ヨシフ・スターリン
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ヨシフ・スターリン(ロシア語:Иосиф Сталин, ラテン文字表記の例:Joseph Stalin, 1878年12月18日[1] - 1953年3月5日)は、ソビエト連邦の政治家で、同国の第2代最高指導者。本名は、ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ(ロシア語:Иосиф Виссарионович Джугашвили, テンプレート:Lang-ka, ラテン文字表記の例:Iosif Vissarionovich Jughashvili)。
人民委員会議議長(首相に相当)や国防大臣などの役職を歴任したほか、1922年から死去する1953年までソビエト連邦共産党中央委員会書記長を務めた[1][2]。
目次
- 1 概要
- 2 生い立ち( – 1899年)
- 3 共産主義革命(1899年 – 1917年)
- 4 ロシア革命中の役割
- 5 ロシア内戦中の役割(1917年 – 1919年)
- 6 ポーランド・ソビエト戦争での役割(1919年 – 1920年)
- 7 権力の掌握
- 8 大粛清
- 9 スターリン憲法
- 10 強制移住
- 11 集団農場
- 12 飢饉
- 13 工業化
- 14 第二次世界大戦
- 15 冷戦
- 16 プロパガンダ
- 17 死去
- 18 復権への動き
- 19 人物像
- 20 スターリンに関する誤解
- 21 逸話
- 22 語録
- 23 著作物
- 24 スターリンが登場する作品
- 25 参考文献
- 26 脚注
- 27 関連項目
- 28 外部リンク
概要
党内での昇進を経て、ソ連の最高指導者(国家元首に就任したことはない)となってからは、レーニン主義の原理を基礎とした政治を確立し、一国社会主義論に立脚した統治を行うようになった[3]。批評家は、スターリンの統治が独裁者特有のものであり、その政治形態をスターリニズムと呼ぶ[4]。一方で、これらの非難は曲解や誇張であると否定する者もおり[5][6]、現在でも未だに論争が続いている人物の1人である。
ウラジーミル・レーニンの死後、レフ・トロツキーら他の党員との権力闘争に勝利しトロツキーを共産党から除名し、さらに国外追放した(トロツキーは後に亡命先のメキシコで暗殺された)。党員名簿と経理を掌握することで実権を握り、のちの強大な権力の地盤を築いた。1921年に施行された新経済政策(ネップ)を、1928年に第一次五ヶ年計画に替えたことでソ連は急速な工業化と経済成長を見せた。しかしながら、スターリンはおよそ同時期の集団農場促進の取り組みや、一部が完全な失敗に終わったと論ぜられる新しい農業政策に乗り出し、ソ連内で続いた干ばつと飢饉によって数百万人の死者を出した。この飢饉と数多くの犠牲者が出たことについて、反共主義者が書いた共産主義黒書(The Black Book of Communism)では、犠牲者は1000万人を超えると見ているが、スターリンを信奉するベルギーの歴史学者ルド・マルタン(Ludo Martens)とStefan Merlは、犠牲者は30万人と推定しているなど、依然として歴史的・政治的論争の議題となっている[6][7]。主流の歴史学者からは、この重大な飢饉(Soviet famine of 1932-1933)でソビエト人民約600万人が死亡したと信じられている[8][9][10][11][12][13][14][15][16]。
1930年代の終わり頃には、党内の反対派や「反革命的」とみなした者を排除するために大粛清を実行。数多くの批評家が、スターリンは政敵の排除のために不当な逮捕や処刑を行い、政治的理由によって人民を強制収容所のグラグに収容したと述べている[6]。ほかに「人民の敵」とみなした者を「粛清」と称して弾圧し、さらに無実の人間も含めて多数の人間を虐殺するなど過酷な抑圧政策を取ったことでも知られており、『赤いツァーリ』の称号で呼ばれることも多い。反対する者や政敵の粛清を経て実質的な最高指導者となり、独裁的な権力を振るった。同時代のアドルフ・ヒトラーや後年の毛沢東と並び、独裁者の典型例とされる[17]。
スターリン政権下のソ連は、第二次世界大戦でナチス・ドイツによる侵攻の矢面に立たされた。スターリンはナチス撃破のために大きく果断な処置を取った[18]。
旧ソ連ではスターリンのことを、五カ年計画の成功でソビエトをアメリカに次ぐ世界第二番目の経済大国へと躍進させ、ナチス・ドイツの侵略から祖国を守った英雄と認識している人々も少なくない。スターリンの統率は、強力な個人崇拝やプロパガンダによって強固なものとなり、結果として(犯罪者と「なった」者も含めて)ソ連の大多数の人々によって英雄とみなされた[19]。彼が存命の頃のソ連は、プロパガンダによって共産主義の希望の星として憧憬の目が注がれていた。スターリンは自身への個人崇拝を助長させたが、その死後、ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判が起こり、スターリンの残した負の遺産は非難され、ソ連国内で非スターリン化が推進された[20]。これにより、スターリンによる独裁の時代の政治体制・主張・理論は、右翼陣営だけでなく左翼陣営からも否定されるようになり、多くの共産主義者から批判・敵視されることとなった。
生い立ち( – 1899年)
幼少期
1878年12月18日、ロシア帝国時代のグルジアのゴリにて、靴屋の父ヴィッサリオン(ベソ)・ジュガシヴィリと、農奴の母エカテリーナ(ケケ)・ゲラーゼの第3子として生まれる[21]。同年12月29日(ユリウス暦:12月17日)、長司祭ハハロフと補祭クヴィキニーゼによって聖洗礼を受ける[22]。両親はいずれもグルジア生まれであった。2人の兄弟、ミハイルとゲオルギーは幼児の段階で死亡している[21]。
少年期のヨシフは「ソソ」と呼ばれていた。父ヴィサリオンの仕事は繁盛していたが、次第にアルコール依存症に陥り、仕事でうまくいかないことがあると、妻や息子を虐待した[23]。ヨシフは父親からしばしば鞭で打たれた(当時のロシアでは、鞭打ちは子供をしつけるための容認された方法であった。なお、ヨシフの「本当の」父親に関して、複数の仮説と有名な噂がある[24]。
一家の財政状況は悪化し、ヨシフが10歳になるまでに9回転居している[21]。
ヨシフが育った場所は、激しい無法地帯の街であった。小規模の警官隊と、戦争で疲弊したグルジアの過去の歴史から受け継いでいる騒々しい喧嘩や取っ組み合いの勝ち抜き試合を組織しているギャングとの争いを含めた暴力の文化があった[21]。
ヨシフの家の近所に、ダヴィド・ピスマメードフというユダヤ人が住んでいた。彼はヨシフに金銭と本を与えて勉強を奨励し、実の子供のように可愛がった。その数十年後の1924年、ピスマメードフは、ヨシフ少年がどうなったか知るためにモスクワのクレムリンを訪れた。ヨシフは誰が尋ねてきたのかを告げられると、自ら出てきてピスマメードフを抱きしめて「やあ、おじいさん、よく来てくれました。わたしのお父さん…」[25]と言ってピスマメードフを歓待し、幸福に歓談することで同僚を驚かせた。エドワード・ラジンスキーは、「この出会いが、『スターリンの父親は裕福なユダヤ人』という噂を生んだのかもしれない。スターリンは、ただかつての大金持ちに対して、かつての貧しい少年がどのような人間になったかを見せたかっただけなのだ。彼は死ぬまで、幼稚なことに自分の惨めな少年時代の恨みを晴らし続けたのである」[26]と述べている。
7歳のとき、ヨシフは天然痘に罹患し、病気の症状のために顔がひどく傷付いたが、のちに、痘痕があまりはっきりと写らないように修正した写真を撮った。ヨシフの母語はグルジア語であったが、8〜9歳になるまでロシア語を学び始めることはなく、強いグルジア訛りの発音は無くなることはなかった。
神学教育
10歳になったヨシフは、ゴリの教会学校に入学し、教育を受け始めた。彼のクラスメイトは、そのほとんどが裕福な聖職者、役人、商人の息子であった。ヨシフを含めたほとんどのクラスメイトはグルジア語で話していたが、ロシア皇帝アレクサンドル3世の方針のために学校ではロシア語で話すことを強制させられた。ヨシフは学級内では最上の生徒の1人であり、全面的に最高点を獲得した。聖歌隊の歌い手にもなり、ときおり、結婚式で歌を歌う仕事もした。また、詩も書き始めている[21]。
学校の教育は聖書を教材とした神学教育で、スターリンは聖書の全章を熟読した唯一の独裁者といわれる[27]。母エカテリーナは、息子が聖職者になることをソ連の指導者になったあとも望んでいた。
学校教育よりも靴職の技術を息子に教えたがっていた父のヴィッサリオンは、息子が学校に認められると憤激した。激怒したヴィサリオンは、酔っ払って地元の酒場の窓を割り、地元の警察長官を非難した。ヨシフの母エカテリーナに同情した警察長官はヴィッサリオンを逮捕することはなかったが、街から出ていくよう言った。ヴィッサリオンはゴリに住む家族を残してトビリシに移住し、靴工場での仕事に就いた[21]。
馬車による怪我
学校生活を送っていたヨシフは、馬車に轢かれたことがあり、左腕に治ることのない傷ができた。ヨシフはこの傷害で、のちの第一次世界大戦での兵役を免除されている。12歳のとき、ヨシフは再び馬車に轢かれ、さらにひどい怪我を負い、治療のためにトビリシの病院に1か月入院した。S・ゴグリツィーゼの回想によると、「洗礼際の日にクラ川の橋のあたりに大勢の人々が集まっていた。坂の上から操縦がきかなくなった一台の軽馬車が猛烈な勢いで突進してくるのを、誰も気づかなかった。…軽馬車は群衆の中に突っ込んだ。かじ棒がソソの頭に当たり、ふっとばされたが、幸いに車輪に足をひかれただけだった。人々が集まり、ソソを抱きかかえて家に運んだ。母はソソの傷を見て泣き叫ぶのを抑えることができなかったが、医者は内臓器官はやられていないからと慰めた…数週間後に彼は学校に戻った」[28]という。回復後、父ヴィッサリオンが息子を連れ去り、自分が働いているトビリシのアデリハーノフの靴工場で息子を靴職人見習い工として登録した。S・ゴグリツィーゼの回想によると、ヴィッサリオンは妻のエカテリーナに対して「お前は息子を府主教にしたいというのか?お前が生きている間はそんなことにはならんだろうな。おれは靴職人だ。息子も靴職人になるさ」と言っていたという[29]。母エカテリーナの聖職者や学校の職員への接触による支援で息子は回復した。ヴィッサリオンは妻と息子への金銭援助を打ち切り、自活させた。ヨシフは回復後にゴリの教会学校へ戻った[21]。
グルジア神学校
1894年に教会学校を首席で卒業したヨシフは奨学金を獲得、16歳のときにカフカース最高の名門校であるグルジア正教会の神学校に入学する。ここの教師もまた、グルジア人の生徒にはロシア語とロシア文化を強いていた[21]。ヨシフは貪欲な読書家であった。ほかの多くの生徒たちのように、若いヨシフはグルジア人の愛国心を湧き起こすのには反発していた。神学校での生活のあいだに、地元のいくつかの新聞社からヨシフの書いた詩が出版され、詩人としての評判を得るが、ヨシフの詩への興味は次第に薄れていき、反逆と革命への気持ちが湧き起こり始めた。神学校でのヨシフは、ほかの多くの生徒たちとともに、ヴィクトル・ユゴーの小説、革命、マルクス主義者の本を含めて禁ぜられた書物を読んでいた。ヴィクトル・ユゴーを読んで、かねてから革命家になりたがっていたヨシフは、1896年にマルクス主義のサークルを組織している。神学校でのヨシフは成績優秀な生徒であったが、規則違反や教師への反抗を繰り返すようになる。このためにヨシフは捕まり、罰を受けた。とくにある教師は、密告した生徒を通じて反抗した生徒を捕まえて困らせ、夜ごとの巡回や寄宿舎への突然の踏み込みを行った。これらの監視、間諜、精神生活や感情の侵害といった個人的経験は、将来の恐ろしい様相の構想に影響を及ぼす[21]。
放校
ヨシフは無神論者となり[21]、仲間に自分のことを「コーバ」と呼ぶよう要求した。これはグルジアで広く読まれたアレクサンドル・カズベギ(en:Alexander Kazbegi)の英雄物語の小説の主人公の名前であり、その題名は「父殺し」といった。革命家としてのヨシフは、この偽名を使い続けることになる。1898年、ヨシフはボリシェヴィキの前身であるロシア社会民主労働党に入党する。1901年には同党の秘密結社・チフリス委員会に選出されている。
最終試験の前に、学校は入学金を突然値上げしている。ヨシフは試験に出席しなかったことを理由に1899年に放校処分となった[21]。その際、「『不忠な』思想の持ち主」として追放されている。学校を去ってからまもなく、ウラジーミル・レーニンの著作集に触れ、革命家になることを決意する。
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グルジアのゴリにあるスターリン生誕の家
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スターリンの父親ヴィサリオン・ジュガシヴィリ
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スターリンの母親エカテリーナ・ゲラーゼ
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スターリン(1894年、16歳)
共産主義革命(1899年 – 1917年)
地下活動と最初の流刑
司祭教育を放擲したヨシフは、トビリシの中央気象台にて気象局員の仕事に就く。給料は月に20ルーブルという比較的安月給であったが、仕事の負荷は軽かった。勤務のかたわら、ロシア社会民主労働党の地方組織に参加する。ヨシフはストライキを組織し、示威運動を指導してスピーチを行った。ほどなくしてヨシフは、ツァーリ秘密警察のオフラーナの注意を受けた[21]。1901年4月3日の夜、オフラーナはトビリシにて、ロシア社会民主労働党の多くの指導者を逮捕したが、ヨシフは気象台でオフラーナの諜報員が待ち伏せしているのを見つけたことで捕獲を免れた。1901年に中央気象台を辞めたあとは、地下組織に潜って政治活動を行い、友人、支持者、そして党からの寄付金で生活した。ヨシフはバクーに本拠を置く過激な新聞社「Brdzola」で革命の記事を書き始めた[21]。
同年10月、ヨシフはバトゥミに逃れ、精油所を所有しているロスチャイルド家で働く。その地で労働者を組織したヨシフは、1902年に精油所で起こった火事に巻き込まれた際に、経営者を騙して労働者に賞与を渡させることを目論んだ。しかしながら、経営者は放火を疑ったため、支払いを拒否した。これは、労働者を組織したヨシフの逮捕、そして街のコサックとの衝突という一連のストライキに至るのであった。刑務所内の仲間を脱獄させる試みの1つとしてコサックが介入したとき、スト参加者13人が殺された。ヨシフは、死者を殉教者のように描写した小冊子を配布した。1902年4月18日、当局はついに、密会の場でヨシフを逮捕した。裁判では、暴動を指揮したことについては証拠不十分として無罪となったが、トビリシでのヨシフの活動を当局が調査しているあいだは拘留された。1903年、当局はヨシフをシベリアへ3年間追放することに決めた[21]。
資金調達と非合法活動
1903年12月9日、ヨシフはシベリアのノヴァヤ・ウダ(Novaya Uda)という街にいた。この間に、ロシア社会民主労働党内で、レーニン派のボリシェヴィキとユーリー・マルトフ派のメンシェヴィキという、対立する2つの派閥ができたことを聞いた。すでにレーニンの賞賛者であったヨシフは、レーニンの党派に加わることを決めたが、虚偽の書類をどうにか手に入れた直後、1904年1月17日に列車に乗ってシベリアから逃亡し、その10日後にトビリシに到着した[21]。なお、獄中にいる中、ヨシフは社会民主労働党の委員に選ばれている。
収入がなく、仲間との付き合いで生活していたヨシフは、仲間の1人から、のちにレーニンの死後にソ連の共同統治者となるレフ・カーメネフを紹介された。このころのヨシフは、国際的に大多数のマルクス主義者同士での亀裂を引き起こしたグルジア社会民主党(en:Georgian Social Democratic (Menshevik) Party)を支持していた。追放の危機に瀕していたヨシフは、「信条」を書くことを強制され、彼の書いた論文は破棄された(レーニンはこの論文を手元から遠く離し、ヨシフがソ連の統治者となったとき、この「信条」の原稿を全部破り捨てようとした。これを読んだ人の多くは銃殺された)[21]。翌月、日本とロシアとのあいだで日露戦争が勃発した。結局ロシアの敗北に終わったこの戦争は、ロシア経済に厳しい重圧を、グルジア国内に多大な不安をもたらした。ヨシフは党のために、政治活動を行っているグルジアの向こう側に旅に出かけ、誹謗活動と陰謀を通して、メンシェヴィキ党員を弱体化させるために働いた。ヨシフの努力は、レーニンを初めて注目させた。
1905年1月22日、首都サンクトペテルブルクで血の日曜日事件が発生したとき、ヨシフはバクーにいた。この一連の出来事の一部は、ロシア革命勃発の引き金を引いた。暴動、小作農の反乱、民族虐殺はロシア国内に広まった。同年2月、少数民族のアゼルバイジャン人とアルメニア人が、バクーの街でお互いを虐殺していた。武装したボリシェヴィキの隊を指揮したヨシフは、党の資金調達のために保証金をゆすり取り、印刷機材を盗んだ。その後、ヨシフは西のほうへ向かい、グルジアで圧倒的支持を受けていたメンシェヴィキ党員に対する活動を続けた。鉱山の街チアトゥラ(en:Chiatura)にて、ヨシフとメンシェヴィキ党員の両者は炭鉱労働者からの支持を争った。メンシェヴィキ党員たちの大胆な雄弁よりも、明白で簡潔な話し方をするヨシフを好んだ鉱夫たちは、後者を選んだ[21]。チアトゥラの街から、ヨシフはグルジア全域でボリシェヴィキの民兵を組織し、武装させたが、彼らとともに富裕層のあいだで保証金をゆすり取り、コサック、警官、そしてオフラーナに対してゲリラ戦を仕掛けた。
同年、ヨシフはトビリシにて、最初の妻となるエカテリーナ・スワニーゼ(en:Ekaterina Svanidze)と出会う。
1905年12月、ヨシフとほかの活動家2人は、フィンランドのタンペレにて開催されたボリシェヴィキ協議会で、カフカース代表に選出された。1906年1月7日、ヨシフはこの地で初めてレーニンと直接出会った。ヨシフはレーニンの人格と知性に感動したが、レーニンの言説に反駁することを恐れなかった[21]。ヨシフは、ドゥーマが最近作った選挙に参加するというレーニンの提案に反対した。ヨシフはレーニンに認められた。ヨシフはこの協議で、将来の指揮官エメリアン・ヤロスラフスキー(Emelian Yaroslavsky)や、ソロモン・ロゾフスキー(en:Solomon Lozovsky、後に外務人民委員代理を歴任)と出会った。ヨシフは協議後に、ツァーリに反抗的な地域をコサック軍が再び抑えようとしているグルジアへ戻った。トビリシにて、ヨシフとメンシェヴィキ党員は将軍のフョードル・グリーアザノフ(Fyodor Griiazanov)の暗殺を目論み、1906年3月1日に実行に移した。ヨシフは金品強要、銀行強盗、金を強奪するなどの行為を通して、ボリシェヴィキのために金を集め続けた。
最初の妻との結婚・死別
