学歴
学歴(がくれき)とはある人が学んできた経歴の事である。
以下では特に断り書きがない限り、日本での事例について述べる。
目次
用法
日本において日常生活で「学歴」という語を用いる時はその人の卒業・修了・退学した学校の経歴である学校歴(がっこうれき)の事を表わす事も多い。
その人が学んだ学校のうち、最上位の学校の経歴を最終学歴(さいしゅうがくれき)といい、一般的に「学歴」と言うと「最終学歴」のことを指すことが多い。最終学歴は「大学の卒業」、「高等学校の卒業」などのように学校の種類と卒業・修了・中退・退学などの別を用いて表す事が多い。
日本では学歴が中学校卒業の場合を中卒(ちゅうそつ)、高等学校卒業の場合を高卒(こうそつ)、高等専門学校卒業の場合を高専卒(こうせんそつ)、専修学校専門課程卒業の場合を専門卒(せんもんそつ)、短期大学卒業の場合を短大卒(たんだいそつ)、大学学部卒業の場合を大卒(だいそつ)もしくは学卒(がくそつ)、大学院修了の場合を院卒(いんそつ)と略して呼ぶ。ただし学卒には学校卒業の意味もある。
国語辞典などを参照しても、これらの用語自体には最終学歴という意味があるとはされていないが、日常会話などでは、最終学歴のことという前提で使用されることがある。たとえば、大学を卒業していない人物について「彼は高卒だから、出世できなかった」などと表現される場合がある。またどの様な教育機関を「学歴」の内に含むかについては論者によって微妙な違いが存在し、公式に明確な線引きは行われていない。
近年、誤った使用法として「入学難易度の高い有名大学」の卒業者や在学者のことを、「高学歴」者と呼称する事が多い。 特にバラエティー番組の回答者などに、東大・京大・早慶出身者などがいると、「高学歴回答者」などと紹介される。
学歴社会
概説
学歴社会とは学歴によってどの程度の人生(就職、結婚など)を送ることができるかの見通しが分かる社会。ダニエル・ヤンミン、チャン・マイミンはこのシステムをパイプラインシステムと呼んだ[1]。
工業製品の大量生産、大量消費と、経済成長を前提とした社会においては学歴社会が有効に機能する[1]。より良い学歴を保持する者がより良い待遇(職業や賃金などで恵まれた環境)を受ける可能性が高い。つまり、高学歴を得る事が社会的成功の確率を格段に高めるため、その後の人生を決定付けるいわばパスポートの役割を果たす。
学生にとっては以下の利点があった[1]。
- 希望する職に就くためにはどのくらいの学校に行けば良いかがわかりやすい(例えば、大手企業のホワイトカラーになるためには大学、中小企業の製造現場だったら工業高校など)
- 分不相応な夢をあきらめられる(例えば、医者になりたいと思っても、医科大学に入るだけの学力がなければ無理だからあきらめられる)
- システムには高校・大学受験という分岐点があるため、頑張って分岐点で上位の学校に行くことにより、階層上昇の機会を与えていた(頑張って親よりも良い学校を出れば、親以上の階層になることができた。親の職業等の環境と子供の学力に相関はある[2]が、ここで重要なのは階層上昇の「機会がある」ということ)
社会構造変化によるシステムの機能不全
だが、社会がオールドエコノミーからニューエコノミーに変わると、社会が必要とする労働者の構造が変化し、このパイプライン・システムが機能不全を起こす[1]。
- 物作り主体のオールドエコノミー → 情報やサービスを売るニューエコノミーへの転換
- 大量の熟練労働者が必要な構造 → 一部の創造的な仕事をする人(高収入)と、多数の単純労働者(低収入)という構造へ
この構造変化に対し学校は追い付けていない。高い能力を求められる労働力が減る一方で、それに対応して学歴の高い卒業生が減るわけではないから結果として学歴がインフレ状態になる。
学歴がインフレ状態になり、高学歴でも将来が保証されなくなるため、努力をして高学歴となってもその努力が報われず、努力が保障されない社会となる。また、「努力をしても良い結果が出るとは限らない」状態になるが、だからといって努力をしないで良いかというとそういうわけではなく、「努力をしない(低学歴)とさらにダメな状態」となる[1]。
