸内の借家へ転居[16]。「石本静枝」の表札を掲げる[16]。四谷の所産婦人科と金子山に「産児調節相談所」を付設[18]。自宅で避妊用殺精子ゼリーを製造し、また全国の多産に悩む女性からの相談を受けるなどしていた[16]。
1935年、英文で執筆した半生記:Facing Two Ways(邦題『ふたつの文化のはざまから』)が米国で出版される。この頃には、加藤勘十が金子山の自宅を頻繁に訪れるようになる。[16]
1936年、米国のメアリー・ビアード から依頼を受けて、長谷川時雨、新妻伊都子、三井礼子と共同で、オーストリアの哲学者・アズカナジー夫人が企画した『世界女性史エンサイクロペディア』の原稿執筆を開始[19]。
産児調節相談所と人民戦線事件
1936年11月、依頼を受けて講演のため再度渡米し、講演旅行をして5ヶ月後に帰国[16]。
1937年7月1日、品川区立会川に「産児調節相談所」を開く。開所祝いには米国からマーガレット・サンガーが出席して祝辞を述べた。[20]
同年12月15日、第1次人民戦線事件で家宅捜索を受け、参考人として召喚されて、同日から同月29日まで2週間にわたり大井警察署に留置され、特高の刑事による取り調べを受ける[21][22]。
- 事件は静枝の友人だったニューヨーク・タイムズの記者ヒュー・バイアスによって米国に伝えられて新聞に大きく掲載され、日本総領事館に釈放願いが提出された。パリの新聞『パリ・ソワレ』にも石本静枝をヒューマニスト、反権力に徹した人物として評価する記事が掲載された。[23]
- 保釈後、日本の友人の中には、検挙歴を嫌い、静枝を避けるようになった人もいたという[23]。
人民戦線事件の検挙の際に、家宅捜索で産児調節相談所の相談者のカルテが押収され、1938年1月に産児調節相談所は閉鎖を命じられた。同月には、山田わかを委員長とする「母子扶助法制定運動」が人口増加や優生思想を肯定する政策と結び付いた母子保護法が制定され、「女性の存在意義は母性にある」とされて、これと対立的な運動は否定されるようになった。組織立った産児調節の活動はできなくなり、以後は個人的に相談を受けるにとどまった。[24]
たいがいの婦人は、妻は泣きたいことを一杯胸にかかえて産調の相談に来る。私の時間は産調の知識を与えることよりも、まずこの家庭的悩みをほぐさないでは何事も話を前進させることができない。しかしこう言う非インテリ女性の物語は単純で因習のとりこになっていて、その語るところは現在日本の家族生活の混雑した絵巻をみせられるようなもので、私にたくさんの問題を提供する。この女性の悩みのよって来るところを挙げてみると
1.収入の割合に家族の人員が多過ぎ、それが全部女の労働過労となってかぶさってくる。妻は倒れるまで家で働いて、たくさんの児たちを母なし児にしてしまったらどうなるということに対して、夫の神経の太さには全く驚くべきものを発見する。労働者は倒れても産業予備軍があるが、妻の予備はないはずだ。
2.家族制度の存在は、家族の経済的保護の上にあるはずが、この場合、夫と妻とは等しく一家の経済的支持者でありながら何等平等らしきにおいもなく、妻は「絶対服従」を強いられているばかりでなく、それが自慢――この婦人の場合、自分はこの通り道徳的に正しいのですと言わんばかりにこの服従をほこりとしている。
3.舅は財産を失い息子に養われてばかりきた身の上でありながら、依然として一家の長であり、父として尊ばれるべきを期待してうたがわないことは不思議なくらい。
4.妊娠を制限しようという妻の正当な理由を理解できない夫の頭は、避妊は不義の場合のみなさるべき行為という斜視的観方があまりに強く先入観となっているため、妻の合理的主張をきき入れる余裕がない。
以上の4点はインテリの頭をもってみれば、あまりにも馬鹿げた程度のことであるが、それが現在日本人の大部分の人たちの因習的通念であること、そして儒教の影響がいかに桎梏(しっこく)となって女性を苦しめているか、家族がお互いを不幸にし合っているかをみせられた。(…)
私はこの婦人に夫の不機嫌の原因を語ってきかせ、いかにして産調を実行することに同情と理解をもたせるか、その仕向け方を示して帰した。この婦人は笑顔で辞去した。
– 加藤シヅエ 個人的に受けた産児調節の相談について、1938年7月5日の日記の中で[25]
1938年、『世界女性史エンサイクロペディア』の原稿が完成し、メアリー・ビアードに原稿を送付。同年2月に編集グループを解散した後、新たに「女性史研究所」を開始し、同時並行で著書の執筆を開始した。[19]
