飛鳥会事件
飛鳥会事件(あすかかいじけん)とは2006年、部落解放同盟の支部長を兼任する財団法人飛鳥会理事長が業務上横領と詐欺で大阪府警に逮捕された事件。
概要
社団法人飛鳥会(あすか会とも表記)は1971年3月、部落解放同盟大阪府連合会飛鳥支部により地域生活や福祉改善の促進を標榜して設立され、同和地区で浴場を運営していた。山口組系金田組の幹部であり部落解放同盟飛鳥支部の支部長でもあるKは1967年頃からこの飛鳥会の理事長を務めていたが、やがて飛鳥会を社団法人から財団法人に改めて収益事業を営むことを提案。これを受けて飛鳥会は財団法人になると共に、1974年以降、同和対策事業の一環として[1]大阪市の外郭団体から西中島駐車場の運営を独占的に業務委託されていたが、Kは年間2億円の収益を7000万円に過少申告し、差額を横領することにより不正な利益を得ていた。その他、Kは2003年9月、大阪市立飛鳥人権文化センター館長と共謀して健康保険証7枚を不正取得していたことも発覚した。
このため、2006年5月8日、Kは業務上横領の容疑により逮捕された(同年5月27日、詐欺容疑で再逮捕)。横領額は判明しただけでも約6億円に上ったが、起訴された金額は1億3120万円。これらの金額をKの個人口座に移し替え隠蔽したというのが事件の概要であった。
この口座の移し替えなどに絡み、Kと懇意だった三菱東京UFJ銀行淡路支店の次長兼取引先課長も業務上横領幇助で大阪府警に逮捕されている。また、健康保険証詐取の件では大阪市立飛鳥人権文化センター(旧・飛鳥解放会館)館長も詐欺容疑で逮捕され、2006年11月10日に大阪地裁で懲役1年6月執行猶予3年の有罪判決を受けている。
2006年7月31日、大阪地裁はKの保釈を許可した。2007年1月24日、大阪地裁裁判長杉田宗久は「同和団体幹部の地位を私利私欲のために悪用し、大阪市の弱腰の同和行政を食い物にした極めて悪質な犯行だ」[2]と述べ、Kに懲役6年の実刑判決を下した。この判決を不服としてKは大阪高裁に控訴したが、同年5月、肺癌で大阪府豊中市の刀根山病院に入院し、11月9日、奈良市の自宅で病死した。
社会的反響
Kの逮捕を受けて部落解放同盟大阪府連は「部落解放運動─信頼の再構築と再生にむけて 「飛鳥会等事件」の総括と部落解放同盟大阪府連見解」と題する声明文を発表し、「「飛鳥会事件」と同和問題解決をめざす同和行政とは一切無関係である」「今回の事件は個人の犯罪である」と主張した[3]。
一方、京都産業大学教授の灘本昌久はこの事件を奈良市部落解放同盟員給与不正受給事件と共に「(部落解放)運動と行政の力関係がそのまま職場に持ち込まれることによる職場の混乱や不正行為」と呼び、「便所の差別落書きでさえ、その施設管理者の責任を「差別体質」として厳しく追及してきた運動団体ならば、自らの「腐敗体質」として猛省・改善してもらわなければならない」と述べ、この事件を巡る部落解放同盟の対応の甘さを批判した[4]。
Kの人脈
大阪府高槻市の被差別部落に生まれ育ったKは少年院や刑務所を経て山口組系金田組組長金田三俊のボディガード兼運転手になったが[5]、上田卓三の後ろ盾を得て[6]、1969年6月、飛鳥支部第1回定期大会で部落解放同盟大阪府連飛鳥支部の支部長に選出された。支部長就任の動機について、2006年10月6日の大阪地裁におけるKの初公判の検察側冒頭陳述では「同和問題が大きな社会問題となっていたことから、暴力団構成員よりも金もうけがしやすく、絶大な権力が手に入るなどと考え」たためであると指摘された[7]。当時Kは、酒梅組の元組員である西成支部長と共に部落解放同盟行動隊の双璧の強腕とされていた[8]。
昭和40年代、権利関係の複雑な同和地区の開発に際して大阪市に力を貸したことから同市の行政に多大な発言力を持つに至った[9]Kは、同和関係の建設事業の請負を左右する大阪府同和建設協会(同建協)でも顔役として通っていた[10]。許永中が在日韓国人でありながら同建協に加盟し、同和対策事業に食い込んでいたのもKとの人間関係があったためであると伝えられる[11]。Kは七項目の確認事項を楯に自らの銀行口座の預金利息を完全非課税にさせるなど、国税局にも影響力を行使していた[12]。村田吉隆や渡辺美智雄や東力といった自民党議員とも親しく飲み歩き、特に村田は大阪国税局調査部長時代、飛鳥会に関する脱税告発を握り潰すほどKと昵懇だったといわれる[13]。その他、Kは天下りの斡旋などを通じて警察にも威勢を及ぼしていたとの証言がある[14]。
