豊田薫 (外交官)

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豊田 薫(とよだ かおる)は、戦前日本の外交官太平洋戦争開戦前の1939年9月から1940年10月まで在シンガポール日本総領事を務め、在任期間中に領事館「嘱託」職員による情報工作を指揮、領事館職員がコックス事件篠崎スパイ事件に関連して英海峡植民地警察当局に相次いで逮捕された。日本占領時期にはシンガポール(当時の昭南特別市)政庁の総務部長を務めた。

経歴

豊田薫調書

1946年5月24日に豊田は米軍OCCIOで、1939年9月から1940年10月までの英領マラヤ総領事時代に日本領事館員が行っていたスパイ活動について尋問を受けた[10]。その際に豊田は、自身が情報工作を行っていたことは否定したが[11]、自身の知らないところで領事館員が情報工作のためにスパイを使っていたかもしれない、と証言した[12]。豊田の在任期間中、駐英領マラヤ日本総領事館には以下の職員が勤務しており、OCCIOは無線通信を行う篠崎と海軍予備士官の永山が机を並べていた点に着目していた[12]

家族

  • 1939年9月当時、妻1人、娘2人[3]

付録

地図

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 The Straits Times 1939-07-13
  2. Bridges 1986 24
  3. 3.0 3.1 The Straits Times 1939-09-14
  4. The Straits Times 1940-11-11
  5. The Straits Times 1940-11-15
  6. 6.0 6.1 シンガポール市政会 1986 39-40
  7. シンガポール市政会 (1986 44,52)。2月下旬の軍政部会議で決定した、とされている(シンガポール市政会 1986 44)。篠崎 (1976 72)では、同年3月に就任、としている。
  8. シンガポール市政会 (1986 97)。同書では、時期については同年5月に大達が帰国し、7月1日に東京都の初代長官に就任、内藤寛一が昭南特別市長に就任した後、間もなく、とされている。
  9. 篠崎 1976 90-91
  10. 山本 2000 20
  11. 自身の総領事着任前に情報工作実施の指示は受けなかったとし、また1940年9月に枢軸同盟が締結された後、外務省本省から英領マラヤの英軍が増強されているとの噂が本当か確認するよう指示があったが、軍事情報は確認する術がないと返答した、スパイは使っていなかったと証言した(山本 2000 20-21)
  12. 12.0 12.1 山本 2000 20-21

参考文献