「学歴難民」という言葉に表徴されるように、先進国においては学歴のインフレ化が進み、高学歴を獲得しても社会的待遇が以前ほどは保障されなくなっている。特に採用の分野では、プログラミング技術など実用的能力を持つ者を即戦力として評価する企業が増えつつある。
歴史
近代以前の社会においては、人々の社会的地位や職業はその身分・家柄・財産によって定められ、世襲や血縁、地縁などを加味して人材の選抜・配置が行われた。
産業革命と市民社会が進展したイギリスにおいて、1853年に東インド会社によってインド高等文官の任用が会社理事による推薦から公開競争試験に移行し、1870年にはイギリス本国高等文官にも同様の試験が導入され、試験による人材の選抜・登用が官僚のみならず各種専門職などでも行われるようになった。このような人事制度は、人々の能力・業績を公平かつ客観的に図る方法として評価され、身分制社会から社会を解放して社会問題を解決する手段として各国に普及した。
日本でも明治以後こうした試験による選抜が行われてきた。それでも明治初期は、農民層は学問を必要なものと感じておらず、商人層は読み書き算盤さえ出来ればよいとする考え方が支配的であった[3]。農民や商人が学問に目覚めた場合、書物を読み、独学の傍ら同好の士と文通し、師を求めるといった学校によらない学習手段が一般的だった。人類学者の鳥居龍蔵と植物学者の牧野富太郎もそういう方法によって研究者を志し、ついには東京帝国大学を研究の場にすることができたが、すでに大学は学歴が幅を利かせる時代となっていて、学歴を持たない彼らは差別的な扱いに苦しむこととなった[3]。
明治30年代に入ると官僚的な組織を持った企業が増加し、高学歴者が必要とされるようになってきた。それでも大半の企業は年少者を教育して手代、番頭へと昇進させる伝統的な人事制度をとっていて、財閥企業ですら安田銀行は14歳前後の年少者を採用して教育する学歴無用の採用を自慢していた[3]。
「学歴社会」の存在が意識されたのは1960年代である。1970年に行われたOECDの教育調査団による報告の中で、日本の教育においては「生物的出生」とともに「社会的出生」が存在し、人々の階級決定が節目ごとの入学決定によって行われているとの指摘を受けたことを機に「学歴社会」に関する論争が高まった[4]。
学歴社会形成の要因
学歴社会は様々な要因によって形成される。
発展途上国の場合、先進国並みの経済水準や防衛力を獲得するため、その国の中で指導者的役割が担える人材を必要する。この際、目的達成に効率的な社会の仕組みとして意図的・無意図的に学歴社会が形成される。
先進国の場合、特に科学技術力の向上を目的として特定大学に重点的に予算を配分したり(例:日本のCOE計画)、次世代の知的エリート集団の養成機関を拡充・創立する(例:日本の大学院重点化やフランスのグランゼコール)といった政策で学歴社会の傾向を促進する事がある。
日本における要因
1991年4月の中央教育審議会答申では学歴重視の要因について以下のとおり述べている。
有能な人材を大量に欲していた明治初期において、学校は人材登用機関としての役割を果たしていた。「良い学校を出れば、出自(士農工商)にかかわらず良い将来が約束」され、学校は「自由と希望を与えてくれる場」であり、「社会的地位上昇のための手段」であったといえる。こうして、「学歴主義」が国民に根付いていった[3]。
その後、(特に第二次世界大戦後における)社会制度の変更により、多くの者が進学するようになった(義務教育課程に至ってはほぼ100%)。学歴への期待は衰えることなく残っているが、その意味するところは「自由と希望」から「この学校を出ていれば、このくらいの能力がありますよというレッテル」へと変化していった。
学歴社会の実例
官僚や法曹といった社会的に大きな影響力を持つエリート職種については構成員の殆どがその国々で高い評価を得ている特定の教育機関の出身者で占められている。
例えば、フランスでは行政府の人員はほとんどがグランゼコールの出身者である。また、アメリカでもスタンフォードやアイビーリーグの各大学に代表されるような名門大学の出身者は社会的地位が高い事が多い。
ヨーロッパ
エリートは上流階級によって再生産される事が多いため、学歴社会というよりも階級社会だという指摘がある。たとえば大学受験では貴族出身の子弟が優遇される場合がある。
