生長の家
生長の家(せいちょうのいえ)は、大本の信者だった谷口雅春が1930年(昭和5)に創設した皇道神道系の宗教団体。同年に谷口が創刊した個人雑誌『生長の家』を合冊して1932年に刊行された『生命の実相』がベストセラーとなり、信者の出資による(株)光明思想普及会の雑誌売上で営利会社並みの利益をあげる「出版宗教」として成長した。
日中戦争から太平洋戦争の間、「天皇絶対」「聖戦完遂」を提唱して積極的に戦争に協力し、労働者・民衆の教化団体として職域や大陸にも進出。1945年の敗戦後、谷口は公職追放となり、教団は自由と平和愛好を提唱するなど方針転換をはかったが、1952年の講和条約発効後、谷口の指導下で再び右傾化して神道色を濃くし、帝国憲法復帰、天皇元首化などを主張し、反共を基調とする民衆運動を展開して教勢を再拡大した。1964年に生長の家政治連合を設立、翌1965年の参議院選挙以降、自由民主党所属の参議院議員を輩出するなどして保守系政党への影響力を強めた。
1985年に谷口が死去。その後の昭和天皇の死去と冷戦崩壊により天皇崇拝と反共を旨とした教団の活動は停滞し、政治活動を後退させ信仰・思想の深化を志向した2代総裁・谷口清超、過去の右傾化・国家神道体制への回帰を否定しエコロジーを追求する路線を打ち出した3代総裁・谷口雅宣の路線転換は内部分裂を招いた。2017年現在、創始者・谷口雅春の思想に感化されていた元信者は、日本会議の事務局を運営し、その方針に影響を及ぼしている。
創設[編集]
1928年に、谷口雅春は、宗教について話し合う「求道者の会」を立ち上げた[1]。谷口は、会の賛同者たちに、雑誌『生長の家』を無料で配っていた[1]。
- 村上 (1978 409-410)は、『生長の家』の創刊は1930年(昭和5)3月、としている。
雑誌『生長の家』の病気治しの体験談や人生問題の解決法が評判となり、誌友(信者)が増えて、1930年6月に最初の支部が設立された[2]。1932年に雑誌のバックナンバーを合冊して刊行された『生命の実相』は、生長の家の聖典とされるようになった[2]。
1933年には『生長の家』の姉妹誌『生命の芸術』が創刊された[3]。
1934年夏に谷口夫妻が神戸から上京したことを契機に、雑誌『生長の家』にまつわる「人類光明化運動」の活動主体として東京の赤坂檜町(港区赤坂)に(株)光明思想普及会が設立され[4]、『生命の実相』の普及版全10巻を刊行し、巨額の宣伝費を投じて主要な全国紙に巨大広告を掲載[5][6]。また月刊誌『生命の実相』『生長の家』『生命の芸術』等を出版した[5][6]。
『生命の実相』の大々的な新聞広告の効果もあって、1935年(昭和10)に信者は俸給生活者や中小企業経営者を主力に3万人に達し、機関誌の発行部数は80万部を超えた[7]。
- 村上 (1978 410)は、営利会社並みの利益をあげる「出版宗教」として近代的な教団経営に成功した、と評価している。
- 『生命の芸術』の編集に携わっていた松本竣介は、「谷口先生は神様になって遠くへいってしまわれた」として、3年ほどで生長の家を離れた[3]。
1935年には生長の家教育連盟が設立され、光明化教育の一環として雑誌『生命の教育』が創刊された[8]。出版事業と併行して支部の指導者を養成する講習会が各地で開催された[9]。
同年、赤坂の山脇高等女学校跡地を買収して本部が設立され、谷口夫人・輝子を総裁とする婦人会が発足し、機関紙『白鳩』が創刊された[9]。
教団の布教体制が整うまでは、光明思想普及会が出版事業を、「生長の家」が講習会などの教育事業を行うという棲み分けがなされていた[10]。
教義[編集]
村上 (1978 410)は、生長の家の教義は、仏教、キリスト教、神道の教説をはじめ、アメリカの宗教思想家F・ホルムス の宗教論、カント、ヘーゲル、エマーソンの観念論哲学、フロイト主義などを折衷した典型的なシンクレティズム、と評している。
全ては久遠の生命である宇宙に帰るとする「万教帰一」を提唱し、病気や苦悩の克服のための修行「神想観」を創案した[7]。
戦争協力[編集]
日中戦争から太平洋戦争の間、「天皇絶対」「聖戦完遂」を提唱し、会社・工場に進出して労働者教育で実績をあげ、大陸に進出して、満州光明思想普及会を設立した[7]。
1940年(昭和15)に宗教団体法が施行されると、生長の家は宗教法人ではないが、教義の宣布などを行う組織である宗教結社として認定され、公式に宗教団体として活動するようになった[9][11]。
戦時下の宗教統制強化でほとんどの新宗教が活動の余地を狭められ、逼塞する中で、霊友会とともに、例外的な発展を続けた[7]。
- 「万教帰一」は一般に、個々の宗教は対立するものでなく、本質を同じくするという意味合いで解釈されるが、谷口はその根源を全て天皇に帰すという意味合いで解釈し、時流に従って「生長の家」の存在意義を社会に向けて訴えようとした[12]。
