ロッド・スチュワート
ロデリック・デイヴィッド・“ロッド”・スチュワート,CBE(Roderick David "Rod" Stewart,CBE, 1945年1月10日 - )は、スコットランド家系のイギリスのミュージシャン。 60年代後半からジェフ・ベック・グループ、フェイセズでの在籍を経てソロで活躍。 近年は、『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブック』シリーズの世界的ヒットもあり、カヴァー・シンガーとしての側面も注目されている。
独特のしゃがれたハスキーボイスの持ち主で、そのヴォーカルスタイルは同時代のロックミュージシャンに多くの影響を与えた。 元サッカー選手でもあり、ライブでは客席にサッカーボールを蹴り込むパフォーマンスが定番となっている。
ハードロック、ブルースロックの路線から70年代後半以降は多分に作品がポップになり過ぎたとロックファンから批判を受けることも多く、「アイム・セクシー」での盗作疑惑や、数多くの女性スキャンダルや派手な生活も相まって、軽薄なイメージが浸透してしまった感もあるが、今なお現役であり続けるロック史上に残る偉大なボーカリストであることには疑う余地はない。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第59位。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第33位。
目次
経歴[編集]
下積み時代[編集]
ロバートとエルシー・スチュワート夫妻の5人兄弟の末っ子だった。彼の両親はロンドン北部で新聞販売業を営み、一家は店の2階に住んでいた。ロッドが、ロンドンのハイゲートで誕生する数分前に、ドイツのV2ロケットがちょうど通りの向かいの警察署へ命中した。
墓堀り人夫などの日雇い仕事を転々とした後、彼はサッカー選手として西ロンドンを本拠とするブレントフォードFCに参加したが、わずか3週間ほどでクラブから退団。1960年代前半に、放浪の罪で追放されたスペインのフォーク歌手、ウィズ・ジョーンズのツアーに加わり、音楽の経歴が始まった。イギリスに帰国すると、バーミンガムでジミー・パウエル・アンド・ザ・ファイブ・ディメンションズにヴォーカリスト、ブルースハープ奏者として加入した。バンドは、パイ・レコードと契約した。彼はまた、1964年の大ヒット、ミリー・スモールの「マイ・ボーイ・ローリーポップ」のレコーディングにも参加した。
1964年にロンドンに戻ると、ロング・ジョン・バルドリーの率いるフーチ・クーチー・メンに加入した。バンドはシングル「グッド・モーニング・リトル・スクールガール」を発表したが、チャート入りしなかった。フーチ・クーチー・メンは、スチュワートとバルドリー、ジュリー・ドリスコル、ブライアン・オーガー、ミッキー・ウォーラー、リック・ブラウンというメンバーでバンド、スティームパケットに発展した。スティームパケットは、1965年夏のローリング・ストーンズとウォーカー・ブラザーズのツアーをサポートし、アルバムを録音し数曲にヴォーカリスト及びコーラスとして参加するが、それはスチュワートが1970年代に成功するまで発表されなかった。モッド・ムーブメントの後に「ロッド・ザ・モッド」の愛称を得た。
スティームパケットは1966年前半に解散し、ロッドはベリル・マースデンの率いるショットガン・エクスプレスに参加した。ショットガン・エクスプレスは、後にフリートウッド・マックを結成したミック・フリートウッドとピーター・グリーン、またピーター・バーデンス(元ゼム、後にキャメル)が参加していた。ショットガン・エクスプレスは、解散直前に1枚のシングルを発表している。
ジェフ・ベック・グループ[編集]
ショットガン・エクスプレスの解散後、ロッドはジェフ・ベックの率いるジェフ・ベック・グループに参加する。1968年に、最初のアルバム『トゥルース』が英米でヒットし、大規模なツアーが行われた。セカンドアルバム『ベック・オラ』もヒットしたが、バンドは1969年末に解散した。
ベックはロッドの参加でティム・ボガート、カーマイン・アピスらと新バンドを結成しようとしたが、ロッドは参加せず、後にベック・ボガート・アンド・アピスとして活動することとなる。
フェイセズ[編集]
アメリカのバンド、カクタスがロッドをリード・ヴォーカルとして誘ったが、彼はジェフ・ベック・グループのベーシスト、ロン・ウッドに誘われてスティーヴ・マリオットの脱退したスモール・フェイセスへ参加することを決定した。同バンドは、2人の加入と共にバンド名をフェイセズに変更した[1]。スチュワートはまた、ソロ・アルバムの契約にサインし、ソロ歌手としてマーキュリー・レコードと、そしてフェイセズとしてワーナー・ブラザーズと2つのレコード会社と契約することとなる。1969年に、最初のソロ・アルバム『ハンドバッグと外出着』を発表した。全英チャートで辛うじて139位を記録したものの、目立ったヒットにはならなかった。