イギリスではオックスフォード大学とケンブリッジ大学(いわゆるオックスブリッジ)など中世に創立されたアンシャン・ユニヴァシティーの6校は名門校と見なされ敷居が高い。
フランス共和国では、大学とは別のグラン・ゼコール(グランド・ゼコール)というエリート養成校を卒業した者は、企業に入ってすぐに管理職になるといった事例がある(ただし、グラン・ゼコールは一般的な他国の大学とは異なり、実学重視であり、一種のエリート専門学校である)。
日本
難関大学を卒業していれば、その学部に関わらず、あらゆる分野のエリートになる可能性が高くなる。 大企業の殆どは総務や人事、法務などの文系の部門は学部不問となっており、理工系学生も応募可能である(逆に言えば、大学での専門教育に期待していないということだろう)。
他にも、教員養成を主とした(ゼロ免課程でない)教育学部から一般企業に入社する者もいる。しかし、医学や看護学などの専門系はその分野に限定される。また各大学の評価には地域により差があり、関東圏で評価されている大学が関西では知名度が低く過小評価されることがある。また大学の評価は入学偏差値以外にもOBの活躍具合、就職での優遇、企業内での昇進率、生徒の進路の多様性、国立大学か私立大学かなど様々な要素を考えて決まるので入試偏差値で大学を選んだり、単に国立大学というだけで大学の優劣を決定する人間が多いのは偏差値ばかりを重視する偏った見方として話題にされる大学に在籍する学生からのネットの書き込みへの批判が相次いでいる。
学歴によって限定される職種があるのは事実でも、それが人生の決定的要因になっているかどうかは一概には断言出来ない。例えば、大卒者と高卒者以下との生涯年収の差が世界的に見ても小さく、賃金面で見ると学歴は必ずしも決定的要因とは言えない[5]。先進国でこうした学歴差による賃金格差が少ないのは日本くらいという見方もある。ただし賃金格差が少ないのは経営層と労働者層の賃金格差が他国に比べて相対的に少ないためである。ただし一流企業や公的機関などには学歴による派閥もみられ、東大や早慶といった高学歴とされる大学の出身者が新入社員の大部分を占め、昇進なども有利といわれている。また有名大学出身者は安定志向が強く、アカデミックな職業に就く者も多いので、賃金以外の価値観で依然として有力大学出身者が高い地位を独占しているのは事実であり、子供をどうしても高学歴にしたいと小さい頃から塾や予備校に通わせることで学歴はあっても人間として未熟な大人が育つことへの懸念も挙がってきている。
経済のニューエコノミーへの転換や平成不況に伴い、企業が新規採用者にOJTによって職業訓練を行う余力が無くなると企業に代わって都道府県や国(独立行政法人雇用・能力開発機構による雇用保険事業)が在職者訓練として職業訓練を実施する場合がある。
また、従業員供給側の大学に職業訓練の要望が強まった結果、東京大学などを卒業しても一流企業に入れない者が一定数出てきている。企業の大部分が大学にアカデミックとしてではなく、就職予備校としての役割を要求する一方、上位の大学はそれに媚びる必要が無くアカデミックとしての立場を崩さないため、学生の中にはその違いに戸惑い対応できない者も存在することが要因といえる。もちろんこれらの大学卒であっても中小企業を志望する者も少なからず存在している。
2005年現在、東京大学の新卒の10%がフリーターになっているとされる[6]。
アメリカ
アメリカはもっぱら最終学歴が重視される社会である。とくに学歴間の賃金格差が激しく、多くの州で高等学校在学者の多い年齢までが義務教育であるために「大卒」が中産階級の切符であるようなものである。コミュニティ・カレッジ(短大に近い二年制大学)卒業程度では一般的に地位が高いとされる職業には就くことができない。この意味ではアメリカは日本より学歴(すなわち学位)社会だといわれることもある。
一方で、アメリカの大学は認定機関から教育の質が保障されている。そのため卒業した大学の知名度が低くてもアイビーリーグに代表される一流校の大学院課程に進学する者が少なくない。また学士課程のみを置く少人数の名門教養大学であるリベラルアーツ・カレッジも数多く存在し、それらはアイビーリーグのリベラルアーツ・カレッジと互角の価値を持っている。
