三好義興

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三好 義興(みよし よしおき、天文11年(1542年) - 永禄6年8月25日1563年9月12日)は、戦国時代武将三好長慶嫡子であったが、父より1年前に早世したため家督を継ぐ事は無かった。叔父に三好義賢安宅冬康十河一存らがいる。幼名は千熊丸。通称は孫次郎。諱は慶興(よしおき)、義長(よしなが)と改めて義興と名乗った。官位官途は従四位下筑前守。幕府役職では御供衆相伴衆となった。

生涯

三好長慶の嫡子。生母に関しては不詳であるが、長慶は最初の正室波多野稙通の娘を迎え、その後に遊佐長教の娘を継室として迎えている。この再婚の時期は諸説あるが、天文17年(1549年)5月(『続応仁後記』)、天文14年(1545年)7月(『細川両家記』『足利季世記』)とあるため、義興は波多野夫人が生母であったと見られる。

天文21年(1552年)12月25日、元服して孫次郎慶興と名乗る。この際に石山本願寺本願寺光教より物品の贈物を受けている(『天文日記』)。永禄2年(1559年)12月18日に将軍・足利義輝の偏諱を受けて義長と名乗り(『伊勢貞助記』『歴名土台』)、永禄4年(1561年)1月28日に義興と改めた(『伊勢貞助記』『歴名土台』)。

永禄2年(1559年)2月2日、父と共に上洛し、3月3日に足利義輝に謁見する(『言継卿記』)。永禄3年(1560年)2月1日には松永久秀と共に御供衆に任命される。2月6日、足利義輝が参内した際には久秀、細川藤賢上野信孝伊勢貞孝ら8人と共に従った(『伊勢貞助記』『歴名土台』『言継卿記』『御湯殿上日記』)。この永禄3年に三好家嫡流の官途である筑前守と居城の芥川山城を受け継ぎ、判物の発給を行なっているので、実質的に三好家当主として活動していると推測されている[1]。永禄4年(1561年)1月23日に上洛すると、御相判衆に任命され、1月28日には久秀と共に正五位下から従四位下に昇叙された(『伊勢貞助記』『御湯殿上日記』)。2月1日には桐紋の使用を許され、また塗輿も許された。これは後醍醐天皇から足利尊氏に下賜された足利将軍家の紋であり、義興の待遇は将軍家並になっていたということである。義興は義輝より6歳年下であったが、金閣寺見物や屋敷への御成などを行なわれるなど義輝から厚遇された[2]

永禄5年(1562年)3月5日、久米田の戦いで叔父の三好義賢が畠山高政の前に戦死する。義賢の戦死を知った義興は高政と呼応した六角義賢に備えるため、将軍・足利義輝や生母の慶寿院広橋重光高倉永相らを男山八幡に避難させた(『長享年後畿内兵乱記』『御湯殿上日記』)。義興は久秀と共に山崎に撤退した(『長享年後畿内兵乱記』)。このため京都六角軍の手に落ちた。5月14日、義興は久秀に安宅冬康、三好長逸三好政康三好康長池田長正ら2万の大軍を率いて畠山高政を攻めた(『長享年後畿内兵乱記』『フロイス日本史』)。高政は5月19日に河内高屋城に撤退し、5月20日に高政方の湯川直光らを教興寺の戦いで破った(『長享年後畿内兵乱記』『永禄以来年代記』『暦仁以来年代記』『後鑑所収目良家証文』)。高政は烏帽子形城まで逃れたがそこも義興ら三好軍の追撃を受け、紀伊まで逃げた。高政に協力していた三宅国村安見直政根来衆らも全員敗れて逃亡した(『長享年後畿内兵乱記』『足利季世記』『細川両家記』)。これにより、三好家は久米田の敗戦で失った勢力圏を全て取り戻した。6月26日に義興は久秀と共に教興寺の戦功により足利義輝から下賜品を受けた(『長享年後畿内兵乱記』『御湯殿上日記』)。

永禄5年8月、六角義賢や畠山高政らと通じて伊勢貞孝が反乱を起こした。この反乱を義興は久秀と共に8000人の兵を率いて鎮圧し、9月に伊勢貞孝と有馬重則を討ち取った(『御湯殿上日記』『永禄以来年代記』)。

永禄6年(1563年)8月、義興は病に倒れた。曲直瀬道三の治療を受け、吉田兼右正親町天皇醍醐寺などの平癒祈祷を受けるが、8月25日に居城の芥川山城において死去した。享年22という若さであった(『長享年後畿内兵乱記』『三好家系図』『細川両家記』)。死因は『足利季世記』が黄疸とあるが、一方で松永久秀が食事に毒を入れての毒殺とも記録されている。この記録によると義興は久秀の奸悪を見抜いており、長慶に久秀の排除を進言したが長慶は容れず、久秀はそれを聞いて先手を打って義興を毒殺した、としている。ただし久秀の毒殺は「雑説」であるとしている。

義興の葬儀は、11月15日に大徳寺の紫衣衆や京都五山の僧侶によって行なわれた(『長享年後畿内兵乱記』)。墓所は高槻市霊松寺にある。

義興には妻はあったが子は無く、また他に弟もいなかったため、継嗣を失った長慶は十河一存の子の熊王丸(三好義継)を養子に迎えた(『伊勢貞助記』『足利季世記』『続応仁後記』)。

人物像

『続応仁後記』では義興の器量は父祖に劣らず優れており、天下の兵乱を鎮めるべき人であったと評されている。そのため、22歳での若死には多くの人々に惜しまれた、とある。

脚注

  1. 宮帯出版社『三好長慶』、318頁
  2. 人物叢書『三好長慶』、190頁

参考文献