1906年4月、ヨシフはロシア社会民主労働党第4回大会に出席した。ヨシフはこの大会で、将来の国防人民委員および最初の元帥となるクリメント・ヴォロシーロフ、チェーカーを設立するフェリックス・ジェルジンスキー、そしてレーニンの死後に権力を共有するグリゴリー・ジノヴィエフと出会う。ボリシェヴィキの協議で、「銀行強盗禁止」が賛成多数で可決された。この決議は、金を集めるために銀行強盗が必要だったレーニンを動揺させた[21]。
1906年7月28日、ヨシフはエカテリーナ・スワニーゼと結婚する。1907年3月31日、エカテリーナはヨシフの最初の子供であるヤーコフ・ジュガシヴィリを出産した。
ヨシフとレーニンは、1907年にロンドンで開かれたロシア社会民主労働党第5回大会に出席する[30]。この大会では、レーニン派のボリシェヴィキの支配権の強化と、ロシアでの共産主義革命のための戦略について討議した。ヨシフはここで、レフ・トロツキーと初めて出会う。ヨシフはすぐにトロツキーを嫌うようになり、トロツキーを「美男子だが役に立たない」と評した[21]。大会後、ヨシフはメンシェヴィキによる支配と反目で満ちているグルジアを離れ、活動の中心地をロシアに変え始め、ロシア語を書き始めた。
トビリシに戻ったヨシフは、とてつもない銀行強盗の準備をした。銀行業務事業の仕事への接触を通じて、6月に、町の中心にある帝国銀行に大金が届くことをヨシフは耳にした。ボリシェヴィキ内で銀行強盗が禁止となったため、ヨシフは計画を一時的に断念していた。1907年6月26日、発砲と手製爆弾による轟音がエレバンスクエアで轟いたとき、ヨシフの仲間たちは武装した輸送隊を待ち伏せていた。およそ40人が死んだが、ヨシフと仲間たちは25万ルーブル(今日の価格でおよそ340万ドル)を持ってどうにか逃げのびた[21]。その2日後、ヨシフは家族とともにトビリシから立ち去った。この国立銀行からの金塊強奪を成功させたことが、レーニンの信頼を得る契機となっている[31]。フィンランドからジュネーヴへ逃れたレーニンに、取り巻きが金を届けている。銀行強盗を禁止した(さらに略奪品の割り当てを得られなかった)メンシェヴィキは憤慨し、容疑者を調査した。事件は今後ヨシフに難儀をもたらすが、追放の危機は免れた。
ヨシフの家族はバクーへ移住した。ヨシフが革命活動を続けているあいだに、妻のエカテリーナが、公害、熱、ストレス、栄養失調から病気になった。彼女はついに(多くの歴史学者は結核と信じているが)チフスに罹患し、1907年12月5日に死亡した。ヨシフは深い悲しみに打ちひしがれ、数か月間喪に服した。彼女の死は、ヨシフを非情にさせた。彼は友人に「人間に対する私の最後の温かい感情は、彼女の死とともに消え失せた」と語った[21]。息子のヤーコフが出世すると、ヨシフは息子を見捨てた。
逮捕・流刑
革命活動を再開したヨシフは、より多くのストライキと社会運動(扇動)を組織した。今度は、ムスリムのアゼルバイジャン人と、バクーに住むイラン人(en:Iranian peoples)の労働者を重点的に取り扱った。ヨシフはイスラム社会民主党と呼ばれる、ムスリムのボリシェヴィキグループの設立を手伝った。さらに、人的資源と兵器によるイラン立憲革命を支持し、ペルシアを訪問した際にはパルチザンを組織している。ヨシフは、黒百人組(ツァーリを支持する右翼)の一員の殺害を命じ、バクーの石油王を誘拐して身代金をゆすり取った。ヨシフは贋金造りと強盗も行っていたが、メンシェヴィキ党員を妨害するために犯罪者一味の友になり、彼らを利用した。ヨシフと悪漢たちはボリシェヴィキの知識人たちをうろたえさせたが、ヨシフの影響力はあまりにも強かった[21]。オフラーナの追跡を受けたヨシフは、1908年4月7日に逮捕された。彼は7か月間投獄されたのち、2年間のシベリアへの流刑を宣告された。彼は1909年3月の初期にソリヴィチェゴドスクの村に到着した。流刑となって7か月後、ヨシフは女装してサンクトペテルブルク行きの電車に乗って逃亡し、7月後半にバクーへと戻った[21]。
ボリシェヴィキは、帝国内の圧制や方々の知識人たちのあいだでの内部抗争によって、崩壊寸前の状態にあった。自暴自棄になったヨシフは、メンシェヴィキとの和解を主張したが、レーニンはこれに反対した。ヨシフは帝国内部からロシア社会民主労働党のロシア・ビューローの創設を要求した。ヨシフはすぐに、ボリシェヴィキ内に帝政支持の間者がかなり潜入していることを悟った。ヨシフは、党内で多くの無秩序を引き起こした“「本物の裏切り者」の根絶やしに失敗した「裏切り者」”-オフラーナの記録によって明らかになった- を捜し始めた[21]。
1910年4月5日、ヨシフは再びオフラーナに逮捕された。以前のソリヴィチェゴドスクへの流刑を完了させるためにコーカサスからの5年間の追放を宣告された。同年9月、ヨシフは同地に追放された。1911年の早期に同地から一時的に逃げ出しているが、金をどうしても必要としていた別の追放された人物が逃げ出したことで、ヨシフは同地に戻らざるを得なかった(1937年、ヨシフはこの人物を銃殺している)。ヨシフは、流刑中にマリア・クザーコヴァという女主人と不倫をしており、隠し子のコンスタンティン・クザコフを儲けている[32]。マリアがまだ妊娠中の1911年7月9日、ヨシフは流刑から開放された。同年の7月末期に、ヨシフは2か月間住むよう命ぜられたヴォログダに移住した[21]。
1912年1月のプラハ党協議(en:Prague Party Conference)で、ロシア社会民主労働党からボリシェヴィキを指導してきたレーニンは、分離したボリシェヴィキ党(のちのソビエト連邦共産党)を創立した。中央委員は選ばれたが、その内の一部の党員がロシアに戻ったときにオフラーナに逮捕され、中央委員会の党員に扮したオフラーナのスパイであるロマン・マリノフスキーによって密かに裏切られた。レーニンとジノヴィエフは空白状態を埋めるため、中央委員にヨシフを選出した[33]。ヨシフがこのことを知らされたのは、同年の2月末期にヴォログダを発ったときのことであった。
1912年4月、ヨシフは、ボリシェヴィキによる機関紙の発刊を管理する新聞社のズヴェズダがあるサンクトペテルブルクに移住したが、機関紙の発行を月刊から日刊に変え、「ズヴェズダ」を「プラウダ」へ改名することを決めた。最初の機関紙は、同年5月5日に発刊された。その後ほどなくして、ヨシフは再びオフラーナに逮捕され、1912年7月にシベリアへ3年間追放されることになった。今度はナルイム(en:Narym)の小さな村だった。到着後のわずか38日後にヨシフは逃亡した。これはヨシフが経験した流刑生活の中でもっとも短い期間である[21]。9月にはサンクトペテルブルクへ戻った。
筆名「スターリン」
ヨシフは共産主義運動の奮闘と救済を願って、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの調停のために努力した。発刊したプラウダの社説で両者の和解を主張し、密かにメンシェヴィキの指導者と何度も会った。これに激怒したレーニンは方策について議論するため、ヨシフを2度クラクフへ呼び出した。1912年の年末の2度目の訪問の際に、ヨシフはプラウダの編集者の職を解任されたが、ボリシェヴィキ党のロシア・ビューローの指導者となった。レーニンはヨシフに、少数派であるボリシェヴィキの立場について明らかにする論文を書くよう頼んだ。その後、ヨシフはレーニン、裕福なボリシェヴィキの夫婦とともに数週間過ごした。ヨシフはこの間に、将来のソ連政府の有力な政治家となるニコライ・ブハーリンと初めて出会う。2人は国籍(および民族)の問題について議論した。
1913年3月、ヨシフは『マルクス主義と民族問題』という表題の論文を完成させた。この論文は「K.スターリン」という筆名で発表された[34]。これより、ヨシフは「鋼鉄の人」を意味する筆名「スターリン」を名乗り始めた。
最後の流刑生活
1913年2月、スターリンはサンクトペテルブルクへ戻った。このあいだに、ボリシェヴィキの党員(中央委員のほぼ全員)が、上位のボリシェヴィキ党員として、そして工作員として長い間諜報活動をしていたマリノフスキーの内通によってオフラーナに逮捕されていた。同月、マリノフスキーが「スパイ」であると暴露された記事が発表されたが、ボリシェヴィキはこれをメンシェヴィキによる「名誉毀損」として退けた[35]。3月8日、マリノフスキーはスターリンに対して、オフラーナの襲撃を受けることになるボリシェヴィキの資金調達舞踏会に出席するよう説得した。
スターリンは、遠く離れたシベリアのトゥルハンスク(en:Turukhansk)州に追いやられた。彼は最終的に、レフ・カーメネフや追放されたほかのボリシェヴィキ党員たち数人と協力することになる。スターリンはエニセイ川のコスティノ(Kosutino)という小さな村落で半年間過ごした。スターリンが脱出計画を練っていること(彼は同志から金と食料を受け取っている)を知った当局は、彼を北極圏の端にあるKureikaという村落へ移させた。彼は同地で狩猟採集民のような生活を送り、釣りと狩猟を地元のシベリアの部族民から教わった。その間に、同地でリーディア・ペレプルイギナ(Lidia Pereprygina)という13歳の少女と2年間関係を持ち、2人の子供の父親にもなっているが、1人目は幼くして死亡。スターリンがシベリアを去ったあとの1917年4月、リーディアは2人目を産み、「アレクサンドル」と名付けた。
1916年の後半、スターリンは軍隊に召集された。彼は1917年2月にクラスノヤルスクに赴いたが、検視官がスターリンの損傷した左腕(子供時代の負傷)を見つけ、兵役は務まらないと判断した。スターリンはアチンスクの村で流刑生活の最後の4か月を過ごした。
オフラーナの「スパイ」疑惑
一部のボリシェヴィキ党員は、スターリンを「オフラーナの工作員」として訴えたことがある[36]。帝政支持者による迫害からの逃亡は、スターリンにとっては容易なことで、刑罰も非常に軽かったため、スターリンがオフラーナの工作員であるという噂も立った。裏切り者を探し出すという彼の取り組み(1909年)は、党内で多くの対立を引き起こした。スターリンはオフラーナの命令で故意に争いを引き起こしたとして、一部の党員が彼を訴えようともした。メンシェヴィキ党員のen:Razhden Arsenidzeは、スターリンが同志を裏切った、と述べた。
1916年、ボリシェヴィキ党員のen:Stepan Shahumyanは、スターリンを「オフラーナの工作員」であるとして直接訴えた。彼の個人秘書であるオルガ・シャトゥノフスカヤによると、これらの意見はスタニスラフ・コシオール、イオナ・ヤキール、その他著名なボリシェヴィキ党員らの意見を共有させたものという[37]。噂は、流刑からの脱出の際にオフラーナのバッジを使ったことをスターリンから伝えられたDomenty Vadachkoryという人物による回顧録がソ連国内で出版されたことで補強された[38]。刑務所からの複数回の逃亡と亡命をスターリンが軽視していたことも、疑惑を増大させる原因となった[39][37][40]。スターリンがオフラーナに協力していたという確かな証拠はいまだ見つかってはおらず、メディアが出版したオフラーナによる嫌疑がかかっているスターリンに関する2、3の報告書は、捏造されたものと見られている[38]。
ロシアの作家エドワード・ラジンスキーの本『スターリン』では、情報提供者がレーニンによって選ばれ、スターリンがロマン・マリノフスキーと同様にオフラーナのために働くふりをする二重スパイであったかもしれないと示唆している[37]。別の歴史家サイモン・セバーグ・モンテフィオーリは、残存しているオフラーナの全ての記録から、スターリンは革命家であり、決してスパイではないことが分かったと述べている[21]。
1967年にスターリンの伝記を書いたエドワード・エリス・スミスは、スターリンがオフラーナの捜査網から逃れられるには疑わしく、旅行を妨げられず、収入源なしで民衆を煽り立ていたとして、スターリンはオフラーナのスパイであると唱えた。その一例として、1901年4月3日に発生したトビリシのグルジア社会民主党の主要な党員のほとんどが(スターリンを除いて)逮捕された急襲事件がある。このときのスターリンは麗らかな春の陽気を味わい、「革命なぞ糞喰らえ」と真剣に考えていた[41]。
ロシア革命中の役割
二月革命のあとに、スターリンは流刑から解放された。レーニンや、その他のボリシェヴィキ指導者がまだ追放中のあいだの3月25日、スターリンはボリシェヴィキの機関誌プラウダの編集員であるカーメネフ、en:Matvei Muranov、追放されたヴャチェスラフ・モロトフ、en:Alexander Shlyapnikovとともにサンクトペテルブルクへ戻る。スターリンと新しい編集局は、アレクサンドル・ケレンスキーのロシア臨時政府への支援に賛成の立場を取り(モロトフとShlyapnikovはこの臨時政府を打倒したがっていた)、臨時政府打倒について議論していたレーニンの記事の発表を拒否する事態にまでなった。しかしながら、1917年4月の党会議でレーニンは臨時政府打倒を呼びかける「四月テーゼ」を発表する。スターリンとプラウダの残余の局員たちはレーニンの考えに同意し、臨時政府の打倒を要求した。スターリンはこの会議で、党内で3番目に高い総票数を受けてボリシェヴィキ中央委員会に選出された。7月中旬、ボリシェヴィキの過激派が、ペトログラードの街頭で武装した暴徒による示威運動を先導し、陸軍士官と有産階級の市民を殺害した。ボリシェヴィキの指導者でもペトログラードソビエト(en:Petrograd Soviet)でもなく、権力を握ろうとしていた彼らは政府打倒を要求した。失望した暴徒たちが分散すると、ケレンスキーの臨時政府はボリシェヴィキに反撃を加えた。政府支持者の部隊は、プラウダを急襲してボリシェヴィキの本拠を包囲した。スターリンは、レーニンの捕獲と虐殺を避けるため、包囲されたボリシェヴィキに降伏するよう命じた[21]。レーニンが捕らえられれば殺されることを確信していたスターリンは、彼をフィンランドへ密航させた。レーニンが不在のあいだ、スターリンはボリシェヴィキの指導者となった。ペトログラードで密かに開催されたボリシェヴィキ党第6回大会で、スターリンは党内の圧力で編集長および憲法制定議会議員に選ばれ、中央委員に再選された[21]。
1917年9月、ケレンスキーは、自分が新たに最高司令官に任命した将軍のラーヴル・コルニーロフがクーデターを起こす計画を練っていると疑い、彼を免職した。ケレンスキーがボリシェヴィキの言いなりになっていると信じたコルニーロフは、ペトログラードで自分の軍を行進させることを決めた。自暴自棄となったケレンスキーは、首都を守るためにともに立ち上げたボリシェヴィキを解放するために、ペトログラードソビエトを利用した。しかしながら、解放されたボリシェヴィキが、スターリンの断固たる規制のもとで再武装と新兵を増大しているあいだに、首都のケレンスキーに忠実な部隊はわずかであった。レーニンはクーデターの時が来たと確信した。カーメネフとジノヴィエフはメンシェヴィキとの連立を提案したが、スターリンとトロツキーはレーニンの願いを支持した。10月、レーニンはペトログラードへ戻った。10月29日、中央委員会は反乱への賛成を10対2で可決した。反対票を投じたのは、カーメネフとジノヴィエフの2人であった[21]。11月6日の朝、ケレンスキーはプラウダ本部を急襲し、印刷機を破壊した。スターリンが印刷機を修理しているあいだに、クーデターについての任務が発表された中央委員会の会合に出席し損ねた。代わりに、午後はボリシェヴィキの代理人への一時的な状況説明や、隠れていたレーニンとのやり取りに費やした[21]。翌日早く、スターリンはen:Smolny Instituteへ向かった。ケレンスキーはドイツの帝国部隊の再招集により、首都を離れた。11月8日、冬宮は襲撃され、ケレンスキーの閣僚は逮捕された。
ロシア内戦中の役割(1917年 – 1919年)
ペトログラードを占拠したボリシェヴィキは、人民委員会議を組織した。スターリンは民族問題担当の人民委員に任命された。彼の仕事は、旧ロシア帝国における非ロシア人の市民たちを味方に引き入れるための機関を設立することであった。スターリンは、彼の新しい任務に専念できるようにと、プラウダの編集者の地位を解任された[33]。1918年3月、メンシェヴィキの指導者ユーリー・マルトフは、ボリシェヴィキが革命前に犯罪を犯したということを暴露した記事を発表した。それには、スターリンが銀行強盗を組織し、そのために党から追いやられたということ(後半は虚偽)が記載されていた。スターリンはマルトフを名誉毀損で告訴し、勝訴した。
ペトログラードを占拠後のロシア内戦でロシア国内が崩壊すると、反ボリシェヴィキ軍による密接でない同盟部隊の白軍と、レーニンの赤軍との戦いが始まった。レーニンは、スターリンやトロツキーら党員を含むソ連共産党政治局を組織した。このあいだに、スターリンとトロツキーの2人は、約束なしでレーニンに会うことが許された。1918年5月、レーニンはスターリンをツァーリツィンへ派遣した。ヴォルガ川は、北カフカースの石油と穀物の主要な供給ルートであった。ロシアは重大な食物不足であったため、スターリンは、見つけたものは何でも調達するよう命ぜられた。
都市は白軍による陥落の危機に晒されていた。スターリンはここで、クリメント・ヴォロシーロフとセミョーン・ブジョーンヌイの友人となった。2人ともスターリンの軍内での支持者となる。新しい同盟軍を通じて、スターリンは軍に影響を与えた。7月、レーニンは地方での軍事行動の公式統御を承諾した[33]。スターリンはロシア内戦およびポーランド・ソビエト戦争中は赤軍の政治委員であった。
スターリンの最初の政府役職は、民族問題人民委員であり、続いてソ連共産党政治局員となる。現時点で共和国軍事革命会議長であり、それゆえに軍事的優位に立っていたトロツキーの決定の多くに、スターリンは疑問を呈した。スターリンは赤軍内のかつての帝政支持者の殺害を命じた。中央委員会と意見が一致したトロツキーは、彼らの専門的知識を採用したが、スターリンは彼らを信用しなかった。これはスターリンとトロツキーとのあいだで大きな不和を引き起こした。スターリンはレーニンに対し、トロツキーの解任を求める手紙を書いている[33]。スターリンは、あらゆる反革命分子の処刑を命じた[42]。田園地方では、農民を脅かすために彼らに服従を強いて、食糧輸送への盗賊の急襲を阻止するために村を燃やした[33]。
1919年の初期にモスクワへ戻ったスターリンは、長年の伴侶となるナジェージダ・アリルーエワと3月24日に結婚する。3月の第8回党大会で、レーニンは過度の犠牲者を出すに至った戦術を用いたとして、スターリンを批判した[33]。1919年5月、スターリンはペトログラード近くの西部戦線に派遣された。赤軍兵士の大規模な逃走と離反を止めるため、スターリンは脱走兵と反逆者を集めると、彼らを公然と「裏切り者」として処刑したのである[33]。
ポーランド・ソビエト戦争での役割(1919年 – 1920年)