そして実力主義社会であり、専門性に基づく経歴が重視されるため、新卒で大企業に入るには大学で良い成績を修めるか、独自の研究成果を上げていなければならない(実績があり・即戦力たり得る場合はこの限りではない)。大学院の課程を修了し修士や博士の学位を取る者が多い。
具体的には弁護士になるためにはロースクールを卒業しなければならず、また企業の幹部は経営学修士号を持つことがほぼ通例である。一部の競争率の高いファームや企業では学位のみならず学校歴を重視し、ハーバードなどのアイビーリーグの大学院修了者が多数を占めていることも多い。また、新卒者の場合は履歴書に専攻・成績表などの学業実績を記載・添付することも一般的である。
また、一旦社会人になってから大学・大学院に戻る者も多く(軍人が除隊後に入学し卒業する例さえある)、学歴を取得した時期自体で直接差別を受けることは少ない。その意味ではアメリカ社会は学歴社会といっても、敗者が復活しやすい側面を有している。このため、日本のように学部偏重型・偏差値志向型・固定型の学歴社会ではない。
大韓民国
韓国はかつては極端な学歴社会であり、ソウル大学出身というだけで企業に入れば「役員候補」とみなされたが、現在は多少その風潮は緩和された。とはいえ極めて強固な学歴社会であることに変わりはない。また、日本の専門学校と短期大学を合わせた形の専門大学も存在するが、社会的には4年制大学卒が良しとされる。
韓国ではソウルに財閥が集中していることや、国の政策で新設大学をソウル以外の地域にのみ設立することを許可していたためソウルにあるソウル大学、高麗大学、延世大学、西江大学、梨花女子大学、成均館大学、漢陽大学などと、理系に限れば韓国科学技術院 (KAIST) 、浦項工科大学校が難関とされ、ソウル大学・高麗大学・延世大学の英語の頭文字を取ったSKYという言葉もある。近年はアメリカの有名大学・大学院に留学することが一般的になっている。
ソウルにある上記の大学の次に全北大学校や全南大学校等の地方の有力大学、そして新設の四年制大学と専門大学という序列が見られる。近年では大学編入が盛んになっており、地方の有力大学→ソウルの難関大学、新設の4年制大学または専門大学→地方の有力大学といった具合に学生が移動する現象が見られる。
学歴信仰
学歴を過度に信頼・重視する立場を学歴信仰と呼ぶ事がある。特に「何を学んだか」ではなく、「どの教育機関の出身者か」という帰属意識ないしそれに付随する付加価値の偏重、資格の実効性に対する過剰な信頼は学歴信仰が認められる国々共通の特徴である。
学歴信仰は、日本や韓国、中国、台湾、インドといったアジアの国々や工業化が進みつつあるアフリカ大陸における国々に多く見られるという主張がある。無論、これらの心情は学歴と言うものが存在する全ての社会に存在するが、上記の国々はそれらがより極端な形で現れるというものである。
学歴信仰の対象となる教育機関は各国の教育レベルによって異なる傾向がある。日本や韓国など高等教育の歴史が長く、自国の教育機関を卒業した人が社会的に高い地位に就いている事が多い国々ではそれらの人々の出身校が評価されやすい。殊に韓国ではテレビのワイドショーに出るコメンテーターにまで“大学教授”の肩書きを持つ人物を求められ、これが経歴詐称に繋がる弊害を生んでいる。
一方、タイなどのように、自国の教育機関が十分に発達していない国々では、国外(主に欧米の著名大学)の教育機関を重視する傾向がある。但し、近年ではチュラーロンコーン大学といった著名校がブランド化しつつあり、自国の教育機関を重視する傾向が強まりつつある。
学歴に関する評価
学歴社会肯定論
学歴社会肯定論としては次のようなものがある。
- 学歴社会は機会の平等を与えている点で身分制度より優れている
- 学歴社会は、学歴は自身の努力と能力で入手できるため、世襲社会など、実力ではなく、身分によって社会的評価が決まる社会より遙かに機会の平等が与えられている。
- 学歴による社会的評価の決定は全ての人に公平、平等に作用している限り、社会階層や出自といった努力や選択によって変えられない要因によって個人評価が左右される事がなく、各人の自由意志が個人評価に反映される。
- 学歴は「個人の努力によって取得可能な社会的メリットの証明」であるという点に健全性を認めている。
