田中清玄
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田中 清玄(たなか きよはる、明治39年(1906年)3月5日 - 平成5年(1993年)12月10日)は戦前期の非合法時代の日本共産党(第二次共産党)中央委員長。転向後は右翼活動家・実業家。三幸建設社長。ロイズ保険の会員(日本人でロイズの会員になれたのは、田中清玄と南方哲也(元長崎県立大教授。南方熊楠の大甥)のみと言われている)。モンペルラン・ソサイエティー会員。名はしばしば「せいげん」と通称される。
経歴
- 1906年(明治39年)3月5日、北海道亀田郡七飯村(現七飯町)で出生。
- 1919年(大正8年)4月、旧制函館中学に入学した。亀井勝一郎とは同級生だった。
- 1924年(大正13年)4月、旧制弘前高校入学。翌年から左翼運動を始める。
- 1927年(昭和2年)4月、東京大学入学。新人会入会。同年9月、日本共産党入党。
- 1929年(昭和4年) 四・一六事件による党指導部の崩壊をうけ、日本共産党中央委員長就任。川崎武装メーデーなど党の武装化を進め「武装共産党」と称された。翌1930年7月14日、治安維持法違反で逮捕。
- 1933年(昭和8年) 共産党活動家の小宮山ひでと獄中結婚。
- 1934年(昭和9年) 獄中で転向。
- 1941年(昭和16年)4月29日、10年1ヶ月の刑期を終え出所。この後、龍沢寺の山本玄峰に弟子入り。
- 1945年(昭和20年)12月21日、昭和天皇に拝謁。
- 1960年(昭和35年)『文藝春秋』1月号に「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」という文章を発表。これは全学連の安保闘争に共感を示しつつ、その限界を示唆したものだった。これを読んだ全学連書記長の島成郎が田中からの資金カンパを思いついて田中を訪い、田中はこれに応じた。後にこれが報じられ、日本共産党などからは「右翼と結びついていた」として全学連に対する批判の材料とされた。
- 1961年(昭和36年) 経済学者ハイエクが組織したモンペルラン・ソサイエティーに入会。
- 1963年(昭和38年)4月、三代目 山口組・田岡一雄組長は、田中清玄、市川房枝、福田恆存、山岡荘八らと共に麻薬追放国土浄化同盟[1](後の全国国土浄化同盟)を作った。
- 同年11月9日午後6時9分、東声会組員・木下陸男に狙撃された(田中清玄銃撃事件)[2]。詳細は 田中清玄銃撃事件 を参照
- 1974年(昭和49年)2月10日、親しいフリードリヒ・ハイエクのノーベル賞授賞式でパートナー役をつとめる。
- 1978年(昭和53年) ハイエクと人類学者・今西錦司の対談を企画。(この対談は81年、83年にも引き続き実施された。のちNHKブックスに収む)
- 1980年(昭和55年)4月、中国鄧小平と会見。同年6月、インドネシア・スハルト大統領と会見。
- 1991年(平成3年)12月4日、ハプスブルク家のオットー・フォン・ハプスブルクと、宮沢喜一首相と会談
- 1993年(平成5年)12月10日、脳梗塞で死去。
著書
- 田中清玄、大須賀端夫『田中清玄自伝』文藝春秋、1993年、ISBN 4-16-347550-8
- 田中清玄、大須賀端夫『田中清玄自伝』筑摩書房<ちくま文庫>、2008年、ISBN 4480424407