原町田

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原町田(はらまちだ)は、東京都町田市の地名。現行行政地名は原町田一丁目から六丁目。住居表示実施済み。人口は13,288人(住民基本台帳 2015年4月1日現在[1])。郵便番号は194-0013。

地理

町田市中部に位置する。町田市の中心地で、南多摩・相模(武相)地域最大の繁華街にあたる。 東は高ヶ坂、南は金森、北は中町、西は神奈川県相模原市南区上鶴間本町と接している。

西端をJR横浜線が通り、小田急小田原線が北端を通っている。周辺道路はいずれも交通量が非常に多いため、渋滞が発生しやすい。

河川

地価

住宅地の地価は、2014年平成26年)1月1日公示地価によれば、原町田3-14-8の地点で27万7000円/m2となっている。[2]

歴史

室町幕府の成立初期に琵琶湖に定住していた土方氏夏目氏山村氏(三橋一族)は主君である足利基氏が鎌倉に下向した際に従い関東に入った。三橋一族は関東で争乱が相次いだため鎌倉から大石氏八王子城滝山城沢山城と遷っていった。その後三橋新右衛門が北条氏照に永世帰農を請願、認可される。三橋一族は原野を開墾したのではないかとされている。[3]

鎌倉時代頃より鎌倉街道が通っていたが、江戸時代半ば頃までは鎌倉時代に宿の置かれた本町田が中心で、この地域は農地や原野が広がっていた。江戸時代後期頃、八王子から横浜へ生糸を運ぶための絹の道や、東海道大山街道の脇往還がこの地を通り物資の中継地となったため、次第に生糸取引や宿場として栄えるようになり、製糸・織物・乾物を中心とした商業も盛んに行われた。昭和に入ると、近隣地域に原町田陸軍病院原町田陸軍通信学校原町田陸軍兵器学校(いずれも原町田と冠しているが所在地は相模原市)や陸軍士官学校(座間市)が移転し、1942年綾瀬市大和市にまたがる厚木飛行場が完成すると、軍人や軍属の住民が周辺地域に増加し、原町田周辺がより発展することとなった。第二次世界大戦時は陸軍関係の学校や病院は相模大野周辺に多かったものの、軍需工場が少なかったためか空襲の被害は少なかった。

地名の由来

町田村(現在の本町田)の近隣の野を開拓した村であったことから。

沿革


六齋市

1583年(天正11年)前後に原町田村が町田村から分村した後、六齋市開催の権利を得たとして市を開いたが、それまで市を開催していた本町田村(旧来の町田村)側も権利を主張し市開催を1584年天正12年)前後から再び行なうようになった。両村は互いに譲らず紛糾し訴訟にまで発展、1587年(天正15年)北条氏が裁定し三斎市をお互いに開催することとなった。この市は明治時代に入ると六齋市に戻り、以後は絹の道の中継地となっていた原町田で行われるようになった。通称、「二六の市」と呼ばれ月6回開かれていた。 1767年明和4年)の「原町田村絵図」には市が開かれると浄運寺から勝楽寺門前(約500メートル)に店が並んでいたとされている。

交通

鉄道

横浜線小田急小田原線町田駅

バス

主に神奈川中央交通により運行されている。小田急線・JR横浜線町田駅最寄の停留所は町田バスセンターである。

道路・橋梁

施設

町田駅周辺部の詳細については町田駅#駅周辺 も参照

行政
教育
商業
ホテル結婚式場
  • ホテル ザ・エルシィ町田
  • ホテルリソル町田
  • ビジネスイン サンホテル
  • ホテル新宿屋
郵便局
  • 町田駅前郵便局(旧ぱ・る・るプラザ町田内郵便局)
  • 原町田六郵便局
  • 原町田郵便局
公園
  • 町田市立芹ヶ谷公園
  • 町田市立原町田青空ひろば
寺院

脚注

  1. 町丁別世帯数・人口表|町田市
  2. 国土交通省地価公示・都道府県地価調査
  3. (2009) [ 「原町田村古地図」と「原町田宿ノ道巾10間」の検証 ] 地図中心 447 財団法人日本地図センター 2009 12 pp. 32-35

参考文献

外部リンク