学歴社会否定論
学歴社会否定論には次のようなものがある。
- 機会の平等が保障されていないのではないかとの疑念
- 学歴社会を健全なものであると言うためには万人にとって就学機会や就学条件が平等であるという前提条件が必要であるが、実社会においては社会的・経済的な条件によって、就業機会等が不平等になる事がある。
- そのため、学歴社会の健全性を保障するためには各個人間の初期状態の格差を出来るだけ緩和するような政策・環境(例:充実した奨学金制度、再入学や社会人教育といった就学形態が許されているなど)が必要不可欠となるが、充実した奨学金制度などがあっても、子どもに教育にまつわる投資するお金(家庭教師をつける、塾に行かせる教育費など)の点で差がつくために、健全な学歴社会というのは幻想に過ぎないのではないかと指摘するものである。
- 学歴によって人格を非難する傾向が生まれる
- 学歴社会が強くなると、そこに学歴信仰が生まれるようになり、学歴のあるなしによって人の能力や人格を見る傾向がある。学力偏差値が世間的に知名度が高く、官僚を多く輩出したり、大企業に多く入る大学が優秀な大学とされるため、スポーツ等の功績などで評価のある大学も偏差値が低めである事を理由に低く評価する人や企業も出てしまう。
- また、大学に行っていない者などについて、ごく一部の極端な事例をことさらに挙げて、犯罪者が多い、世間常識がないという主張がされることがあり、(2ちゃんねるの学歴板など)学歴がないことを理由に人格まで否定する傾向が出てくる。
- 大学で遊び惚けたにもかかわらず、大手企業に就職したりする。また、専門学校や高等学校等でまじめに勉学に取り組んだにもかかわらず、「大卒」の条件で門前払いをうけたりする。
- 学歴がかならずしも仕事に直結していない
- ソニー創業者の盛田昭夫は『学歴無用論』のなかで、学歴によってえられた知識がかならずしも仕事に直結しているわけではなく、学歴を重視することが真の実力重視をさまたげていると主張した[7]。
社会における学歴の評価
学歴が個人における社会的評価の判断基準として決定的である社会ではその良し悪しによって人間関係のような就業以外の多くの生活領域に影響を及ぼす。
このような理由から、学歴詐称が行われることがあり、近年では著名人や選挙立候補者などによる学歴詐称が話題となっている。学歴詐称行為は昔から存在していた。また、学歴詐称を解雇事由として認める判例(大阪地裁s50.10.31など)も出ている。
学歴の判断
学歴の高低を「どれほどの期間、どれほど高度な教育施設で学んだか」という基準で判断すると、大学院の博士課程(博士後期課程)を修了して博士の学位を有している者(課程博士)、その中でも、複数の博士課程を修了して、博士号を多く有している者が最も高学歴であるといえる。
ただし、高学歴かどうかを判断する基準は、国や個人によって相違がある。例えば、日本の官吏はアメリカなど大学院を重視する国から見ると、修士や博士の学位を有する者が少ないという点で低学歴とみなされる事があるが、日本においては、大学入学試験の難易度のみで学歴の高低が決定される傾向があり、大学入学試験の偏差値が上位に来ている大学の出身者が高学歴と認識されている[8]。
また、各大学の評価は大学の所在地、OBの社会での活躍、企業の中でのイメージ、知名度などによって若干の変動を受ける。特に西日本と東日本での学歴の評価の違いは顕著である。また、大学院卒者は就職初年度から高収入を得るため、企業は大学院卒者を採用しづらい。さらに大学院に行くことにより専門分野が絞られ就職先の候補は少なくなる。これらのことが大学院卒者の少なさの大きな原因になっているという意見もある。
大学院を卒業した人の最終学歴は出身大学ではなく出身大学院であることから、在籍していた大学とは違う大学の大学院に進学し学歴を更新しようとする動きがみられる。これを学歴ロンダリングと称するものもいるが,社会的な評価は定まっていない。
日本では学界など特定の分野を除いて大学院卒を特に重視するという事は少ないため、大学を卒業したかどうか(学士号の有無)が学歴の基準になる事が多い。能力があっても、大卒でないと門前払いされてしまう。ただし、大学への進学者数及び進学率が高くなっているため、単に大学を卒業しているかどうかではなく、「出身大学」によって学歴の高低を判断する事が多い。また、「出身学部・学科」「浪人・留年年数」「入学方法」なども大卒のランク付けに利用される事がある[9]。
