シェイクスピア

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1623年の『ファースト・フォリオ』にも付されたシェークスピアの肖像画

シェイクスピア, ウィリアム(William Shakespeare, 1564年4月23日頃 - 1616年5月3日)は、イングランド劇作家詩人。1585年-1592年頃にロンドンで演劇俳優・劇作家としての活動を始め、1613年頃に引退するまでに、『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』『ロミオとジュリエット』『ヴェニスの商人』『夏の夜の夢』『ジュリアス・シーザー』など、多くの戯曲作品を残した。『ヴィーナスとアドーニス』などの物語詩や、『ソネット集』などの詩作もある。またその著作は、初期近代英語を知るための言語学的資料ともなっている。

経歴

生い立ち

1564年4月23日頃[1]、イングランドのストラトフォード・アポン・エイヴォン(Stratford-upon-Avon)で、父ジョン・シェイクスピアと母メアリー・アーデンの間に8人きょうだいの3番目の子として生まれる。父・ジョンはスニッターフィールド(Snitterfield)出身の皮手袋商人で、町長に選ばれたこともある市会議員、母・メアリーは、ジェントルマンの娘だった。両親ともローマ・カトリックの信者だったと推測されている。

学歴は不明で、ストラトフォードの中心にあった文法学校(後のエドワード6世校 King Edward VI School Stratford-upon-Avon)に通っていたと推定されているが、在籍を示す確証はない[2]

父・ジョンはウィリアムの生まれた頃には裕福であったが、羊毛の闇市場に関わったとして起訴され、市長職を失った。ウィリアムは家庭が没落したため学校を中退したという説もあるが、前記のとおり在籍自体確かではなく、進学してそれ以上の高等教育を受けたかどうかも不明である[3]

1582年11月29日、18歳のとき、アン・ハサウェイ(当時26歳で、妊娠3ヶ月だった)と結婚[4]。翌1583年5月頃に長女・スザンナ、1585年1-2月頃に長男ハムネットと次女ジュディスの双子をもうけている[5]

失われた年月

1585年に双子が生まれた後、1592年にロンドンの劇壇に名を現わすまでの間、どこで何をしていたのか、また何故ストラトフォードからロンドンへ移ったのかは不明で、研究者から「失われた年月」 (The Lost Years) と呼ばれている[6]

  • ホニグマン(Honigmann,1985)は、ランカシャーのホートン家の人物が記した遺言書にある「ウィリアム・シェイクシャフト (William Shakeshaft)」という人物への言及に基づき、シェイクスピアが同地で教職についていたという説を提唱している[7]
  • 他に、「鹿泥棒をして故郷を追われた」「ロンドンの劇場主の所有する馬の世話をしていた」など、いくつかの伝説が残っているが、いずれも死後に広まった噂とみられている。

ロンドンの劇壇進出

1592年頃には、劇場や劇団が次々と設立されていたロンドンで、演劇俳優として活動しながら、脚本を執筆。1590年-1592年の史劇『ヘンリー六世』三部作を皮切りに、『リチャード三世』『間違いの喜劇』『じゃじゃ馬ならし』『タイタス・アンドロニカス』など、生硬な史劇と軽快な喜劇に分類される作品を発表した(出典?)。

  • フィリップ・ヘンズロウ(Philip Henslowe)の日記には、『ヘンリー六世 第1部』と思われる戯曲が、1592年3月から翌年1月にかけて15回上演されたという記録が残っている。
  • 劇作家ロバート・グリーンの1592年の著書『三文の知恵』(Greene's Groatsworth of Wit)には、シェイクスピアを評したとみられる記述がある[8]

1594年末頃には、俳優兼劇作家であると同時に劇団「宮内大臣一座」[9]の共同所有者となり、同劇団が本拠地としていた劇場・グローブ座の共同株主にもなっていた。

ペストの流行により劇場が一時閉鎖された時期には詩作を行い、『ヴィーナスとアドーニス』(1593年)や『ルークリース陵辱』(1594年)などを刊行した。1609年に刊行された『ソネット集』もこの時期に執筆されたと推定されている。

