中村俊輔

提供: Yourpedia
2020年1月17日 (金) 21:33時点における防人 (トーク | 投稿記録)による版 (SEOに熱心なMuttley (トーク) による編集を 61.45.193.68 による直前の版へ差し戻しました)

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索

中村 俊輔(なかむら しゅんすけ、1978年6月24日 - )は、神奈川県横浜市出身のプロサッカー選手J1横浜F・マリノス所属。ポジションはミッドフィールダー。「俊輔」「俊さん」などの愛称で親しまれている。海外では「シュンスケ」や「シュン」と呼ばれる事は少なく、「ナカムラ」もしくは愛称として「ナカ」「ナック」と呼ばれる事が多い。

2000年JリーグMVP(日本人選手最年少の22歳)、アジアカップ2004MVP、2006-07スコティッシュ・プレミアリーグMVPなどを受賞している。

元タレントの今井まなみとの間に3児。

来歴[編集]

学生時代[編集]

深園SCに入団、サッカーを始める。市立深谷中学時代には日産(現・横浜F・マリノス)のジュニアユースのエースとして全国優勝を果たすも[1]ユースへ昇格が出来ず[2]、ジュニアユース時代の先輩に誘われて桐光学園高等学校へ進学しサッカー部に所属[3]、高校2年の全国高校サッカー選手権で頭角を現し、高校3年の全国高校サッカー選手権で準優勝を収めた[4]。またアジアユースにも高校サッカー部からの唯一の選出選手として出場した。

Jリーグでの活躍[編集]

1997年横浜マリノスに入団。同年のワールドユースに出場。1997年のJリーグ優秀新人賞を受賞する。1998年初頭にはA代表合宿に初参加する。1999年Jリーグベストイレブンを初受賞する。

2000年U-23代表の主力としてシドニーオリンピックに出場。同年、日本人選手最年少でJリーグ最優秀選手賞日本年間最優秀選手賞を受賞。A代表にも初招集され、アジアカップでは優勝とベストイレブンを受賞、日本代表として定着していった。

セリエA・レッジーナ移籍[編集]

2002年5月、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いていたものの、直前に治って親善試合で活躍し、日韓W杯本大会メンバーへの招集が有力視されていたが、当時の日本代表監督であったトルシエの選考基準に合致しなかったことなどで落選した(トルシエはW杯後に「負けているときに誰を投入しようかとベンチをみた。その時中村だけが試合をみず髪の毛ばかりをいじっていた。」と発言、未選出の一因をあげている)。スペインの名門、レアル・マドリードからもオファーがあった(このオファーはレアル・マドリードのカンテラ(下部組織)からプレーさせるというものだった)が、W杯に出場することが条件にあったため、立ち消えになった。しかし同年7月、イタリアのセリエAレッジーナに移籍。レギュラーを確保し、キッカーを任されセリエA残留に貢献した。

2003年6月、コンフェデレーションズカップフランス大会で、3得点を挙げて『ブロンズシュー賞』を受賞。中でもフランス戦では、バルテズから得点を奪ったフリーキックや、片足でのマルセイユ・ルーレットを繰り出すなどの活躍からフランスの新聞・レキップ紙には「宝石のように輝いていた」などと評された。2003シーズンは出来得る限り代表戦に出場したが、コンディションを崩してしまったこと、故障を繰り返したことが響いて、リーグ戦出場は激減した。

2004年7月から8月に行われたアジアカップ中国大会で、最優秀選手に選ばれた。

3年目となったセリエAの2004-05シーズンは、終盤こそ恥骨炎や膝の負傷などで途中出場があったがほぼ先発出場し、クラブ創設以来の最高順位に貢献。レッジーナ歴代ベストイレブンに選出される。2005年6月、コンフェデレーションズカップドイツ大会で、1得点2アシストをあげ、グループリーグで敗退したチームの選手で構成されるベストイレブンに選出された[5]。また、今大会ブラジル戦では強烈なミドルシュートを決め、さらに同点のきっかけとなるフリーキックも放つなど、得点を挙げたロナウジーニョロビーニョらを抑えて、ギリシャ戦に続き2試合連続でのMOMに選出されている。

セルティック移籍[編集]

