文世光事件

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文世光事件(ムン・セグァンじけん、문세광 사건)は、1974年8月15日に元大韓民国大統領朴正煕の夫人、陸英修など2名が在日韓国人文世光(ムン・セグァン、문세광、日本名:南条世光(なんじょう せいこう)、1951年 - 1974年12月20日)に射殺された事件である。この日は日本からの解放記念日である光復節の祝賀行事がソウル国立劇場であり、朴大統領夫妻がその行事に出席している時の出来事であった。

事件[編集]

赤化統一を目指した文は1973年10月ごろ、朴大統領の暗殺計画を思い立った。同年5月、大阪湾に停泊中の北朝鮮万景峰号の船中で、朝鮮労働党対外連絡部の工作指導員から朴大統領射殺の指令を受けた。

そして、1973年11月に香港を旅行した際に暗殺実行の為の拳銃の入手に失敗した事から、1974年7月18日に大阪市南区(現在の中央区)の高津派出所拳銃2丁を盗み、高校時代の知人である日本人女性を利用して、女性の夫名義による韓国への偽造ビザや偽造パスポートを作成するなど準備を着々と進め、同年8月6日に拳銃をトランジスタラジオの中身を抜いたケースにしのばせ韓国に入国した。文に狙撃を指令し資金を供与、偽装パスポートの作成指示、射撃訓練を行ったのは、大阪の在日朝鮮総連生野支部政治部長の金浩龍だった。

実行までは、朝鮮ホテルに宿泊していたが、事件当日の朝、文はソウルパレスホテルフォード車を借り上げ、正装を着て中折帽までかぶった重厚な身なりで、某商社のソウル支店長と待ち合わせている日本政府高官になりすました。高級車に乗っていたこともあってか、警備員からも全く疑われる事なく、記念式典会場である南山国立劇場に潜入した。

国立劇場の中へは本来、招待状を持つ人しか入場出来なかった。しかし、劇場入口を守っていた警察官は、日本語を使う文を、招請された外国人VIPと判断し、招待状がないにもかかわらず入れてしまった。

当初、文は大統領夫妻が劇場に入場する際に狙撃する事を試みたが、大統領が歓迎の子供達に囲まれていた事から、実行を断念した。

予定通り午前10時に式典が始まり、20分ほど経過した後、大統領が演壇で祝辞を読み上げ始めたところで、文は左側の腰に隠した拳銃を抜こうとしたが、誤って引き金に触れ、自分の左側の太股に貫通傷を負ってしまった。因みに、その時の銃声はスピーカーの音で消され、周囲は誰も気付かなかったという。それでも文は、朴大統領が祝辞を読みあげている途中で客席から立ち上がって通路を走り、20m先の壇上に向け2発目の弾を発砲したが、大統領は軍人出身ということもあり、銃声を瞬時に聞き分け、反射的に演壇の後ろに隠れ難を逃れた[1]。3発目の引き金を引いた際は不発だったが、直後、標的を失った文が立て続けて撃った4発目の弾が、椅子に座っていた大統領夫人の陸の脊髄に命中、第1弾が発射されてから、わずか7秒の出来事だった。最後の1発は、演壇の後方にある太極旗に当った。

陸はソウル大学付属病院に搬送されたが、当時のソウル大病院における最高技術をもっての5時間40分におよぶ手術もむなしく、同日午後7時に死去した(49歳)。ちなみに、頭部付近に弾丸が命中し椅子から崩れ落ちるシーンは、アメリカCBSソウル支局のカメラクルーが撮影したものだった。

また式典に合唱団の一員として参加していた女子高生・張峰華(当時17歳)も応戦したSP隊員の撃った流れ弾に当たり、死亡した。

大統領は、夫人が重傷を負い病院に搬送されたにもかかわらず、「私は大丈夫だ」と言って、麦茶を一杯を飲み終えた後、何事もなかったかのように最後まで毅然と演説を続け、その場に居合わせた観衆からは大きな拍手が送られた。しかし、式典の終了と同時に病院に駆けつけ、夫人の死亡を耳にした際には、その場で大声を上げて泣き崩れたという。

裁判[編集]

10月7日に初公判が開かれ、文は法廷に立った。文は大筋で犯行を認め、10月19日の1審(死刑判決)、11月20日の2審(控訴棄却)、12月17日の大法院における終審の全てにおいて死刑宣告された。

宣告から3日後の12月20日に、ソウル拘置所の処刑場において、拘置所長が文の死刑を確認する判決文を朗読した後、検事牧師刑務官など約10人が立ち会いのもと、「私が愚かでした。韓国で生まれたらこんな犯罪は犯していないでしょう。朴大統領に心から申し訳なく思うと伝えて下さい。国民にも申し訳なく思うと伝えて下さい。陸夫人と死亡した女子生徒の冥福をあの世に逝っても祈ります。朝鮮総連に騙されて、大きな過ちを犯した私は愚かであり、死刑に処せられて然るべきです」と涙ながらに最後の言葉を録音で残し、家族に対しては「母には、息子の不孝と期待に背いた事を申し訳なく思うと伝えて下さい」という遺言を残し、午前7時30分に文の死刑が執行された。

事件捜査[編集]

日本側[編集]

事件翌日の8月16日に、大阪府警は前述の日本人女性を旅券法違反の容疑等で逮捕すると同時に、文の自宅を捜索した。その際、大統領暗殺宣言と韓国革命を主張した「戦闘宣言」と題した論文や、盗難された拳銃2丁のうち1丁と弾丸などの証拠品を発見、押収した。

