長いナイフの夜

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長いナイフの夜事件(ながいナイフのよるじけん)とは、1934年6月30日から7月2日にかけて、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が行った突撃隊(SA)などに対する粛清事件である。

粛清は正式な法的措置を執らずに行われ、エルンスト・レームらSA幹部、かつてナチス左派の領袖だったグレゴール・シュトラッサー、元首相で名誉階級陸軍大将のクルト・フォン・シュライヒャーなど党内外の人々多数が裁判を経ずに殺害された。当局の公式発表によると77人が死亡したことになっているが、116名の死亡者の氏名が明らかになっている。亡命ドイツ人の発表では千人以上という数値も主張されている。事件名は、5世紀ウェールズでのザクセン人傭兵による、ブリテン人への宴席での騙し討ち(隠し持った長ナイフによる殺害)にちなむ。

背景

突撃隊(SA)はナチス党の私兵部隊であり、ヴァイマル共和政時代には共産党の私兵部隊「赤色戦線戦士同盟」などと殴り合いをしていた。ヴェルサイユ条約で兵器保有制限を課されていたドイツ正規軍「国軍(Reichswehr)」からも右翼政党の武装組織として期待され、武器などの供給を受け、かなりの武力を保持していた。ナチスの党勢拡大とともに突撃隊も巨大化していき、ナチ党が政権を掌握した1933年には突撃隊は総員400万人、うち武装兵士が50万人の規模であった。これは国軍における陸軍将兵10万人の5倍にもおよぶものであり、国内最大規模の武装集団であった。1931年以来、突撃隊(SA)を指導していたのは突撃隊幕僚長エルンスト・レームであった。レーム以下突撃隊員の多くがナチスの政権掌握後、突撃隊を新たな正規軍とする事を望み、それに関する独自の構想も持っていた。レームはヒトラー内閣でみずからが国防大臣として入閣できるものと信じていたが、期待に反して当初彼は閣僚には加えられなかった(1933年12月にようやく無任所大臣として入閣している)。

ヒトラーへの失望が大きかったレームは、公然と「第二革命」をとなえてヒトラーや軍部を攻撃するようになった。レームの政敵であるヘルマン・ゲーリング指揮下のゲシュタポ(秘密警察。後に親衛隊の組織となるが、当時はプロイセン州内相たるゲーリングの指揮下にあった)は、レームを徹底的に監視し、その反ヒトラー的言動を逐一ヒトラーに報告した。ヒトラーは長年の同志であるレームを粛清することは避けたいと考え、当初はレームの懐柔を狙った。1933年12月1日に無任所大臣として閣僚に加えたり、勲章を与えるなどしていたが、これらはレームと突撃隊の独自路線を抑制するには至らなかった。1934年代になるとレームのヒトラーへの攻撃的姿勢は更にあからさまになった。部下の突撃隊員達も各地で「第二革命」を叫び、プロイセン的な価値観やユダヤ教・キリスト教などのドイツの伝統的宗教を盛んに攻撃し、軍部などの保守層と敵対した。彼らは酒を飲んでは街中で暴行をふるっていたのでドイツ国民の評判も悪かった。

レームを中心とした突撃隊一派がヒトラーや軍部に対して反乱を企てているというデマが流れた。事態を重く受け止めたパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領は「ヒトラーが処置を下さない場合には大統領権限で戒厳令を布告して軍に処置を下させる」とヒトラーに通告した。首相権限の形骸化を恐れたヒトラーがついに粛清を決意したものとみられる。しかしレーム自身には反乱の意志はなかったとされ、プロイセン州首相ヘルマン・ゲーリング親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー親衛隊諜報部(SD)長官ラインハルト・ハイドリヒの三名がレームの反乱計画を捏造したのが真相であるとされる。

突撃隊と軍部の争い

エルンスト・レームは、貴族が幹部を占める今の正規軍「国軍(Reichswehr)」では、ヴェルサイユ条約を打破して再軍備がかなったとしても結局、旧プロイセン王国的な旧式軍隊にしかならず、近代戦争に対応できる軍隊にはならないと考えていた。彼が理想とするのは国民軍の形態であった[1]。突撃隊は5つの突撃隊上級集団(軍隊の「軍団」に相当)と18の突撃隊集団(「師団」相当)で構成され、国軍の5倍にあたる兵力を保持し、軍隊と同等の規律を有し、その指揮官達は元将校たちで占められていた[2]。いつでも国軍(Reichswehr)に取って代わることができる状態であった。

軍部は突撃隊を警戒しつつも初めは利用を考えた。国防省軍務局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウ少将は突撃隊を東部の国境警備の民兵にしたり、国軍の予備戦力にしたりするため、突撃隊と接触し、1933年5月には突撃隊と国軍はその旨の協定を結んでいる。協定では突撃隊は国軍の管轄下になるはずであったが、レームはやがて東部国境での独立的な指揮権と武器庫監督権を主張するようになり、国軍と対立を深めた[1]

1934年2月にレームは国防省に覚書を送ったが、内容があまりに過激であったため、国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルク上級大将は、司令官会議の席上「レームが全国の国防組織をSAの傘下に入れ、国軍をただの訓練機関にしようとしている。」と結論するに至った。このためブロンベルクはついにヒトラーの裁可を仰ぐこととした[1]