1919年後半のロシア内戦でボリシェヴィキが勝利すると、レーニンとその他多くの者たちは、革命をヨーロッパ西側へ拡大させたがっており、ウクライナとポーランドとで赤軍の戦いが始まった。ウクライナにいたスターリンは、これらの野心は非現実的だ、迷うと主張した。スターリンは1920年2月にカフカースへ短期間異動したが、軍の共同指揮を受け入れたところで5月にウクライナへ異動となった[33]。1920年7月前半、南西正面軍の政治委員となったスターリンは、ワルシャワにて軍事力の推進から引き離したスターリンの部隊を引き込んだレーニンとトロツキーによって規定された一般戦略と衝突した。8月中旬、最高司令官のセルゲイ・カーメネフは、ワルシャワでの攻撃の強化のため、スターリンの軍隊の転移を命じた。スターリンはこの命令の承認を拒否した[33]。結果的に、リヴィウとワルシャワでの両方の戦いでのスターリンの行動は、赤軍の敗北の一因となった。ただし、これに関しては補給を無視したミハイル・トゥハチェフスキーにも問題があり、一概にスターリンにのみ責任があるとは言えないという論調も存在する。ポーランド・ソビエト戦争#ヴィスワ川の奇跡 も参照
1920年8月、スターリンはモスクワへ戻った。選挙作戦を非難したソ連共産党政治局を前に、スターリンは自分自身を弁護した。戦術は成功したにもかかわらず、軍法委員会を辞任した[33]。9月22日の第9回党大会にて、トロツキーはスターリンの戦歴を率直に批判した。スターリンは、不服従、個人的野心、そして軍事的無能を非難された。これらの非難に疑問を抱く者は誰1人としておらず、スターリンは戦争そのものが間違いであった(誰もがこの点に同意した)という、自身の見解を一時的に再確認するだけであった[33]。
権力の掌握
共産党書記長
1920年後半、トロツキーは産業部門における一党独裁を正式に行使することを主張した。これで労働組合を必要以上に動揺させられると信じたレーニンは、トロツキーに対する自らの支持基盤を築くようスターリンに求めた。レーニンの党派は、1921年3月の第10回党大会にて優位な立場を得た。しかしながら、自分の方針を押し通すにあたっての難儀に直面したレーニンは、自身の同盟者により権限を与えることを決めた[33]。カーメネフの助力を受けたレーニンは、1922年4月3日にスターリンをソビエト連邦共産党書記長の地位に任命した。レーニンは党内でまだ重要な役職(en:Rabkrin、en:Orgburo)に就いており、作業負荷を自分の部下に移譲することに同意した。レーニンはこの権限で、自分の支持者を責任ある地位に就かせた[33]。
反ソビエト(en:Anti-Sovietism)の兆候(1924年のen:August Uprising)は言うまでもなく、地元の共産党内(グルジア問題)の全ての反対への厳しい抑圧を含むグルジア・ソビエト社会主義共和国へ向けて中央集権主義の政策を強硬に採用したあとの、1921年の赤軍によるグルジア侵略(en:Red Army invasion of Georgia)を巧みに処理したスターリンは決定的な役割を果たす[43]。スターリンが最初に役割を果たし始めたのは、グルジア問題であった[44]。しかしながら、全てのソビエト国家がロシアに併合されて従属国となるよりはむしろロシアと同等の地位にあるべきと信じていたスターリンのグルジアに対する政策をレーニンは嫌い[33]、国家の問題についてを、スターリンとその政策に対する強い批判とともにノートに書いている[45]。
1918年8月のレーニン暗殺未遂事件以降、レーニンは自分の首に埋まっている弾丸摘出手術の回復を待つあいだの1922年5月25日に脳梗塞で倒れた。ひどく衰弱したレーニンは半ば引退する形でモスクワ郊外のゴールキ(en:Gorki Leninskiye)に移住した。スターリンはレーニンへの面会を監督する役職につき、しばしばレーニンのもとを訪問して外部との仲介者としての役目を果たした[33]。この間に、ソビエト連邦を構成する共和国を強化するための経済政策とその方法を巡って、両者は口論になった(グルジア問題)。ある日、スターリンは、レーニンとトロツキーらによる情報交換と政治を支援するという共産党政治局による命令に違反したことについて、レーニンの妻・ナデジダ・クルプスカヤを罵った[33]。レーニンとスターリンの関係は悪化し、レーニンは自身の遺書(en:Lenin's Testament)の中で、スターリンをますます軽蔑する内容の口述をしている。レーニンはスターリンの不作法な態度、度を越した権力、野心、そして政治を批判し、スターリンを書記長の座から解任すべきであると提案した。レーニンの秘書の1人は、スターリンに精神的動揺をもたらす内容のメモを見せている[33]。
1922年12月にはレーニンの政治活動への参加を巡って、スターリンはクルプスカヤを電話で、「ウラジーミル・イリイッチ(レーニン)と仕事の話はするな、さもないと党統制委員会に引っ張り出すぞ」と激しく叱責[46]。このことはレーニンを激怒させた。レーニンは翌1923年3月5日に「私は自分へなされた仕打ちを忘れるつもりはない…発言を取り消すなり謝罪する用意があるか、それとも我々の関係を断ち切るかよく考えよ」と詰問する手紙を送った。それに対しスターリンは、クルプスカヤへの発言の真意はあくまでも医師たちの指示を守ってもらうためであって乱暴だとは思っていなかったと釈明し、「あなたが我々の『関係』を保持するために私の発言を撤回せよと言われるなら、そういたします。しかし、問題は何なのか、私の落ち度がどこにあるのか、人々が私に何を欲しているのかは推量したくありません」という『ずいぶん礼節を欠いた』[47]返事をしたためた。
スターリンの手紙が届く前に、レーニンは完全に体の自由が効かなくなった状態のまま、翌3月6日に脳卒中の発作で倒れた。スターリンは各地の党支部書記の任免権を利用し、その書記の推薦で立候補する中央委員を次第に自らの派閥で占めていった。レーニンが倒れて後継者問題が浮上すると、トロツキーが有力視された。レーニンが半ば引退した状態のあいだに、スターリンは政治局内でカーメネフ、ジノヴィエフと組んで反トロツキー同盟を結び、トロツキーの追い落としを画策する。1923年4月の第12回党大会では、彼らの同盟はレーニンの遺書が公開されるのを防いだ[33]。スターリンの権力と政治にはカーメネフらも当惑していたが、彼らはトロツキーへの対抗およびレーニンの有力後継のためにスターリンの力を借りる必要があった。
レーニンの死
1924年1月21日、レーニンは死去した。スターリンは、レーニンの葬儀を開く名誉を与えられた。レーニンの望みにより、葬儀は豪奢なものとなり、遺体は防腐処置を施されて展示されているかのような処理をされた。カーメネフとジノヴィエフの活動の結果、中央政治局はレーニンの遺書を公表すべきではないことを決定した。同年5月の党大会にて、レーニンの遺書は地方代表団の長にだけ読み聞かせられた。トロツキーは、スターリンの解任を要求する好機を掴むことができなかった[33]。
レーニンの死後の5月22日の第13回党大会にて、クルプスカヤの希望によりレーニンの遺書が朗読される予定であった。彼女は大会が開催される前にその遺書のコピーを共産党政治局員全員に送っていた。遺書の内容は「スターリンはあまりに粗暴過ぎる。この欠点は、われわれ共産主義者の仲間うちやその交際の中では我慢できるが、書記長の職務に会っては我慢ならないものとなる」「背信的なスターリンを指導者にしてはならない」というものであった。レーニンはスターリンを書記長の地位から外し、「より忍耐強く、より丁重で、より思いやりがあり、あまり気まぐれではない人物」を、そのポストに任命するよう提案していた[48]。レーニンはスターリンの性格を見抜いており、スターリン個人への権力集中にレーニンは警鐘を発し、スターリンを書記長の座から解任するよう遺書の中で要求したのである。しかし、レーニンの要求は、スターリンが自制することを条件に中央委員会のメンバーによって伏せられてしまった。
レーニンの死の数か月後、スターリンはカーメネフ、ジノヴィエフと議論した。スターリンは第13回党大会で共産党政治局に昇進したニコライ・ブハーリンと同盟を結んだ。1925年12月の14回党大会にて、スターリンはトロツキーの援助を要求することを公開したカーメネフとジノヴィエフを公然と非難した。スターリンは、革命を広げることよりもボリシェヴィキがすでに支配した国での共産主義の構築に集中すべきだと主張し始めた。これは党内の多くの同志たちや、スターリンのイデオロギーに反対していたトロツキー、カーメネフ、そして反スターリン同盟を結んでいたジノヴィエフをも引き込んだ。
スターリンは自身の政敵の評判を徐々に下げていった。トロツキーは革命前からボリシェヴィキにはいなかったことや、カーメネフとジノヴィエフが革命に反対票を投じていたことを指摘した。トロツキー、カーメネフ、そしてジノヴィエフは党内でますます孤立を深め、1927年11月には共産党中央委員会から追放された。11月14日、トロツキーとジノヴィエフは党からも追放され、続いて12月にはカーメネフも追放されるに至った[33]。カーメネフとジノヴィエフは謝罪の公開書簡を書き、約6か月後に復党となったが、トロツキーはソ連からも追放された。
スターリンは、より迅速な工業化と、レーニンによる新経済政策(ネップ)を嫌った多くの党員に共感を呼んだ経済の集中管理の促進を始めた。1927年末の穀物供給の危機的な不足は、スターリンに農業集団化の推進を促進させた。1928年1月、スターリンは、富農の農民が秘蔵していた穀物の没収を監督したシベリアへ、個人的に旅に出掛けた。党員の多くは没収を支持したが、ブハーリンと首相のアレクセイ・ルイコフは憤慨した[42][33]。ブハーリンは、富農の財産の融資による迅速な工業化というスターリンの計画を批判し、ネップへの復帰を提唱した。スターリンはブハーリンを派閥主義的で資本主義的傾向であるとして非難し、その他の中央政治局の委員たちはスターリンに味方した。1929年11月、ブハーリンは政治局から追放された。
スターリンは、「貧民階級の味方」という聴衆への訴えによって人気を得た。スターリンは従来のボリシェヴィキの理論である「世界革命」路線を放棄して、一国で共産主義を構築する「一国社会主義」政策を提唱した。ロシア人は世界大戦と内戦で疲れており、「一国社会主義構築への専念」は、戦争に対する楽観的な解毒役となった。自身の反対勢力ができあがるため、スターリンは党内の一派が党の指導者の方針に公然と反対することができない派閥主義の禁止を大きく利用した。1928年(五カ年計画の最初の年)まで、スターリンの指導者の地位は最上位にあった。この翌年、世界革命・永続革命を提唱していたトロツキーはスターリンに反対していたために追放された。ブハーリンによる党内右派のような反対勢力の裏をかき、コルホーズと工業化を主張・推進したスターリンは、党と国の両方を統制した。しかしながら、セルゲイ・キーロフのようなほかの指導者の人気が示したように、彼は1936年から1938年のあいだに行った「大粛清」まで、絶対的な権力を掌握することはできなかった。
ソビエト国内の諜報部隊の補強
スターリンは、秘密警察と情報機関の適用範囲と権力を大きく増大させた。彼の指導のもと、ソ連の諜報部隊は、ドイツ(赤いオーケストラ)、グレートブリテン、フランス、日本、そしてアメリカを含む世界の主要な国の大部分に諜報の網を構築し始めた。スターリンは、偵察、共産主義の政治的プロパガンダ、そして国が許可した暴力との違いが分からなかった。スターリンはこれらをNKVDによる仕事として統合し始めた。海外の共産党のソ連支持、スターリン支持の状態にするために諜報員を潜入させるコミンテルンの活用は大きな成果を上げた。秘密警察と海外での諜報活動を統合させたスターリンの手腕の最たる例の1つは、メキシコに亡命したトロツキーの暗殺の許可を秘密警察に与えたことである[49]。
左から、スターリン、レーニン、カリーニン(1919年)なお、実際にこの3人は並んで撮影しておらず、合成写真と言われている(後述)。
- Joseph Stalin and Georgi Dimitrov, 1936.jpg
スターリンとゲオルギ・ディミトロフ(右)(1936年)
大粛清
セルゲイ・キーロフ暗殺
セルゲイ・キーロフは政治局員であり、党エリートであり、その弁舌と貧困層への真摯な態度で大きな人気があった。彼はスターリンの忠実な部下であったが、いくつかの意見の相違もあり、多くの歴史家がスターリンは彼を潜在的な脅威として考えていたとする[50]。実際、一部の党員は、スターリンの後継者としてキーロフに対し秘密裏にアプローチを行っていた。1930年代のスターリンは、高まりつつあったキーロフの人気についてますます心配していた。1934年に開催された新しく中央委員会を決める投票で、スターリンは1108の反対票を受けた一方、キーロフはどの候補よりも少ない3の反対票を受けたのみであった[51]。
1934年12月1日、キーロフはレオニード・ニコラエフ(en:Leonid Nikolaev)という青年によって暗殺された。ニコラエフは、スターリンの命令によって暗殺を実行した刺客と考えられている[52]。スターリンとキーロフは非常に親しく、その死はボリシェヴィキをぞっとさせた。キーロフ暗殺に対するスターリンの公式の対応は、嫌疑のかかっているスパイと反革命分子を探しだすことで安全対策を強化するというものであった。しかし実質的には、スターリンは自身の指導体制を脅かすことになる可能性のある者たちを排除していったのである。この過程は、それから広範に亘る追放へと変移していった。キーロフの暗殺は、1936年から1938年まで続くことになる大粛清の前兆であった。
人民の敵
キーロフが暗殺されると、スターリンは、トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフを含めた自身の反対勢力者たちを、殺人に巻き込むための詳細な策謀を考案した[53]。調査と裁判は拡大していった[54]。1934年1月の第17回党議会においては過半数の代議員が彼の言いなりであった[50]。見せしめの裁判あるいはトロツキーやレニングラードの政治局員セルゲイ・キーロフの暗殺のあとに法律を改定する[50]。この党大会で選出された党中央委員会の委員および中央委員候補139人のうち、98人が逮捕・銃殺された。党大会の党員1956人のうちの1108人が、「人民の敵」(en:Enemy of the people)という烙印を貼られ、秘密裁判で死刑判決を受けると直ちに処刑された。スターリンは、裁判所に対して「人民の敵」と判断した者には死刑判決を下すこと、そして直ちに死刑を執行するよう命令していた。取調べの際には「肉体的圧迫」、すなわち拷問を用いることを認め、罪を認めない者には拷問によって力ずくで「罪」を認めさせた。
スターリンは、起訴や弁護人による訴えなしによるわずか10日間の調査で刑を迅速に執行できるようにする『テロ組織とテロ行為』という新しい法案を可決した[55]。その後、モスクワ裁判として知られる複数の裁判が開かれたが、その手続きはソ連全土に亘って模倣された。反革命活動の禁止を記載した法律の第58条は、幅広くあらゆる態度・物腰に適用された[56]。根拠薄弱な口実として火事が起きただけで「破壊活動」と見なされ逮捕されるケースが存在した。もっとも、多くの場合は誰かに「人民の敵」(「人民のための党を裏切るのは、人民の敵である」)の烙印を押し付けるだけで十分であった。そして国民の迫害・虐待が始まり、死とまではいかなくとも、しばしば尋問、拷問、そして国外追放にまで及んだ。ロシア語のトロイカには、NKVDのもとに置かれる3つの委員会によって裁判はすぐに単純化され、刑は24時間以内に執行される、という新たな意味が加わった[57]。
共産党中央政治局の最高責任者の座に君臨していたスターリンは権力をほぼ絶対的なものまでに強化し、政治的反対者、自身のイデオロギーに反対する者、ボリシェヴィキ中央委員会の古参党員たちを策略によって逮捕・追放した。スターリンは大粛清を、日和見主義者と反革命分子を追放する試みとして正当化した[58][59]。党による粛清の標的とされた者たちはen:NKVD torikaによる公開裁判後に強制収容所のグラグへの収容と処刑という、より厳しい措置が取られた[58][60][61]。
軍事指導者たちの多くは反逆罪の判決を受け、赤軍の陸軍将校の大粛清につながっていく[62]。これほど多くの上位の革命家と党員の弾圧は、スターリンの政治体制をレーニンのそれから切り離した「血の川」というトロツキーの主張につながった[63]。トロツキーは「スターリンは反対者の意見にではなく、その頭蓋骨に攻撃を加える」との言葉も遺している[64]。
1937年よりメキシコで亡命生活を送っていたトロツキーは、1940年8月、同地で登山家のスペイン人であったラモン・メルカデルにより暗殺された。メルカデルはトロツキー暗殺のために派遣された刺客と考えられている。これにより、かつての党指導者間の政敵の最後の生き残りを、スターリンは抹殺する形となった[65]。古参ボリシェヴィキ(en:Old Bolshevik)は、スターリン、カリーニン、そしてモロトフの3人のみとなった。NKVDによる大規模な作戦(en:Mass operations of the NKVD)は、ポーランド人、ドイツ民族、朝鮮人といった海外の様々な民族を標的とした。計350000人(その内の144000人がポーランド人)が逮捕され、247157人が処刑された[42]。粛清と平行して、ソビエトの教科書とほかの宣伝材料の歴史を書き直させた。NKVDによって処刑された著名人は、初めから存在しなかったかのように教科書や写真から跡形もなく取り除かれた。革命の歴史は、徐々にレーニンとスターリンという主要の2人についての話のみに変わっていった。
Before |
After |
ヴォルガ川沿岸を歩く(左から)ヴォロシーロフ、モロトフ、スターリン、エジョフ。 この写真は1930年代に撮られたものだが、1940年2月4日にエジョフが銃殺されると、ソビエトの検閲官によって編集された[66]。 このような写真修正は、スターリン治下のソ連においては一般的な出来事であった。 |
ソビエトの公文書によって明らかになったことを踏まえて、公式のデータによれば1937年には353074人、1938年には328612人(歴史家はほぼ700000人と見積もっている)[67]もの「普通の」ソビエト国民…労働者、農民、教師、司祭、音楽家、軍人、年金受給者、バレリーナ、乞食が処刑された[68][69]。一部の専門家は、公開されたソビエトの公文書は、数字が控えめか、不完全か、頼りにならないと考えている[70][71][72][73]。例えば、ロバート・コンクエストは大粛清で処刑された人数は681692人ではなく、その約2.5倍であったと示している。彼は、名誉回復された犠牲者の死因と死んだ日付をKGBが偽造し、証拠隠滅したと考えている[74]。伝えられるところによれば、当時、銃殺された人々のリストを見直していたスターリンは、とくに誰かに呟くこともしなかったという[75]。
スターリンは、NKVDの諜報部隊をモンゴル人民共和国に派遣してNKVD troikaのモンゴル人を設立し、数万人が「日本のスパイ」として処刑されたスターリン主義者によるモンゴルの弾圧(en:Stalinist repressions in Mongolia)を誘発させた。モンゴルの統治者ホルローギーン・チョイバルサンは、スターリンの指導に密接に従った[76]。