韓国側[編集]

8月17日に捜査当局は、事件は朝鮮総連の指令、援助によって実行されたもので、逮捕された日本人女性とその夫、並びに金浩龍が共犯者であると発表し、日本政府に対して捜査協力を要請した。これに対して日本政府は、事件と朝鮮総連の関係は明白ではないとして慎重な姿勢をとっていたものの、国内法の許す範囲で捜査に協力することを決定した。

その後の日韓関係[編集]

この一連の事件の為、日韓関係は国交正常化後、最悪の状態に陥った。韓国側の捜査によれば、朝鮮総連の関与は明白であったにも関わらず、日本側がそれを明確に認めなかった事、文が所持していた拳銃が大阪府内の派出所より盗まれた物であった事による。

謝罪のない日本側に対し、朴大統領は「日本は本当に友邦なのか?」と問いただし、ついには「中共だけが一番なのか。(日本と断交しても)安保、経済に問題はない」、「日本は赤化工作の基地となっている」という言葉まで出た。しかし、大統領の側近が「このまま断絶してしまえば、今までの苦労が水の泡になってしまう」と説得し、日韓双方で、

  • 日本政府が遺憾の意を表明する。
  • かかる事件の再発防止。
  • 捜査についての日本政府の協力。
  • 日本から特使派遣の合意をすること。

という内容で合意し、最悪の事態はまぬがれた。

事件から4日後の8月19日に執り行われた葬儀(国葬)において、式を終えて涙を拭いながら青瓦台へ戻る軍服姿の朴大統領の映像が日本においても配信され、日本からは田中角栄首相(当時)が出席した。その際、田中の「えらい目に遭われましたね」という言葉に、大統領は非常に憤慨したと言われている。

加えて、8月29日に木村俊夫外相(当時)が、国会答弁の中で「客観的に見て、韓国には北朝鮮による脅威はない」と述べたことで、かねてから日本国内で引き起こされた金大中事件に対する日本からの非難を受けたことにより鬱積していた反日感情が一気に爆発、連日日本大使館前には抗議のデモ隊が押し寄せ、9月6日には群集が日本大使館に乱入し日章旗を焼き捨てる事態にまで発展した[2]。その後急速に関係は悪化し、国交断絶寸前にまで至った[3]

事態を見かねた日本政府は、9月19日に自民党親韓派の重鎮として、韓国国内でも評価の高かった椎名悦三郎副総裁(当時)を政府特使として訪韓させ、日韓の友好関係を改めて確認することによって、両国間での問題決着がはかられた。朴大統領は椎名特使との面談の席上で、「日本政府が私達を友邦と考えるなら、喪中にある大統領一家や国民が悲しみと怒りに満ちているこの時に…」とし、「日本が引き続き、こんな風な姿勢を取れば、友邦とは認められないのではないか」、「(日本の姿勢は)政治と外交、法律に関係なく、東洋の礼儀上、ありえない事」、「日本外務省には秀才やエリート官僚が集まっていると聞いたが、どうやってこのような解釈ができるのか」など、激しい言葉で日本を糾弾した。

なお、日本を「赤化工作基地」とみなす認識は、反共的な韓国の保守派・右派にとっては長らく反日感情の源泉となった。

また、この事件は金正日に「在日韓国人がテロを起こしたらどのようになるか」という考えをもたらし、それが大韓航空機爆破事件で、2人の北朝鮮工作員を日本人化させ、結果として日韓関係を打ち砕こうとする策略のヒントをもたらしたと言われる。

小説「夏の炎」[編集]

梁石日が文世光事件を題材にして、小説「死は炎の如く」を2001年に発表し、後に「夏の炎」と改題され文庫化される。文をモデルにした在日の青年、宋義哲が主人公。70年代の大阪を舞台に、政治運動に身を投じる宋が、祖国へ思いを募らせながら謎の人物達に導かれ、やがて学生時代の恋人と共に朴大統領暗殺へと向かっていく。宋に目をつけ、大統領暗殺へと手引きする謎のグループの存在などフィクションと思われる要素を加えながらも、大阪の派出所から盗まれた拳銃で朴襲撃を実行に移すなどの実際の事件の詳細に沿ったストーリーが展開され、ベトナム戦争、朴政権と米国との確執、金日成政権下の朝鮮民主主義人民共和国との関係、日本における政治運動や在日の人々の状況といった、当時の国際関係や政治などを、事件の背景に見ることができる。なお、梁石日は文世光に同胞として強い共感を抱いていると表明している[4]

近年の動向[編集]

2002年朴正煕・陸英修の長女、朴槿恵(当時ハンナラ党副総裁)が北朝鮮を訪問した際、金正日総書記が北朝鮮の関与を認めて謝罪した。ただし、「部下がやった事で自分は知らなかった」と述べた。

脚注[編集]

  1. 演壇には鉄板が入っており、拳銃の弾丸程度は跳ね返す事ができた。
  2. 池東旭著 「韓国大統領列伝 権力者の栄華と転落」 p.115
  3. 実際、在韓日本大使館の職員には撤収準備の指示が出されていた。
  4. NHK知るを楽しむ選 人生の歩き方 梁石日 “血”の咆哮(ほうこう) 第4回 2009年2月13日放送 。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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