- 太平洋戦争が勃発すると、「聖戦」を主張し、中国軍撃滅のために「念波」を送ることを呼びかけた[13]。文部省が編纂し、1937年に刊行した『国体の本義』が手ぬるいと誌上で文部大臣を批判したこともあった[13]。
1944年頃には、紙不足のため、活動の中核である雑誌や単行本の発行ができなくなった[14]。
戦後[編集]
1945年の敗戦後、印刷用紙の配給が始まり、雑誌の刊行が可能となったが、谷口は戦時中の好戦的な主張について誌上で弁解を余儀なくされ、軍部が暴走して天皇の意に沿わない戦争を展開した(皇軍の範疇を逸脱した)のであり、自分が支持した皇軍は負けていない、との主張を展開した[15]。同年11月、生長の家は日本の復興をめざして生長の家社会事業団を設立し、天皇制の護持を提唱して全国精神主義連盟を結成した[16]。
GHQは谷口の戦時中の超国家的な言論活動を戦争協力とみなし、1948年に公職追放の対象に指定した[10][17]。このため、メディアを通じた布教活動や社会事業団・全国精神主義連盟による活動も停滞した[10]。教団は教義を改変し、自由と平和愛好を提唱し、アメリカから心身医学を取り入れるなど、方針を転換[7]。1946年に日本教文社を設立して出版活動を再開した[7]。
1947年の参議院議員選挙に教団の教育部長・矢野酉雄が全国区から立候補し、任期3年の補欠当選[18]。
1951年に8月にPL教団、立正佼成会、世界救世教、惟神会とともに「新宗教団体連合会」を設立、同年10月の新宗連設立に参加した[19]。
1951年に谷口の公職追放が解除となり、翌1952年にサンフランシスコ講和条約が発効すると、谷口の指導下で教団は積極的な布教活動を再開し、急速に右傾化して神道色を濃くした[10][16][20]。1952年5月に新しく施行された宗教法人法に基づく宗教法人生長の家として認証を受けた[21]。
同年、ラジオによる布教を開始[22]。「万教を超えた生命の礼拝」「人生苦の克服と生活の繁栄」「相愛協力の地上天国の建設」などを提唱して再び教勢を拡大[16][20]。1954年にJR山手線の原宿駅近くに本部会館が竣工した[23]。
1955年には、熱心な信者だった福島県会津若松市の県立会津女子高校の教諭が、朝のホームルームや昼食の時間に生徒に生長の家の祝詞を唱えさせたり、道徳の授業で教団の教義を紹介したり、教室内に谷口雅春の金言入りカレンダーを掲示したりしていたことが教育基本法に抵触するとして問題となり、福島県教育委員会の調査を受けた[24]。
1957年、靖国神社国家護持で立正佼成会などと立場を異にしたことから、谷口の意向により新宗連を脱退した[19]。
昭和30年代(1955年 - 1965年)には、紀元節復活、明治憲法復元を求める運動を起こし、1960年の日米安保改定に際して日の丸援護会を結成するなど、戦前にも増して右傾化を強めた[22]。その他に、天皇の元首化、日の丸掲揚、靖国神社国家護持、堕胎防止などを提唱し、反共を基調とする民衆運動を展開した[16][20]。
- 柏書房 (2011 110)は、1950年代から朝鮮特需などによる戦後復興が急速に進み、同時に戦後民主主義が浸透していったが、その反動として個人主義の横行と共同体に根ざした伝統文化破壊への批判が強まり、戦前の天皇崇拝や国家主義の復興を前面に押し出した生長の家の主張が受け入れられる余地が出てきた、としている。
- 島田 (2017 240-241)は、生長の家の戦前回帰の主張は、戦前に教育を受け、戦後の民主主義社会に違和感を持っていた人たちに受け入れられ、それにより戦後、教団は、信者が100万人を超える大教団へと発展していった、と指摘している。
政治活動[編集]
1964年に政治団体・生長の家政治連合を結成、翌1965年の参議院議員選挙で所属員が自由民主党の公認候補として全国区に出馬して当選した[25][20]。その後も参議院議員を輩出するなどして、保守政党への影響力を拡大した[25][20]。
また海外進出も活発化し、戦後間もなくハワイや米本土での布教を開始、戦前から進出していたブラジルでも支部が結成され、1960年頃からは特にブラジルでの布教に注力した[22]。
1969年に結成された自主憲法制定国民会議に参加[26]。
1970年代前半に長崎県西海市に100ヘクタールを超える広大な土地を購入し、1978年に敷地内に「竜宮住吉本宮」などの教団施設が竣工、教団の総本部が原宿から移転した[27]。その後も周囲の土地を買い増して敷地の拡張が進められ、資料館や谷口家の墓所などが建設された[28]。
路線転換[編集]