- 同年、ドイツがオーストリアに侵攻したことから、刊行の企画は実現せず、原稿はスミス・カレッジに保存された。戦後、メアリー・ビアードが原稿の資料をもとにして『日本女性史』を著し、1953年に加藤シヅエによる邦訳が河出書房から出版された。[19]
この頃、夫・恵吉は北支豊田自動車の相談役となって家計が持ち直し、同年12月頃に恵吉は東京では金子山の家で生活するようになった[26]。
永年恵吉と大変懇意な吉本真一氏の令嬢の婚礼の席に、恵吉が出席できないため私が出かけた。(…)めでたい宴会が華やかに終ると思いがけなく私の前にピョコンとおじぎをした人があった。こんな米つき虫のようなおじぎをする人は顔をみなくとも宗宮弁護士その人である。小人のようなこの弁護士はそのほろよいの顔を赤くそめてイキナリ「加藤さん(勘十)はもう2回ほど予審があったそうですよ」と私に告げた。今日この席で君のニュースをきこうとは夢にも思っていなかった私、よそゆきの顔へ私の心中の最大関心事を薮から棒にぶつけられて、私はちょっと面喰った形であった。それから同氏はいろいろくわしく私に情報を知らせてくれた。(…)それから私の細かく動く気持の中では、この弁護士が君の家族のことをしゃべり出してくれなければよいと思った。私はそれをきくことを実はひどく恐れているので。(…)
– 加藤シヅエ 1938年12月27日の日記の中で[27]
1939年5月、英訳した火野葦平『麦と兵隊』が米国で出版され、好評を博す[28]。
1939年暮、加藤勘十が保釈される[28]。
今朝、目が覚めたとき朝日のさし込むベッドの中で思わず何神ということなしに、ただ神に祈って、年内に還して下さいと手を合わせた。それから起き上って、ラジオの朝の音楽を聞きながら髪を結っていると、民雄がイキナリ入って来て「お母様、加藤さんがお帰りになりましたよ」と言って新聞の記事の話をしてくれた。『日日』は「伊勢参宮云々」なんて、あんなことウソに決まっていますね」と言った。新聞が依然として君を大きく取り扱っているのは時勢が何であれ、それ自身1つのことを示唆するものと私は思った。
しかし、執行停止保釈中の身の致しかたなき事とはいいながら、君が「今後大衆運動とは絶縁します」と語ったのを読んだとき、私は泣きたいような鉛の煮えくり返るような感情を自分の胸の中に感じた。「大衆が指導者を必要とする時、真の指導者がどこにかくれていてもさがし出されるに違いない」と私は信じている。私は安心した。とにかく安心した。転向であったって、なんだって、そんなことで真理がまげられるものではないのだ。使命を担える人が健康で生きていてくれることが先決なのだ。
– 加藤シヅエ 1939年12月28日の日記の中で[29]
息子との離別
1942年9月、長男・新が京大理学部を卒業。直後に召集令状を受け、同年10月1日に入隊。世田谷区淡島の近衛連隊に配属される。[30]
1943年3月、療養のため逗留していた伊豆の網代の旅館から自宅へ戻った次男・民雄を看病[31][30]。同年5月、長男・新はスマトラへ出征[32]。この頃、カトリックに入信する[33]。同年6月26日、結核を患っていた次男・民雄が死去[34]。
「民ちゃん、お母様今あなたに少しお話していいこと? あなたの病気がこんなに重くなってお母様は永いことお兄さんに便りを書く暇がなかった、お兄さんは心配している事でしょうから、今日はちょっとはがきなりと1本出しておこうと思います。それであなたからのことづてとしては何と書きましょうね」民雄はくぼんだ眼をちょっと開いて「僕いま少し苦しいからお話ができません」といってまた眼を閉じてしまいました。30分ほどしてから、パット眼をひらいて「サア今からお母様と少しお話したいから御飯たべる時のような姿勢にして下さい」と言い、痛々しくやせた上体をやや右の方に向けてその背か腰の下をクッションでかいものをしてやりましたら、民雄はいかにも嬉しそうな表情で全くニコニコとしながら、その右手を母の両手で握られながら母の顔をじっと見つめて低い声で言いました。
「お母様、お兄さんにお便りなさるならこう書いて下さいね。お母様は今度カトリックの信仰に入って大いにやりますからみていて下さい。それから僕は極度に衰弱してしまいましたが、ますます元気で頑張っていますから心配してはいけません。だからお兄様もそちらでいつでも強く元気で、しっかり勉強を続けて下さい」。
これだけ言ってまた嬉しそうな顔をして口を閉じてしまいました。全身を結核菌に征服されつくし、高熱と130に近い微弱な脈搏の下に民雄は依然、気力衰えず9年でも10年でも病魔と取りくんで闘いつづける気でいました。これは民雄がややまとまった会話をなし得た最後のものでした。