この時期にモスクワを訪問していた中国共産党のメンバーの一人に康生がいた。彼は中国共産党中央コミンテルン駐在代表団団長となった王明に従って4年ほど滞在したが、彼はこの間にNKVDによる容疑者への逮捕・拷問・処刑などを身近に体験したと言われる。また、自身も王明などの指示の下、中国共産党ソ連留学生をトロツキストとして攻撃し、彼等の迫害に関与した。1937年11月に帰国した後に延安に移り、翌1938年には共産党中央社会部長、情報部長となり、以後党内の「スパイ」摘発工作で辣腕を振るう。1942年から1943年頃には毛沢東と劉少奇のもとで「整風運動」と称された粛清の実行にあたった。緊急措置をとり、拷問による自白を証拠として、多くの党員をスパイ、裏切り者、内通者として赤色テロを行った。これら一連の行為により、康生は「中国のジェルジンスキー、(あるいは)ベリヤ」と呼ばれるようになる。
ただし、37年と翌38年に集中的に発生した大粛清(銃殺刑はロシア連邦国立公文書館(GARF)による資料によれば37年と翌年の合計が約78万人、対して前年の36年は1118人)の原因、政治的な計画性、ならびにその過程におけるスターリンの関与の程度に関しては上述の説明とは異なる異論もある。ソ連崩壊後に公開された公的資料にもとづく研究によれば、ノーメンクラトゥーラならびにモスクワが当時強引に進めていた農業集団化などの国家統制政策とそのもたらした混乱が一方にあり、他方でボリシェヴィキの伝統的な主意主義(「鉄の規律を誇る党」)的体質という「二つのモデルの混在」とそれに起因する矛盾が、社会全体を巻き込んだ政治的なヒステリー現象たる大粛清の社会構造的な原因であるとされている[77]。
主な犠牲者としては、かつてスターリンとともにトロイカ体制を築いたジノヴィエフ、カーメネフの両名に始まり、グリゴリー・ソコリニコフ、チュバール、ゲオルギー・ピャタコフ、ニコライ・ブハーリン、ボロージン、アレクセイ・ルイコフ、カール・ラデック、ミハイル・トゥハチェフスキー、スタニスラフ・コシオール、レフ・カラハン、イオナ・ヤキール、などである。アドリフ・ヨッフェ、ミハイル・トムスキーは自殺した。第17回大会の中央委員140人のうち、無傷で残ったのはわずか15人であった。トゥハチェフスキーを始めとする赤軍の高級将校の大部分が含まれており、将官と佐官の8割が反逆罪の名の下に銃殺されたとされる。
俳優で演出家のフセヴォロド・メイエルホリド、作家のマクシム・ゴーリキー、生物学者のニコライ・ヴァヴィロフのような、文化人や学者も犠牲となった。外国からコミンテルンに来ていた、ドイツ共産党員のヘルツ、ノイマン、ハンガリー共産党のクン・ベーラ、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員も処刑か強制収容所送りとなった。日本人では、日本共産党員の山本懸蔵、演出家の杉本良吉、留学中の医師・国崎定洞が行方不明となった(いずれも逮捕・処刑されたことがのちに判明する)。
また、後述のようにこの記事に掲載されているスターリン、レーニン、カリーニンの3人が写っている写真は集合写真からの切り抜きであるが、実際の写真は1919年に行われた党中央委員選出の際に撮られたものであり、素性が分からない人物1人(後列に立っているため顔が見えない)を含めて21人が写っている写真であった。この中で氏名が判明している20名(スターリンら3人を数えなければ17名)の内11名がスターリンに粛清され、他にも3名(上記のヨッフェとトムスキーの他にミハイル・ラシェヴィチ)がスターリンに抗議して自殺している[78]。
粛清の実行者である秘密警察職員ですら例外ではなく、ゲンリフ・ヤゴーダからニコライ・エジョフ、ラヴレンチー・ベリヤへと長官が変わるなかでNKVD職員たちも何万人と粛清された。例えばエジョフの場合、NKVDを掌握した時点で前任者であるヤゴーダやメンジンスキーの息がかかった職員を大勢粛清して組織内での自分の立場を強化している。ほどなくヤゴーダ自身も粛清されることとなるが、エジョフも最終的にはヤゴーダと同じようにベリヤに取って代わられ、粛清されている[79]。ベリヤも権力を握った時点でエジョフと同じようにNKVD内のエジョフ派幹部らを粛清しているが、ベリヤ自身もスターリン死後の権力闘争で敗れて粛清されている。当然のように、この時もNKVD内の親ベリヤ派と目されていた側近達が新体制によってベリヤとともに粛清されている。
粛清される側になったNKVDの元トップらは、当然自分たちが今まで粛清してきた人々と同じ運命を辿ることになった。後述のように、今まで描かれていた絵画や写っていた写真から削除されたのである。ヤゴーダの場合、自分が建設した運河をスターリン、キーロフ、それにヴォローシロフらと船に乗って歓談している絵があったが、粛清後は削除され、代わりにヤゴーダのいた場所には手すりに掛けられたコートが追加された[80]。ベリヤの場合、粛清後はそれまでソビエト大百科事典に載っていたベリヤの項目が完全に削除され、すでに第2版を購入していた人々のもとには「ベーリング海の新たな情報」なる4ページの記事が送付された。
「大粛清」の犠牲者数については諸説あるが、1930年代の弾圧による死亡者は200万人前後とされる(同書624頁)。この数字は、フルシチョフが1962年から63年におこなった秘密調査における数字、ならびにゴルバチョフが1988年に行った再調査における数字とほぼ一致する(同書626頁)。
1997年の文書の公開により、少なくとも約1260万人が殺されたことを現ロシア政府が公式に認めた、とされるが根拠は不明要出典。
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大粛清最盛期に君臨したNKVD長官ニコライ・エジョフ
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大粛清末期のNKVD長官ラヴレンチー・ベリヤ
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大粛清の犠牲者を弔う墓碑
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大粛清で処刑された赤軍のミハイル・トゥハチェフスキー
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大粛清で処刑されたニコライ・ブハーリン
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大粛清で処刑されたクン・ベーラ
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大粛清で投獄・獄死したニコライ・ヴァヴィロフ
スターリン憲法
1936年、スターリンは「ソビエト社会主義共和国連邦憲法」いわゆる「スターリン憲法」を制定した。これは、プロレタリアート独裁に基づき、「労働者の代表であるソビエトに全ての権力を帰属させ、生産手段の私有を撤廃し、各人からはその能力に応じて、各人にはその労働に応じて」という社会主義の原則に立つもので、「ソ連邦における労働」とは、すなわち「“働かざる者、食うべからず”」の原則のもと、働きうるすべてのソヴィエト市民の誇りある義務であり、また努めである」とさせた。そして、「労働者の利益に従って」という条件のもと、満18歳以上の国民すべてに選挙権が与えられ、普通・平等・直接・秘密選挙制を採用し、民族の平等権など、人民民主主義の理念が提唱されたもので、社会主義国家としては世界初だった。
だが、この憲法は国内よりも対外的な宣伝を意図して作られたものであり、候補者推薦制とソ連共産党による一党独裁制は変わらず、民族の平等や宗教の自由などは、実際にはまるで守られることはなかった。スターリンの死後に一部が改正され、1977年にレオニード・ブレジネフによって新しい憲法が採択されたが、内容はこのスターリン憲法が基礎となっている。のちにミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカによって、1988年12月および1990年3月に改正された。後者の改正は、大統領制・複数政党制が導入されている。最終的に、1991年のソ連崩壊により、憲法は失効するに至った。
強制移住
独ソ戦の開戦後まもなく、スターリンはソビエトの地図に大きな影響を与えることになる膨大な規模に亘る民族の強制移動(en:Forced settlements in the Soviet Union)をNKVD長官のラヴレンチー・ベリヤに命じ、実行している。1941年から1949年までのあいだにほぼ330万人がシベリアと中央アジアの共和国へ強制移送されたと推定されている[81]。とくに標的とされたのは、当然のことながら「敵性外国人」のドイツ系少数民族であった。分離主義、ソ連の支配に対する抵抗、侵攻してきたナチス・ドイツへの協力が、良かれ悪しかれ追放の表向きの理由として挙げられた。ドイツ人が占有する領域で過ごす人々の個々の事情は調べられることはなかった[82]。ナチスによる短期間のカフカース占領後、山岳民族とクリミア・タタール人の全住民 – 計100万人以上もの人々 – が、自分たちの財産没収の通知も機会も得ることなく追放された[82]</blockquote>。大半の人々が赤軍により一箇所に集められて行進させられたあとに、家畜同然に輸送列車に乗せられた。ベリヤはスターリンから輸送期間を厳守するよう言われていたため、老人や障害者など足手纏いになると見なされた者は射殺されたり、崖から突き落された。チェチェン共和国のハイバフ村では、輸送の期間に間に合わせる口実でNKVDが住民700人をコルホーズの馬屋に閉じ込めて火を放って焼き殺し、さらには耐え切れずに這いだしてきた村人を射殺する事件がおきている。
ある概算によると、移住させられた人間の43パーセントが感染症と栄養失調で死んだという[83]。
スターリンによる統治のあいだ、以下の民族集団は徹底的にあるいは部分的に強制移住させられた。ウクライナ人、ソ連内の少数派のポーランド人(en:Polish minority in Soviet Union)、朝鮮人、ヴォルガ・ドイツ人、クリミア・タタール人、カルムイク人、チェチェン人、イングーシ人、en:Balkars、カラチャイ人、メスヘティア・トルコ人、フィンランド人、ブルガリア人、ギリシャ人、ラトビア人、リトアニア人、エストニア人、そしてユダヤ人である。国籍を問わず、彼らの富農の多数がシベリアや中央アジアへ住まわされた。その途中で何十万人もの被追放者たちが死んでいき[84]、生き残った人々は強制収容所内で無報酬で働かされ、追放された者たちの多くは飢餓や別の状況によって死んでいった。
1956年2月、ニキータ・フルシチョフは「国外追放はレーニン主義に違反する」と非難し、無効にしたが、タタール人、メスヘティア人、そしてヴォルガ・ドイツ人が「大挙して」祖国へ帰還するのは1991年まで許されなかった。追放は、ソ連国民に深刻な影響を及ぼした。追放の記憶は、ソ連崩壊から現在に至るバルト三国、タタールスタン共和国、チェチェン共和国の大部分で発生している分離・独立運動に深く関わっている。チェチェン人は、スターリンの死後に故郷への帰還を許されたが、ロシアへの不信感と憎悪は強まった。クリミア半島に住んでいたタタール人はウズベキスタンに移住させられ、タタール人が追われたあとにはロシア人が住み着いた。タタール人は、ソ連崩壊後もクリミア半島への帰還運動を続けている。
また、中央アジアのイスラム教の民族が団結してソ連に立ち向かうことを恐れたスターリンは、中央アジアを、カザフスタン、キルギス、ウズベキスタン、タジキスタン、トルクメニスタンと、5つの国に分断させている。
集団農場
スターリン政権は強制的に集団農場に移行した。大規模に機械された農場から農業による生産高を増やし、農民たちをより政治的支配下に置き、より効率的に徴税するためであった。集産化は、1861年の農奴制の廃止以来見られなかった、土地と農産物の制御からの疎外という急激な社会的変革を起こした。農業集団化の最初の年には、工業生産高が200%、農業生産高は50%増加するだろうと見積もられていた[85]が、達成されることはなかった。
ソ連時代のロシアは、アメリカから毎年大量の穀物を輸入していた。ロシア革命後のソ連は、「社会主義の優越性」(社会主義が以下に優れているか)を具現化させるため、工業化を重視した経済政策を推進するようになる。工業を重視したがために農作物の値段は安値に抑えられ、農民たちは農産物の出し惜しみに出た。スターリンはこれの打開のため、ここの農家がそれぞれの農業をさせるのを止めさせ、農民全員を集団農場に集めて労働させ、収穫できた農作物を国に納めさせることにした。集団農場が各地に作られ、個人で持っていた農家の土地は没収されて集団農場のものとなった。集産化は、数多くの農民たちの生活水準を急激に低下させたことで、農民たちは農産物を自分たちが生きられる最低限の生産高しか作らなくなった。個人の農家が持っていた家畜までもが取り上げられたため、それならば自分で家畜を殺してしまえ、という農家が続出、ついにはソ連全土で家畜を殺して食べる催しが行われた。さらにはコルホーズの役人が殺害されるなど、農民たちは激しく抵抗した。
スターリンは、農業集団化に反対したこの予期せぬ失敗者を「クラーク(富農)」と認定し、「農業がうまくいかないのは、農村に残った資本家である。すなわち富農が原因であり、富農を撲滅すべきである」党大会で激しく非難した(しかしながら、富農の割合は農民人口のうちのわずか4%であった)。スターリンが対象としたのは、「ネップの時代に利益を手にした農民」であり、ゲーペーウーとコムソモールによる暴力の矢面に立たされ、それらは人口の60%であった。スターリンは農民たちを無理やり分けた。「貧農」と見なされた者は集団農場の労働者にされて働かされ、「富農」「富農の助力者」、そしてのちに「元富農」と公式に定義された人々は、銃殺されるか、グラグに収容されるか、国から遠く離れた辺鄙な地域へ国外追放となった。この「富農撲滅」政策によって、富農の追放(en:Dekulakization)が起こった年である1930年のあいだに20201人の人々が処刑されたことを記録データが示している[76]。農業集団化の第2段階 - スターリンによる高名な論説「Dizzy with success」[86]、「集団農場の同志たちに答える」[87]によって1年間中断となった - は、戦術的・政治的撤退という彼の手腕の最たる例に続いて、初期の戦略の強化が施された。
「富農」に分類された農民は、農業に熱心な篤農家であった。家を挙げて農業に取り組んだために、相対的に豊かな生活を送っていたが、スターリンの農業集団化政策によって彼らが弾圧されたことで農業に熱心に取り組む人間がいなくなるという皮肉な事態となった。「貧農」と見なされた集団農場での労働者は、1日に決められた労働時間内だけ働き、時間外に働いても給料は貰えないために彼らの労働意欲は低下し、時間外労働をする人間がいなくなったためにソ連の農産物の収穫高は大きく下がり、農業が破壊されたことによってソ連は毎年食糧不足に陥った。「ロシアの穀倉地帯」と呼ばれたウクライナで飢饉が発生(後述)し、農民たちが次々と餓死していった。
飢饉
ロシアで発生した大飢饉は、ほかの地域にも影響を及ぼしている。1892年の帝政ロシア末期では、穀物の不作によって375000人から400000人が死んだ[88]
現代の多くの学者は、ソ連時代の飢饉はスターリン治下のソ連政府の方針によって引き起こされたものであることに同意している[89]歴史学者のアラン・ブロックによると、「ソビエト全体の穀物量は1931年時のそれほど悪くはない ...ウクライナ人500万人もの犠牲者を出した飢饉は、穀物の不作ではなく国家の需要過多であった」という。スターリンは飢饉を緩和することができたであろう多数の穀物の備蓄の解放を拒絶し、その一方で穀物の輸出を続けた。ウクライナの農民は穀物を隠しており、それに応じて過酷で新しい集団農場の窃盗法を厳重に施行した、とスターリンは確信した[90][91]。
その他の歴史学者は、1931年と1932年の不十分な収穫高は飢饉がもたらしたさまざまな天災によって引き起こされ、1933年の豊作によって飢饉は終結したと考えている[92]。ソビエトおよびその他の歴史学者は、迅速な農業集団化が同じくソ連の迅速な工業化を達成させ、最終的に第二次世界大戦に勝利するために必要であったと主張する。
ソ連は、1946年から1948年におけるソ連国内の大規模な飢饉(Famines in Russia and USSR)でおよそ100万〜150万人が犠牲となった経済政策と資格授与制度、ならびに繁殖力の低下による第2の人口減少を経験した[93]。
ウクライナでの飢饉
ウクライナで発生した大飢饉ホロドモールは、ときおり「ウクライナ人の大量殺人」と呼ばれる。この飢饉はソ連政府による企みであることを示唆しており、とくに政治的な要因と社会的な存在物としてウクライナ国家を破壊するためにウクライナ人が標的にされた[94]。一方で、歴史家たちは26の国々が公式に認めたこの飢饉がジェノサイド条約に該当するホロドモールへと至る政策であろうとなかろうと、異議を唱え続けている。
教授のマイケル・エルマンは、ウクライナ人は1932年から1933年における大量虐殺の犠牲者となった、と結論付けている。より緩和された定義によれば、その主張は大量虐殺研究の分野の一部の専門家から支持されている。エルマンはまた、この大量のウクライナ人の死がソビエトによる大量虐殺(例:Polish operation of the NKVD)でなければ、大量の犠牲者に関する事柄に関しては最悪であると主張している[95]。ソビエトウクライナにおける犠牲者の総数は、現在では220万人[96][97]〜1000万人に及ぶと試算されている[98][15][16]。
2006年11月28日、ウクライナの議会は「ソビエト時代の強制的な飢饉はウクライナ人に対する大量虐殺である」という議案を通しており[99]、同国の大統領ヴィクトル・ユシチェンコ(当時)はホロドモールを非難している。これに対してロシア政府は「当時のソ連指導部の主要な敵は民族ではなく、富農などの階級が相手だった」「飢餓によりロシア人にも一定の死者が出ている」とし、ウクライナによる親西欧・反ロシア的な政治キャンペーンであると反発している[100]。
レーニンの時代にも飢餓に見舞われたウクライナ人の間ではこれにより、反ソ感情が激増した。1941年のナチス・ドイツとソ連の開戦は、スターリンの恐怖政治におびえていたウクライナ人にとって、一時的に解放への期待が高まることになった(NKVDはウクライナから退却する際に再び大量殺戮を行っている)。しかし、独ソ戦ではウクライナも激戦地となり(ナチス・ドイツもまた、ウクライナ人にとっては過酷な占領者であった)500万以上の死者を出した。
工業化
ロシア内戦と戦時共産主義は、ロシア経済に壊滅的な影響を与えた。1922年の工業化による生産高は、1914年の13%であった。経済の回復は、社会主義の枠内においてある程度の市場の柔軟性を許した新経済政策「ネップ」のもとでもたらされた。スターリンの指導のもと、この政策は1920年代後半に「五カ年計画」に差し替えるよう命ぜられた。これらは国の指導による急激な工業化という非常に野心的な事業と農業集団化を要求した。貿易をほとんど行わなかった共産党員と、近代的でない経済基盤に対する国際的な反応のため、スターリンの政府は、資本を工業に、富農から財産を冷酷に搾り取ることで再投資に費やしたものを確保するため、一般のソビエト国民の消費を抑制することで両方とも工業化に出資した。