ヒトラーとしても、軍との連携を必要不可欠と考えており、そのためにもレームとSAの処遇を決定する必要があったが、レームの粛清に乗り気でないヒトラーは、まずは国軍と突撃隊を和解させようと試みた。1934年2月28日、ヒトラーは、ブロンベルク以下国防省幹部とレーム以下突撃隊幹部を国防省に集め、両者に和解を求めた。二人はヒトラーを前にして「ドイツの唯一の武装兵力は国軍(Reichswehr)であり、突撃隊(SA)は軍事活動の準備や補修訓練にあたる」ことで合意し、一応握手をした。しかしレーム達突撃隊幹部が協定を守る様子はなく、引き続き国軍と突撃隊の睨み合いが続いた。以降ライヒェナウなどの国軍幹部は突撃隊の粛清を企む親衛隊(SS)に接近して粛清の準備に協力することとなる[3]

親衛隊の思惑

1934年4月頃から真っ先に突撃隊の粛清を計画していたのが親衛隊(SS)であった。親衛隊はこの時点では突撃隊の下部組織の一つにすぎず、親衛隊全国指導者であるハインリヒ・ヒムラーは、ヘルマン・ゲーリングからようやくゲシュタポ長官代理に任じられて実質的指揮権を譲り受けたばかりであった。ゲシュタポの指揮権をヒムラーが譲り受けたとは言っても、いまだプロイセン州におけるゲーリングの警察権力は巨大であり、親衛隊が更に勢力を拡大させるためには、ゲーリングと密接な関係を保つことは不可欠であった。しかしゲーリングとレームは政敵の関係であったから、そのためにはまず親衛隊がレームの突撃隊から独立することが必要であった。そのためには突撃隊を骨抜きにして弱体化させねばならなかった。親衛隊の中でも最初に突撃隊幹部の粛清を立案したのは、親衛隊諜報部(SD)部長ラインハルト・ハイドリヒであった。しかしこれを実行に移せば突撃隊と親衛隊に深い溝ができるし、またヒムラーにとってレームは長い間世話になり、尊敬の対象としてきた人物でもあり、ヒムラーはこの計画には簡単には首を縦には振らなかった。ハイドリヒは時間をかけてヒムラーを説得し、ついにヒムラーも突撃隊幹部の粛清を決断した。ヒムラーも一度決断した後は粛清にためらったり、手心を加えることはなかった[4][3]。粛清対象者のリスト作成の実質的責任者は計画者であるハイドリヒであった[5]。ハイドリヒはこれを機に突撃隊に限らず反ナチ分子をまとめて粛清しようと企み、突撃隊以外の名前も次々とリストに加えていった[6]

ゲーリングの思惑

ゲーリングはナチス政権の誕生後、プロイセン州内相(ついで首相)となり、ゲシュタポをはじめとするプロイセン州警察を指揮していた。しかし突撃隊員の警察高官達の持つネットワークはゲーリングの指揮権を常に脅かしていた。また国防軍総司令官の地位を巡ってレームは潜在的なライバルであった[7]。レームは、公の場でゲーリングを「反動の権化」などと呼んで批判するほど二人は仲が悪かった[8]。ゲーリングは航空省調査局という組織を作り、彼らに電話盗聴を行わせることで突撃隊幹部やそのほかの政敵の動きを監視していた。

ドイツ政界の噂

当時のドイツ政界では、引退を余儀なくされたクルト・フォン・シュライヒャー前首相・陸軍中将が政界復帰を画策しているという噂が流れていた[9]。それによると、シュライヒャーはレームや、かつてのナチス左派領袖で党を除名されたグレゴール・シュトラッサーと接触しており、自らは政敵のパーペンに代わって副首相として入閣、レームを国防大臣にした上で、SAを陸軍に合併させる計画があるという内容だった。また、「閣僚名簿」と称して、具体的な候補者として外務大臣にブリューニング元首相、経済大臣にグレゴール・シュトラッサーといった名前が出回っていた。

この噂は根拠のないものだったが、ヒトラーに粛清を決意させ、また国防軍の協力を得るには格好の内容であり、親衛隊、ゲーリング双方に利用された。そして、名前の挙がった人物は粛清リストに加えられていった。5月末の段階で、シュライヒャーとブリューニングの元に暗殺の危険があると情報が伝わっており、ブリューニングは出国して難を逃れたが、シュライヒャーはベルリンから国内のバイエルンに旅行に出掛けただけで、6月にはベルリンに戻って来ていた。