Kは1970年代後半に山口組を脱退したが、それ以降も山口組関係者との交際は依然として継続し、出身の山口組系金田組の組長から時おり電話がかかってくると別人のように直立不動になり、組長から指示を受けていた[15]。特に山口組系生島組組長の生島久次とは古い付き合いがあった[16]。1985年1月27日に四代目山口組組長竹中正久が愛人宅で射殺された時には、現場となったマンションの名義人[17]として問題になり部落解放同盟大阪府連の委員を辞任。しかしその後も部落解放同盟から除名されることはなく、飛鳥支部の支部長として留任した[4]。
1975年頃、三和銀行(後の三菱東京UFJ銀行)淡路支店と取引を始め、同行に対しても特殊な影響力を持つに至る。そのきっかけについて、K自身は大阪府立柴島高等学校の開校にあたって大阪府に口を利き、同校の資金の取り扱いを三和銀行に任せるよう斡旋したことだったと述べているが[18]、同行におけるKの担当者だった元支店長は、三和銀行淡路支店の開設にあたりKが用地確保に尽力したことだったと述べている[19]。こうして同行から特別な厚遇を受けるようになったKは、友人の暴力団関係者たちのための転貸融資の窓口になることを引き受け、銀行と暴力団のパイプ役を務めて利鞘を稼いでいた[20]。Kに対する同行からの融資額は三菱東京UFJ銀行本体で約51億円、系列ノンバンク「三菱UFJファクター」で約30億円、合計80億円以上[21]にのぼると見込まれたが、そのほぼ全額が暴力団の地上げの資金に使われ、バブル崩壊により不良債権と化した[20]。これらの違法行為を通じてKが蓄積した個人資産の総額は40億円以上にのぼる。
Kはまた飛鳥地区の解放会館で同和地区住民のためのイベントにたびたび芸能人を呼んでいた関係から芸能界とも接点を持ち、芸能人たちからはチケットを500万円から1000万円分も買い上げるタニマチとして慕われ、1980年代中期にKの実父が他界した折には、Kと特に昵懇だった勝新太郎夫妻が葬儀に駆けつけている[22]。2001年7月7日には西城秀樹の結婚披露宴に新婦側の主賓として招かれ、新高輪プリンスホテルでスピーチを行った[22]。当時、岡本夏生からは「おとうさん」、加賀まりこからは「おにいちゃん」と呼ばれる間柄だった[22]。笑福亭仁鶴もKに可愛がられていた芸人の一人であり、仁鶴の当たりギャグ「どんなんかな~?」はKが飲み屋で女の子を笑わせるためにたびたび使っていたフレーズの流用であるという[23]。
関連項目
参考文献
出典
- ↑ 『同和と銀行』p.22
- ↑ 朝日新聞、2007年1月24日。
- ↑ 部落解放運動─信頼の再構築と再生にむけて 「飛鳥会等事件」の総括と部落解放同盟大阪府連見解 2006年9月9日 解放新聞大阪版1659号(2006年9月18日)より
- ↑ 4.0 4.1 灘本昌久「部落解放の新しい道」
- ↑ 『同和と銀行』p.31
- ↑ 『同和と銀行』p.33
- ↑ 『同和と銀行』p.21
- ↑ 『同和と銀行』p.33
- ↑ 『同和と銀行』p.79
- ↑ 『同和と銀行』p.116-119
- ↑ 『同和と銀行』p.159
- ↑ 『同和と銀行』p.112-116
- ↑ 『同和と銀行』p.123-124
- ↑ 『同和と銀行』p.126-131
- ↑ 『同和と銀行』p.265-266
- ↑ 『同和と銀行』p.91
- ↑ 『同和と銀行』p.108によると、このマンションの名義人になったことについてK当人は「生島に頼まれたから名前を貸しただけや」と説明していたという。
- ↑ 『同和と銀行』p.262
- ↑ 『同和と銀行』p.263
- ↑ 20.0 20.1 読売新聞、2006年5月13日。
- ↑ 『同和と銀行』p.94
- ↑ 22.0 22.1 22.2 『同和と銀行』p.173-180
- ↑ 『同和と銀行』p.119