1933年の労働者の実収は、1926年のころのおよそ10分の1にまで落ち込んだ。強制収容所内の囚人と政治犯は、無報酬での労働を強制された。共産党員とコムソモールのメンバーらは、さまざまな建設事業のためにしばしば「動員」された。彼ら労働者への指導と、製造工程改善のため、ソ連は海外の専門家(イギリスのエンジニア、スティーブン・アダムズなど)を利用した。初期の破綻と失敗にもかかわらず、最初の2つの五カ年計画は、非常に低い経済基盤から迅速な工業化を成し遂げた。通常、ソ連がスターリンの指導のもとで経済成長を遂げたことに同意されるあいだに、正確な成長率については論争がある。しかしながら、これらの成長が、数百万人もの人間の死の上で成し遂げられたということについては議論の余地はない。
ソ連の公式の目算は、年間成長率を13.9%と述べていた。ロシア人と西欧人は、5.8%、さらには2.9%という低い数字を示した。実際に、ある予測では、ソ連の経済成長率はスターリンの死後に一時的に非常に高くなっていた[101]。ロバート・ルイスによれば、前もって遡ると、ソ連経済を近代化するのに五カ年計画は大幅に役立ったという。
新製品が開発され、既存の生産の規模と効率は著しく増加した。一部の革新は、土着の技術開発や、導入された海外の技術に基づくものであった[102]。
第二次世界大戦
前夜
第二次世界大戦開戦直前の1939年8月19日、スターリンは演説でナチス・ドイツとのあいだに結ばれた独ソ不可侵条約(モロトフ=リッベントロップ協定)に基づく政策転換を表明した。これ以降、ソ連はイデオロギーの相違を超えてドイツとの協力関係を結んでゆく。その手始めが同年9月17日のポーランド侵攻であった。ソ連とドイツは協定の秘密議定書に基づき、ポーランドを東西分割し、これを併合したのである。ナチス・ドイツの侵攻で瀬死状態にあったポーランドは、これによってとどめを刺された。ソビエトの支配するポーランド東側の領土では、ナチスが支配するポーランド西側に優るとも劣らない圧制が行われた。
ポーランド・ソビエト戦争のおりに自身の面子を潰され、雪辱の機会を狙っていたスターリンはポーランド軍捕虜2万5千人を処分するよう命令した。これがカティンの森事件である。後にドイツ軍により捕虜の遺体が発見されるもスターリンは一貫してこの事件をドイツ軍の捏造であると主張、戦後にはゲッベルスの日記などをでっち上げてこの虐殺をドイツ軍の仕業に見せかけている。 カティンの森事件 も参照 またバルト三国へのソ連軍進駐を実施し、翌1940年6月にはこれらの国々の首脳を半ば恫喝する形で調停に署名させ併合した。バルト諸国ではソ連の併合に対する反発が全土に波及した。しかし、赤軍やNKVDは進駐初日の24時間以内に反ソ的な思想を持つ住民への大規模な粛清を実施し、13万人が逮捕され貨物列車により強制収容所に輸送された。バルト諸国には代わりにロシア人が多数入植し、現在でも禍根を残すことになる「ロシア化」が始まる。 バルト諸国占領 も参照 スターリンはナチスと米英仏が戦争で疲弊した後ナチスを滅ぼせば一気にヨーロッパを共産化できるものと考え、ドイツにヴェルサイユ条約が禁止する航空機・戦車部隊の技術提携、バルト海沿岸の港の使用やイギリス空爆のためのレーダー技術の提供などをおこない、さらにソ連に亡命してきたドイツの共産主義者を強制送還までさせてヒトラーの侵攻を擁護した。
一方で、ヒトラーとの蜜月が長くは続かないとも考えており上記のバルト諸国やポーランド東部占領で領土を広め首都モスクワと距離を広げ、ドイツと接する国境付近の兵力は増強され続けた。また、防衛上の観点からフィンランドにカナリア湾の譲歩を要求したが、これにはフィンランド側が反発し冬戦争が勃発。フィンランド軍の力を見誤っていたソ連軍は手痛い敗北を喫した。 冬戦争 も参照 その後、次第に独ソ間の対立が深まったことから1941年5月、スターリンは人民委員会議議長(首相)を兼任し、党と政府の統一的な指導のもと、一刻も早い防衛体制の確立をめざした。一方で時間を稼ぐため、従来通りドイツ側に軍事物資を供給し続けることでドイツの攻撃の開始を遅らせることを図った。
独ソ戦
独ソ戦 も参照 しかし1941年6月22日、アドルフ・ヒトラーは協定を破棄してソ連に侵入した(バルバロッサ作戦)。スターリンはこの情報を事前に掴んでいたが、ソ連は戦争に耐えうる状況ではなく、誤情報であると頑なに信じようとしていた。そのため、ソ連はドイツの侵入に対する準備が全くできていなかった。幾人かの歴史家によれば、スターリンは攻撃開始後も事実を認めることに気が進まないように思われ、数日間は茫然自失の状態だったという[103]。
ドイツ軍は開戦初期にソ連領内に大きく進出し、何百万ものソ連兵を殺害もしくは捕虜にした。スターリン自身が行った赤軍将校の大量粛清はソ連の防衛力を著しく衰弱させていた。その結果スターリンは彼の30年間の統治下で二度国内への演説を行った。最初は1941年7月2日、二度目は11月6日である。2度目の演説で彼は35万の兵士がドイツの攻撃によって戦死したが、ドイツ軍は450万人の兵士を失い(この数字に根拠はなく、不合理な過剰評価であった)ソ連の勝利は目前だと話した。スターリンは戦時体制であると強調し、「対独協力者」や「反体制分子」への摘発には平時よりも厳格な態度でのぞんだ。バルト諸国やウクライナ、ポーランドはドイツ軍により初期に“解放”させられたが、ドイツ軍は其処で強制収容所の跡地からおびただしい数の遺体を発見した。それは、平時に拘束・収容されていた政治犯をNKVDがドイツ軍の侵攻が迫った地域から順に、銃器等で処刑し撤退した証しだと考えられている[104]。
日本に潜伏していたリヒャルト・ゾルゲによる諜報活動、東方に配備していたシベリア軍の対独戦線への投入、ヒトラーの度重なる目標変更、米英による援助物資の到着、そして氷点下50度に達した冬将軍の到来もあってモスクワ前面でドイツ軍の侵攻を停止させ、1942年12月のスターリングラード攻防戦においてドイツ第6軍を包囲し、降伏させた。
スターリンの戦略家としての欠点が、ソ連の敗北と多くの市民の死につながったとされる。彼はヴォルガ川の東へソ連の工業生産を移動させることによって赤軍の戦争遂行能力を保持したとされる。1942年7月27日のスターリンによる有名な死守命令「ソ連国防人民委員令第227号」は、彼が軍隊の規律を保持するために発揮した無情さを例証している。同指令によると、命令なしで自らの位置を離れたものは銃撃され、敵に降伏した兵士の家族はNKVDによって逮捕され、前線では兵士を後退させないため後ろに督戦隊の機関銃が設置された[105]。スターリングラード防衛戦ではこの命令により1万4千人余りの兵士が自軍によって銃殺されたとされている。真実であるとすれば、実に一個師団分の兵士が丸々味方によって殺されたことを意味する。また、当時市内には約60万人の市民が住んでいたがスターリンは「兵士の士気を上げる」という名目で市民の疎開を禁じたため、ドイツ軍の空襲により最初の一週間だけで4万人の市民が死亡したと言われる。スターリンは戦闘終結後の1943年に廃墟と化したスターリングラードを視察するが、その中で最初に復興させたのは内務人民委員部の建物であった。
戦争初期には、退却する赤軍がドイツ軍に利用されないためにと、インフラと食糧供給施設を破壊する焦土作戦を行った。後にドイツ軍も撤退時に同様の戦術を行い、かつ赤軍の兵力増強を避けるために住民をともに撤退させた。このために荒廃した土地のみが残る結果となった。
スターリンは、ドイツ軍と直面したほかのヨーロッパの軍隊が完全に能力を失ったことに気づいていた。スターリングラードの戦い以降、ドイツ軍は守勢に立たされ東欧諸国は赤軍により解放された。1944年8月、ソ連軍の進行が近づいたポーランドのワルシャワではドイツ軍の支配に不満を持つ民衆がレジスタンスを結成していたが、赤軍は蜂起の好機と宣伝し、ワルシャワ市民に武装闘争を指令した。呼びかけに応じた市民は一斉にドイツ軍に立ち上がった。ところが直後に、赤軍はワルシャワ市の目前にして進撃を停止してしまう。公式には「補給の遅れ」が原因であるとされている。しかし、反ソ感情が根強いポーランドの共産党を潰し、親ソ的な共産党政権を樹立したいスターリンの陰謀であったという説も根強く、未だ真相は不明である。ソ連の支援を得られなかったレジスタンス側はドイツ軍の反撃により壊滅し、多数の犠牲者を出す結果となった。ソ連軍は1945年に入った1月12日、ようやく進撃を再開。1月17日、廃墟と化したワルシャワを占領した。その後、ソ連軍はレジスタンス幹部を逮捕し、自由主義政権の芽を完全に摘み取った。 ワルシャワ蜂起 も参照
大戦の末期、1945年になるとスターリンはヤルタ会談に出席、同年ポツダム会談にも出席し、アメリカ、イギリスと戦後の処理について話し合った。
対日参戦
戦前より日ソ中立条約を結んでいたが、8月、アメリカが日本に対して相次いで原爆を投下した直後に、スターリンは、ヤルタ会談での他の連合国との密約(ヤルタ協約)を元に日ソ中立条約を破棄し、対日宣戦布告をし、日本および満州国に対して参戦した(8月の嵐作戦)。その後日本政府はポツダム宣言の受諾の意思を提示し、8月15日正午の昭和天皇による玉音放送(終戦の詔勅)をもってポツダム宣言の受諾を表明し、全ての戦闘行為は停止された。しかし、日本の領土を少しでも多く略奪することを画策していたスターリンはその後も停戦を無視し、南樺太・千島・満州国への攻撃を継続させたことにより、その後の北方領土問題を引き起こす原因を作ることになった。
ソ連は、第二次世界大戦における民間および軍事的損害の矢面に立った。2100万から2800万の国民が死に、その多くは若い男性だった。そのため1921年、1922年に生まれた若い男性の生き残りは、戦争が終わった時点で5パーセント以下で、全員に勲章が与えられた。現在ロシア、ベラルーシおよび旧ソ連の国々では、5月9日は大祖国戦争の戦勝記念日として人々の間で非常に鮮明に記憶され、ロシアにおける最も大きな祝日のうちの一つである。
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独ソ不可侵条約に調印する外務大臣のヴャチェスラフ・モロトフ(後列中央はドイツの外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップとスターリン(右)
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ヤルタ会談にて、ウィンストン・チャーチル(左)、フランクリン・ルーズベルト(中央)とともに(1945年)
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ポツダムにて、クレメント・アトリー(左)、ハリー・S・トルーマン(中央)とともに(1945年7月)
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ポツダム会談にて、チャーチル(左)、トルーマン(中央)とともに(1945年)
冷戦
第二次世界大戦後、赤軍は枢軸国の領域の多くを占領した。ドイツ、オーストリア国内にはソ連の占領地帯があった。また、チェコスロバキアとポーランドは後者が形式的に連合国だったという事実にもかかわらず両国とも実質的にソ連占領下にあった。親ソ連政権がルーマニア、ブルガリア、ハンガリーにおいて樹立し、ユーゴスラビアとアルバニアでは独自の共産政権が権力を掌握した。フィンランドは独立を保持したが、ソ連に経済的に依存することとなった(フィンランド化)。ギリシャ、イタリアおよびフランスは、モスクワと緊密に連携した共産党の強い影響下にあった。スターリンは、ヨーロッパのアメリカ軍の撤退がヨーロッパ大陸におけるソ連の覇権に結びつくと考えた。しかしながらギリシャ内戦中の反共勢力へのアメリカの支援は、状況を変えた。東ドイツは1949年に独立した国家と宣言された。さらにスターリンは、中央ヨーロッパの衛星国を直接コントロールする決定を下した。全ての国々は、ソ連の形式を踏襲した各国共産党によって統治されることとなった。
これらの決定は1948年にポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニアおよびブルガリアの共産政権の路線変更に導かれた。これらはのちに「共産主義ブロック」と呼ばれた。共産主義のアルバニアは同盟国のままだった。しかし、ヨシップ・ブロズ・チトー指導下のユーゴスラビアはコミンフォルムの追放を以てソ連との国交を断絶した。
一方のアジアにおいては、第二次世界大戦の終結に伴う日本軍の撤退後に中国国内で行われていた国共内戦において、蒋介石率いる中国国民党と毛沢東率いる中国共産党を裏から操っており、初期は国民党を支援していたが形成不利と見るや支援を打ち切り、共産党への支援を強化した。1949年の中華人民共和国の成立により、中国を「共産主義ブロック」に置いて中ソ対立まで技術交流などを積極的に行った。
さらに朝鮮半島北部に朝鮮民主主義人民共和国を樹立し、指導者として自身の傀儡となる金日成を指導者に据えて、38度線を境にアメリカや大韓民国と対峙、朝鮮戦争の勃発の後押しをおこなうことで西側勢力との対立姿勢を強めていった。朝鮮戦争の際にスターリンは金日成に韓国侵攻への許可を与えたが、米軍に追い詰められる北朝鮮はスターリンにソ連軍の参戦を要請したが、アメリカとの正面衝突を避けるために承諾せず、毛沢東と極一部の幹部の賛成を得て中国軍を北朝鮮軍の後押しをさせた。しかし中国もアメリカには勝ち目が無いと感じソ連の参戦を求めたが、スターリンはこれも拒否する要出典。スターリンは衛星国の中国・北朝鮮をアメリカ主導の国連軍と戦わせる代理戦争になればどんな結果になるのかを考えていたのである要出典。
「共産主義ブロック」の動きは、東欧諸国が西側に友好的であり共産勢力に対する緩衝地域を形成するだろうという西側諸国の希望と正反対となり、ソ連の共産勢力拡大に対する恐れで西側の結束を強固にした。ソ連と第二次大戦における同盟国だった西側との関係は急速に悪化し、冷戦による東西対立が引き起こされた。
プロパガンダ
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スターリンを描いたプロパガンダポスター
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1947年に開かれたロシア革命30周年を祝う行事
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スターリンの肖像を飾った建物
国内では、スターリンは自らをソ連をナチス・ドイツに対する勝利ヘ導いた偉大な戦時指導者として宣伝し、その結果、1940年代の終了までに、強力なプロパガンダ活動によってソ連のナショナリズムは増加した。多くの科学的な発見は、ソ連の研究者によって「取り戻された」。例として、
- ジェームズ・ワットの蒸気機関はチェレパノフ親子による発明
- トーマス・エジソンの白熱電球はヤブロクコフとロディジンによる発明
- グリエルモ・マルコーニの無線通信はポポフによるもの
- ライト兄弟の飛行機はモジャイスキーによる発明
とされた。また、第二次世界大戦前から戦後にかけて、スターリンを偉大な戦時指導者として、また、多民族国家であるソ連の指導者として賞賛する多数の映画とポスターが製作された。実際スターリンとレーニンはそう親密ではなかったのだが、親密であったように見せかけるために多くの写真が改竄され(例として、上記のスターリン、レーニン、カリーニンの3人が映っている写真は、集合写真から切り出されたものである)、多くの絵画や彫刻が作成された。それらはどれも、「偉大なる同志レーニンを補佐する偉大なる指導者スターリン」といった調子のものであり、「レーニンと親しげに談笑するスターリン」や「同志レーニンに内戦の状況を報告するスターリン」など、実際にはありえない題材ばかりであった。前述のように、革命直後の彼はグルジアなどに派遣されており、レーニンに「状況報告」できるような立場にはいなかった。それどころか、スターリンはポーランド・ソビエト戦争のとき自分の戦功を優先してトゥハチェフスキーを適切に支援しなかったとレーニンに糾弾され、革命軍事会議議員から罷免されてすらいる。当然、これらの事柄は完全に無視され、隠蔽された。
また、大粛清などで粛清された人物が載っているポスターや写真も改竄された(壇上で演説するレーニンの写真においては、引き続き階段で待機していたトロツキーを削除している[106])。これらのポスターや写真を持っている個人は、粛清された人物の顔を切り抜くか、黒く塗りつぶすよう求められた[107]。塗りつぶされていない写真を持っていること自体が犯罪であるとされ、もし秘密警察に見つかればそれだけで処刑される可能性すらあった。
ほかにも、スターリンを誹謗中傷するような言動は厳禁とされ、家族や友人のあいだでの些細な冗談であっても、密告によって逮捕・粛清される危険があったため、国民は細心の注意を払わねばならなかった。
個人崇拝
スターリンは、ソ連周辺にてレーニンと自身の個人崇拝を作り上げた。レーニン廟の創設者によるエンバーミングは、レーニンの未亡人であるナデジダ・クルプスカヤの異議に基づき実行された。スターリンは大いなる敬愛と崇拝の対象となった。歴史上の多くの個人崇拝が、彼のそれとたびたび比較された。数多くの街、村、都市はソビエトの指導者の名前から取られ、多くの都市がスターリンの名前を含むように改名し(それらの都市や地名のリスト)、多くの賞がスターリンの名前を冠するようになった。例えばスターリン国家賞やノーベル平和賞のソビエト版と言われるスターリン平和賞などである。政権の推移に伴って名称がしばしば変更されており、現在はどちらも名称が異なる(平和賞に至っては、現存するかどうかすらもはっきりしていない)。
また、スターリン(もしくはスターリンとレーニン)の彫像が大量に作成され、ありとあらゆる場所に設置されたが、当然これらもスターリンを称賛するプロパガンダの一環として建設されたため、下記の容貌の部分に書かれてあるような欠点は全て「修正」されていた。また、彫像のようなものだけではなく、文学や音楽、それに詩集もスターリンを賛美するものに満ち溢れていた。それらの作品の多くでは、スターリンは神の如く崇められており、第二次世界大戦を1人で終結させたというような荒唐無稽な内容のものが多い。また、1944年発表のソビエト連邦国歌にスターリンの名前が現れるほどの凄まじい個人崇拝がまかり通っていた。1948年には『スターリン小伝』という本が出版され、「もっとも偉大な統領」といった美辞麗句が大量に散りばめられた本であるが、この中にスターリン自ら書き加えた箇所がある、とフルシチョフは暴露している。その文章は「スターリンは、党と人民の統領としての課題を立派に果たし、全ソヴィエト人民の支持を完全に獲得していたが、反面、自分の活動の中に、自慢、高慢、うぬぼれなどの影が少しでも見えるのを許さなかった」という。
しかし、これらの事物はスターリンの実像を大きく歪めた。数多くの記念碑や像によって、スターリンがかつてのロシア皇帝アレクサンドル3世とは異なり、長身で頑強な男であると仮定することは容易である。また、これらの作品を書いたり作ったりした人物全員が、例えばヴァノ・ムラデリに代表される筋金入りのスターリン崇拝者でない限りは、スターリンに心酔していたということをすぐには意味しない。そのように心酔しているふりをしなければならないという、一種の強迫観念と社会環境に囚われていた可能性は否定できない(スターリンが気に入らない者は容赦なく粛清されるため)。
死去