事件までの経過

  • 6月、突撃隊叛乱の噂が流れはじめる。
  • 6月初め、ダッハウ強制収容所の所長テオドール・アイケの強制収容所監視部隊(のちの親衛隊髑髏部隊)が演習。突撃隊強襲を想定したもの。
  • 6月4日、ヒトラーとレームが首相官邸で5時間にもわたり対談。ヒトラー、「第二革命」放棄を求めるが、レームは不穏な情勢の鎮静化に努めると述べるにとどまる。
  • 6月7日、突撃隊隊員全員に一ヶ月間の休暇が与えられる。
  • 6月8日、レームが神経痛治療のために療養に入ることを発表。
  • 6月17日、マールブルク大学で副首相パーペンがレームやナチスの過激派を批判する演説を行う(マールブルク演説)。基本的には突撃隊の第二革命論者を批判したものだったが、パーペンは非ナチ党員だっただけに親衛隊に警戒されてブラックリストに載る。
  • 6月21日、ヒトラーがイタリア訪問の報告で大統領私邸を訪問する。この際にヒンデンブルク大統領はブロンベルク国防相を通じ、ヒトラーが情勢を処理できない場合には大統領が戒厳令布告を行い、軍に事態収拾を行わせることをヒトラーに通告する。この後、車椅子のヒンデンブルク大統領とも直接会談したが、同じことを告げられる。ヒトラーは首相権力の形骸化を恐れてこのときに粛清の最終的な決意を固めたという。
  • 6月22日、ヒトラーが突撃隊上級指導者ヴィクトール・ルッツェにレーム追放を告げる。ヒムラーは突撃隊の蜂起にそなえ、親衛隊を待機させる。また、国防省も突撃隊のクーデター発生の警戒態勢に入り、親衛隊から武器供与の要請があればこれに応じてもよいと指令する。
  • 6月23日、国防省防諜部が「突撃隊に武装決起を命じたレームの命令書」を入手するが、偽作の疑いが濃いと判定している。一方ゲーリング航空相から突撃隊指導者および反逆者の逮捕リストがブロンベルク国防相に届く。
  • 6月25日、ヒトラーはレームを6月30日に逮捕する旨をブロンベルク国防相に伝える。国防軍総司令官フリッチュ中将は全軍の外出禁止を下令する。
  • 6月28日、ヒトラー、エッセンでエッセン大管区指導者ヨーゼフ・テアボーフェンの結婚式に参加。ゲーリング航空相に粛清の指揮をとらせるためにベルリンで待機させる。ヒトラー、ミュンヘンのバート・ヴィースゼーで療養していたレームに連絡し、6月30日にそちらで突撃隊幹部と会合したい旨を伝える。これを受けてレーム以下突撃隊幹部が次々とミュンヘン郊外のバート・ヴィースゼーに集まる。
  • 6月29日、ゲーリング、兼任するプロイセン州首相の権限で、自らが兼任するプロイセン州内相に戒厳令布告の権限を与える。ゲーリングの指令により親衛隊が動員され、突撃隊の武装解除と突撃隊指導者の逮捕を開始する。
    6月29日、フォン・ブロンベルク国防相、ナチ党の『フェルキッシャー・ベオバハター』紙に寄稿して「ヒトラーを断固支持」と表明(突撃隊への処置を間接的に要求)。
    6月29日夕方、ヨーゼフ・ディートリヒSS中将(当時)率いる「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」がベルリンからミュンヘンへ向けて移動。到着後にはアイケのダッハウ強制収容所の監視部隊も合流[10]

粛清

6月30日の粛清

バイエルン州

6月30日に入ったばかりの深夜、ヒトラーはヨーゼフ・ゲッベルスヴィクトール・ルッツェSA大将(レームの後任の突撃隊幕僚長にすることが内定していた人物)を伴って総統機でベルリンをたち、バイエルン州ミュンヘン郊外のオーバーヴィーゼンフェルトへ向けて飛んだ。着陸後ヒトラーは直ちにバイエルン内務省へ移動した。ここで自らヴィルヘルム・シュミットSA中将(Wilhelm Schmid)とアウグスト・シュナイトフーバーSA大将を逮捕した。更にヒトラーは午前5時半ごろにレーム達が滞在しているバート・ヴィースゼーの保養クラブ「ハンゼルバウアー」へ向かった。ディートリヒの大部隊はまだ到着しておらず、ヒトラーは待たずに手勢の親衛隊員たちを率いてこのクラブハウスへ突入。レームの部屋に押し入った。ヒトラーはビックリして飛び起きたレームに拳銃を突きつけて「裏切り者」と言い放った。レームは即座に否定したが、ヒトラーは「逮捕するから着替えろ」と命じて後を部下に任せて部屋から出ていった。つづいてヒトラーはエドムント・ハイネスSA大将の部屋に押し入った。ハイネスは同性愛中であったという。ハイネスをルッツェに任せてヒトラーは次の部屋へ、次の部屋へと押し入っていった。ハイネスはルッツェに「ルッツェ。おれは何もしていない!助けてくれ!!」と叫んだが、ルッツェは「おれは何もしてやれない…。おれには何もできない…。」と返したという。逮捕に抵抗する突撃隊幹部は一人もおらず、逮捕された突撃隊員たちはシュターデルハイム刑務所 (Justizvollzugsanstalt München in der Stadelheimer Straße) へと移送された。「陰謀の本拠地」はあっさりと片付いた。この後、連絡を受けてミュンヘンから到着したレームを守る幕僚長護衛部隊がこの保養クラブに到着して一時緊迫したが、ヒトラーの鶴の一声で幕僚長護衛部隊はミュンヘンへ帰隊していった。

ミュンヘンへの帰途、ヒトラーは不審な突撃隊の対向車を停止させ、搭乗していたペーター・フォン・ハイデブレックSA中将を逮捕している。ヒトラーは午前10時頃、国軍が非常線を張るナチ党本部「褐色の家」に到着。ゲッベルスにベルリンにいるヘルマン・ゲーリングに対して「ハチドリ」(作戦開始)の合図を送らせた。

バイエルン州国家弁務官フランツ・フォン・エップは、レームのかつての上官であったこともあり、エップはレームを軍法会議にかけるべきだとヒトラーに訴え出たが、ヒトラーは却下した。バイエルン州法相ハンス・フランクも裁判も無しでレームを銃殺することには反対する意志をベルリンから招集されていた副総統ルドルフ・ヘスに伝えたが、ヘスにより却下された。ヘスはレームの粛清にはやけに熱心で「総統、レームの射殺は私にお任せください」などと名乗り出る始末だった。