– 加藤シヅエ 1943年6月30日の手記の中で[35]
再婚
1943年の暮、金子山から、父・理太郎が用意した世田谷区三軒茶屋の家へ転居[36]。この頃、加藤勘十の励ましを受けて、還俗[37]。
1944年、別居していた夫・恵吉に離婚の意思を伝え、男爵との離婚に必要な宮内省の承認を得て、離婚が成立[38]。
同年11月、47歳のとき、京都の平安神宮で加藤勘十と結婚式を挙げる。三軒茶屋から品川区小山へ転居[39]。
しかし、本当に妊娠している事が明らかになった時も私はしばらくその事実を信じることができなかった。奇跡! しかし奇跡というものが真実あり得ると知った時、私の喜びはこの上なく大きかった。愛する息子民雄を失くすことで受けた大きな心の傷手はこの喜びによって初めて慰めを得た。私は私の胎内に宿っている新しい生命を失くした息子の生まれ変わりとして信じようとした。私は妊娠中驚くべき健康を保った。私の夫はあらゆる栄養物を捜し求めて来ては私に食べさせた。私は20歳の頃のような健康状態をとり戻した。しかし女中も雇わず家事一切の処理、配給当番は妊娠の身には楽ではない。また生まれてくる嬰児のため衣類、その他何ひとつ買う物はなく、全部自分の手で縫ったり、作ったりしなければならなかった。
出産のため夫は病院に入院することを主張し、そこへ私は衣類寝具を一揃い運び入れた。大岡山駅前の今瀬産婦人科だった。男の医者は「お年だから、心配なことだね」「困ったことだね」と繰り返し私に向って言う。心配なのは本人が百も承知しているのに。本人を目の前にして不安げに言う医者に愛想をつかしさっさと荷物をリヤカーに積み、帰ってきてしまった。またこの病院は空襲で焼けるだろうという私の第六感が働いたためでもあった。
– 加藤シヅエ 1945年4月の手記の中で[41]
8月15日、12時。前の家主が作っていた神棚の前に夫と息子、私の2人は整列して立ち並んだ。天皇陛下の玉音を初めて耳にした。日本は戦争に敗れ、降伏したというお言葉だった。表現のできない、説明のつかない感情に襲われ、夫も私も声をあげて泣いた。
日本という国が伝えられた史実にもとづけば2千年にわたって一度もこのような汚辱を体験したことがなかったという悔恨の思いを誰もが等しく味わった。この戦争が無謀な、無意味の戦争であり、必ず新しい世の中が出現することを確信し、反戦の立場を貫いた私たち夫婦といえども無念の涙を避けることはできなかった。
この夜初めて灯火管制がとかれ、黒幕もせず部屋の電気をつけた。喜びと解放感が全身をよぎった。
– 加藤シヅエ 1945年8月の手記の中で[42]
戦後
1945年9月、GHQ民間情報局の婦人問題公式顧問となる[43]。
1946年2月2日、藤田勇から案内を受けて、目白の徳川義親邸で東久邇宮稔彦と懇談[44]。対外的に皇室を存続させるための理解を得るため、昭和天皇が戦争責任を取って退位することが必要と話し、東久邇宮は実現をはかると応じた[44]。このとき藤田は世界恒久平和研究所の趣旨について説明していたという[44]。
1946年3月、婦人民主クラブ結成に参加[43]。翌年4月の衆議院議員選挙に東京2区から出馬して当選し、日本社会党に入党[45]。女性国会議員第1号となる[46]。この年、長男・新が復員[45]。
1947年4月の衆議院選挙、1948年2月の選挙でも当選し、3選を果たす[45]。1949年1月の衆議院議員選挙では落選し、翌年6月の参議院議員選挙の全国区に出馬し、当選[45]。
1951年5月に米・マキノ島で開催されたMRA世界大会に出席し、スイスのMRA本部を訪問した後、欧州各国の首脳を歴訪[45]。同年9月には、サンフランシスコで開催されたMRA大会に出席した[45]。
1952年、国際家族計画連盟(IPPF)設立にあたり、インドで開催された国際家族計画大会に日本代表として出席[45]。
1954年4月、日本家族計画連盟結成。1960年に副会長、1974年に会長に就任した[47]。
1955年、国際家族計画大会東京大会を主催[47]。
1965年、参議院運輸委員長に就任。翌年まで在任。[47]
1971年、参議院公害対策特別委員会の委員長に就任。翌年まで在任。[47]
1974年7月、政界引退[47]。同年、IPPFの東南アジア・オセアニア地域理事会副会長に就任[47]。
1977年、IPPF顧問に就任[48]。
1979年、日本社会党を離党[48]。