フェイセズのデビュー・アルバム『ファースト・ステップ』[2]は1970年前半に発表され、そのスタイルはローリング・ストーンズに似通っていた。アルバムは、アメリカよりイギリスでヒットし、バンドはライブでの評判が高まった。
2ndソロ・アルバム『ガソリン・アレイ』をギタリスト、マーティン・クイッテンドンと共に発表し、ソロ・ツアーを行った。その後、3rdソロ・アルバム『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』が英米チャート共に同時1位という、史上5度目となる快挙を成し遂げる。また、シングル・カットされた「リーズン・トゥ・ビリーヴ/マギー・メイ」も大ヒット(全英1位/Billboard Hot 100で全米1位)を記録する。「マギー・メイ」は当初シングルB面扱いだったが、同曲を気に入ったDJ達が後にA面扱いにした(プレス上はB面のままである)。
フェイセズとしても3枚目のアルバム『馬の耳に念仏』がヒットし、「ステイ・ウィズ・ミー」が代表曲として知られるが、ロッドのソロ活動が成功するうち、バンド内に亀裂が生じることとなる。 4thアルバム『ウー・ラ・ラ』ではレコーディングに参加しない楽曲まであり、フェイセズも当時のレコード会社の方針でロッドのバック・バンドのような扱いになってしまう。また、『ウー・ラ・ラ』をロッドが「完全なる失敗作」などと批判する記事が掲載されたり、ソロ歌手として全米進出を目論んでいた矢先、レコード会社移籍問題で裁判になるなどのトラブルも報じられた。これらが要因となり、1973年5月、ロニー・レーンが脱退。同年7月には、日本人ベーシスト、山内テツが加入する。
その後もツアーは行われ、1974年2月には大阪と東京で全4公演の来日公演も組まれた(大阪2日目はキャンセル)。しかし、ライブアルバムの発表を機に“ロッド・スチュワート&フェイセズ”とクレジット表記まで変更されたこと、フェイセズのツアーにも関わらず、セットリストの多くはロッドのソロ名義の曲となり、関係の修復は困難となった。
1975年には、ロン・ウッドがローリング・ストーンズに参加し、ツアーも敢行されたが、この年にバンドは解散した。
ソロ時代[編集]
フェイセズ解散後、イギリスでの重税を逃れるため、渡米して『アトランティック・クロッシング』(1975年)を制作。ジャケット写真では、まさに大西洋を一跨ぎしようとするイラストが描かれている。スティーヴ・クロッパーやジェシ・エド・デイヴィスなど、有名なアメリカ人ミュージシャンが多数参加した作品で、ここから「セイリング」が大ヒット。自ら「イギリスでは第二の国歌」と言い切っており、ライブ後半の重要なレパートリーに数えられる。『ナイト・オン・ザ・タウン』(1976年)からは「今夜きめよう」が全米で8週連続1位を記録する爆発的なヒットとなる。
『明日へのキック・オフ』(1977年)から数年は、カーマイン・アピス(ドラム)を中心としたバック・バンドを従えて活動。『スーパースターはブロンドがお好き』(1978年)は、ディスコ・ミュージックの要素を取り入れた「アイム・セクシー」のヒットもあって、全米1位に輝く。ちなみに、この「アイム・セクシー」は、ブラジルのアーティスト、ジョルジ・ベンの「タジ・マハール」という曲の盗作である事をロッド本人が認めている。当初、ロッド側が似ているとして告訴したが、逆に提訴されロッド側が裁判で完全敗訴している。
「アイム・セクシー」を収録した『スーパースターはブロンドがお好き』は、日本のオリコンアルバムチャートでも2位まで上昇する大ヒットを飛ばし、1979年3月のソロ初の日本公演チケットは、ハガキによる抽選販売であった。会場の収容人数が計8万人に対し、40万通を超える応募が殺到、日本中が興奮状態となった。
1980年代は打ち込みサウンドが全盛の中、作品内でも取り入れるが、一時の勢いを失う。アルバム制作はやや緩やかになるものの、精力的なワールド・ツアーを敢行。また、旧友ジェフ・ベックの『フラッシュ』(1985年)にゲスト参加。ここで歌われた「ピープル・ゲット・レディ」(インプレッションズのカヴァー)は、その後もロッドの持ち歌となった。1981年と1984年に日本公演を果たしている。
1989年、トム・ウェイツのカバー「ダウンタウン・トレイン」が世界的に大ヒット。「アイム・セクシー」以来11年ぶりに、全米・全英両方のチャートでトップ10入りしたシングルとなった。1991年には「モータウン・ソング」「リズム・オブ・マイ・ハート」と立て続けに全米・全英でトップ10を記録し、翌1992年には、再びトム・ウェイツのカバー「トム・トラバーツ・ブルース」を全英トップ10に送り込む。