セリエAで3年間プレーした後、2005年7月にスコティッシュ・プレミアリーグの2強の一角であるセルティックへ移籍。リーグ優勝と国内カップ戦優勝の2冠を獲得した。

2006年4月、フットボールスクール「Shunsuke Park Soccer School」を出身地・横浜に開校。6月、ドイツW杯に選出された。W杯直前に風邪をひいたが、ジーコは中村を中心選手として重要視していたため、結局グループリーグ全3試合にフル出場。オーストラリア戦では足の爪が割れ、クロアチア戦直前には39度の発熱に見舞われるなどのコンディションもあり納得のいくパフォーマンスが発揮出来ず、2敗1分で敗退した。また第1戦のオーストラリア戦ではクロスボールが直接得点となり、自身のW杯での初得点となった。9月、2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグに初出場。グループリーグ第1戦、オールドトラフォードで開催されたマンチェスター・ユナイテッド戦でフリーキックによる得点をあげ、UEFAチャンピオンズカップからUEFAチャンピオンズリーグ(以下CL)に改編されてからの日本人初得点者となった[6]。続く対マンチェスター・ユナイテッド戦でも得点、決勝トーナメント進出を果たす。これはセルティックにとって現行のCLとなって初[7]、日本人選手としても初めての快挙である[8]。2006年10月14日、ダンディー・ユナイテッド戦で海外リーグ戦における自身初のハットトリックを決めた[9]

2007年3月24日、キリンチャレンジカップペルー戦において、オシムジャパン発足以来の初選出。2アシストで勝利に貢献した。4月、セルティックのリーグ戦連覇が決まり、日本人で初めて欧州リーグで連覇を経験した選手となった[10]。2006-07シーズンではリーグトップの12アシストを挙げ、スコットランドPFA年間最優秀選手賞、スコティッシュ・プレミアリーグベストイレブン、スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞を受賞、年間ベストゴール賞[11]も獲得した。また、2007年のバロンドール候補にもノミネートされた[12]

エスパニョール移籍[編集]

2009年6月22日、Jリーグ横浜F・マリノスなどからオファーを受けていたが、スペインエスパニョールへの移籍が決定した[13]。当初、背番号は25を希望していたが、リーガ・エスパニョーラの規定で25はGK専用の番号であるため、プロデビューしてから初の1桁の背番号である背番号7を着用することになった。ちなみに背番号を7に決めた理由については「(空き番号に)7とか14とかあったんだけれど、着けたことがない番号で新鮮な気持ちで」選んだと語っている[14]

新たなチームの顔として非常に大きな期待を寄せられたエスパニョール加入だったが開幕直後から低調なプレーが続き、ポチェッティーノ監督は調子の上がらない中村に対して、彼の意向を汲んだ上で様々な中盤ポジションで中村を起用する。シーズン前半に出場した試合の11試合(リーグ戦先発出場6試合、ベンチスタート4試合、カップ戦先発出場1試合)にて、ゴール0アシスト0[15]、と、ほとんどチームに貢献できず、Goal.com選出のリーガ前半戦のワーストイレブンに選出されてしまった[16]。また当初は中村に対して協力的であったポチェッティーノ監督もシーズンが進むにつれ期待に応えられない中村に、「チームのみなが、彼が気持ちよくプレーできるように力になる」とコメント。即戦力とみなして獲得した司令塔が「期待外れ」だったことを、公の場で暗に示してしまった[17]

年が明けて移籍1年目シーズンの中間移籍期間には早くもチームの移籍リストに載るまでになり、セルティック時代の恩師ゴードン・ストラカンが監督を務めるイングランド2部所属のミドルスブラFCよりレンタル移籍のオファーを受ける。しかし、2部への移籍となることなどから中村本人が移籍を拒否[18]、引き続きエスパニョールに残留する事となった。しかし、2010年1月からのシーズン中盤以降はエスパニョールの新戦力獲得や若手の台頭などにより、これまで以上に出場機会が激減。2月26日に古巣の横浜F・マリノス復帰が決まった。結局スペインでは結果が残せず、約8年ぶりの国内復帰となった。

プレースタイル[編集]

プレースキックの名手として報道されており、特に直接フリーキックを得意としている[19]。ゴールに対して角度のあまりない位置から助走するのが特徴で、軸足を地面に滑り込ませるように踏み込み、勢いそのままに上半身を押し出しながら巻き上げるように足を振り抜く、独特のフォームである。

フィールドプレーにおいては、中盤で溜めをつくりながら正確な中・長距離のパスでボールを散らし、隙を見て前線へスルーパスを送る。また、スピードは無いもののフェイントを織り交ぜた柔らかいタッチのドリブルが特徴。発想力やテクニックに優れ、足裏を使って相手をかわす等のプレーも得意としている。繊細なテクニシャンであるが、コンフェデレーションズカップでのブラジル戦にも代表されるように、強烈なミドルシュートも持ち合わせている。レッジーナ時代には、その創造性とテクニックを駆使するプレースタイルから「東洋のバッジョ」と称された[20]。さらにセルティック時代には、恩師ゴードン・ストラカンはフィジカル面を問題視しながらも中村について「タックルができない。ヘディングもできない。それがどうした、彼は天才だ」という言葉を残している。