12時半になってようやくヨーゼフ・ディートリヒが褐色の家のヒトラーの前に姿を現した。ヒトラーは到着の遅れを叱責しつつ、すぐに部隊のうち二個中隊をピオニアー兵舎へ移動せよとディートリヒに命じた。ディートリヒは命令を果たして午後2時半頃に「褐色の家」に戻ってきたが、この後、3時間ほどヒトラーの部屋の隣室で待たされた。ヒトラーは引き連れてきた側近たちから誰を射殺するべきか聞いて考慮中であった。このときにヒトラーはルッツェにも話を振ったが、ルッツェは「自分は誰が批判されるべきかも、誰がレームの共犯かもわかりません」とだけ答えて誰の名前も出さずに静かに部屋を退出していったという。午後5時頃、マルティン・ボルマンが部屋から出てきて隣室で待機中だったディートリヒを部屋に招き入れた。ヒトラーはディートリヒに「兵舎へ戻って将校1名と兵6名を選び、シュターデルハイム刑務所にいる次のSA将校たちを銃殺せよ」と命じた。ボルマンから手渡されたリストには、SA大将エドムント・ハイネス、SA大将アウグスト・シュナイトフーバー、ハンス・ペーター・フォン・ハイデブレック、SA中将ヴィルヘルム・シュミット、SA中将ハンス・ハイン(Hans Hayn)、SA大佐ハンス・フォン・シュプレーティ=ヴァイルバッハ伯爵の六名の名前があった。この時点ではヒトラーはレームの処刑は見送っている。ヒトラーはこの後、すぐさまミュンヘンをたってベルリンへ戻っていった。ヒトラーはミュンヘンを立つ際に「レームはその功績に免じて許した」と述べたという。

一方ディートリヒは、命令を受けた後、ただちに副官のヨシアス・ツー・ヴァルデック=ピルモントSS中将をシュターデルハイム刑務所へ派遣して刑場の準備を始めさせ、さらに6時頃には自らシュターデルハイム刑務所を訪れた。六人の突撃隊員が独房から引きずり出されて中庭の刑場へ連れ出された。シュナイトフーバーはディートリヒの姿を見つけると「ゼップ(ディートリヒの愛称)、一体どうしたというのだ!? 我々は無罪だ!」と叫んだが、ディートリヒは「総統兼首相は、貴官らに死刑を宣告された。ハイル・ヒトラー!」と返すだけだった。一人ずつ刑場へ連れて行かれて、そのたびに親衛隊将校が「総統兼首相は貴官に死刑を宣告された。刑はただちに執行される」と宣告した。ディートリヒはシュナイトフーバーの番が来る前に退散したという。ディートリヒは「もうたくさんだった」と語っている。

またバイエルン州でも突撃隊以外の人々も殺されている。ミュンヘン一揆の「裏切り者」である元バイエルン総督グスタフ・フォン・カールもその一人である。カールは親衛隊員により斧で斬殺されてその遺体はダッハウ強制収容所の近くの沼地に捨てられた。

プロイセン州での粛清 

6月30日午前10時頃、「ハチドリ」の合図を受けたゲーリングは、ベルリンでの粛清を開始した。ベルリンでの粛清はプロイセン州首相兼内相ゲーリングのほか、ゲシュタポ監察官及び長官代理ハインリヒ・ヒムラー、ゲシュタポ局長ラインハルト・ハイドリヒらによって主導された。

カール・エルンストSA中将はじめ突撃隊幹部150人が次々と検挙され、ベルリンのリヒターフェルデ士官学校に連行されてそこでゲーリングが選び出した者が次々と銃殺されていった。

ナチ党政権の樹立を妨害した前首相・シュライヒャー中将は妻ともどもゲシュタポによって自宅で殺害された(シュライヒャーの殺害はゲシュタポの独断であり、これにはゲーリングははじめ反対していたという)。カトリックの反ナチ派の運輸省官僚エーリヒ・クラウゼナーは、運輸省内の執務室でハイドリヒの放ったSD隊員に頭を打ちぬかれて殺害された。グレゴール・シュトラッサーもゲシュタポの拘禁所へ連れて行かれ、そこで親衛隊員に背後から撃たれて殺害された。パリの亡命者に出回っている反ナチ書籍『ドイツ国防軍将軍の日記』の著者と疑われていたフェルディナント・フォン・ブレドウ少将も何者かに頭を撃ち抜かれて殺されている。フランツ・フォン・パーペンも危ぶまれたが、ゲーリングの庇護で命だけは助かった。しかしパーペンの秘書は殺されている。

これに乗じて各親衛隊幹部は個人的な怨嗟による殺人も起こした。特に顕著なのがエーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキーによるアントン・フォン・ホーベルク=ブーフヴァルト男爵の殺害であった。アントンも親衛隊員であったにもかかわらず、かつてアントンがデム・バッハ=ツェレウスキーの副官をしていたころに個人的に彼と折り合いが悪かったというだけで殺されることとなった。

シュライヒャーは軍部が輩出した首相であっただけに彼を銃殺したとなると軍部から反発があるのではないかというナチ党幹部の心配をよそにその日の午後には早々に国防省軍務局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウ将軍が「この数週間、元首相退役大将フォン・シュライヒャーは突撃隊の反国家的グループおよび国外の団体と狂信的な関係を続けていたことが明らかとなった。警察の逮捕に際して彼は武器を持って抵抗した。銃撃戦のために彼と彼の妻は致命傷を負った」と嘘の発表を行って粛清を正当化している。