谷口雅春の女婿で1985年11月に教団の第2代総裁に就任する谷口清超は、雅春の晩年に生長の家政治連盟の活動停止を決め、教団の安定化と、信仰・思想の深化を目指す方針を打ち出した[29]。総裁就任の翌1986年には、二男の雅宣を教団の副総裁とし、実質的な後継者とした[30]。
1989年に、教団が崇拝の対象としていた昭和天皇が死去し、同年、ベルリンの壁が壊されて冷戦が終結すると、戦後、天皇信仰と反共を強調してきた教団は対立軸を失い、存在意義が薄れることになった[28]。教団の停滞から内部分裂が進み、2002年(平成14)に清超の娘・寿美とその夫・宮沢潔は「生長の家オーストラリア法人」を独立させて、その日本本部として宗教法人・ときみつる会を設立した[30]。
2005年に谷口清超が体調を崩し、その二男・谷口雅宣が総裁代行となったが、同年、雅宣の弟で教団の副理事長を務めていた谷口貴康が退職し、週刊誌や教団関係者のウェブサイトなどで、雅宣による左遷が理不尽だったことが原因と指摘された[30]。
2008年の清超の死去を受けて、翌2009年に雅宣が第3代総裁に就任[30]。教団の天皇信仰や右傾化路線を修正して[30]、国家神道体制への回帰志向路線を否定し、エコロジーを追求する宗教団体に路線転換した[31]。
谷口雅春の思想に感化されていた「生長の家」の元会員は日本会議の事務局の運営を担当するようになり、会議の方向性にも影響を及ぼしていた[32]。
近況[編集]
※2011年当時[1]
- 総裁:谷口雅宣
- 代表役員(理事長):磯部和男
- 所在地:渋谷区神宮前1-23-30
- 信者数:711,427人
付録[編集]
関連文献[編集]
- 大宅壮一「『生長の家』を解剖する」『宗教を罵る』信正社、1937年、p.48 NDLJP 1229216
- ――「『生長の家』とは?」『大宅壮一全集 第4巻』蒼洋社、1981年、JPNO 81027181[33]
- 生長の家本部(編)『生長の家50年史』日本教文社、1980年、JPNO 82026033
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 柏書房 2011 99
- ↑ 2.0 2.1 村上 1978 409-410
- ↑ 3.0 3.1 柏書房 2011 106
- ↑ 柏書房 2011 107
- ↑ 5.0 5.1 大宅 1937 60-61
- ↑ 6.0 6.1 柏書房 2011 106-107
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 7.6 村上 1978 410
- ↑ 柏書房 2011 107,108
- ↑ 9.0 9.1 9.2 柏書房 2011 108
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 柏書房 2011 109
- ↑ 村上 1978 410は、1941年に宗教団体法による宗教団体となった、としている。
- ↑ 島田 2017 174-175
- ↑ 13.0 13.1 島田 2017 175
- ↑ 島田 2017 175-176
- ↑ 柏書房 2011 108-109
- ↑ 16.0 16.1 16.2 16.3 島田 2017 240
- ↑ 島田 2017 239-240
- ↑ 島田 2015 149-150
- ↑ 19.0 19.1 島田 2015 185-188
- ↑ 20.0 20.1 20.2 20.3 20.4 村上 1978 411
- ↑ 柏書房 2011 109-110
- ↑ 22.0 22.1 22.2 柏書房 2011 110
- ↑ 柏書房 2011 100,110
- ↑ 柏書房 2011 c-07
- ↑ 25.0 25.1 島田 2015 187
- ↑ 島田 2015 188
- ↑ 柏書房 2011 110-111
- ↑ 28.0 28.1 柏書房 2011 111
- ↑ 柏書房 2011 111-112
- ↑ 30.0 30.1 30.2 30.3 30.4 柏書房 2011 112
- ↑ 島田 2017 12,292
- ↑ 島田 2017 12,290
- ↑ 島田 2017 119
参考文献[編集]
- 村上 (1978) 村上重良『日本宗教事典』講談社、JPNO 79002209
- 柏書房 (2011) 島田裕巳(監修)柏書房(編)『現代にっぽん新宗教百科』柏書房、ISBN 978-4760139729
- 島田 (2015) 島田裕巳『戦後日本の宗教史』〈筑摩選書〉筑摩書房、ISBN 978-4480016232
- 島田 (2017) 島田裕巳『日本の新宗教』〈角川選書〉KADOKAWA、ISBN 978-4041052525