高等教育と学歴観
経済成長と共に教育が大衆化して子供の教育にかける家庭の力が強くなり、また教育基本法により法的には開放された教育が行われている現代では大学や大学院へ進学できる者は多くなった。しかしその反面、学習意欲に欠ける者でも、入学・卒業認定基準の甘い学校を選ぶことで、大学卒業や大学院修了という高学歴を得ることもできてしまう。
学習意欲はあっても社会的な自覚が無かったり、惰性で進学しただけの高学歴者層ができることとなった。大学内での苛めもみられるようになり、入学しても、不登校や中退する生徒も少なくない。これが1990年代から話題になった、高学歴のフリーター・ニートの発生の一因にもなっているという指摘もある。
また、日本の大学で特に文科系専攻学科は「入学は難しく、卒業は易しい」ところが多く[10] 、大学での教育内容や評価の妥当性、ひいては卒業生の能力を保証するという学歴の社会的機能にも疑問が呈されている。大学のレジャーランド化に歯止めがかからないので、学歴と学習歴は一致しない。
偏差値の高い大学の生徒は入学までに高額の教育費をかけている場合も多い。私立の進学高校へ通った上学習塾や予備校にも通える生徒と、それが叶わぬ家庭の生徒では進学先に差が出やすい。また、10代に受験勉強にのみ専念することが大切なことであるとして同じく進学する者とのみ一緒に育った生徒はそうでない生徒に対する理解に欠けていたり受験勉強以外のことを学んでいないという偏った点もあり、問題があるともされている。
昨今は大学進学のできる学力や経済力があっても、大学に進まないで働く、専門学校へ行く者もあるなど多様化が進んでいる。
官庁や大手企業の中には留学制度を設けている所もあり、社会人となってから(特に海外の)大学院の修士号を得させる場合がある。
大学などの高等教育機関では生涯教育の理念に基づく社会人学生の増加[11]や、経営上の要請などから編入学の機会を増加させている。また、大学院重点化の対象となっている大学院では定員総数が学内進学希望者(内部進学者)数より大幅に勝っていることが多い。このことから、結果として大学院は内部進学者よりも外部進学者の数が多い「傾向」がある。また、大学院大学では学部を持たないため、100%の学生が外部進学者となる。
学校の卒業に準じて扱われるもの
- 中学校卒業程度認定試験(中卒認定試験、中認、中検)
- 受験者は少ないが、中学校またはその同等学校を卒業したことが無い人が、高等学校またはその同等学校に入学する資格を得るための試験。公的には「中学校を卒業した者と同等以上の学力を有する者」とされる。ただし、受験できるのは義務教育就学免除者に限られていたが、2003年より、不登校などによる非卒業者も受験できるようになった。
- 高等学校卒業程度認定試験(高卒認定試験、高認、旧・大学入学資格検定〔旧・大検〕)
- 高等学校またはその同等学校を卒業したことが無い人が、大学に入学する資格を得るための試験。公的には「高等学校を卒業した者と同等以上の学力を有する者」とされる。ただし、公務員や一部の民間企業を受ける時の橋渡しにはなるものの、現状では高校卒業=高卒とみなされる風潮が強いのも事実である。
- 以前は中学校を卒業していなければ受験できなかったが、今は中学校を卒業していなくても受験できるようになった。なお、中学を卒業していない者がこの試験に合格した場合、上記の中学校卒業程度認定試験にも合格したものとみなされる。
- なお、上記の認定試験は高卒の学歴自体が得られるわけではないが、認定試験合格後大学に入学、卒業することができる。
- 難関国家資格の一次試験
- 旧司法試験の一次試験や、平成17年度までの公認会計士試験・不動産鑑定士試験の一次試験は、大学(の学部・その他の学部同等組織)を卒業した者(または大学において62単位以上修得済みの者)であれば免除されるが、そうでない場合は一次試験を受けなければならない。
- 教員資格認定試験
- 大学や文部科学大臣が指定する教員養成機関を卒業していなくても、この試験に合格すれば、一部の種類の教員免許状の授与を受けることができる[12]。