中期

1595年の悲劇『ロミオとジュリエット』以後、『夏の夜の夢』『ヴェニスの商人』『空騒ぎ』『お気に召すまま』『十二夜』などの喜劇を発表。これら中期の作品は円熟味を増し、『ヘンリー四世』二部作などの史劇には登場人物フォルスタッフを中心とした滑稽味が加わり、逆に喜劇作品においては諷刺や諧謔の色付けがなされるなど、作風は複眼的な独特のものとなっていった(出典?)。

1596年に、紋章院に申請をして、シェイクスピア家の紋章を取得[10]。同年、ビショップスゲート(Bishopsgate)のセント・ヘレン(St Helen's Church)教区へ転居。同年、長男ハムネットが死去し、8月11日に葬儀が行なわれている。

1598年にグローブ座で初演されたベン・ジョンソンの『十人十色』(Every Man in His Humour)では、出演者一覧の最上段にシェイクスピアの名前が記載されている。またシェイクスピアの四折判では、1598年刊の『恋の骨折り損』で、初めてタイトル・ページに著者名が記された[11]。このため、シェイクスピアの名前がセールスポイントになるほどの人気を確立していたとみられている(出典?)。

後期

1599年に、ロンドン郊外のサザ-ク(Southwark)へ転居したと見られている。

同年、『ジュリアス・シーザー』を発表。後期の作品では、軽やかさが影をひそめ、1600年代初頭の四大悲劇といわれる『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』では、人間の実存的な葛藤を力強く描き出した。また、同じころに書いた『終わりよければ全てよし』『尺には尺を』などの作品は、喜劇作品でありながらも人間と社会との矛盾や人間心理の不可解さといった要素が加わり、悲劇にも劣らぬ重さや暗さをもつため、19世紀以降「問題劇」と呼ばれている。(出典?)

1603年にエリザベス1世が死去してジェームズ1世が即位した際、ジェームズ1世が自ら庇護者となることを約束し、劇団「宮内大臣一座」は「国王一座」に改称した。

この頃、「国王一座」の上演劇の脚本執筆や劇団経営の傍ら、俳優業も継続し、『ハムレット』の先王の幽霊や、『お気に召すまま』のアダム、『ヘンリー五世』のコーラスなどを演じたといわれる(出典?)。

晩期

アントニーとクレオパトラ』『アテネのタイモン』などののち、1610年前後から書くようになった晩期の作品は「ロマンス劇」と呼ばれる。『ペリクリーズ』『シンベリン』『冬物語』『テンペスト』の4作品がこれにあたり、登場人物たちの長い離別と再会といったプロットの他に、超現実的な劇作法が特徴である。長らく荒唐無稽な作品として軽視されていたが、20世紀以降再評価されるようになった。

1604年には家主の娘の仲人を務めており、1612年にこの娘の結婚時の持参金を巡る裁判に証人として出廷している[12]

晩年

(いつ?)法的問題や商取引についての様々な公文書から、ロンドンのブラックフライヤーズ(Blackfriars)の不動産や、ストラトフォードの邸宅ニュー・プレイス(New Place)を購入していたことが分かっている(出典?)。

1613年に引退した後は、故郷ストラトフォード・アポン・エイヴォンに帰り、ニュー・プレイスで暮らしたとみられている[13]

死去

生涯最後の数週間に、次女ジュディスの婚約者で居酒屋経営者のトマス・クワイニーが婚前交渉の嫌疑により地元の教会裁判所に告発され、告発相手が死亡する事件が発生した[14]。シェイクスピアは自分の遺産のうちジュディスへ渡る分がクワイニーの不実な行為にさらされることのないよう遺言書を修正している(出典?)。

1616年のユリウス暦4月23日(グレゴリオ暦5月3日)に52歳で死去。

  • 死因は腐敗したニシンから感染した感染症であったらしいが、詳細は不明である(出典?)。

遺骸はストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるホーリー・トリニティ教会(Church of the Holy Trinity)の内陣に埋葬された[15]