1953年3月1日、ラヴレンチー・ベリヤ、ゲオルギー・マレンコフ、ニコライ・ブルガーニン、ニキータ・フルシチョフとの徹夜の夕食の後、スターリンは寝室で脳卒中の発作で倒れた。暗殺を恐れていたスターリンは、同じ形の寝室を複数作り、どの部屋を使うかを就寝直前に決めていた。寝室は鋼鉄の箱のような構造になっており、扉は内側から施錠すると、外から開けるには警備責任者が持つただ1本の鍵を用いるしかなかった。翌朝、予定時間を過ぎてもスターリンの指示がないことに警備責任者は不審を覚えたが、眠りを妨げられたスターリンの怒りを買うことを恐れて、午後になるまで何もしなかった。このために発見が遅れ、容態を重篤にしたと言われている。
発作は右半身を麻痺させ、昏睡状態が続いた。一時は意識を回復するも、重い障害のために意思の疎通ができなかった。4日後の1953年3月5日、スターリンは危篤に陥り、亡くなった。その死因は脳内出血として公式発表された。遺体は1961年10月31日までレーニン廟で保存されていたが、フルシチョフによるスターリン批判の煽りを受け撤去、燃やされた後クレムリンの壁に埋葬された。
スターリンの死去はソ連をはじめとする社会主義陣営各国に大きな衝撃を与えたが、体制を異にする日本の経済にも影響を与えた。スターリンの重篤が日本で報じられた3月5日、日経平均株価は、前日比37円80銭安の344円41銭と10%もの下落を記録し、「スターリン暴落」と呼ばれた。これは、スターリンが亡くなることで朝鮮戦争の終結が早まり、当時日本経済の急速な復興を支えた朝鮮特需が終結することが懸念されたことが原因であった。
スターリンの死にあたり、築地本願寺にてスターリン国民追悼集会が行われ、本願寺側の熱心な申し出により、荘厳な法要が行われた。また、1954年にはスターリンの死去1周年を記念した詩集『スターリン讃歌』が刊行された。
暗殺説
スターリンの死に関して、彼が謀殺されたという説は根強い。1993年に公表された、元外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフの政治回顧録によると、秘密警察長官でスターリンの右腕だったベリヤが、彼を毒殺したことをモロトフに自慢したとの記述がある。
2003年、ロシアとアメリカの歴史研究家の共同グループが、スターリンはワルファリンを使用されたとの見解を発表した。スターリンの娘であるスヴェトラーナ・アリルーエワは、スターリンが脳卒中で倒れたときにフルシチョフらがいたにもかかわらず、医者を呼ばずに放置したことが死につながったと指摘している。なお、フルシチョフの回想録では、スヴェトラーナの証言とは正反対の内容の記述がなされている。
2006年には、ロシアの週刊誌にて、ロシア公文書館で暗殺説を裏付ける有力な証拠が発見されたと報じられた。その文書記録によると、内容は、倒れたスターリンに対する治療が毒物接種時に施されるもので、当初言われていた症状での治療法では絶対にあり得ない治療法を施していたことなどが記されていた。
また、スターリンがユダヤ医師団事件を利用しモロトフ、ベリヤ、マレンコフ、フルシチョフら首脳陣を粛清する計画を練っていて、それを阻止するために上記の部下たちがベリヤを使ってスターリンを殺害し、その後ベリヤは、口封じのために殺されたという説がある。 実際に粛清する計画があったかどうかはともかく、スターリンは部下を使い捨てにすることで有名だったため首脳部の面々が常に戦々恐々としていたのは確かであろう。
スターリンの謀殺説には計画的な暗殺だったとする説、脳卒中で倒れ昏睡状態の間に死を確実にするために毒を投与したとする偶発的な暗殺説、発作で倒れたのを放置し意図的に見殺しにしたなど諸説あるが、いずれにしてもほとんどの当事者が既に死亡している為、確たる真相は不明である。
復権への動き
1964年のフルシチョフ失脚後、スターリンに対する名誉回復の動きが始まった。
ソ連時代
レオニード・ブレジネフは、1969年に「スターリン生誕90周年」を記念した大規模な式典を企画した。モスクワに「スターリン博物館」を建設することが検討され、マルクス・レーニン主義研究所には記念集会を開催するよう通達があった。さらに、スターリンについての論説が『プラウダ』をはじめ諸外国の共産党機関紙に掲載されることになっていた。
これらの計画を知ったポーランドとハンガリーの共産党が激しく抗議した結果、党政治局は式典の2日前の12月19日、大部分の式典を中止することを決定した。この時、スターリンの胸像製作は中止され、印刷されていた肖像画はことごとく廃棄された。また党中央委員会は、あらゆる新聞に対してスターリンに関する一切の論説を掲載しないよう指示を出し[108]、『プラウダ』にはスターリンの過失と個人崇拝に関する小さな記事が掲載されるにとどまった[108]。
これは「生誕100周年」においても踏襲され、スターリンは「肯定面・否定面を合わせ持つ、非常に複雑で矛盾に満ちた指導者」として扱われた。モスクワにおける1979年12月21日(公式の誕生日)の行事は控えめにおこなわれ、コムソモールの代表がスターリンの墓に花輪を捧げるなどしている[108]。一方、スターリンの故郷であるグルジアのゴリ市では数千人が通りをパレードし、各所で音楽演奏がおこなわれるなど、誕生日を盛大に祝っている[108][109]。
ソ連崩壊後
ソ連崩壊後のロシアでは、スターリンの再評価が進んでいる。これはロシア連邦共産党のみならず、大統領派や民族主義派などの各派にもその傾向がみられる。デモにおいてスターリンの肖像画があることは決して珍しいものではなくなった。ソ連が崩壊したことで富を得たのはごく少数の者だけであり、多くの市民はソ連時代以下の経済水準と、ソ連時代に比べて悪化した治安事情の中で生きている。そのような現在の状況に対する絶望感が、良くも悪くも強い指導力で国を率いた「鋼鉄の人」スターリンの再評価に繋がっているという。最近行われた世論調査の1つによれば、今日スターリンが生きていたら彼に投票すると答えた人は、35%を越えたという[110]。また、クラスノヤルスクでは観光客などを誘致すると言う理由があるにせよ、一度は破壊されたスターリンの記念碑を再建することを決定した[111]。この記念碑は、フルシチョフのスターリン批判を受けて1961年に一度閉鎖されている。中央に据え付けられたスターリンの銅像も、1980年代後半にグラスノスチのためか町の近くを流れる川の中に放り込まれている。
これは地方に限ったことではなく、2005年にはモスクワでもスターリンの銅像が新たに建設されている[112]。
スターリンの故郷であるグルジアのゴリ市のスターリン博物館は今なお健在[113]である。博物館ではスターリンが死ぬまで愛用したパイプやコートなど日用品や手紙や写真を展示し、ソ連を超大国に押し上げた指導者の足跡をたどる展示品がある[114][115]。スターリンは現在でも「強い指導者」として肯定的に捉えられ、銅像や肖像画が掲げられているなど英雄視されている。市の中心街には旧ソ連邦諸国で唯一スターリン像が残存していたが、2010年6月25日未明に撤去された。取材に駆けつけたマスコミは警官に暴行されるなどして排除され、人目につかないよう隠密に行われた。2008年のグルジア紛争での犠牲者の追悼記念碑を代わりに設置するとしている[116]。2003年に発生したバラ革命ではミハイル・サアカシュヴィリがエドゥアルド・シェワルナゼ政権に対するデモ行進をこの像の前から行うなど、現在でもグルジア人の愛国心・民族主義の象徴でもあった[117][118]。
人物像
性格
スターリンは、帝政時代において少数民族であり一般のロシア人より格下と認識されていたグルジア人である。貧困層で身長が低く、加えて自身がグルジア人であるというコンプレックスは相当に強く、劣等感の強い男であった。人一倍コンプレックスを強く感じるゆえ、スターリンは異常なまでの権力欲、顕示欲の塊であり、その目的を達するためには全く手段を選ばなかった。裏切り者を絶対に許さない不寛容さと、人間を殺すことをなんとも思わない冷酷な性格の持ち主であった。別荘で寝ていた深夜に犬の遠吠えで目が覚めたスターリンは、「私を眠らせないのは誰の犬だ?」と護衛に尋ねると、近所の犬であることを聞かされ、「犬を見つけて撃ってしまえ」と命令した。翌朝目が覚めたスターリンが、犬は死んだのかどうかを聞くと、あの犬は盲導犬であり、もう撃たれて死んだ、と護衛は報告した。すると、スターリンは「ではその盲人も撃ってしまえ」と命令した。その後銃声を聞いたスターリンは満足したという。ほかには、粛清した政敵の写真を見て悦に入りながら、故郷のグルジアワインを愛飲していたという[50]。
軍隊の最高司令官となったスターリンは、さらに冷酷無比な存在として恐れられた。スターリンとの電話の際、将軍たちはたとえスターリンが目の前にいなくても誰もが直立不動、「気をつけ」の姿勢になったとされる。独ソ戦では、敵前逃亡者は銃殺または戦車で轢き殺し、さらには彼らの家族をシベリア送りにするという酷薄な命令を出している。帝政時代に兵士を自ら看護したロマノフ家皇女のオリガ、タチアナとは正反対で、自国の兵士を駒としか見ていなかった。
また、一度でも敵の捕虜になっていた兵士をスターリンは「スパイの可能性がある」として決して信用せず、帰還しても彼らは強制収容所へ送られた。晩年の猜疑心が強かった時期には、はるか以前の第一次世界大戦時に捕虜になった者を処刑するほど疑い深かった。独ソ戦中、ナチスはロシア人の捕虜に対して過酷な待遇を取ったが、スターリンは自国民の捕虜に対する赤十字の調査も拒否し続け、挙句の果てにはロシア人の捕虜が収容された収容所を爆撃させている。爆撃機からばらまかれたビラには「祖国を裏切った者たちへ」と書いてあった。
スターリンの権力は絶大であり、他人に対して残忍に振舞うことも平気であった。スターリンに対しては、誰1人として自分の意思を表明できない状態が生まれた。スターリンのもとに友人として招かれた人間がスターリンと一緒に座っていると、そのあとにどこに連れて行かれるのか、すなわち自宅に帰れるのか、投獄されるのか、見当もつかない、ということがあったという。「人民の敵」と見なされた共産党のある幹部は、自分がいかなる陰謀にも犯罪にも加担したことはないが、取調官からひたすら拷問を受け続けた。その幹部は、党の正しさを信じつつ死んでゆくつもりだ、と言い残し、2日後に銃殺された。
人間不信
スターリンはもともと人間不信だったのだが、権力を得る過程において独裁者にありがちな人間不信が追加されることにより、猜疑心が極限までに加速する。特にスターリンは第一次五カ年計画とそれに次ぐ大粛清を行ったことによる死者とそれにともなう犠牲者の恨みを忘れることができず、この結果、パラノイアに冒され、自分は常に命を狙われていると思い込むようになった。日常生活では毒殺を極度に恐れたため、彼が口にする飲食物は全てNKVDの管理下にある専用の農場や養魚場で採取され、専門家により入念に検査された。フルシチョフは、スターリンが「どこでも、誰に対しても、あらゆる事柄に関しても、敵・スパイ・裏切者の姿を見出した」と述べている。晩年にはベリヤ、フルシチョフなど有力な部下達の忠誠心を疑い、彼らの部屋を全員秘密警察に盗聴させている。
家族
スターリンは、妻子などの近親者にも心を開くことはなく、多くの近親者も不幸な最期を迎えた。1905年、スターリンは最初の妻であるエカテリーナ・スワニーゼと結婚し、長男のヤーコフをもうけるも、エカテリーナは25歳で病没した。
スターリンは息子のヤーコフに対し厳しく接したため、ヤーコフは拳銃自殺を試みたが失敗した。それを知ったスターリンは「やつは拳銃を真っ直ぐに撃つことすらできない」と言った。また、独ソ戦で長男のヤーコフがドイツ軍の捕虜になったとき、スターリングラード攻防戦での戦いで降伏したドイツの陸軍元帥フリードリヒ・パウルスと、ヤーコフの解放を条件にした交渉を提示してきたドイツに対して、スターリンは「ナチスに寝返った息子などいない」と返答して申し込みを拒絶し、「私の息子ヤーコフの命はあなたの手中にある。あなたが捕虜数百万人全員を解放するか、あるいは私の息子は彼らと運命をともにするだろう」と述べ、人質交換には一切応じなかった[119]。その後ヤーコフは、自身が収容されたザクセンハウゼン強制収容所内の電気柵に突進して自殺したと言われている[120]。
2人目の妻であるナジェージダ・アリルーエワとのあいだには、次男のワシーリー・スターリンと娘のスヴェトラーナが生まれた。ナジェージダは1932年に亡くなり、公式には「虫垂炎による病死」と発表された。彼女はスターリンとの口論の後に遺書を残して拳銃自殺を遂げた。娘のスヴェトラーナによれば、その遺書は「一部は個人的、一部は政治的」なものだったという[121]。 テレビ局のA&E Network|A&Eによると、一部のロシア人はスターリン自身が夕食の席で起こった口論の後にナジェージダを殺害したと信じている。歴史家は、最終的に彼女の死が「スターリンの現実との繋がりを断ち切った」と主張している[122]。
次男のワシーリーは、周囲が気遣って空軍中将まで昇進させたが、スターリン死後に失脚して身を持ち崩した。さらに、極度の酒好きがたたり、1962年にアルコール依存症で死んだ。娘のスヴェトラーナは可愛がられたこともあったが、彼女にしても、最初の恋人を「イギリスのスパイ」とみなされてシベリアに追放されている。のちにほかの男性とのあいだに子供をもうけた際には祝福の手紙を貰ったが、結局彼女はソ連を捨てて1967年にアメリカに亡命している。彼女は亡命先のアメリカで回顧録を出版し、その中で「父はいたるところに敵をみた。孤独感と絶望感からくる弾圧マニアだった」と述べている。
スターリンは3人目の妻としてラーザリ・カガノーヴィチの姉妹であるローザ・カガノーヴィチと結婚したと見られている[123]。シベリアに追放されていた時期にスターリンは不倫関係にあった女性との間に非嫡出子のコンスタンティン・クザコフをもうけたとされる。2001年3月、ロシアの民放テレビ局「NTV」は、ノヴォクズネツクに住む、それまで知られていなかったスターリンの孫ユーリー・ダヴィドフにインタビューを試みた。彼は、父親が自分たちの血統について話したと述べたが、スターリンへの個人崇拝に反する運動であるので黙っているとも話した。
スターリンはほかに愛人も作ったが、彼女らがスターリンの女性関係の派手さや残忍さを見かねて批判すると、彼女らはいつのまにか姿を消したり、不審な死を遂げたという。
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スターリンの最初の妻であるエカテリーナ・スワニーゼ
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スターリンの2番目の妻であるナジェージダ・アリルーエワ
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父スターリンに抱かれる娘スヴェトラーナ(1935年)
レーニンとスターリン
レーニンは自身の晩年にスターリンと激しく対立している。とくにグルジア問題をめぐってスターリンの「大ロシア主義」を批判、スターリンの書記長職からの解任を提案するに至った。しかし、スターリンの独裁政治はレーニンの独裁政治と類似点が見られるという指摘がある。例えばレーニンは反革命派を「害虫」と呼んで弾圧し、さらに農民から食料を強制徴発し飢餓による殺戮、帝政派を根絶させるためにクラークやコサックへの大量虐殺を行ったが、スターリンはこの2つの特徴を引き継いだ。スターリンは大粛清では赤軍の将校を一掃し、さらにはウクライナにおけるホロドモールによって数多くの死者を出すなど、徹底した恐怖政治を敷いた。さらに秘密警察による罪状のでっち上げや強制収容所への収容も共通している。ゴルバチョフはスターリンだけでなくその元凶のレーニンも批判した。
臆病なる独裁者
権力の絶頂期の頃のスターリンは、部下に対して常に粛清をちらつかせながら接するようになった。スターリンの質問に「No」の返事をすると粛清であり、曖昧な返事でも粛清であり、返事を即答できなければ粛清であった。
スターリンがいた神学校に、ドミトリー・ハフタシヴィリという教師がいた。生徒たちは座って、前の机の上に両手を置いたまま身動きをしてはならず、教師の目をまっすぐに見ていなければならなかった。誰かが体を動かして目をそらすと、すぐに定規で指を叩かれた。この教師は「目が動くのは、よくないことを考えている証拠だ」という言葉を繰り返した[124]。スターリンはこれを忠実に覚えており、スターリンとの会話の際、目を逸らした者は粛清の対象となった[125]。このため、共産党員や軍将校がスターリンと会話するときは必死に彼の目を見たという。しかし、逆に部下と話すときは恐怖に怯えた顔で会話をしていたという。会議中に停電が起こり、電気がつくと、スターリンの姿が見えず、探してみると机の下で小便を流しながらブルブル震えていたという臆病さを表す逸話[125]もあるなど、臆病な一面もあった。
この性向は晩年に近づくほど酷くなり、「自分の周りにいる人間は全て敵である」という妄想に悩まされていた。あまりの恐怖に人前にでることはほとんどなくなり、部屋から出ることは稀になっていった(ちなみに被害妄想の典型的な症状である)。さらに、晩年には認知症も入り、スターリンの住居には厳重な警備が敷かれるようになった(軍隊が攻めてきても、2週間持つほどの重装備であった)。スターリンの部屋は複数に分かれており、どこに泊まるのか誰にも知らされず、スターリンしか持っていない鍵を、部屋に何重にも施していた。フルシチョフの回想によると、同志との会話で、スターリンの部屋へ行くとまた鍵が増えているのだろう、と話していた。無論、勝手に入ろうものならば容赦なく粛清された。ちなみに、スターリンが部屋に入ってからまずやることは、ランプを持って部屋を隅々まで検査することであった。
イヴァン4世への傾倒
スターリンは、帝政ロシア時代最大の暴君、イヴァン雷帝を信奉していた。スターリンはイヴァン雷帝の政策を高く評価し[126]、自らの師と崇めていたが[127]、その粛清した人数はイヴァン雷帝のそれを遥かに凌駕するものだった。また、セルゲイ・エイゼンシュテインに雷帝の生涯を描かせた映画の製作を命じた。スターリンは雷帝の英雄としての側面が強調された第1部を絶賛した[128]が、第2部における雷帝やオプリーチニキの描写には強い不満をいだき、イヴァン雷帝を演じた俳優ニコライ・チェルカーソフとエイゼンシュテインをクレムリンに呼びつけ、夜を徹して議論したという。一方で、スターリンはイヴァン雷帝の粛清の詰めの甘さを批判している[129][126]。
ヒトラーへの共感
スターリンは、宿敵であるヒトラーに対して親近感を抱いていたと言われている。イギリスの外務大臣(当時)アンソニー・イーデンと会談した時、スターリンはヒトラーを賞賛するような発言をした。しかしイーデンが唖然としているのに気が付いたスターリンは慌てて、「ヒトラーは欲望の限界を知らないが、自分は満足というものを知っている」と発言し、西ヨーロッパへの野心がないことを表明したという。
なお、ヒトラーもスターリンを自分に唯一匹敵する指導者(ライバル)として評価しており[130]、ベルリン陥落寸前の1945年にも、アルベルト・シュペーアの前でスターリンを賞賛していた。ヒトラーは頑固な反共主義者として知られるが、一方でボリシェヴィキの政策に影響を受け、一党独裁制、統制経済、秘密警察、強制収容所、宣伝手法をソ連を参考に創設したと言われる。さらに、トゥハチェフスキーやエルンスト・レームのような政敵の排除のやり方を、ヒトラーとスターリンはともに参考・利用した説も存在する。