脚注
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 山田昌弘 「新平等社会…「希望格差」を超えて」2006年9月 文藝春秋 isbn=9784163684505
- ↑ 苅谷剛彦 (2001) 苅谷剛彦 [ 階層化日本と教育危機…不平等再生産から意欲格差社会(インセンティブ・ディバイド)へ ] 有信堂高文社 2001 7 9784842085258
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 天野郁夫 () 天野郁夫 [ 学歴の社会史…教育と日本の近代 ] 初版 平凡社ライブラリー 平凡社 2005-01-06 4582765262 pp. 63-76,80-81,84-88,145-174,186-190,343-357
- ↑ 安原義仁 (2004) 安原義仁 岸本美緒 [ 歴史学事典〈第11巻〉 ] 弘文堂 2004 1 9784335210419 pp. 110-111(「学歴社会」)
- ↑ 川口大司 (2006) 川口大司 小学校入学時の月齢が教育・所得に与える影響 ESRI Discussion Paper Series 内閣府 経済社会総合研究所 2006 6 [ arch. ] 2008-11-16
- ↑ 山根節 『経営の大局をつかむ会計 健全な“ドンブリ勘定”のすすめ 』 光文社〈光文社新書〉、2005年3月17日。ISBN 4334032974
- ↑ 盛田昭夫 (1966) 盛田昭夫 [ 学歴無用論 ] 文藝春秋 1966 pp. 67-72
- ↑ 裏返せば、社会は大学入試合格時点における学力に焦点を当てており、大学で何を学んだかについては興味がないということである。同じ大学であっても、どこの学部を卒業しているかが関心の対象になる場合もあるが、その多くは大学で何を学んできたかに関心があるわけではなく、同じ大学であっても学部ごとの入試難易度が異なり、難易度の高い学部を出ているかどうかに関心があるケースと思われる。
- ↑ 文部科学省学校基本調査参考資料(2005年度)によると、現役と過年度高卒者を合わせた大学への進学率は44.2%、短大を含めると51.5%になる。また、文部科学省学校基本調査概要(2005年度)によると、大学の学生数に対する大学院の学生数は8.8%となっている
- ↑ 入学の難易度は各国で制度が異なることもあって単純な比較は難しい。卒業について、2649 37455 35289570 1 1 1 37455,00.html#Tables OECD調査Executive Summaryによると、比較可能なOECD加盟国17か国の平均卒業率は80%程度となっており、ドイツ、ギリシャ、ノルウェー、日本などが90%超となっている。アメリカは70%弱である。実際に難しい・易しいかは一概に言えないが、数字上は卒業しやすくなっている。
- ↑ 文部科学省学校基本調査概要(2005年度)によると、大学院生のうち社会人が占める割合は17.8%となっている。
- ↑ ただし、高等学校もしくは中等教育学校を卒業した者であること、または高等学校卒業程度認定試験などによって「高等学校を卒業した者と同等以上の学力を有する者」と認められること。
関連項目
- 教育社会学
- 学校
- 大学
- 高等教育
- 短期大学
- 大学一覧
- 駅弁大学
- 大学院進学率
- 大学群
- ブランド大学 - アイビー・リーグ - オックスブリッジ - SKY
- 学閥
- 学歴詐称
- 学歴コンプレックス
- ディプロマミル
- 学歴難民
- 学歴主義
- 学歴ロンダリング
- 学歴板
- 学歴フィルター
- 教育ママ
- 受験戦争
参考文献
- 中野雅至 『高学歴ノーリターン The School Record Dose Not Pay』 光文社、2005年11月22日。ISBN 433493370X
- 溝上憲文 『超・学歴社会』 光文社、2005年4月22日。ISBN 4334933572
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