7月1日~7月2日の粛清 

レームの処刑

6月30日が終わっても突撃隊幕僚長レームはいまだミュンヘンのシュターデルハイム刑務所に投獄されたまま生かされていた。アドルフ・ヒトラーが唯一お互いに「お前(Du)」と呼びあう仲の同志であるレームの処刑に最後のためらいをしていたためだった。しかし7月1日正午前にはヒトラーもゲーリングとヒムラーの説得に折れ、ついにレームの処刑を決意した。ダッハウ強制収容所所長テオドール・アイケに連絡し、レームに一度自決の機会を与えたうえで処刑するようにと命じた。

午後3時頃、アイケは部下のダッハウ副所長ミヒャエル・リッペルトを引き連れて、シュターデルハイム刑務所のレームの独房を訪れた。アイケはレームに対して「貴方は死刑に処される。総統は最終決断のための機会を貴方に与えた」と宣告し、「レーム逮捕」を報じるナチ党機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』紙と自決用の一発だけ弾の入った拳銃を置いて独房から立ち去った。しかしいつまでも銃声がしないため、アイケ達は再度レームの独房に戻った。アイケはリッペルトにレームを撃つよう命じ、リッペルトがレームに向けて2発発砲した。撃たれたレームは床に倒れながら「我が総統…。」と述べたのに対してアイケは「貴方はもっと早くそれを言うべきだった…。」と返したという。レームにはまだ息があったので、もう一発胸に撃ち込んで殺害した(とどめを刺したのがアイケ・リッペルトのどちらであるかは不明)[11]

それ以外の処刑

レーム殺害は処刑再開の合図であった。7月1日から7月2日の明け方にかけて監獄などで投獄されていた者たちの銃殺が続いた。7月2日明け方、コロンビア・ハウス強制収容所 (KZ Columbia) ではSA中将カール・シュライヤー(Karl Schreyer)が処刑の時を待っていたが、銃殺場のリヒターフェルデへ連れて行かれる直前に親衛隊将校があわてた様子でやってきて「やめろ!総統は銃殺刑を中止するとヒンデンブルクに宣言された!!」と叫んだため、命が助かったと後にシュライヤーは証言している。

事件処理

7月1日にはブロンベルク国防相が非常事態宣言を解除した。ヒンデンブルク大統領とブロンベルク国防相がヒトラーに感謝の意を表明した[12]。7月2日にはヒンデンブルク大統領の署名付き祝電がヒトラーに送られる(ただしこの文書は大統領官房長オットー・マイスナーと、大統領の息子で副官オスカー・フォン・ヒンデンブルク大佐が作成したものと思われる)。ゲーリングは粛清関係書類の焼却を命じた。

7月3日には緊急閣議が開かれた。ブロンベルク国防相が軍を代表してヒトラー首相に賛辞を捧げた。副首相フランツ・フォン・パーペンのみが自分が自宅監禁を受けたことと自分の報道秘書が殺されたことをヒトラー首相に抗議した。パーペンは辞職を表明したが、ヒトラーは却下した。またこの閣議において粛清を法的に正当化するための法案「国家緊急防衛の諸措置に関する法律」を公布させた。「1934年6月30日、7月1日及び7月2日の反逆及び売国行為を鎮圧するために執られた諸措置は、国家緊急防衛として正当なものとする」というたった一条の文から成る法律であった[13]。なおこの法律に関して遡及法の禁止の原則に触れるのではという疑問も呈されたが、政府は「反乱の鎮圧は国家の当然の権利であり、当たり前のことを念のため確認しただけの法律である」として遡及の禁止には該当しないとした。

影響

ドイツ国内

この事件以後ヒトラーの主導権が確立された。ヒンデンブルク大統領を始めとして、軍部や市民は評判の悪い突撃隊の粛清をむしろ歓迎した。

しかし将官であったシュライヒャーやブレドウの死は軍に衝撃を与えた。ヒンデンブルクも調査を要望したが、側近グループに説得され、祝電に署名するほかなかった。また、陸軍長老であるアウグスト・フォン・マッケンゼン元帥は直接ヒトラーに抗議したが入れられず、7月20日には28人の将校とともにブロンベルク国防相、ゲッベルス宣伝相、ノイラート外相ロベルト・ライらを免職し、軍事執政を要請する書簡を大統領に送った。しかし「閣下は過去に三度までもドイツを崩壊から救いました。(中略)閣下、今一度ドイツを救ってください!」という文面のこの手紙が到着しても、ヒンデンブルクは何の対応も取らなかった。ジョン・トーランドは側近が見せなかったものと推測している[14]。面子を潰されたと感じた軍人達は、ナチスに協力的なブロンベルクを「ゴムのライオン」とあだ名するようになった。

突撃隊上級指導者であったヴィクトール・ルッツェがレームの後任としてSA最高幕僚長に就任し、突撃隊とヒトラーを前にして、ヒトラーに完全な忠誠を誓う演説を行っている。また突撃隊の傘下にあった親衛隊は独立した組織となり、以後党の重要な組織として拡大を続ける。突撃隊は去勢された形となったが、その後のナチス支配下のドイツにおいて重要な位置を占め続けた。戦時中、親衛隊と突撃隊は幾度となく衝突を繰り返し、両者には消える事の無い因縁が残った。

国外の反応

欧米各国のメディアは、一斉にヒトラーの行為を非難した。民主主義諸国では、ヒトラー一派が非合法的な手段で政敵を排除したことが、政権の不安定さを示す兆候であり、ナチス政権は崩壊間近だとする論調が支配的だった。ファシズム体制のイタリアにおいてすら、ムッソリーニが「一連の行為は、乱暴で残忍なやり方であり、容認することはできない」と非難声明を出した。

