中岡慎太郎

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遭難前の中岡慎太郎

中岡 慎太郎(なかおか しんたろう、1838年5月6日 - 1867年12月12日)は、幕末日本志士。1861年に土佐勤王党に加わり、尊王攘夷活動に参画。1863年に土佐藩内での弾圧を受けて脱藩し、長州藩で脱藩志士の連絡役・まとめ役として活動した。坂本龍馬らと共に1866年の薩長同盟、翌年の薩土密約締結に尽力し、同年、陸援隊を組織し隊長に就任したが、近江屋事件で殺害された。

経歴

生い立ち

天保9年4月13日(新暦1838年5月6日)、土佐国安芸郡北川郷柏木村(現・高知県安芸郡北川村柏木)に北川郷の大庄屋・中岡小傳次と後妻ウシの長男として生まれる。

安政元年(1854年)、間崎哲馬に従い経史を学び、翌年には武市瑞山(半平太)の道場に入門して剣術を学ぶ。

安政4年(1857年)、野友村の庄屋・利岡彦次郎の長女・兼(かね、当時15歳)と結婚。

土佐勤王党

文久元年(1861年)、武市が結成した土佐勤皇党に加盟して、本格的に志士活動を展開し始める。

  • (いつ?)武市瑞山の命令で板垣退助を斬りに来たが、退助に見透かされてしまった。しかし彼の為人を知り、逆に退助との交誼を結ぶ事となった。(出典?)

文久2年(1862年)、長州藩久坂玄瑞山県半蔵とともに、松代佐久間象山を訪ね、国防・政治改革について議論し、大いに意識を高める。

脱藩

文久3年(1863年)、京都で起きた八月十八日の政変の後、土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する弾圧が始まると、脱藩し、同年9月、長州藩に亡命する。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となる。また、周防国三田尻都落ちしていた三条実美の随臣(衛士)となり、各地の志士たちとの連絡役となる。

元治元年(1864年)、石川誠之助を名乗り上洛。薩摩藩島津久光暗殺を画策したが果たせず、また脱藩志士たちを率いて長州側として禁門の変下関戦争を戦う。(いつ?)負傷。

薩長同盟

この頃、長州藩への冤罪、雄藩同士の対立、志士たちへの弾圧を受けて、活動方針を尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させ、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)、薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)との会合による薩長同盟締結を目標として活動するようになる[1]

連絡役・脱藩志士たちのまとめ役として、三条実美や薩摩・長州の志士たちの間を行き来し、亀山社中(後の海援隊)を結成した坂本龍馬や三条の随臣・土方楠左衛門(土方久元)をも説き伏せて巻き込んで行った。

慶応2年1月21日(1866年3月2日[2]、京都・二本松の薩摩藩邸において、薩長の和解および薩長同盟を結実させる。

慶応3年2月(1867年3月)、龍馬ともども土佐藩から脱藩罪を赦免される。

薩土密約

その後、薩土同盟についても同様に奔走し、慶応3年5月21日(1867年6月23日)、土佐の乾退助(板垣退助)と薩摩の小松清廉(小松帯刀)・西郷吉之助との間で武力倒幕のための薩土密約の締結に成功する。

更に土佐藩全体を取込む運動を展開し、同年6月22日(7月23日)、京都・三本木の料亭「吉田屋」において、薩摩の小松帯刀・大久保一蔵(大久保利通)・西郷吉之助、土佐の寺村道成後藤象二郎・福岡藤次(福岡孝弟)・石川誠之助(中岡)・才谷梅太郎(坂本龍馬)との間で、倒幕・王政復古実現のための薩土盟約が締結された。

薩土盟約は、同年6月26日(7月27日)の安芸藩を加えた薩土芸三藩約定書に発展した。

  • これらの同盟は、土佐藩・安芸藩自身による大政奉還建白書山内容堂の徳川宗家への強い恩顧意識のため、翌年1月の鳥羽・伏見の戦いにおいて薩長官軍側の優勢が判明するまで、実質的な効果には乏しかった(出典?)。
  • しかし、軍事同盟締結は、土佐藩内における兵制改革の契機となり、また封建制幕藩体制に対する改革意識を高め、戊辰戦争において土佐藩(出身者)を薩摩・長州・肥前と並ぶ倒幕の主要勢力たらしめた(出典?)。

