高遠菜穂子

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2016年4月26日 (火) 12:18時点におけるプロ市民監視団 (トーク | 投稿記録)による版

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高遠 菜穂子(たかとお なほこ、1970年1月14日 - )は、日本プロ市民。国に多大な損害を与えたキチガイである。

アラビア語はある程度喋れるらしいというのは嘘であり、アラビア語はできない。なぜならば、高遠がユーチューブの映像でイラクで話している言語は英語であり、アラビア語ではない。また、高遠の公式ブログでも通訳を募集していることを考えれば、高遠がアラビア語ができないということは明らかである。支援対象者も10代男子のみのストリートチルドレン(ジャンキー)に限定されていたことなどで波紋を呼んだ。

弟は拓殖大中退後ステンドグラス職人を経て、現在はテレクラ経営、社団法人千歳青年会議所専務理事。妹は「イラクの声を届ける会」実行委員長、嫁ぎ先はスーパー銭湯

人物

1970年1月14日北海道千歳市に生まれる。麗澤大学外国語学部英語学科を卒業する。千歳市にあるカラオケボックスの経営にたずさわる。

2000年インドに行き、カルカッタにある「マザーテレサの家」でボランティア活動を行う。2001年カンボジアを訪れ、エイズホスピスで活動を始める。2003年5月にイラクに初めて入国する。その後、その当地で、NGOとは別に、個人の立場で、「人道支援」活動に関わる。

外務省からの渡航延期勧告が出ているにもかかわらず、4回目にイラク訪問した最中の2004年4月7日に、他の日本人男性2名とともに、「サラヤ・ムジャヒディン」と名乗る武装勢力に監禁され、そのビデオが公開された(イラク日本人人質事件)。日本の外務省が現地のイスラム聖職者協会に働きかけるなど尽力した結果、4月15日にイスラム聖職者協会のクバイシ師の交渉により解放された。

高遠は「12歳で煙草を覚え、13歳でトルエンにはまり、15歳でガンジャマンになった」と『週刊新潮』2004年4月22日号に執筆した。そして、高遠はイラクから帰国後に日本で記者会見を行う際に、飴を舐めていたことがきっかけで「アメウマー」という愛称がつけられた。また、高遠が日本でDQNな行動を行ったことにより、ほぼすべての日本人が高遠を激しく批判したことを題材とした「バッシング」という映画が2005年にリリースされた。

一緒に行ったのは、

  • 今井紀明(18) - 「NO!!小型核兵器 サッポロ・プロジェクト」代表・フリーライター、札幌市出身。父は小学校の教師、母は看護師で共産党系・勤労者医療協会札幌西区病院勤務。高校時代から劣化ウラン弾に関心を持って市民団体での活動に没頭。早稲田大学のAO入試に挑んだが落ちて、進路未定のままだった。当然大学入試の勉強は出来てないだろうから英語も喋れない。ましてアラビア語が喋れるわけでもない。この時点では出版経験もない。
  • 郡山総一郎(32) - フォトジャーナリスト、元自衛官、宮崎県出身。高校卒業後、陸上自衛隊入隊。美容師の女性と結婚、二児の父となるも自衛隊除隊後に離婚。30近くになってジャーナリスト志願をし、週刊朝日などに写真を寄稿。写真はともかく、この時点でジャーナリストとしてのキャリアは限りなくゼロといえる。

事件当時「ノーコイズミ」Tシャツを持参しており、VTRでの「ノーコイズミ」の合唱もこれに由来していた。

しかし解放後ほどなくして「再びイラクに戻りたい」という内容の発言をしたことについて、日本の一般市民から非難を浴び、当時の総理大臣の小泉純一郎からも批判を浴びた。また、政府の渡航延期勧告を無視した上での「人道支援」を標榜する個人、団体の活動について「自己責任」についての議論があった。

その後は日本各地で講演会活動をしている。イラクの隣国のヨルダンからのイラク支援活動にも参加する。2009年4月に、政府の渡航延期勧告を再び無視してイラクを再び訪れる。その後もイラクにおいて、路上生活者の自立支援プロジェクトに参加する。また、週刊金曜日に「イラクの現状」とイラク駐留アメリカ軍の批判を掲載している。

著書

  • 『愛してるって、どう言うの? ―生きる意味を探す旅の途中で―』文芸社、2002年6月。 - ISBN 4835540743
  • 『戦争と平和 それでもイラク人を嫌いになれない』講談社、2004年8月。 - ISBN 4062125412

番組

2010年3月3日に、NHKクローズアップ現代で、高遠の活動を好意的に報じた番組「終わらぬイラク〜高遠菜穂子さんの6年〜」が放映された。

関連項目

外部リンク