1991年3月からは、ヨーロッパから全米まで1年間に渡る『ヴァガボンド・ハート・ツアー』を敢行。ヨーロッパでは、60公演以上のチケットが完売、アメリカでも動員・売上記録25週連続1位を記録する過去最大規模となった。一方、1992年には来日公演が予定に組み込まれていたが、当時の妻であるレイチェル・ハンターが出産を間近に控えていた為、残りの日程をキャンセル。ツアーは打ち切りとなり、8年振りの来日公演は中止となった。
1993年2月、フェイセズ時代の盟友ロン・ウッドと共にMTVアンプラグドに出演。その時の演奏は、同年にはライブ・アルバム『アンプラグド』としてリリースされた(2009年にはボーナス・トラックを2曲追加、初映像化となるDVD付きのデラックス・エディションとして再発)。全英・全米で2位、日本では7位。特に全米では5週連続浮上し、セールスは300万枚を突破。一方で、全曲カヴァー曲で構成されたアルバム『ワンス・イン・ア・ブルー・ムーン』が制作途中でお蔵入りとなった。(2010年に通信販売限定で商品化)
同年には、ブライアン・アダムス、スティングと共にレコーディングした映画『三銃士』の主題歌「オール・フォー・ラヴ」が全米で3週連続1位を記録。
1994年、リオ・デ・ジャネイロのコパカパーナ・ビーチで敢行された、『ニューイヤー・イブ・コンサート』で観客数380万人を動員し、ギネス認定。同年、これまでの功績が評価され、ロックの殿堂入りを果たす。MTV「アンプラグド」の成功もあり、本来ワールドツアーは終了していたものの、1994年4月には10年振りの日本公演を敢行。海外アーティストの来日公演でありながらオーケストラは全て日本人を起用するという異色の編成で、アンプラグドスタイルでのライブを行っている。
2000年には甲状腺癌が判明、9か月間に渡って歌えなかったという衝撃が駆け巡ったが、アルバム『ヒューマン』のプロモーションに乗せてしまうほどで、周囲の不安を一掃した。ただ、喉の手術を機に以前ほどの高音は出せなくなった為、以後歌唱法を変更した。本作は70年代から所属してきたワーナー・ブラザーズを離れ、同レーベルの傘下であるアトランティック・レーベル移籍第1弾アルバムである。
コンスタントにヒット・シングルを放つものの、キャリア前期に多く見られた代表作を生むには至らず、特にアメリカでは長年、商業的に低迷していた。「曲作りには自信が無い」と周囲に漏らしていたという。事実、1990年代には楽曲のストックがほとんどなく、いくつかのオリジナル曲とカヴァー曲で構成されたアルバムを発表していた。
2002年、アトランティック・レーベルを離れ、クライヴ・デイヴィスが設立したJ RECORDSに移籍し、新境地の開拓を図る。2002年から2005年にかけては、スタンダード・ナンバーをカヴァーした『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブック』シリーズ全4作が全米だけで830万枚の大ヒット。全世界で2000万枚以上のセールスを記録。Vol.3では、自身25年振りとなる全米1位を達成。グラミー賞の"最優秀トラディショナル・ポップ・アルバム"部門を受賞。通算14度目のノミネートで待望の初受賞となり、劇的な復活を果たす。
当初、このシリーズは3部作で完結と言われていたが、このVol.3の大ヒットもあり、続編となるVol.4を発表した。なお、ロッド自身がこれで完結とは宣言していない為(一度「完結」と宣言したものの撤回している)、将来的に続編を発表する可能性はある。2006年にはロック回帰を宣言したカヴァー・アルバム『グレイト・ロック・クラシックス』が再び全米1位を記録。待望のロック・アルバムとして、日本ではランキングこそ振るわなかったもののロング・ヒットとなった。
2007年7月12日、ロンドン・バッキンガム宮殿で大英帝国第3級勲位(CBE)が授与された。 ロッドの名が世間に浸透してから40年以上になるが、今なお現役であり続けるだけでなく、第一線で世界的に活躍を続けている点が高く評価された。
2008年、カヴァーシリーズの続編となるソウル・アルバムの制作が進行していたが、これまで二人三脚で歩んでいたクライヴ・デイヴィスがクリスマス・アルバムの制作を提案。これをロッド側が固辞し、ニュー・アルバムの制作が見送りとなった。その代わりに、ベスト・アルバム『SOME GUYS HAVE ALL THE LUCK』(邦題:スーパースター・ストーリー~ザ・ベスト・オブ・ロッド・スチュワート~)に切り替わったという経緯がある。
2009年3月、実に13年振りとなる来日公演が実現。4公演とこれまでで最も少ない公演数ではあったが、各地で盛り上がりを見せた。また、来日記念盤として代表作の紙ジャケットCDがマーキュリー、ワーナー、BMGの3社から多数発売された。