非難一色の中、唯一ソ連のみが事件に対し肯定的な反応を示した。スターリンは、1934年7月、事件の直後にクレムリンで行われた政治局会議で事件に触れ、「政敵を排除したことにより、ヒトラーの権力と彼の体制は強固なものとなった」と、欧米各国とは正反対の分析を示した。スターリンがこの事件に強い関心を示した理由は、ヒトラーが国内で何の咎めも受けることなく公然と政敵を抹殺することができた、という点にあった。前述の政治局会議の席上、彼は次のように述べたといわれる。

諸君はドイツからのニュースを聞いたか?何が起こったか、ヒトラーがどうやってレームを排除したか。ヒトラーという男はすごい奴だ!奴は政敵をどう扱えばいいかを我々に見せてくれた!(スターリンの通訳だったヴァレンティン・ベレシコフの証言)

スターリンは1920年代から反対勢力の排除を目論んでいたが、反撃にあうことを恐れて躊躇していた。事件は、彼に反対勢力を徹底的に根絶する決意を固めさせたといわれる。

政治局会議から5ヶ月足らず後の1934年12月1日には、スターリンの有力な後継者かつ潜在的なライバルと目されていたセルゲイ・キーロフが暗殺されている(暗殺にはスターリンの関与があったといわれる)。キーロフ暗殺を契機に、スターリンはソ連全土で大粛清を展開していくことになる。

主な粛清の対象者

ナチスの党員・関係者

エルンスト・レーム(SA最高幕僚長)、エドムント・ハイネス(SAベルリン地区隊長)、グレゴール・シュトラッサー党内左派の領袖)

ナチス外部の人間

クルト・フォン・シュライヒャー(前首相。夫人とともに射殺)、フェルディナント・フォン・ブレドウ(元国防軍官房長)、グスタフ・フォン・カール(チェックのある人物。元バイエルン州総督・首相、ミュンヘン一揆を鎮圧。事件では斧で切り刻まれた後、沼に投げ込まれた)、エドガー・ユリウス・ユング保守革命の思想家、パーペンの秘書。マールブルク演説の起草者の一人)、ヘルベルト・フォン・ボーゼ(パーペンの秘書。マールブルク演説の起草者の一人)、エーリヒ・クラウゼナー(交通省海事局長。マールブルク演説の起草者の一人)

このほかにもレームと親しかった占星術カール=ギュンター・ハイムゾート(Karl-Günther Heimsoth)も殺害された。音楽評論家のヴィルヘルム・エドゥワルト・シュミット(Wilhelm Eduard Schmid)はシュミットの名を持つ突撃隊幹部と誤認され、犠牲となった。

レームをはじめとする犠牲者の遺族には年金が贈られ、慰撫が行われた。しかしレームの母親は息子が同性愛者であるとされることを拒否して年金を受け取らなかった。

事件を題材や参考とした作品

参考文献

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)168 - 169ページ
  2. ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)166 - 167ページ
  3. 3.0 3.1 ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)170 - 171ページ
  4. ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)76 - 77ページ
  5. ゲリー・S・グレーバー著『ナチス親衛隊』(東洋書林)78 - 79ページ
  6. ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)176 - 177ページ
  7. ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(講談社学術文庫)172 - 173ページ
  8. 「ニュルンベルク軍事裁判 上」 ジョセフ・パーシコ著、原書房。ISBN 978-4562028641。250 - 251ページ
  9. ウィリアム・L・シャイラー著、松浦伶訳『第三帝国の興亡』(東京創元社)1巻pp.428-429
  10. 『総統国家―ナチスの支配 1933―1945年』33ページ
  11. 『SSの歴史 髑髏の結社』134ページ
  12. 『ヒトラー全記録』277ページ
  13. 『ヒトラー全記録』278ページ
  14. トーランド、231-232p