最初の全集刊行

没後7年を経た1623年に、国王一座の同僚であったジョン・ヘミングスヘンリー・コンデルによってシェイクスピアの戯曲36編が集められ、最初の全集『ファースト・フォリオ』が刊行された。

家族

シェイクスピアには息子1人と娘2人があり、孫が4人いたが、曾孫はなく、直径の子孫は孫娘エリザベス・ホール(1670年2月17日に死去)で絶えている。

またシェイクスピアが名付け親になったウィリアム・ダヴェナント[16]の実父がシェイクスピアではないかという噂が囁かれたことがあり、ダヴェナント自身もシェイクスピアの庶子を自称していた。ダヴェナントにはチャールズ(1656年 - 1714年)とウィリアム(1657年 - 1681年)という2人の息子がおり、ダヴェナントがシェイクスピアの子だったとすれば、シェイクスピアの血筋は18世紀初めまで続いたことになる(出典?)。

  • 父:ジョン・シェイクスピア(1531年 - 1601年9月7日)
    • 父方の祖父:リチャード・シェイクスピア(1490年 - 1561年2月10日)
  • 母:メアリー・アーデン(1537年 - 1608年)
    • 母方の祖父:ロベルト・アーデン
  • きょうだい
    • 長兄 ジョン(1558年)
    • 長姉 マーガレット(1562年 - 1563年)
    • 長弟 ギルバート(1566年10月13日 - 1612年2月3日)
    • 長妹 ジョーン(1569年4月15日 - 1646年11月4日) - ウィリアム・ハートと結婚して、3男1女をもうけた(シェイクスピアの甥、姪にあたる)
      • 甥 ウィリアム(1600年 - 1639年)
      • 姪 メアリー(1603年 - 1607年)
      • 甥 トマス(1605年 - 1661年)
      • 甥 ミカエル(1608年 - 1618年)
    • 次妹 アン(1571年 - 1579年)
    • 次弟 リチャード(1574年 - 1613年)
    • 三弟 エドモンド(1580年 - 1607年12月31日)
  • 妻 アン・ハサウェイ(1555/1556年 - 1623年8月6日)
    • 長女 スザンナ・シェイクスピア(スザンナ・ホール、1583年5月26日 - 1649年7月11日)
      • 娘婿 ジョン・ホール(1575年 - 1635年11月25日) - スザンナの夫。医師。
      • 孫 エリザベス・ホール(エリザベス・ナッシュ、エリザベス・バーナード、1608年2月21日 - 1670年2月17日) - スザンナとジョン・ホールの娘。
        • 孫婿 トマス・ナッシュ(1593年7月20日 - 1647年4月4日) - エリザベスの最初の夫。
        • 孫婿 ジョン・バーナード(1604年 - 1674年) - エリザベスの2番目の夫。
    • 長男 ハムネット・シェイクスピア(1585年2月2日 - 1596年8月11日) - 1596年に11歳で夭折。ジュディスとは双子。
    • 次女 ジュディス・シェイクスピア(ジュディス・クワイニー、1585年2月2日 - 1662年2月9日) - ハムネットとは双子。
      • 娘婿 トマス・クワイニー(1589年2月26日 - 1662/1663年) - ジュディスの夫。居酒屋経営者。
      • 孫 シェイクスピア・クワイニー(1616年11月23日 - 1617年5月8日) - 長男。1歳になる前に死去。
      • 孫 リチャード・クワイニー(1618年2月9日 - 1639年2月6日)- 次男。20歳で死去。
      • 孫 トマス・クワイニー(1620年1月23日 - 1639年1月28日)- 三男。19歳で死去。

「シェイクスピア」の姓について、精神学者でシェイクスピアのファンだったジークムント・フロイトは、イギリス人らしくない名前や、チャンドスの肖像画(Chandos portrait)から、シェイクスピアをフランス系で、名前はフランス人姓「Jacques Pierre」が訛ったものとした[17]