2009年4月21日、ロサンゼルスで行われたジェフ・ベックのライブに飛び入りで登場し、「ピープル・ゲット・レディ」「迷信嫌い」を披露。大きな話題を呼んだ。
2009年秋、前年に見送りとなったソウル・アルバムが『ソウルブック』としてようやく発表になった(日本版は12月発売)。また、マーキュリー/ワーナー期の楽曲の別テイクや、レコーディングされながら未発表だった秘蔵音源が多数発掘された。音源の一部はすでにBOXセット『ロッド・スチュワート セッションズ 1971-1998』としてリリースされており、音楽配信限定で発表された曲も多数存在する。これらが今後CDとして発売されるのかは現段階では未定。
2010年は、イギリスを中心とした春から夏にかけてのワールド・ツアーを敢行。一部でフェイセズのリユニオンが取り上げられているが、『ソウルブック』のプロモーションとコンサート活動に専念するため、現在のところロッドが参加するというアナウンスはされていない。また、『グレイト・アメリカン・ソングブック』シリーズの完結を公式に宣言。その最終章となるVol.5を今秋に発表した。
2011年からはスティーヴィー・ニックスとのジョイント・ライヴや、ラスベガスを中心としたコンサート活動を行う。 2012年6月、ユニバーサルミュージック内のVerve Recordsと多数のアルバムリリースを含めた契約を交わす。同年秋には、自伝を海外限定で出版。また、キャリア初のクリスマス・アルバム『メリー・クリスマス、ベイビー』を発表。製作総指揮をデイヴィッド・フォスターが務め、全米で初登場3位を記録。全英では初登場2位(全英での第2位は、1998年リリースの『ザ・ニュー・ボーイズ』以来、14年半振り)を記録した。本作と同時進行で、ロック・アルバムを制作中であることがアナウンスされた。自身15年振りとなる作詞・作曲のオリジナルナンバーを多数含むアルバム『タイム〜時の旅人〜』を2013年春に発表。1979年の『グレイテスト・ヒッツ』以来、自身34年振りとなる全英チャート1位を獲得した。これは英国の音楽史上においてボブ・ディランに次ぐ記録で、イギリス人ミュージシャンではトム・ジョーンズの32年を上回る最長記録である[3]。
私生活[編集]
「すらりとしたブロンド(の女性)が好き」と公言しているとおり、女性遍歴が華やかで、これまで4人の女性との間に8人の子供を授かっている。1980年代に俳優ジョージ・ハミルトンの元妻であるアラナ・ハミルトンと最初の結婚、1990年代にはレイチェル・ハンターと結婚したがいずれも離婚し、現在はモデルのペニー・ランカスターを妻に持つ。
1970年代後半から80年代初めは『スーパースターはブロンドがお好き』が世界的にヒットした頃で、奇抜なメイクと斬新なファッションが話題を呼び、さらには数々のゴシップ記事が紙面を賑わしていた。異様なまでの注目を浴びていたことが分かるが、自身は「少し悔いが残る時期」と語っている。
背の高い美女が好きな彼は、彼女たちと並ぶとどうしても小さく見えてしまう。しかし、170センチどころか154センチしかないらしいとの噂には我慢ならないようだ。Femalefirst.co.ukによると、スチュワートは再度、身長について言及したという。「俺に対して、世間が理解していないことがいっぱいある。俺は絶対に、154センチじゃない。“ペニー・ランカスターと一緒にいるリトル・ロッド・スチュワート”って言われるのにはウンザリしてるんだ。ほんとにイライラする。俺は157センチ(5フィート2インチ)近くあるぜ」とジョークで交わした。ランカスターの身長は185センチあり、冗談半分に扱われている面もある。
結婚期間 | 結婚相手 | 子供 | 身長 | 職業 |
---|---|---|---|---|
1971-1975 | ディー・ハリントン | モデル | ||
1975-1977 | ブリット・エクランド | 165cm | 女優 | |
1979-1984 | アラナ・ハミルトン | キンバリー・スチュワート ショーン・スチュワート |
175cm | 女優/モデル |
1983-1990 | ケリー・エンバーグ | ルビー・スチュワート | 173cm | モデル |
1990-2006 | レイチェル・ハンター | 178cm | モデル/女優 | |
2007- | ペニー・ランカスター | アリステア・スチュワート アイデン・スチュワート |
186cm | モデル/写真家 |
元フェイセズのメンバーだったロニー・レーンが重病を患った際には、ロン・ウッドと膨大な医療費を人知れず払い続けていたこと、ロッドの才能をいち早く見抜いたブルース・シンガーのロング・ジョン・ボールドリーの医療費も負担していたことが、オフィシャル・バイオグラフィーに記載されている。