反ユダヤ感情
スターリンは、少年時代からユダヤ人に対する軽蔑・嫌悪感を抱いていたが、ヒトラーのような強迫観念とは異なり、帝政時代のロシアではごくありふれた偏見の域を出ないものであった。「額に汗して働かず、商売に執着している人々」というのが、長年スターリンが持っていたユダヤ人観であった。指導者になってからも、党・政府の役職にユダヤ人[131]を重用し、反ユダヤ主義は犯罪であるとして糾弾する[132]など、公式には自身の反ユダヤ感情に触れることを避けていた[133]が、私生活の場では、連日催されていた深夜の酒宴などにおいて、仲間たちとともにユダヤ人に対する軽蔑・嫌悪を話題にしては楽しんでいた。また、ロシアにおける反ユダヤ主義はスターリンの支配下で大幅に高まったことが指摘されている[132][134]。
第二次世界大戦中には娘スヴェトラーナの最初の恋人、アレクセイ・カプレル(Aleksei Kapler)がユダヤ人であったことから、彼を逮捕してヴォログダ収容所での重労働刑を宣告している[135]。冷戦に入る頃には、ユダヤ人に対して、ヒトラーと同質の強迫観念に取り付かれるようになり、ソビエト体制の転覆を企むシオニズムの手先・破壊分子としてソ連国内のユダヤ人を危険視するようになった[132][136]。その典型例が医師団陰謀事件である。なお、スターリンは最晩年の1953年、「ユダヤ人問題の最終的解決」と称してソ連国内のユダヤ人全員をシベリアおよびカザフスタンに強制収容する計画を実行する予定であったといわれるが、スターリンの死によってこの計画は中止となり、後継者のベリヤにより逮捕されていたユダヤ人も全員釈放されたことで実現はしなかった[132][136]。
カフカースにはもともと反ユダヤ主義はなく、昔から多くの民族が隣り合って住んでいた。グルジアに住むユダヤ人は、その多くが小商人、仕立て屋、金貸し、靴職人であり、いずれも裕福であったためか、靴つくりの技術が優れていたためか、スターリンの父親であるヴィッサリオンは彼らを憎悪し、幼い息子に対してユダヤ人に対する憎悪を教え込んだ[137]ことも、スターリンの反ユダヤ感情の一因である。
他人からの印象
残虐極まりなく、悪の帝王そのもののような印象を受けるが、外部からの訪問者と話すときは常に口元に微笑を浮かべ、謙虚であり、他人を持ち上げるなどして、好感を持たれる男であった。
レーニンの『大会への手紙』の存在を知ったとき、スターリンは書記長の辞任を表明したが、その表明は断固たるものではなかった。スターリンは、1920年代にも辞任を2度表明しており、第15回党大会のあとにはより断固たる形で辞任を表明している。トロツキーとジノヴィエフの合同反対派は敗北し、大会はこれを組織的に手続きした。この大会後の第1回中央委員会総会にて、スターリンは中央委員たちに対して「最近までこういう事情があったと思う。つまり、反対派にたいしてある程度対抗してきた多少とも峻厳な人間として、党は私を書記長のポストに置く必要があったことだ。反対派は現在、粉砕されただけでなく、党から追放された。ところが、われわれにはレーニンの指示があり、私の考えでは、これを実現しなければならないと思う。したがって私は、書記長のポストからの解任を総会に要請する。同志のみなさん、党はこれによって得するばかりで損はないと、私はみなさんに請け合う」と要請した。しかし、この頃のスターリンの権威は増大しており、党内では団結を目指して闘い、さまざまな分派たちに容赦なく反論を加える体現者となった。書記長の辞任は再び思いとどまるよう説得されたが、スターリンは慰留されることを確信していた。解任要請も、自分の立場を強化するためであった[138]。
トロツキーとの権力闘争の時、トロツキーがレーニンの遺書を公表し、遺書どおりにトロツキーらがスターリンに書記長の座を降りるよう要求した際、スターリンは一切反論せずに反省の弁を述べ、書記長の座を降りることを明言している。しかし、この時スターリンは、「私はしがない事務屋ですが、あなたたちのお力になりたいのです」などと持ち上げてカーメネフたちに接触していた。既に地盤を固めていたスターリンは、カーメネフ、ジノヴィエフらの反対によって、書記長の座に留まったのである。その後カーメネフらがトロツキーの権力を殺ごうと人民委員の座を降りるよう提案したとき、スターリンはトロツキーを擁護し、提案に反対している(のちに解任し、追放した)。これはほかの党員に自身の寛容さを見せるためであった。しかし、政敵を超える権力を持ち始める頃からスターリンはその本性を現し始め、ほかの党員が気づいたときには、もはやどうにもできないほどの絶大な権力を握っていた。スターリンは腹に一物も二物も持ち、本性を全く相手に感じさせず、仮面を被ることに長けていた。このため、スターリンが本性を現すまで、古参党員の多くは彼のことを取るに足らない小物と考えていた。
大抵は粗野で、傲慢で、虐待的であったスターリンであったが、主に政治家への訪問者に対しては魅力的で礼儀正しくありえた[139][140]。
論説・言い回し
スターリンは、誰かと一対一で話し合うのは極めてまれであった。スターリンは孤独であり、心を通じ合える相手、説得すべき相手、弁明すべき相手もいなかった。スターリンは人前で演説するのを好まなかった。演説は率直で分かりやすかったが、思考の飛躍、警句、迫力に欠けていた。グルジア訛りが強く、覚えたロシア語もぎこちなく、単調であったため、表現力に乏しかった。集会、会議、デモ行進で演説した回数が、レーニンの側近のなかで最も少なかったのがスターリンであった。スターリンは、指示や指令を出し、論文や記事を書き、いろいろな政治的出来事について新聞に評論を発表するほうを好んだ。凡庸な社会政治評論家であったスターリンの結論の出し方はいつも断定的であった。スターリンの新聞論調は黒白がはっきりしており、第3の意見は認めなかった。ラテン的な明確さが、スターリンの単純明快な魅力であった[141]。
容貌
写真や肖像画でのスターリンは、大柄で威厳のある人物として描かれている。これはプロパガンダ用の写真や絵(ロシア貴族風に描かれている)の影響であって、実際には大きく異なる。グルジア人である彼の目と眉毛は釣り上がっており、「アジア人」というあだ名をつけられていた。スターリンを「正しく」表現しなかった一部の画家による描写[139]では、スターリンの身長は5フィート4インチ(約163cm)であったという[139]。口髭を生やした彼の顔は、肥えていて、凸凹があり、黒髪はのちに灰色となって減った。少年時代に馬車に轢かれてから、彼の右手が左手よりも短くしばしば隠れるようになったあいだ、左腕は肘で短くされ、硬化された[139]。年を取るにつれて歯科衛生も悪化し、死んだときの彼自身の歯は3つしか残っていなかった[142]。スターリンが描かれた多くの絵では、左腕をわずかに曲げてパイプを持っている姿が描かれている。このパイプはスターリンの姿の一部となったが、これは自身の曲がった左腕を隠すためのものであった。1917年、妻のナジェージダに対して「子供の頃に軽馬車に轢かれ、医者にかかる金がなかったので腕が曲がったままになってしまったのだ」と説明している。挫傷が化膿して腕にひきつりができたのである[143]。
スターリンに会ったことがある国連大使が言うには、「スターリンの顔は醜い痘痕顔であり、片手(左手)に麻痺がある風采のあがらない小男」であったという。片手の麻痺は少年時代の病気(後述の天然痘とも、それとは別の病気とも言われている)によるもので、ポツダム会談などでの映像をよく見ると、左手はまるで義手を装着しているかのようにほとんど動かない。つまり、拍手をしている写真や左手を動かしている写真の人物は影武者である。左腕は右腕に比べて短く、このことで1916年に徴兵を免除されている[144]。ソ連時代、スターリンを意味する「腕の短い奴」という隠語があった。また、スターリンの片方の足は、指の一部がくっついていた[145]。
また、スターリンは自身の身長を非常に気にしていたため、シークレットブーツを履いており、写真で写るときは遠近法で大きく見せるために必ず前の椅子で座っていた。『レーニンをミイラにした男』[146]によると、スターリンの遺体防腐処理を担当したデボフという男が言うには、スターリンの顔は天然痘によってできるあばたと茶色のシミでいっぱいで、プロパガンダ用の写真や絵とは大きくかけはなれており、衝撃を受けたと述べている。憲兵の報告書では、「あばた」がスターリンのあだ名になったほどであるという[143]。
なおヤルタ会談での映像を見ると頭頂部にハゲ(てっぺんはげ)があるのが確認できる。ただし、こうした会談に出てくるのは影武者だという説もある。
スターリンが天然痘に冒されたのは少年時代のことであるが、写真では確認できないものの、白黒の動いているスターリンのビデオをよくよく見てみると、顔がすだれているのが確認できる。しかし、レーニンの隣に遺体を展示されているときは、プロパガンダのためにエンバーミングされ、がっしりした体つきであばたも無くなっていた。
映画では1930年代後半からミハイル・ゲロヴァニがスターリン役として定着していたが、顔付きはあくまでプロパガンダのスターリンの様相であった。実際のスターリンの容貌は、1970年代より配役が多かったヤコヴ・トリポーリスキィの方が近い。
名前
スターリンのファーストネームは"テンプレート:Transl(ヨシフ)と音訳され、名字はჯუღაშვილი(グルジア語)、"テンプレート:Transl" あるいは "テンプレート:Transl"(ジュガシヴィリ)と音訳される。ロシア語による音訳は"Джугашвили"、英語では"テンプレート:Transl" あるいは "テンプレート:Transl"と音訳される。-შვილი "テンプレート:Transl"はグルジア語の接頭辞で、「子供」または「息子」を意味する。
ჯუღა(テンプレート:Transl;ジュガ)のという言葉には複数の語源がある。1つには、グルジアの東Kakhetiにあるジュガアニという村に由来する[147]。反ユダヤ主義プロパガンダの一部に「ジュガシヴィリ」を「ユダヤ人の息子」の意とする情報が存在するが、グルジア語でユダヤ人は"ebraeli" (ებრაელი)であり、したがってこの情報は誤りである(Stalin before the Revolutionを参照)。
生年月日
スターリンの生年月日は、長いあいだ改竄されてきた[1]。スターリンの生年月日について発表された複数の情報源には矛盾があるが、ゴリにあるウスペンスキー教会にて、「1878年12月18日(ユリウス暦:12月6日)生まれ」という記録が発見されている。この出生日付は、学校の退学証明書、彼が23歳になる1902年4月18日からの広範な帝政支持者、ロシア秘密警察の記録、逮捕の記録、その他以前の革命活動の記録に至るまでそのままの状態で保存されている。1921年になってようやく、スターリン自身が手書きの履歴書にて「1878年12月18日」と記載している。しかしながら、1922年に権力を握ったのち、スターリンは自身の誕生日を「1879年12月21日(ユリウス暦:12月9日)」に変えた。その日は彼の誕生日としてソ連国内で祝われた[148]。
宗教的信仰と方策
スターリンは、ソビエト連邦内の宗教法人と複雑な関係にあった[149]。スターリンは、グルジアの神学校で勉強していたころに隠れた無神論者となっている[150]。スターリンが無神論者になったという話は、スターリンが数年以上は信心深く、敬虔なままであったことを含むいくつかの明白な根拠を提示するのに失敗している[151]。根拠の1つとして、スターリンによる第二次世界大戦中の教会に対する禁止令は、彼が天から受けたと信じた指令であるという[152]。
スターリンに関する誤解
「1人の死は悲劇だが、100万人の死は統計上の数字でしかない」という言い回しはスターリンによる言葉とされてきた[153]が、これはドイツの作家エーリッヒ・マリア・レマルクによるものであるという。
逸話
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日常
スターリンは昼頃に起床し、午後から仕事を始めていた。そのため仕事が終わるのは午前1〜3時の間が多く、さらに、仕事が終わってから部下を呼び出しパーティを開くということを頻繁に行っていた。側近は普通に仕事をしていたので、仕事が終わってからスターリンの呼び出しをくらい、朝まで付き合わされるということがしばしばあり、寝不足な部下が多かった。さらに、スターリンは部下が酒に酔い潰れるのを見て楽しんだため、部下は酒を浴びるほど飲むことを命ぜられた[154]。そのためスターリンの側近は全員、腎臓や肝臓を患った。
私生活でも大変な独裁者な面を見せ、国民が飢餓で人肉を食べるという状況であっても毎日たらふく食べねば気がすまなかった。料理が気に入らないという理由で皿ごと床にぶちまけたこともある。スターリンに招待された100名以上の作家たちは、超一流ホテルでチョウザメなどの高級食材、各種ハム類、ウォッカ、シャンパンをふんだんに振る舞われたあとに、優雅な運河の船旅を体験したのである。皮肉にも同時期はウクライナでは共産党による過酷な農作物の搾取により多くの農民が飢餓に苦しみ埋められた死体を掘り起こして人食いまで行われていた。また、輸出用に農作物が蓄えられた倉庫からわずかな食料を盗もうとした孤児を射殺する命令も出されていた。政権を握ってからは、故郷のグルジアから多くのワイン・ブランデー・ジャム・チーズ・ヨーグルトなどの食材を取り寄せさせて、自分の母親の手料理にできるだけ近い味を再現させるよう料理人に要求した。
権力の絶頂期、よく側近を呼んでパーティを開いていたが、食事は、最初にとるということは絶対にせず、部下に毒見をさせてから食べていた。パーティーは明け方まで続くことが多く、うとうとする出席者がいるとスターリンはトマトを投げつけたという。
車で移動するときは先頭車両を必ず取り、装甲車並みの車を自分で運転して、目的地に着くまでにランダムに迂回していた。
スターリンが赤の広場など公衆の面前に姿を現すときは、徹底的に秘密警察により観客の身体検査が行われた。さらに、観客の両側を青い帽子を被った秘密警察の隊員らが観客の様子を終始監視したという。また、式を見下ろすことができる建物の窓は全て占拠され、狙撃手が配備された。立ち入り禁止区域にうかつに入った人間は即座に射殺されたと言われる。
「スターリンノック」
共産党員以外の一般の国民たちも、スターリンによる犠牲者であった。大粛清の時代、早朝のまだ空が薄暗い時間帯に自宅のドアをノックする音が聞こえ、住人が何事かと出てみるとNKVD(内務人民委員部)の人間が立っていた。住人はその瞬間、何が起きたか知るのである。NKVDは、家の中を片っ端からひっくり返して「証拠」を探すのである。住人は「黒いカラス」とよばれる囚人護送車に乗せられ、ルビヤンカに連行させられた。そこで、NKVDの人間から詰問され、容疑者が罪を自白するとその自白を基に調書が作られるのである。容疑者が容易に自白しなければ、拷問も含めた厳しい尋問が行われた。
これがいわゆる「深夜のスターリンノック」である。スターリンの時代のソ連ではこれが日常茶飯事であり、一説に36~38年の大粛清期に100万人が銃殺され、数百万人がグラーグなどの強制収容所における過酷な労働の末、死亡したと言われる。
恩師
スターリンがいた神学校では、生徒たちは厳しく教育されたが、例外もあった。ベリャーエフという善良で柔和な視学官がいたが、生徒たちは彼のことを恐れず、それゆえに尊敬もしなかった。ある日、ベリャーエフは生徒たちを洞窟の史跡に連れて行った。途中に濁った広い川が流れており、生徒たちは飛び越えたが、ベリャーエフは肥っていたために飛び越えることができなかった。生徒の1人が川に入って教師に背中を差し出し、ベリャーエフはそれを踏み石代わりにしてようやく川を越えることができた。これを見たヨシフ少年は小声で「ロバかい、おまえは?おれなら神さまにも背中を差し出したりしねえよ」と言い、それがみんなに聞こえた。スターリンは病的なまでに自尊心が強く、さんざん卑しめられた者によくあることである、とエドワード・ラジンスキーは述べている[155]。
家族・肉親
長男のヤーコフがドイツ軍の捕虜となったときは「捕虜見殺し命令」を出したあとであった。スターリンは、息子が自分を困らせるためにわざと敵に捕まったのだと考えた。スターリンは父親としての愛情を微塵も見せず、「男なら堂々と死ねばよいのに」と怒り、捕虜交換による釈放には一切応じなかった。しかし、のちにゲオルギー・ジューコフがヤーコフの安否を聞いたとき、スターリンは「あいつは死を選ぶだろう」と沈痛な面持ちで話し、食事に手をつけなかった。
自分の肉親にも冷酷なスターリンであったが、母親のエカテリーナには頭が上がらなかった。彼女は息子の計らいでカフカースの宮殿に住んだが、小さく粗末な一室で質素な生活を続け、グルジアのジャムや果実を毎年のように息子に送り、息子と息子の妻に手紙をよく書いていた。1935年、死が近付いた母に会いにスターリンがカフカースを訪問した際、エカテリーナは「ヨシフ、お前はどんな人になったの?」と聞くと、スターリンは「お母さん、僕はツァーリみたいな仕事をしてるんだよ」と答えた。これに対してエカテリーナは、「司祭になってもらいたかったのにねえ」と嘆息した。エカテリーナのこの言葉に国中が沸いたという。さらにスターリンが「どうしてお母さんは僕をあんなにぶったの?」と聞くと、エカテリーナは「そのお陰でお前はこんなにいい人になったんだよ」と返答した[156]。
その一方で、少年時代に父親から受けた虐待を忘れることはできなかった。晩年のエカテリーナを診た医師、N・キパシーゼは、彼女から「ある時、酔った父が幼い息子のヨシフを持ち上げて、力任せに床に叩きつけた。そのために幼子は何日か血尿が止まらなかった」という話を聞いた。ヴィッサリオンが酔って暴れ始めると、エカテリーナはおびえきっている幼子を抱きかかえて近所へ逃げた。だが、苦しい労働に鍛えられたエカテリーナは力が強くなり、夫との掴み合いの喧嘩を恐れなくなった[157]。ヴィッサリオンがトビリシに去ってから、家の主人となったエカテリーナは、拳骨を息子へのしつけに向けた。言うことを聞かなければ、息子を容赦なくぶった。晩年の母を見舞ったスターリンが、「どうしてお母さんは僕をあんなにぶったのですか?」と尋ねたのはこのためである。この「ぶつ」という言葉は「育成」を意味した。グルジア系ユダヤ人のハナ・モシアシヴィリは、少年のスターリンを「おぞましい家庭生活が、彼の心を冷酷にした。彼は図々しく、乱暴で、強情な、どうにもがまんのならない子だった」と述べている[158]。
「ヨシフ・スターリン」という名の、スターリンの曾孫が生存しており、トビリシ・シンフォニー・オーケストラとともにコンサートを行った[159]。
趣味
モスクワの自宅の温室には熱帯や温帯の植物が植えられ、スターリンはその世話をするのが趣味であった。大戦後はレモンの栽培に凝りだし、来客に次々とレモンを食べさせ「私が育てたんだ。それもモスクワでだぞ!」と自慢した。
スターリンの趣味の1つとして、映画鑑賞があった。アメリカの映画をよく取り寄せさせて側近たちと観ており、側近の一人に翻訳をさせていた。しかし英語がわからぬ側近ばかりで、実際にはアドリブで適当な言葉をしゃべっていた。
政府要人・党幹部