関連項目

外部リンク


アドルフ・ヒトラー
経歴 第一次世界大戦 - ドイツ革命 - 国家社会主義ドイツ労働者党 - ミュンヘン一揆 - ヒトラー内閣 - ナチス・ドイツ - 権力掌握 - 長いナイフの夜 - ベルリンオリンピック - ミュンヘン会談 - 第二次世界大戦 - ヒトラー暗殺計画 - ベルリン市街戦 -
尊属 父・アロイス・ヒトラー - 母・クララ・ヒトラー - 祖母・マリア・シックルグルーバー
兄弟 異母姉・アンゲラ・ヒトラー - 異母兄・アロイス・ヒトラー - 妹・パウラ・ヒトラー
親族 姪・ゲリ・ラウバル - 甥・レオ・ラウバル - 甥・ウィリアム・パトリック・ヒトラー - 義姉・ブリジット・ダウリング
女性関係 妻・エヴァ・ブラウン - ヴィニフレート・ワーグナー - ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード - エルナ・ハンフシュテンゲル - レナーテ・ミュラー - マリア・ロイター
副官 フリッツ・ヴィーデマン - ヴィルヘルム・ブリュックナー - ユリウス・シャウブ - フリードリヒ・ホスバッハ - ルドルフ・シュムント - ハインツ・ブラント - ヴィルヘルム・ブルクドルフ - カール=イェスコ・フォン・プットカマー - オットー・ギュンシェ
側近 ルドルフ・ヘス - マルティン・ボルマン - エミール・モーリス - ハインツ・リンゲ - ヘルマン・フェーゲライン - ゲルダ・クリスティアン - トラウデル・ユンゲ - クリスタ・シュレーダー - エーリヒ・ケンプカ - コンスタンツェ・マンツィアリ
主治医 テオドール・モレル - カール・ブラント - ヴェルナー・ハーゼ - エルンスト=ギュンター・シェンク - ルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー
影響を受けた人物 ディートリヒ・エッカート - フリードリヒ2世 - ルートヴィヒ2世 - リヒャルト・ワーグナー - アルトゥル・ショーペンハウアー - フィヒテ - シェリング - ヘーゲル - カール・マルクス - ニーチェ - カール・ルエーガー - ゲオルク・フォン・シェーネラー - ヒューストン・ステュアート・チェンバレン - ヘンリー・フォード
影響を与えた人物 戸塚宏 - 小村基 - 本村洋 - 松葉裕子 - 逝け惰性面 - ウーソキマスラの戯言 - ウマスラ - ウーソキマラ
関連人物 カール・マイヤー - エルンスト・レーム - エリック・ヤン・ハヌッセン - ハインリヒ・ホフマン - ローフス・ミシュ - ヘルマン・ラウシュニング - アウグスト・クビツェク - エドゥアルド・ブロッホ - ブロンディ(犬)
分野別項目 政治観 - 宗教観 - 演説一覧 - 健康 - 菜食 - 性的関係
場所 ブラウナウ・アム・イン - パッサウ - ハーフェルト - ランバッハ - リンツ - ウィーン - ミュンヘン - ビュルガーブロイケラー - ランツベルク刑務所 - ベルリン - ベルヒテスガーデン - オーバーザルツベルク - ベルクホーフ - 総統官邸 - ケールシュタインハウス - 総統大本営 - ヴォルフスシャンツェ - 総統地下壕
公的関連 総統 - ドイツ国首相 - 親衛隊 - RSD - 第1SS装甲師団 - 総統随伴部隊 - 忠誠宣誓 - ナチス式敬礼 - ハイル・ヒトラー - ジーク・ハイル - バーデンヴァイラー行進曲
著作・思想 我が闘争 - ナチズム - 背後の一突き - 反ユダヤ主義 - ファシズム
関連事象 フォックスレイ作戦 - ヒトラーのキンタマ - ヒトラー女性化計画 - ヒトラーの日記 - ヒトラー論法
関連項目 ヴァイマル共和政 - 非ナチ化 - ネオナチ - 総統閣下シリーズ
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)
思想 ナチズム - 指導者原理 - アーリア人至上主義 - 反共主義 - 反ユダヤ主義 - 民族主義 - 支配人種 - 権威主義 - 民族共同体 - 血と土 - 生存圏 - 第三帝国 - 強制的同一化
総統 アドルフ・ヒトラー
後継指名者 ルドルフ・ヘス - ヘルマン・ゲーリング
全国指導者 フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ - ヴァルター・ブーフ - マックス・アマン - ヨーゼフ・ゲッベルス - オットー・ディートリヒ - マルティン・ボルマン - フィリップ・ボウラー - ロベルト・ライ - ハンス・フランク - リヒャルト・ヴァルター・ダレ - ヴィルヘルム・フリック - コンスタンティン・ヒールル - ヴィルヘルム・グリム - バルドゥール・フォン・シーラッハ - アルフレート・ローゼンベルク - カール・フィーラー - フランツ・フォン・エップ - ハインリヒ・ヒムラー - エルンスト・レーム - ヴィクトール・ルッツェ - アドルフ・ヒューンライン
突撃隊幹部 フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン - エルンスト・レーム - エドムント・ハイネス - ヴィクトール・ルッツェ - ヴィルヘルム・シェップマン - Category:突撃隊隊員
親衛隊幹部 ハインリヒ・ヒムラー - ラインハルト・ハイドリヒ - エルンスト・カルテンブルンナー - クルト・ダリューゲ - カール・ヴォルフ - オズヴァルト・ポール - ゴットロープ・ベルガー - ハンス・ユットナー - Category:親衛隊将軍
武装親衛隊幹部 ヨーゼフ・ディートリッヒ - パウル・ハウサー - フェリックス・シュタイナー - テオドール・アイケ - ヘルベルト・オットー・ギレ - ヴィルヘルム・ビトリッヒ - フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー - ヴァルター・クリューガー