2010年、約30年間を過ごしたロサンゼルスに別れを告げ、本国イギリスに帰国した。
趣味はサッカー観戦。セルティックFCの熱狂的サポーターであり、ライブでユニフォームを着ることもある。セルティックFCのロゴを象ったオフィシャルグッズも制作されている。鉄道模型の大ファンでもあり、ビバリーヒルズの自宅には139平方メートルにもなる鉄道模型が設置されているという。
日本での影響[編集]
1970年代後半、ロッドの斬新なファッションやパフォーマンスにいち早く反応したのが、当時人気絶頂だった沢田研二といわれており、「ホット・レッグス」や「アイム・セクシー」の日本語版を音楽番組で歌っている。 日本では全英チャート1位を記録した「セイリング」が有名。また、「サントリー・ウィスキー」(サントリー)や「ニッカウヰスキー」、「スバル・レガシィ」(富士重工業)のTVCMに出演したことがあり、「今夜きめよう」や「アイム・セクシー」などのヒットでも知られている。 1995年には、フジテレビドラマ『沙粧妙子-最後の事件-』の主題歌に「レディ・ラック」が起用され、ロング・ヒット。1996年1月には再度、来日を果たす。
西城秀樹は、自身の西武球場コンサートのエンディングとして長年に渡って「セイリング」を起用し、2003年に脳梗塞を発症し歌手生命の危機に陥った際には、甲状腺癌を克服し復帰したロッドを励みにし、無事回復したことを語っている。
世良公則はかなりのロッド通として知られており、雑誌などに度々コメントを寄せている。
矢沢永吉も以前から影響を受けていたが、1997年にロンドンで行なわれた世界的な音楽イベント「SONGS&VISIONS」にアジア代表として出場し、競演したことで、さらに意識を強めた。また、2009年の日本武道館公演にも訪れている。
徳永英明の「VOCALIST」シリーズは、ロッドのカヴァー・シリーズの成功がきっかけだったことが「ソウルブック」のブックレットに記載されており、Vol.4までリリースし完結と宣言しながら、続編となるVol.5を発表するところも似通っている。
ASKAが「グレイト・アメリカン・ソングブック」シリーズから2曲を取り上げている。またKOKIAは同シリーズから3曲を取り上げた。
布袋寅泰は、カヴァー・アルバム「MODERN TIMES ROCK'N'ROLL」で「セイリング」を取り上げるなど、今なお数多くのミュージシャンに影響を与えていることが伺える。
真島昌利や浅川マキは、ロッドのキャリア初期作品に思い入れがあり、ライブで「ガソリン・アレイ」をカヴァーした。
TM NETWORKの宇都宮隆もファンを公言しており、ビジュアルやキャラクター(女性好きである面を、ロッドの場合は結果的に、宇都宮の場合は戦略的に打ち出した点など)に類似性が見られる。
ディスコグラフィー[編集]
ジェフ・ベック・グループ[編集]
フェイセズ[編集]
- 『ファースト・ステップ』 - First Step (1970)
- 『ロング・プレイヤー』 - Longplayer (1971)
- 『馬の耳に念仏』 - A nod's as good as a wink to a blind horse (1971)
- 『ウー・ラ・ラ』 - Ooh la la (1973)
- 『ロッド・スチュワート & フェイセズ / ライヴ』 - Coast to Coast: Overture and Beginners (live) (1974)
ソロ作品[編集]
- 『ハンドバッグと外出着』 - An Old raincoat Won't Ever Let You Down (The Rod Stewart Album) (1970)
- 『ガソリン・アレイ』 - Gasoline Alley (1970)
- 『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』 - Every Picture Tells A Story (1971) 「マギー・メイ」収録
- 『ネヴァー・ア・ダル・モーメント』 - Never A Dull Moment (1972)
- 『スマイラー』 - Smiler (1974)
- 『アトランティック・クロッシング』 - Atlantic Crossing (1975)
- 『ナイト・オン・ザ・タウン』 - A Night on The Town (1976)
- 『明日へのキック・オフ』 - Foot loose & Fancy Free (1977)
- 『スーパースターはブロンドがお好き』 - Blondes Have More Fun (1978)
- 『パンドラの匣』 - Foolish Behaviour (1980)