1984年、家族計画国際協力財団の副会長に就任[48]。
2001年に死去。享年104。[2]
栄典
- 1970年4月、勲2等宝冠章[47]
- 1972年6月、永年勤続議員として参議院から表彰される[47]。
- 同年11月、勲1等瑞宝章[47]
- 1988年2月、国連人口賞[48]
- 1997年、東京都名誉都民[2]
家族
石本恵吉との間に生まれた長男・新の大学時代の恩師は角谷静男、次男・民雄の大学時代の恩師は岡義武で、新が出征し、民雄が病逝した1943年-1944年頃、それぞれシヅエとも交流があった[50]。
著作物
文献DB
著書
- 1921年 石本静枝『産児制限の意義 - 新マルサス主義』日本パンフレット発行所、NDLJP 921480
- 1922年 ――『産児制限の意義、必要、結果及方法』大島義晴、NDLJP 908389
- ― (1924) ――『毛糸あみもの 子供号』実業之日本社、1924年、NDLJP 971798
- 1935年 Baroness Shidzue Ishimoto, Facing Two Ways - the story of my life, New York, Farrar & Rinehart, 1935、国立国会図書館 請求記号 Ba-858
- 再版:Stanford University Press, 1984, ISBN 0804712395
- 日本語訳:加藤シヅエ(著)船橋邦子(訳)『ふたつの文化のはざまから』青山館、1985年、JPNO 86048742
- 日本語訳2版:不二出版、1994年、JPNO 94073051
- 再版:加藤シヅエ(著)山崎朋子(監修)、大空社、1997年、ISBN 4756801935
- 1941年 石本静枝「若き女性の思想」人文閣編輯部『愛情の科学』人文閣、pp.91-102、NDLJP 1024056/50
- 1941年 ――「夢は女官になること」家庭新聞社『わが母を語る』家庭新聞社出版部、pp.14-16、NDLJP 1043069/19
- 1946年 加藤シヅエ『産児制限と婦人 付サンガー婦人小伝』読売新聞社、NDLJP 1061456
- 1947年 ――『汝が名は母』国民社、NDLJP 9853048
- 1948年 ――『完全な夫婦』中京新聞社、NDLJP 3859743
- 1948年 ――「婦人解放運動」『新女性全書 教養編』鎌倉文庫、pp.64-69、NDLJP 1156405/41
- 1950年 ――『ゆたかな生活を築くために - 受胎調節の実際的方法』大日本雄弁会講談社、NDLJP 2507590
- 1956年 ――『ひとすじの道』ダヴィッド社、NDLJP 2978349
- 1981年 ――『ある女性政治家の半生』PHP研究所、JPNO 82006154
- 1984年 ――『想い出のふる』自由書館、JPNO 85014136
- 1988年 ――『愛は時代を越えて』婦人画報社、JPNO 89008136
- 1995年 ――『愛する「日本」への遺言』書苑新社、ISBN 4915125726
- 1996年 ――(著)堤江実(編著)『加藤シヅエ百歳 - 愛と勇気の言葉の記録』婦人画報社、ISBN 4573210431
- 1997年 ――『加藤シヅエ - ある女性政治家の半生』日本図書センター、ISBN 4820542516
- 1997年 ――『生きる - 百歳人加藤シヅエ』日本放送出版協会、ISBN 4140052708
- 1997年 ――『加藤シヅエの遺言』求龍堂、ISBN 4763097091
- 2002年 ――・加藤タキ『加藤シヅエ凛として生きる - 104歳の人生が遺したもの』大和書房、ISBN 4479011595
- 2002年 ――・加藤タキ『加藤シヅエ104歳の人生 - 大きな愛と使命に生きて』大和書房、ISBN 4479011463
日記・書簡
- 加藤 (1988) ――(著)船橋邦子(編)『加藤シヅエ日記 - 最愛のひと勘十へ』新曜社、1988年、JPNO 88052649
- 加藤 石本 (2013) ――・石本恵吉(著)石本幸子(編)『心の軌跡 - 加藤シヅエと石本恵吉男爵 1919-1946』石本幸子、ISBN 978-4021002175
雑誌記事
詳細は、#文献DB参照。
- 1922年4月 石本静枝「産児制限の提唱」廓清会本部『廓清』v.12 n.3、pp.31-32、NDLJP 1469951/17