スターリンの猜疑心は、年とともに強まった。70歳の誕生日の祝いにベリヤが立派な別荘を贈呈し、スターリンはその別荘を見にいった。しかし、美しい樹木に囲まれているのが気に入らず、「これは何かの囮かな?」と言うなりさっさと帰っていった。その後、スターリンがその別荘に行くことは二度となかった。
1945年6月24日、モスクワにて対ドイツ戦の戦勝パレードが行われた。ロシアの慣習では、勝利した司令官が騎乗することになっていて誰もがスターリンにその栄誉が与えられると思っていた。だがその1週間前、スターリンは、「私は年をとったので乗れんよ」と断り、ジューコフ元帥を指名した。翌日、ジューコフのもとにスターリンの次男ワシーリーが来て、「ここだけの話ですが、昨日父は乗馬の稽古中に落馬して肩と頭を打ってしまった。父は忌々しげにつばを吐いてジューコフにさせろと言ったのです。その馬に乗るのです」と耳打ちした。ジューコフは感謝し、スターリンを振り落とした馬で練習を行い、本番で見事に乗り回した。
1938年3月15日、スターリンの盟友ブハーリンが処刑された。ブハーリンは死の直前、スターリンに最後のメッセージを送っていた。「コーバ。なぜ私の死が必要か?」の出だしで始まるこのメッセージは、スターリンが自身の机の抽斗に入れたまま、スターリンの死後まで公開されなかった。
1936年、大粛清の真っ只中、軍司令官のイオナ・ヤキールが、処刑される直前にスターリン宛に冤罪を訴えるメッセージを送った。スターリンはそれに「悪党」、さらに「淫売」と書き込んだ。それに続けて、スターリンの部下たちも彼を罵倒する言葉を次々と書き込んだ。のちに彼が、「スターリン万歳」と叫んで銃殺されたことを聞いたスターリンは、ヤキールを「偽善者めが!」と罵った。また、彼の境遇を哀れんで処刑時に不意に涙を流したと言われる銃殺隊長も、のちに処刑された。
1939年の冬戦争でソ連軍は大した作戦も立てずに侵攻した結果、ゲリラ戦を取るフィンランド軍に敗北した。スターリンは、旧友であり元帥でもあるヴォロシーロフに全ての責任を擦り付け、口汚く罵った。しかし、それまで一度も彼に歯向かったことが無かったヴォロシーロフがこのときばかりは、「(敗戦の責任は)あなたの粛清によって、多くの優秀な軍人たちが殺されたからではないですか!」と言い返した。スターリンはすぐさまヴォロシーロフを罷免したが、さすがに反省し、追放されていた軍人たちを急遽呼び戻した。ヴォロシーロフはその後もクレムリンで生き残り、ソビエト最高会議幹部会議長になっている。
独ソ戦の最中、スターリンは将官を呼びつけて無理難題を強いた。そのときの返事次第では、スターリンの顔色が青ざめて残酷な目つきになった。とくに瞳が黄色を帯びると、相手はどう返事してよいかわからなかったという。
1944年6月、連合国はノルマンディー上陸作戦を開始した。その作戦名が「オーバーロード」と聞かされたスターリンは「それはどういう意味かね?」とモロトフに尋ねた。モロトフが「大君主あるいは支配者の意味です」と答えると、スターリンは気分を害した。「支配者は西からではなく、東からドイツを攻めるべき」とと考えていたためであった。
外国要人と
猜疑心の強いスターリンはホー・チ・ミンと初めて出会ったとき、スパイと疑っていた。ホー・チ・ミンはスターリンに会えた感激のあまり、スターリンにサインを求めた。スターリンはこれに不承不承に応じた。しかし、部下に命じてホー・チ・ミンの留守中にサインを強奪して取り戻し、ホー・チ・ミンが、サインがないことに気付いて慌てていた様子を聞いて喜んでいたという。
1941年の日ソ中立条約調印後のレセプションの場で、スターリンは外務大臣(当時)の松岡洋右に「プロフェッサー・コニシをご存知かな。是非お会いしたいのですが」と尋ねた。「コニシ」とは、京都大学の教授であった小西増太郎(1861 - 1940)のことで、留学中にモスクワの下宿で若き日のスターリンと部屋が隣であり、親交を結んでいた。1940年の暮、小西は近衛文麿の密命を帯びてスターリンと面談するためロシアに渡ることに決まっていたが、その直前に急逝していた。スターリンはそのことを知らなかったようである。なお、野球解説者の小西得郎は増太郎の子息であり、その祖先は安土桃山時代の武将、小西行長であった。
毛沢東を小物扱いしており、革命の熱気が高まればすぐ溶けるという意味合いで「マーガリン共産主義者」などと呼んでいた。1949年12月の初対面では、毛を冷遇し、政治的な意見の対立もあって両者は打ち解けなかった。翌年2月、毛は市内のメトロポールホテルにてお別れの宴会を催し、スターリンは差し入れをもって出席した。クレムリンか別荘の宴会にしか出席しないスターリンにとっては異例のことであったが、スピーチで「チトーのように勝手な真似をすると惨めなことになりますよ」と脅迫めいたことを述べて毛を牽制した。
ウィンストン・チャーチルは「ヒトラーを倒すためなら私は悪魔とでも手を組むだろう」と発言した。この「悪魔」というのはソ連=スターリンを指す。一方のスターリンは、同じ連合軍としてともにナチスと戦い抜いたチャーチルを好意的に捉えていたようである。ポツダム会談の途上でチャーチルが選挙に敗北したため、後継のクレメント・アトリーが来訪した際に「西側の民主主義とはちっぽけなものよ。偉大なチャーチルを、小物のアトリーと交代できないものか」と嘆いたとされる。
ユーゴスラビア連邦人民共和国のヨシップ・ブロズ・チトーは第二次世界大戦中にスターリンの支援を受けていたが、大戦後はソ連の支配から自立する動きを見せた。これに対し、スターリンは軍事顧問団および民間専門家の引き上げの通告で応えた。さらにスターリンは、ユーゴスラビア内の親ソ派を使って政権転覆を目論んだ。チトーも負けずに親ソ派の粛清に乗り出した。その後、コミンフォルム大会においてユーゴスラビアは「殺人者とテロリストが支配する国家」と激しく非難されコミンフォルムを除名された。スターリンはチトーを暗殺するために刺客を送り込むが、チトーは逆に自身の秘密警察に暗殺団を全員検挙させた。チトーは直後にモスクワのスターリンへ電話をかけ、「どうしても考えを改めないつもりなら一人の男をモスクワに送る。それで全て解決するだろう」と話した。スターリンはユーゴスラビアを支配下に置くことを諦めた。
朝鮮戦争の際に毛沢東は中共軍の装備は貧弱であり、数個師団では米軍に対抗できないと考え、またアメリカと中国、ソ連も巻き込んだ全面戦争に発展する事を恐れて、参戦をためらった。しかしスターリンは次のような手紙を毛沢東に送った。「私としては(アメリカとの全面対決を)恐れるべきではないと考える。我々はアメリカ、イギリスよりも強いからだ。もし戦争が不可避ならば、今戦争になった方がよいだろう。アメリカの同盟者として日本軍国主義が復活し、アメリカと日本にとって李承晩の朝鮮が大陸における彼らの前線基地となる数年後よりも、今がいいのである。」
サッダーム・フセインはスターリンに関する本を持っており、彼の独裁政治を見習ったという。また、ベラルーシの大統領アレクサンドル・ルカシェンコは、スターリンとヒトラーの両方が好きだという。
語録
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- 「愛とか友情などというものはすぐに壊れるが恐怖は長続きする」
- 「死が全てを解決する。人間が存在しなければ問題は起こらない」
- 「君たちは戦車の上に百貨店を造るつもりかね」(多砲塔戦車の設計スタッフに対する皮肉。これをきっかけにソ連では多砲塔戦車の開発が中止された)
- 「社会主義が成功すればするほど階級闘争はそれだけ激しくなる」
- 「コルホーズ反対の反乱農民は富農であり、すべての富農を撲滅せよ」
- 「赤軍には捕虜は存在しない、存在するのは『反逆者』のみである」(冬戦争後、政府当局が公式に示した敵に捕らえられたロシア人捕虜に対する態度)
- 「ろくでなしがくたばりやがった」(ベルリン陥落の際、ヒトラー自殺の報告を聞いて)
- 「あいつは銃をまっすぐに撃つこともできんのか」(長男ヤーコフがピストルによる自殺未遂で失敗した際の反応)[160]
- 「チベット攻撃?けっこうなことだ」(毛沢東からチベット侵攻の許可を求められたときの返事)
- 「人命以外何も失ってはいない」(朝鮮戦争の休戦を求める金日成の要請に対しての返答)
- 「我々は同じアジア人だ」(1941年4月13日、日ソ中立条約調印時、スターリンが日本の松岡外相に言った言葉)
- 「うちのヒムラーです」(ポツダム会談の折、米英首脳に腹心の内務人民委員部長官ベリヤを紹介したときの言葉)
- 「策略を十分に練って、敵を完膚なきまでに倒したその晩に、上質のグルジアワインを飲むときだな」(記者から、「一番幸せなときは?」と聞かれたときの言葉)
- 「バチカンは、何個師団の軍事力を有しているのか」(バチカンの国力についての発言であるが、バチカンに軍隊は存在しないので、もちろん冗談である)
- 「では、われわれが農業集団化を実行したとき、なぜ黙っていたのですか。あのときだって200万人も死んだのですよ」(1937年、粛清の行き過ぎを仲間に指摘されて)
- 「よく刑務所なんかに入っている暇があったもんだ。戦争が始まったよ」(独ソ戦開始後、粛清された仲間を釈放して呼び出したときの冗談)
- 「ゾルゲは日本で小さな工場か売春宿でも経営しているに違いない!」(リヒャルト・ゾルゲからもたらされた、ドイツ軍のソ連進攻についての情報を読んだときの反応)
- 「兵士たちに少しぐらい、自主性を発揮させてやれ!」(1945年春、赤軍がドイツ人避難民に向けて砲撃をおこなったり、占領地でドイツ人女性を強姦していることについての返答)
- 「やれやれ、ドイツ人と一緒なら、我々は無敵だったのに!」(娘スヴェトラーナの証言。冷戦が深刻化した晩年、ナチス・ドイツとの同盟を懐かしんで繰り返した言葉)
- 「私はアジア人のことはよく知っているがね、あいつらとは時と場合によってはきびしく接しないといかんね」(1939年、ドイツの外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップとの会話での発言)
- 「奴は人殺しだ。1938年に多くの無罪の人々を殺した。だから銃殺したのだ」(スターリンの指示で粛清を実施し、のちに自らも粛清されたニコライ・エジョフについての言葉)
- 「私はもうおしまいだ。だれも信用できない。自分さえも」(1951年、スターリンがフルシチョフとミコヤンにつぶやいた言葉)
- 「チャーチルという奴は、見張っておかないと君のポケットから1コペイカ失敬するような男です。そう、たった1コペイカのためにポケットに手を突っ込むんです。ローズヴェルトは違う。彼はもっと大きな銭を取ろうとしてポケットに手を突っ込む」(1944年、ユーゴスラビアのジラスに語った米英両首脳の比較)
- 「いつまでも復位させることはない。しばらく連れ戻しておいて、適当なときに背中にそっとナイフを突き立てればよいのさ」(1944年、ユーゴスラビアのチトーとの対話で、退位したユーゴスラビアのペタル王の処遇についての発言)
- 「戦争は呪いである。我々は地上の全ての民衆と、平和のうちに暮らすことを望む」(1934年に、スヴェン・ヘディンがウルムチのロシア・クラブの壁の赤い幕に、金の刺繍で縫い付けられていたのを目撃したもの)[161]
- 「私が小指をちょいと動かせば、あんな奴、吹き飛ばされて木端微塵さ」(1948年ごろにチトーを評した際の言葉)
- 「少年犯罪撲滅のためには仕方ない。教育的意味もあるんですよ。」(1935年4月、モスクワを訪問していたロマン・ロランに対し、死刑年齢の適用を12歳以上の未成年に拡大する法令が施行されたことに関して)
- 「(抵抗した農民の数は)ざっと1000万人くらいでした。抵抗する農民どもには極北の土地をくれてやりました」(第二次世界大戦中に会談したチャーチルに対して1930年代の農業集団化に対して聞かれたさい)[162]
- 「あなたがひどい目に会おうと私は指一本もあげないから、毛に助けてもらいたまえ」(1950年、金日成に韓国侵攻を認めたときの言葉)[163]
- 「日本は最後にはまた這い上がってくる」(第二次世界大戦終結直後)[164]
- 「ドイツがわがロシアに殲滅戦を望むのなら、同じことをあいつらにくれてやようじゃないか。」(1941年11月6日 包囲下のモスクワの地下鉄マヤコフスキー駅における演説の一部)アンドリュー・チコルスキ著「モスクワ攻防戦」2010年 作品社 より
著作物
- 『無政府主義か社会主義か』
- 『十月革命への道』
- 『レーニン主義の基礎』 スターリン全集刊行会翻訳 大月書店 1952年 ISBN 4272820109
- 『レーニン主義の諸問題によせて』
- 『民族問題とレーニン主義』
- 『わが党内の社会民主主義的偏向について』
- 『中国革命の見通しについて』
- 『トロツキー主義かレーニン主義か?』
- 『弁証法的唯物論と史的唯物論』
- 『マルクス主義と民族問題』
- 『ソ同盟の偉大な祖国防衛戦争』
- 『マルクス主義と言語学の諸問題』
- 『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』
なお、全集も存在する。日本では大月書店より刊行された。全集に収録されなかった著作には、大月書店『スターリン戦後著作集』に収められている文献もある。
スターリンが登場する作品
- 映画
- 10月のレーニン(1937年、ソ連)
- 大いなる黎明(1938年、ソ連)
- 1918年のレーニン(1939年、ソ連)
- ウィボルグ地区(1939年、ソ連)
- 銃を持った人(1939年、ソ連)
- 誓い(1946年、ソ連)
- 第三の打撃(1948年、ソ連)
- スターリングラード戦(1949年、ソ連)
- ベルリン陥落(1949年、ソ連)
- ヨーロッパの解放(1970年、ソ連)
- 独裁/スターリン(1992年、アメリカ、スターリン:ロバート・デュバル)
参考文献
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- 『スターリン批判 フルシチョフ秘密報告』 志水速雄訳・解説、講談社学術文庫、1977年
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- 『スターリン 青春と革命の時代』 松本幸重訳、白水社、2010年
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- アラン・ブロック著 『対比列伝 ヒトラーとスターリン(全3巻)』 鈴木主税訳、草思社 2003年
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- イリヤ・ズバルスキー/サミュエル・ハッチンソン共著 『レーニンをミイラにした男』 赤根洋子訳、文春文庫、2000年
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- 日本人研究者の著作
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- 福田ますみ著 『スターリン 家族の肖像』 文藝春秋 2002年 ISBN 416358160X
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脚注
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- ↑ これは、対独戦に対する自軍の備えが十分できておらずドイツ軍の侵攻はまだ先に延びるであろうという甘美な期待と共に、“同盟者であるヒトラーが密約を破り対ソ戦を仕掛けてくる筈がない”というスターリン自身のヒトラーへの過度な期待があったとされる
- ↑ この事例はNHKスペシャル『社会主義の20世紀』で紹介された
- ↑ しかしこの時期に赤軍はスターリングラード前面で大規模な戦術的後退を実施しており、同指令と明らかに矛盾する。主眼は大祖国戦争の意義の強調であり、独諜報機関へのかく乱工作の側面もあったものとされている。
- ↑ 外部リンクのボリシェビキを再発見するを参照、1枚目の写真では写っているトロツキーが巧妙に消されているのが分かる。トロツキー失脚後はこちらの写真しか使われなかった。
- ↑ ロシアのニュースを参照。トロツキーの顔が2枚目の写真では削り取られている。
- ↑ 108.0 108.1 108.2 108.3 『ロシア - 崩れた偶像・厳粛な夢』 下巻p.132 ロイ・メドヴェージェフによる証言。またメドヴェージェフによれば、党中央委員会当局者による連絡不備のため、モンゴルでは12月22日付の地元紙にスターリンについての論説と肖像写真が掲載されている。
- ↑ 『ロシア - 崩れた偶像・厳粛な夢』 下巻p.133
- ↑ スターリンテストに落第
- ↑ シベリア観光庁、スターリン記念碑を再建
- ↑ スターリン人気上昇中 モスクワに新たなスターリンの銅像
- ↑ 国立スターリン博物館公式サイト(グルジア語、ロシア語、英語)
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- ↑ 『赤いツァーリ スターリン、封印された生涯(下)』 p.377
- ↑ 『KGBの内幕』上巻p.38
- ↑ 『スターリン その謀略の内幕』p.99 ヒトラーは1942年に「スターリンは我々の無条件の尊敬に値する。彼は彼なりに並々ならぬ人物であり、半ば野獣、半ば巨人である」と言明した。
- ↑ ラーザリ・カガノーヴィチ、マクシム・リトヴィノフなど
- ↑ 132.0 132.1 132.2 132.3 『スターリン その謀略の内幕』p.39-40
- ↑ 大粛清では、カーメネフ、ジノヴィエフ、ラデックらがユダヤ人である点には触れられなかった。トロツキーについても、『プラウダ』などの風刺画で、額にハーケンクロイツを付けた姿など「ナチスの手先」として描かれることが多く、ユダヤ人であることには言及されなかった。
- ↑ 『赤いツァーリ スターリン、封印された生涯』下巻p.429-430 p.440
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- ↑ 『チャーチル回顧録』
- ↑ 『ザ・コールデスト・ウインター 朝鮮戦争』デビッド・ハルバースタム著 山田耕介・山田侑平訳 文藝春秋 2009 ISBN 978-4-16-371810-1
- ↑ 中国から見た日本「日本は不景気から必ず復活する」(1)
関連項目
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外部リンク
- 「大会への手紙」レーニンの事実上の「政治的遺言」というべきもの。スターリンに対する否定的な評価を含む(英語)。
- "The Commissar Vanishes"(消える人民委員):消える人民委員
- "The Commissar Vanishes"(消える人民委員):ソレンノニュース
- "The Commissar Vanishes"(消える人民委員):ボリシェビキを再発見する
- "The Commissar Vanishes"(消える人民委員):スターリンによるイメージ操作
- "The Commissar Vanishes"(消える人民委員):ソ連からのメッセージ
- Documentary 52': Staline par Staline
- [6]
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