- 『トゥナイト・アイム・ユアーズ』 - Tonight I'm Yours (1981)
- 『アブソルートリー・ライヴ』 - Absolutely Live (1982)
- 『ボディ・ウィッシーズ』 - Body Wishes (1983)
- 『カムフラージュ』 - Camouflage (1984)
- 『ロッド・スチュワート』 - Every Beat of My Heart (1986)
- 『アウト・オブ・オーダー』 - Out of Order (1988)
- 『ヴァガボンド・ハート』 - Vagabond Heart (1991)
- 『リード・ボーカリスト』 - Lead Vocalist (1993)
- 『アンプラグド』 - Unplugged... and Seated (1993)
- 2009年にコレクターズ・エディションとしてDVD付き仕様版が発売された。
- 『ユア・ザ・スター』 - A spanner in the Works (1995)
- 『ザ・ニュー・ボーイズ』 - When We Were the New Boys (1998)
- 『ヒューマン』 - Human (2001)
- 『ザ・グレート・アメリカン・ソングブック』 - Great American Songbook: It Had to Be You (2002)
- 『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブックVol.2』 - Great American Songbook: Vol.2: As Time Goes By (2003)
- 『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブックVol.3』 - Great American Songbook: Vol.3: Stardust (2004)
- 『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブックVol.4』 - Great American Songbook: Vol.4: Thanks for the Memory (2005)
- 『グレイト・ロック・クラシックス』 - Still The Same... Great Rock Classics Of Our Time (2006)
- 『ソウルブック』 - Soulbook (2009)
- 『ザ・グレイト・アメリカン・ソングブックVol.5』 - Great American Songbook: Vol.5: Fly To The Moon (2010)
- 『メリー・クリスマス、ベイビー』 - Merry Christmas,Baby (2012)
- 『タイム〜時の旅人〜』 - Time (2013)
日本公演[編集]
- 3月5日 福岡スポーツセンター、7日,14日,15日,16日 日本武道館、10日 名古屋市国際展示場、11日,12日 フェスティバルホール
- 4月22日,23日,24日 横浜アリーナ、26日,27日 大阪城ホール、29日 真駒内アイスアリーナ
- 1月12日 福岡国際センター、14日 大阪城ホール、17日 名古屋レインボーホール、18日,22日,23日 日本武道館、20日 月寒グリーンドーム
- 3月9日 大阪城ホール、3月11日・12日 日本武道館、3月14日 さいたまスーパーアリーナ
テレビCM[編集]
※原則として日本国内で放映されたCMについてのみ記述。
- ニッカウヰスキー 黒の、50(1982年)"Tonight I'm Yours"をBGMに使用し、スタジアム内でサッカーボールを蹴るシーンが放映された。
- スバル レガシィ(1993年- 1995年)自身の代表曲、"People Get Ready"や"Sailing"をBGMに、サッカーボールをヘディングしたり、スコットランドと思しきヨーロッパの草原でCMが撮影されている。最後にロッドが「LEGACY,MY 1st.」と言う締め方になっていた。
脚注[編集]
- ↑ Ronnie Wood (2007) RONNIE, pp.78-84, St. Martin's Press.
- ↑ 当初、アルバム名は『フェイセズ』として発表されたのが、アルバム・ジャケットの写真でウッドが持っていたギターの教則本のタイトル-「FIRST STEP」-になぞらえて『ファースト・ステップ』と呼ばれるようになり、再発ではそれが正式タイトルとされるようになった、という説がある。
- ↑ Rod Stewart enjoys first Number 1 album in nearly 40 years! | Official Charts - 2014年11月16日閲覧