作品

以下、作品の推定執筆年代は、リバーサイド版シェイクスピア全集(Riverside Shakespeare)による。

戯曲

1623年に刊行された最初の著作集『ファースト・フォリオ』において、シェイクスピアの戯曲作品は悲劇・史劇・喜劇という3区分に分類された[18]

しかし、喜劇に分類された作品の中には、喜劇的な筋書きでありながらも倫理的な問題を提起するかのような作品も存在する。このため、フレデリック・ボアズやW.W.ローレンス、E.M.W.ティリヤードといった近代の批評家は、これらの作品に「問題劇」ないし「悲喜劇」の用語を与えた。また後期の喜劇作品に「ロマンス劇」の語が適用されることもある。以下で、Rは「ロマンス劇」、Pは「問題劇」と分類されることもある作品を表わす。

悲劇

史劇

喜劇

外典と散逸した戯曲

材源と作風

シェイクスピアの戯曲には、他の劇作家の作品に依拠している作品や、古い説話や史料などを材源とした作品が多い。

  • 例えば、『ハムレット』(1601年ごろ)は、現存しない先行作品(『原ハムレット』と呼ばれる)を改作したものであること、『リア王』が同じ題名の過去の作品を脚色したものであることなどが指摘されている[19]
  • 史劇作品は、古代ローマ古代ギリシアを舞台とした作品と近世イングランドを舞台とした作品に大別されるが、前者の材源としてプルタルコスの『英雄伝』(トマス・ノース Thomas Northによる1579年の英語訳)、後者の材源としてラファエル・ホリンシェッド Raphael Holinshedの『年代記』(The Chronicles of England, Scotland, and Ireland、1587年の第2版)の存在が指摘されている。『年代記』は史劇だけでなく、『マクベス』や『リア王』の素材にもなっている。[20]
  • ブライアン・モリス(Morris,1968,pp.65-94)は、ハロルド・ブロークスのエッセイにおいて、同時代の劇作家クリストファー・マーロウ Christopher Marloweの『エドワード二世』がシェイクスピアの『リチャード三世』に影響を与えている、と指摘した。これに対して、ゲイリー・テイラー(Wells & Taylor,1997,p.116)は、2人の文体が類似しているように見えるのはありふれた決まり文句ばかりであると反論した。
  • 2016年には、方言や言語表現のビッグデータの解析により、『ヘンリー六世』など、シェークスピアの17作品がマーロウとの共作であることが明らかとなった[21]

パトリック・マーフィ(Murphy,2001,p.??)は、シェイクスピアの作品の中でも、劇作法、テーマ、舞台設定などの点からみて最も独創的といえるのは『テンペスト』だと評価している。

Neilson & Thorndike(1913)は、シェイクスピアの著作からは、作中に登場するフレーズや語彙、演技についての言及に鑑みても、実際に俳優であったことが見て取れるが、その一方で劇作法についての専門的な方法論を欠いている、と指摘している。

シェイクスピアは弱強五歩格という韻律を好んだ。『ウィンザーの陽気な女房たち』のように散文の比率が高い戯曲もある(出典?)。

シェイクスピア別人説

シェイクスピア自身に関する資料が少なく、手紙や日記、自筆原稿なども残っていないことや、法律や古典などの知識がなければ書けない作品を執筆していることが学歴からみて不自然であることから、別人が使った筆名ではないかとの主張や、「シェイクスピア」という筆名を一座の劇作家たちが使い回していたのではないかとの主張もなされている(出典?)。

  • 真の作者として推定された人物には、哲学者フランシス・ベーコンや第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアー、同年生れの劇作家クリストファー・マーロウ、シェイクスピアの遠縁にあたる外交官ヘンリー・ネヴィル Henry Nevilleなどがいる。
  • シェイクスピア研究家の小田島雄志は、資料が残っていないのは他の人物も同様である、シェイクスピアは大学に行かずエリート意識がなかったから生き生きした作品が書けたのだ、として別人説を否定している。