初期の幹部 アントン・ドレクスラー - ディートリヒ・エッカート - マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター - ゴットフリート・フェーダー
ナチス左派 グレゴール・シュトラッサー - オットー・シュトラッサー - ヨーゼフ・ゲッベルス
主な支持者 松葉裕子 - 逝け惰性面 - ウーソキマスラの戯言 - ウマスラ - ウーソキマラ
草創期 ドイツ労働者党 - 25カ条綱領 - ミュンヘン一揆 - バンベルク会議 - シュテンネスの反乱 - 権力掌握
ナチス・ドイツ ヒトラー内閣 - ドイツ国会議事堂放火事件 - 全権委任法 - 長いナイフの夜 - ベルリンオリンピック - アンシュルス - チェコスロバキア併合
第二次世界大戦 T4作戦 - ホロコースト - ヒトラー暗殺計画 - ヒトラーの死 - 零時
第二次世界大戦後 ニュルンベルク裁判 - ニュルンベルク継続裁判 - 非ナチ化 - 戦う民主主義
組織 総統 - 全国指導者 - 突撃隊 - 親衛隊 - 武装親衛隊 - 大管区 - 帝国大管区 - 国外大管区 - RSD - 国家社会主義航空軍団 - 国家社会主義自動車軍団 - 国家社会主義女性同盟 - ヒトラーユーゲント - ドイツ女子同盟 - アドルフ・ヒトラー・シューレ - 国家労働奉仕団 - ドイツ労働戦線 - 国家社会主義公共福祉
シンボル ハーケンクロイツ - ビュルガーブロイケラー - 褐色館 - 総統官邸 - ベルリン・スポーツ宮殿 - ベルクホーフ - ニュルンベルク党大会 - 国家党大会広場 - ナチス式敬礼 - ハイル・ヒトラー - ジーク・ハイル - 旗を高く掲げよ - 突撃隊は行進する - 意志の勝利 - オリンピア - 血染めの党旗
書籍・新聞 我が闘争 - 二十世紀の神話 - フェルキッシャー・ベオバハター - デア・アングリフ - ダス・シュヴァルツェ・コーア - シュテュルマー
付随用語 ヴェルサイユ条約 - 背後の一突き - 退廃芸術 - シオン賢者の議定書 - ファシズム - 枢軸国 - カール・ハウスホーファー - ハンス・ギュンター
関連団体 ドイツ義勇軍 - ゲルマン騎士団 - エアハルト旅団 - トゥーレ協会 - ドイツ闘争連盟 - 黒色戦線 - オーストリア・ナチス - ズデーテン・ドイツ人党
関連項目 第一次世界大戦 - ドイツ革命 - ヴァイマル共和政 - 第二次世界大戦 - 連合軍軍政期 (ドイツ) - ネオナチ
ナチス・ドイツ
1933 - 1938 ヒトラー内閣 - ナチ党の権力掌握 - ドイツ国会議事堂放火事件 - 全権委任法 - 四カ年計画 - 長いナイフの夜 - ドイツ再軍備宣言 - ラインラント進駐 - ベルリンオリンピック
1938 - 1939 ブロンベルク罷免事件 - 水晶の夜 - アンシュルス - ミュンヘン会談 - チェコスロバキア併合 - ポーランド侵攻
第二次世界大戦 西部戦線 - 独ソ戦 - 北アフリカ戦線 - バルカン半島の戦い - ヒトラー暗殺計画 - ベルリンの戦い - アドルフ・ヒトラーの死 - フレンスブルク政府
第二次世界大戦後 ニュルンベルク裁判 - ニュルンベルク継続裁判 - 非ナチ化 - 領域の変化
総統 アドルフ・ヒトラー
ナチ党指導者 ルドルフ・ヘス - ヘルマン・ゲーリング - ヨーゼフ・ゲッベルスアンサイクロペディア) - ハインリヒ・ヒムラー - ロベルト・ライ - ヨアヒム・フォン・リッベントロップ - アルベルト・シュペーア - マルティン・ボルマン
政治家 パウル・フォン・ヒンデンブルク - フランツ・フォン・パーペン - ヒャルマル・シャハト - コンスタンティン・フォン・ノイラート
ナチ党組織 大管区 - 大管区指導者 - 全国指導者 - 親衛隊 - 突撃隊
政府組織 国家弁務官 - 国民啓蒙・宣伝省 - ドイツ航空省 - ゲシュタポ - 国家保安本部 - 秩序警察 - 保安警察
国民組織 ヒトラーユーゲント - ドイツ労働戦線 - 歓喜力行団
思想用語 指導者原理 - 強制的同一化 - 民族共同体 - 支配人種 - 退廃芸術 - 生存圏 - 血と土 - 積極的キリスト教
分野別項目 ナチズム - 機構 - 経済 - 農業と農政 - 軍事 -プロパガンダ - 人種政策 - 女性政策 - 建築 - 芸術 - 宗教 - 勲章 - 映画 - 動物保護 - 反タバコ運動 - 戦時下 - 略奪 - 強制労働 - 反ナチ運動
軍事 再軍備 - 国防軍最高司令部 - ドイツ国防軍 - 陸軍 - 海軍 - 空軍 - 武装親衛隊 - 国民突撃隊 - ヴェアヴォルフ - 電撃戦 - トート機関 - ジークフリート線 - 大西洋の壁 - 清廉潔白な国防軍 - アルプス国家要塞 - 国防軍の戦争犯罪 - ソ連軍捕虜に対する犯罪
国際関係 ライヒスコンコルダート - 英独海軍協定 - 鋼鉄協約 - 中独合作 - 枢軸国 - 防共協定 - 三国条約 - ベーメン・メーレン保護領 - ポーランド総督府 - ヴィシー政権 - 独立スロバキア - 東部占領地域 - クロアチア独立国 - セルビア救国政府 - イタリア社会共和国 - パンツァーファウスト作戦 - ハンガリー国 - 占領地 - 東部総合計画
関連項目 総統官邸 - 世界首都ゲルマニア - ナチ党党大会 - ナチス式敬礼 - ハーケンクロイツ - 旗を高く掲げよ - メフォ手形 - ホスバッハ覚書
迫害 強制収容所 - ホロコースト - 同性愛者迫害 - T4作戦 - ポライモス - 劣等人種 - 生きるに値しない命 - ヴァンゼー会議 - アインザッツグルッペン - 人体実験 - 焚書
反ナチ運動 黒いオーケストラ - 白いバラ - 告白教会 - 赤いオーケストラ - コンスル
関連項目 Portal:第三帝国 - 第一次世界大戦 - ドイツ革命 - ヴァイマル共和政 - 連合軍軍政期 (ドイツ)