陸援隊

慶応3年(1867年)6月27日、長州で見聞していた奇兵隊を参考に、陸援隊を組織し、自ら隊長となり、京都・白川の土佐藩邸を陸援隊の本拠地と定めた。この頃、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著す。

同年7月8日、江戸から土佐へ帰藩する途中の真辺正精と京都で会い、互いに時勢を話し会った。

死去

慶応3年11月15日(1867年12月10日)、京都・四条の近江屋に坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され瀕死となる(近江屋事件)。龍馬は即死ないし翌日未明に息絶えたが、慎太郎は二日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について谷干城などに詳細に語ったという[3]。同月17日(新暦12日)に死去、享年30。

近江屋事件の後、海援隊士らはいろは丸沈没事故で多額の賠償金を支払わされた紀州藩の報復であると考え、紀州藩士・三浦休太郎を襲撃し、警護に当たっていた新選組と戦った(天満屋事件)。

墓所は、京都市東山区京都霊山護国神社ほかにある。明治維新後の1891年4月8日に正四位を追贈された。

家族

名前

道正通称ははじめ福太郎福五郎とも)、光次、のち慎太郎。遠山迂山など。変名石川清之助誠之助)など。

中岡家

土佐藩では庄屋に転勤の制度があったため、中岡家のルーツは室戸ではない。なお、姓は藤原氏、家紋は「丸に綿の花」である。

劇団ひとり

題材とした作品

薩長連合、薩土密約、大政奉還等については、坂本龍馬を中心にして描いたテレビドラマや小説が多いが、その発想や行動の立案者が坂本だったか中岡だったかは意見が分かれる。中岡が坂本の西洋的な議会主義的思想にどの程度まで理解を示したのかも、今日まで不明な点が多い。

小説

テレビドラマ

映画

ゲーム

銅像

  • (いつ?)室戸岬本山白雲作の銅像が建てられた。
    • 桂浜にある龍馬の銅像が向かう先と同じ方向を見ていると噂されているが、両者の銅像の方向には全く関係はない。
    • 桂浜の龍馬の銅像と同様にこの像も第二次世界大戦中の金属供出を免れている。
    • 2000年にアメリカで発行された『JAPAN』という日本を紹介する本では、坂本龍馬の銅像として室戸にある中岡の銅像が紹介された。

中岡慎太郎館

生誕の地である高知県安芸郡北川村柏木に「中岡慎太郎館」が建てられている。また隣接する旧宅跡地に邸宅が復元されている。

付録

関連文献

  • 中岡慎太郎先生銅像建設会(編)『中岡慎太郎先生伝』中岡慎太郎先生銅像建設会、1935年、NDLJP:1235148 (閉)
  • 宮地佐一郎『中岡慎太郎 - 維新の周旋家』〈中公新書〉中央公論社、1993年、ISBN 4121011465
  • 松岡司『中岡慎太郎伝 - 大輪の回天』新人物往来社、1999年、ISBN 4404026943
  • 平尾道雄『中岡慎太郎 - 陸援隊始末記』白竜社、1966年、NDLJP:2995390 (閉)
    • 再版 〈中公文庫〉中央公論社、1977年、全国書誌番号:77011970
    • 改版 〈中公文庫〉中央公論新社、2010年、ISBN 978-4122052741

脚注

  1. 中岡の書簡による。
  2. あるいは22日(新暦3日)
  3. 近江屋で坂本龍馬と一緒に襲われたが、彼は即死せず二日間生き延びて、刺客が「こなくそ」(松山弁)と言いながら襲ってきたと話している。また、焼飯(焼きおにぎり)を食べたいとも話したらしい。(出典?)

参考文献

  • 宮地佐一郎(編)『中岡慎太郎全集』勁草書房、1991年、ISBN 978-4326300709