- 1922年11月 -「産業不振と産児制限」産業社『産業界』v.1 n.1、p.26、NDLJP 1506662/23
訳書
日本語訳
- 1923年 マーガレット・サンガー(著)石本静枝(訳)『文明の中枢』実業之日本社、NDLJP 981605
- 1953年 メリー・R・ビアード(著)加藤シヅエ(訳)『日本女性史』河出書房、NDLJP 3045080
英語訳
- 1939年 Corporal Ashihei, Hino, Translated by Baroness Shizue Ishimoto, Wheat and Soldiers, New York, Farrar & Rinehart, 1939
付録
関連文献
- 坂戸公顕「和製産制マダム-石本静枝夫人」『俎上の名流婦人』三耕社、1936年、NDLJP 1916205/27
- 加藤勘十『加藤勘十の事ども』加藤シヅエ、1980年、JPNO 85044239
- Helen M. Hopper, A new woman of Japan - a political biography of Katō Shidzue, Westview Press, 1996, ISBN 0813389712
- ヘレン・M・ホッパー(著)加藤タキ(訳)『加藤シヅエ百年を生きる』ネスコ、1997年、ISBN 4890369414
脚注
- ↑ 船橋 1988 361,399,400
- ↑ 2.0 2.1 2.2 石本 2013 384
- ↑ 船橋 1988 361
- ↑ 船橋 1988 361,400
- ↑ 5.0 5.1 5.2 船橋 1988 361-362,400
- ↑ 6.0 6.1 船橋 1988 361-362
- ↑ 船橋 1988 400
- ↑ 石本 2013 12,384
- ↑ 9.0 9.1 船橋 1988 361-362,401
- ↑ 加藤 1988 216
- ↑ 11.0 11.1 11.2 船橋 1988 364
- ↑ 12.0 12.1 石本 2013 12
- ↑ 石本 1924 3
- ↑ 14.0 14.1 14.2 14.3 14.4 船橋 1988 401
- ↑ 15.0 15.1 船橋 1988 365
- ↑ 16.0 16.1 16.2 16.3 16.4 16.5 船橋 1988 368
- ↑ 船橋 1988 368,402
- ↑ 船橋 1988 402
- ↑ 19.0 19.1 19.2 船橋 1988 376
- ↑ 船橋 1988 369
- ↑ 加藤 1988 5-48
- ↑ 船橋 1988 370-372
- ↑ 23.0 23.1 船橋 1988 373
- ↑ 船橋 1988 374
- ↑ 加藤 1988 176-179
- ↑ 加藤 1988 136,225-226
- ↑ 加藤 1988 227
- ↑ 28.0 28.1 船橋 1988 378
- ↑ 加藤 1988 337
- ↑ 30.0 30.1 30.2 船橋 1988 379
- ↑ 加藤 1988 346
- ↑ 船橋 1988 380
- ↑ 船橋 1988 345
- ↑ 加藤 1988 343-346
- ↑ 加藤 1988 345-346
- ↑ 船橋 1988 382,384
- ↑ 船橋 1988 384
- ↑ 船橋 1988 374-375,384-387
- ↑ 船橋 1988 387
- ↑ 船橋 1988 387,399
- ↑ 加藤 1988 352-353
- ↑ 加藤 1988 358
- ↑ 43.0 43.1 船橋 1988 403
- ↑ 44.0 44.1 44.2 加藤 石本 2013 149-150
- ↑ 45.0 45.1 45.2 45.3 45.4 45.5 45.6 船橋 1988 404
- ↑ 船橋 1988 394
- ↑ 47.0 47.1 47.2 47.3 47.4 47.5 47.6 47.7 47.8 船橋 1988 405
- ↑ 48.0 48.1 48.2 48.3 船橋 1988 406
- ↑ 49.0 49.1 49.2 49.3 49.4 49.5 船橋 1988 399
- ↑ 加藤 石本 2013 41-117
参考文献
加藤の著書については#著作物を参照。
- 船橋 (1988) 船橋邦子「編者解説」「編者あとがき」「参考文献・系図・年譜」(加藤 1988 359-406)
- 石本 (2013) 石本幸子「解説」「あとがき」「略歴」(加藤 石本 2013 346-351,379-385)