一方では対人での守備や積極性、フィジカル面に課題を残している。近年では運動量の増加や守備に対する意識が向上しているという評価もあるが、それに反比例するかのように攻撃面で決定的な違いを生む場面が少なくなった。特にエスパニョールでは、20代前半のような個人での突破や得点に絡むプレーがほとんど見られず、カウンターのチャンスでも大きな溜めを作ることやバックパスをすることから味方の攻撃の流れを止めることも少なくなく、消極的なプレーが非難されていた[21]。またスペイン語などのコミュニケーションが取れないこと、自己主張の弱さなどが不振の要因だったのではないかと分析されることもある。中盤の右サイドであるにも関わらず、ポジションや戦術を無視してボールを持つ味方に近寄って足元でボールをもらう動きが多く、右サイドにスペースができるため、そこを攻め込まれることが多々あることで、戦術眼の低下やプレーの質が劣化したとの見解もある。

また、日本代表において得意の直接フリーキックからの得点を毎年記録しているものの、コーナーキックからのアシストは、2006年2月28日に行われたボスニア・ヘルツェゴビナ戦以来[22]。フリーキックからのアシストは、2007年9月11日に行われたスイス戦以来[23]、記録されていない。但し、クラブチームにおいてはJリーグ復帰後、2試合続けてコーナーキックからのアシストを記録している。

人物[編集]

  • 代表のチームメイトである中澤佑二遠藤保仁と仲が良く、特に代表での遠藤との相性の良さは有名である。解説者では中西哲生と親交がある。
  • プライベートでは2004年2月、横浜マリノス時代のチームメート奥大介の夫人・佐伯日菜子の紹介で知り合った、「全国女子高生制服コレクション」第6回準グランプリ(1996年)の今井まなみと結婚、2010年現在3児の父。結婚に女性ファンは大ショックだったという。

代表歴[編集]

出場大会など[編集]

試合数[編集]

  • 国際Aマッチ 94試合 24得点(2000年 - )
2000 16 3
2001 1 0
2002 6 2
2003 8 4
2004 15 3
2005 11 2
2006 6 2
2007 10 4
2008 9 2
2009 7 2
2010 1 0
通算 94 24

ゴール[編集]

# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 試合概要
1. 2000年2月16日 中国 テンプレート:BRUf ○ 9-0 AFCアジアカップ2000予選
2. 2000年6月11日 日本 スロバキアの旗 スロバキア スロバキア △ 1-1 キリンカップ
3. 2000年8月16日 日本 テンプレート:UAEf ○ 3-1 キリンチャレンジ2000
4. 2002年5月2日 日本 テンプレート:HNDf △ 3-3 キリンカップ
5. 2002年5月2日 日本 テンプレート:HNDf △ 3-3 キリンカップ
6. 2003年3月28日 日本 テンプレート:URYf △ 2-2 親善試合
7. 2003年6月18日 フランス ニュージーランドの旗 ニュージーランド ○ 3-0 FIFAコンフェデレーションズカップ2003
8. 2003年6月18日 フランス ニュージーランドの旗 ニュージーランド ○ 3-0 FIFAコンフェデレーションズカップ2003
9. 2003年6月20日 フランス フランスの旗 フランス フランス ● 1-2 FIFAコンフェデレーションズカップ2003
10. 2004年6月9日 日本 テンプレート:INDf ○ 7-0 2006 FIFAワールドカップ・アジア地区予選
11. 2004年7月20日 中国 テンプレート:OMNf ○ 1-0 AFCアジアカップ2004
12. 2004年7月24日 中国 テンプレート:THAf ○ 4-1 AFCアジアカップ2004
13. 2005年6月22日 ドイツ ブラジルの旗 ブラジル ブラジル △ 2-2 FIFAコンフェデレーションズカップ2005
14. 2005年9月7日 日本 テンプレート:HNDf ○ 5-4 キリンチャレンジカップ
15. 2005年10月8日 ラトビア テンプレート:LVAf △ 2-2 親善試合
16. 2006年6月12日 ドイツ オーストラリアの旗 オーストラリア ● 1-3 2006 FIFAワールドカップ
17. 2007年7月13日 ベトナム テンプレート:UAEf ○ 3-1 AFCアジアカップ2007
18. 2007年7月16日 ベトナム テンプレート:VNMf ○ 4-1 AFCアジアカップ2007
19. 2007年9月11日 オーストリア スイスの旗 スイス スイス ○ 4-3 親善試合
20. 2007年9月11日 オーストリア スイスの旗 スイス スイス ○ 4-3 親善試合
21. 2008年6月2日 日本 テンプレート:OMNf ○ 3-0 2010 FIFAワールドカップ・アジア地区予選
22. 2008年9月6日 バーレーン テンプレート:BHRf ○ 3-2 2010 FIFAワールドカップ・アジア地区予選
23. 2009年3月28日 日本 テンプレート:BHRf ○ 1-0 2010 FIFAワールドカップ・アジア地区予選
24. 2009年11月18日 香港 テンプレート:HKGf ○ 4-0 AFCアジアカップ2011 (予選)