成立時期

戯曲作品のうち、いくつかはシェイクスピアの生前に四折判の単行本として刊行されているが、多くの作品は1623年の『ファースト・フォリオ』に収録されるまで未刊行のままであった。

このため、生前に自作の信頼できる版が刊行されていない多くの作品について、作品の版本ごとに原文に異同のある異本が存在するというテキスト上の問題があり、戯曲作品の正確な創作年代については多くの議論がある。

  • ベン・ジョンソンのような他の劇作家と異なり、シェイクスピアは自作の定本を刊行することに関心を払っていなかったと考えられている[22]
  • こうした異本は、底本がシェイクスピアの自筆原稿であったか筆耕者の手を経た清書稿であったかにかかわらず、印刷業者のミスや植字工の誤読、原稿の読み違えで正しい順に詩行が配置されなかったことなどにより生じる[23]

このため、シェイクスピアが実際に書いた部分と別人による改変部分を判別する本文批評が現代の研究者や編者にとって大きな問題となっている。

一つの作品について極端に異なる2つの版本が存在する場合に問題は深刻になる。

  • 「バッド・クォート」と呼ばれる、ズタズタに切り刻まれた粗悪な刊本が数多く存在するが、これらは『ファースト・フォリオ』の編者が「盗用された海賊版」と非難しているものと考えられる[24]
  • それほど台無しにされたわけではない異本については、一概に無視できないものがある。例えば、『リア王』の四折判と二折判には大きな違いが見られる。伝統的に、編者は両方の版本からすべての場面を取り入れて融合することにしている。しかし、マドレーン・ドーラン Madeleine Doran以降、両方を別物とみなし、『リア王』という1つの戯曲に2つの版本の存在を認めるという動きもある。ゲイリー・テイラーとロジャー・ウォーレンは共著 "The Division of the Kingdom" において、『リア王』に見られるような異同は、1つのテキストが異なる形で刊行されたのではなく、テキスト自体が異なる形で2つ存在していたためだという説を提唱している[25]。この仮説は一般に広く受け入れられてはいないが、その後数十年間の批評や編集の指針に影響を与えており、ケンブリッジ版とオックスフォード版(The Oxford Shakespeare)の全集では、『リア王』の四折判と二折判のテキストが両方とも別個に収録されている。

日本語訳

最初の翻訳

  • 日本での最初のシェイクスピア作品の完全訳は、1883年に大阪の政治新聞『日本立憲政党新報』に掲載された、和歌山の学校教師・河島敬蔵による『ジュリアス・シーザー』だったとされる[26]
  • 1884年に坪内逍遥が『ジュリアス・シーザー』の日本語訳『該撒奇談自由太刀余波鋭鋒(しいざるきだんじゆうのたちなごりのきれあじ)』を発表し、以後1928年までにシェイクスピアの劇作品37、試作品3を翻訳した[26]
  • 河島の『ジュリアス・シーザー』は逐語訳だったが、坪内は伝統的な七五調の浄瑠璃の文体を用い、各場面の前に簡単な梗概を付した。河島は1886年の『ロミオとジュリエット』の翻訳では、坪内に倣って七五調の文体を用い、『春情浮世の夢』という浄瑠璃ないし歌舞伎調の題を付した。[26]
  • しかし、その後のシェイクスピア作品の日本語訳では、現代口語逐語訳が訳文体として定着した[26]

沙翁

「シェイクスピア」の日本における漢字表記(借字)は沙吉比亜で、これは中国語(繁体字)表記「莎士比亞」の「莎」を「沙」、「亞」を「亜」と略し、「士」の代わりに「吉」を用いたもの。沙翁と呼ばれることもある。(出典?)

主な訳者

関連作品

各作品の派生作品については、その作品の記事を参照。

映画

演劇・舞台

小説

テレビドラマ

漫画

肖像画

エドガー・フラワーによる肖像画
  • 1970年から1993年にかけて用いられた20UKポンド紙幣に肖像が描かれた。
  • 2005年4月21日にイギリス国立肖像画美術館は、多くの本の表紙を飾っていたエドガー・フラワーによるシェイクスピアの肖像画の描かれた時期が、シェイクスピア生存中の1609年ではなく、死後から約200年後の1814年 - 1840年頃であると確認したと発表した。1814年頃以降に使用され始めた顔料が含まれていたためで、それは修復に使われたものではないという。美術館では、この年代は作品への関心が再燃した時期で、貴重な歴史的資料であることは変わりはないとしている。
  • 2009年3月9日に、生前の作と考えられる肖像画が発見された。

建築物

付録

関連項目

外部リンク

脚注

  1. 誕生日を直接示す史料が存在するわけではないが、1564年4月26日に洗礼を受けており、エリザベス朝時代には出生証明書が発行されておらず、洗礼式は生誕後3日以内に行なうのが当時の通例であったことから、伝統的に誕生日は4月23日とされてきた。4月23日は聖ジョージの日にあたり、またシェイクスピアの死没年月日が1616年の4月23日(ユリウス暦、グレゴリオ暦では5月3日)とされていたことからも、この推定が支持されてきた。
  2. 同校は、ローマ・カトリック教会の関与の下、15世紀初頭に開校され、1482年にストラトフォードに寄贈された。同校の学籍簿は散逸しており、シェイクスピアの在籍を裏付ける史料は確認されていない。地元の男子は無料で入学でき、父親が町の名士であったためそれなりの教育は受けていただろうとの推測から、同校に通学していたことが推定されている。同校ではラテン語文法や文学の集中学習が行なわれており、ラテン語の習熟に役立てるため、講義の一環として学生たちがラテン語劇を演じていた。(Greenblatt,2004,pp.25-28)また、シェイクスピアの最初期の戯曲『間違いの喜劇』にプラウトゥスの戯曲『メナエクムス兄弟』 (The Two Menaechmuses) との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される根拠の一つとされている(Park,1999,p.43)。
  3. Greenblatt,2004,pp.25-28
  4. アンはショッタリー Shotteryの出身であるが、ある公文書においてストラトフォードにも近いテンプル・グラフトン Temple Graftonの人と記されていることから、同地で結婚式が行なわれた可能性が高いと推測されている。ハサウェイ家の隣人であるフルク・サンダルズとジョン・リチャードソンが、結婚には何の障害もなかったという保証書を書いている。
  5. 長女・スザンナの洗礼式は1583年5月26日、長男ハムネットと次女ジュディスの洗礼式は1585年2月2日に行われた。2人の名はシェイクスピアの友人のパン屋、ハムネット・セドラーとその妻ジュディスにちなんで付けられた
  6. Honigmann(1999)p.1, Gray(1998)
  7. 遺言書には、戯曲や舞台衣装についての言及と、「現在同居しているウィリアム・シェイクシャフト (William Shakeshaft) の面倒を見てやってほしい」という親族への要請があり、かつてシェイクスピアの教師であったジョン・コットンがランカシャーの生まれであったことから、「ウィリアム・シェイクシャフト」とはシェイクスピアのことであり、コットンがホートン家にシェイクスピアを教師として推薦したと主張した。ウッド(Wood,2003,p80)は、ホニグマンの説について、約20年後にシェイクスピアのグローブ座株式の受託者となるトマス・サヴェッジがその遺言書の中で言及されている隣人と結婚していることから、何らかの関係をもっていたであろうことを付け加えているが、シェイクシャフトという姓は当時のランカシャーではありふれたものであったとも述べている。
  8. 役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の、我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラスが近ごろ現われ、諸君の中でも最良の書き手と同じくらい優れたブランク・ヴァース Blank verseを自分も紡ぎうると慢心している。たかが何でも屋の分際で、自分こそが国内で唯一の舞台を揺るがす者 (Shake-scene) であると自惚れている」との記述がある。シェイクスピアの名前は出てこないが、下線部が『ヘンリー六世 第3部』第1幕第4場のヨーク公の台詞「女の皮を被っていても、心は虎も同然だ!」(O tiger's heart wrapt in a woman's hide!)をもじっていることや、「舞台を揺るがす者」(Shake-scene)の表現がシェイクスピアの名を連想させることから、シェイクスピアに言及したものとみられている