タイトル[編集]

クラブタイトル[編集]

横浜Fマリノス
セルティックFC

個人タイトル[編集]

その他[編集]

経歴[編集]

所属クラブ[編集]

ユース経歴

プロ経歴

CM出演[編集]

PV出演[編集]

  • Hi-Fi CAMP 「だから一歩前に踏み出して」(2009年)

出版[編集]

執筆書籍[編集]

関連書籍[編集]

DVD[編集]

  • SHUNSUKE
  • FANTASISTA Shunsuke Nakamura IN SCOTLAND GLASGOW
  • 中村俊輔の“I Love Soccer”サッカー教室〈永久保存版〉
  • 中村俊輔DVDバイオグラフィー 2002 - 2005
  • セルティック 2005 - 2006シーズン リーグチャンピオンへの軌跡

脚注[編集]

  1. ただし、同チームが2年連続全国優勝を果たした3年生時は10番を背負いながら控え選手だった(『中村俊輔物語』より)。
  2. 中村本人は、当時のプレーが悪かったから昇格できなかったのだと語っているが(著書 察知力)、当時の担当者は160cmに満たない身長が原因だったと述懐している。『中村俊輔物語』では体格差を個人技で補おうとしたが、そのプレイスタイルがチームの方針に合わなかったことから出場機会を失っていったという。
  3. 1学年上には須藤大輔、同級生に佐原秀樹、1学年下に宇留野純井手口純がいる。
  4. この時、横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)のサポーターが応援に来た。
  5. ドイツキッカー誌の選定による。
  6. 1992年からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップにおける初得点者は、1978-79年大会の奥寺康彦
  7. UEFAチャンピオンズカップだった40年前に優勝している。
  8. 1992年からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップでは1979年に奥寺康彦が進出している。
  9. スポーツ報知 (2006-10-15) スポーツ報知 俊輔ハット!オシム監督見たか…スコットランド・プレミアリーグ 2006-10-15 [ arch. ] 2009-03-01
  10. 近年の欧州リーグでの優勝に関しては中田英寿がセリエA・ASローマで優勝。
  11. ダンディーユナイテッド戦のループシュート。
  12. 日本人としては中田英寿、稲本潤一に次ぎ3人目。
  13. 日刊スポーツ (2009-06-24) 日刊スポーツ 俊輔、14クラブからオファー来ていた 2009-06-24 [ arch. ] 同日
  14. 【俊輔トーク】新鮮な気持ちで背番号「7」に - SANSPO.COM、2009年7月13日
  15. 第4節マラガ戦にて日本ではアシストを記録したように言われているが、実際はアシストでは無く、中村俊輔オフィシャルウェブサイトでもアシストとはなっていない。出場記録 RCDエスパニョール - 中村俊輔オフィシャルウェブサイト
  16. Spanish Inquisition: La Liga Worst Team Of The Season - Goal.com、2009年12月29日
  17. エスパ監督、会見で“俊輔は期待外れ - nikkansports.com、2009年11月6日
  18. 中村、代理人とボロ移籍の話し合いへ - Goal.com、2010年2月2日
  19. FIFA 公式サイトで行われた意見公募企画、/newsid=625416.html FKの名手は誰?にて、名手の一人として写真入りで紹介されている。
  20. 指揮官絶賛「俊輔はバッジオ」 – SerieA.jp、2004年9月14日
  21. 俊輔2試合連続惨敗 消極的なプレーに客からブーイング - ZAKZAK、2009年12月7日
  22. サッカー日本代表 国際親善試合 ボスニア・ヘルツェゴビナ戦 - スポーツナビ、2006年2月28日
  23. サッカー日本代表 国際親善試合 スイス戦 - スポーツナビ、2007年9月11日
  24. 1992年の再編成後、UEFAチャンピオンズリーグ本戦における、日本人初得点。

外部リンク[編集]