  9. 当時の他の劇団と同様、一座の名称はスポンサーであった貴族の名前から取られており、この劇団の場合には宮内大臣がパトロンとなっていた。
  10. 父・ジョンは、まだ裕福だった頃に、紋章取得を紋章院に嘆願していたが取得できておらず、シェイクスピアにとって紋章の取得は宿願だった、とみられている。シェイクスピアは高等教育を受けていなかったとみられ、また俳優は当時いかがわしい職業とされていたが、経済的に大きな成功を収めていたため、紋章が取得できたとみられている。紋章に記された銘は、シェイクスピア自身が考案したもので、“Non sanz droict” (フランス語で「権利なからざるべし」)と記されている。Greenblatt(2004)は、この銘文は、ある種の守勢や不安感を示しており、社会的地位や名誉の回復といったテーマが彼の作品のプロットにおいて頻出するようになるが、シェイクスピアは自分の切望していたものを自嘲しているようだ、としている。
  11. それ以前の作品は著者名が記されていないか、もしくは1623年の『ファースト・フォリオ』に収録されるまで未刊のままだった。
  12. (出典?)裁判記録によると、1604年にシェイクスピアはユグノーの髪飾り職人クリストファー・マウントジョイの借家人となっていた。マウントジョイの見習いだったスティーヴン・ベロットがマウントジョイの娘との結婚を望み、持参金の委細についての交渉をシェイクスピアに依頼した。シェイクスピアの保証により2人は結ばれたが、8年経っても持参金が一部しか支払われなかったため、ベロットが義父に対して訴訟を起こした。シェイクスピアは、この裁判の証人として召喚されたが、当時の状況をほとんど覚えていなかった。
  13. Mobley,1996,p.5
  14. マーガレット・ホイーラーという女性が私生児を産み、その父親がクワイニーであると主張して、間もなく母子ともに死亡した。
  15. Holderness(2001,pp.152-154)は、シェイクスピアが内陣に埋葬されるという栄誉を授けられたのは、劇作家としての名声によってではなく、440ポンドもの十分の一税を教会に納めていた高額納税者であったためであり、シェイクスピアの墓所に最も近い壁の前に、おそらく家族によって設置されたと推測している。シェイクスピアの記念碑には、シェイクスピアが執筆する姿をかたどった胸像が据えられている。毎年4月23日には、胸像の右手にもっている羽ペンが新しいものに取り替えられる(出典?)。墓石に刻まれた墓碑銘はシェイクスピアみずからが書いたものと考えられている。Good friend, for Jesus' sake forbear,/ To dig the dust enclosed here./ Blest be the man that spares these stones,/ And cursed be he that moves my bones. 副葬品として未発表作品が墓の中に納められているという伝説があるが、確かめた者はいない(出典?)
  16. 17世紀の詩人、劇作家。『マクベス』の改作などを執筆している。
  17. Jones(1961)p16, Shapiro(2010)pp.14–15
  18. Craig,2003,p.3
  19. Hunter,1997,pp.494-496.
  20. Dutton & Howard,2003,p.147
  21. AFP BB NEWSトップ > ライフ > 文化・芸術 > シェークスピア17作品は共著、ビッグデータで判明, 2016年10月25日
  22. Richard Dutton, The Birth of the Author, in Cedric Brown and Arthur Marotti, eds, Texts and Cultural Change in Early Modern England, London: Macmillan, 1997: p.161
  23. Fredson Bowers, On Editing Shakespeare and the Elizabethan Dramatists, Philadelphia: University of Pennsylvania Press, 1955, pp.8-10
  24. Alfred W. Pollard, "Shakespeare Quartos and Folios". London: Metheun, 1909, xi.
  25. Gary Taylor and Michael Warren, "The Division of the Kingdoms". Oxford: Clarendon Press. 1983.
  26. 26.0 26.1 26.2 26.3 佐野,2006,p.40

参考文献

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