古木克明

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古木 克明

古木 克明(ふるき かつあき、1980年11月10日 - )は、三重県松阪市出身のプロ野球選手外野手内野手)、元総合格闘家

現在はアメリカ独立リーグ・パシフィック・アソシエーションハワイ・スターズに所属している。

経歴

プロ入り前

三重県松阪市出身。豊田大谷高校2年時の第79回全国高等学校野球選手権大会、1回戦の長崎南山高校戦で2打席連続本塁打を打ったが、2回戦の甲府工戦では、二塁打で出塁直後に隠し球で刺されるなどでチームも敗れた。高知商業藤川球児と共に2年生では2人だけ高校日本代表選出。

3年時の第80回全国高等学校野球選手権大会ではベスト4に進出。1回戦では村田修一擁する東福岡高と対戦し、6対4で勝利。2回戦では上本達之擁する宇部商高と対戦、延長戦を制し3対2で勝利。準々決勝では和田毅を擁する浜田高と対戦、延長を制し4対3で勝利。準決勝では吉見太一擁する京都成章高と対戦するが、4三振と精彩を欠きチームも1対6で敗退。

高校時代は練習の虫で、甲子園の中継でバットを抱いて寝る、グローブなどの道具を大切にする選手として紹介された。左打ちながらレフト方向にも本塁打が打てる強打者だった。

1998年のドラフト会議横浜ベイスターズから1位指名(松坂大輔の外れ1位指名)を受け、入団。指名当日、福岡ダイエーホークス志望だった古木に、当時横浜の監督だった権藤博が直接挨拶に出向いた。背番号3

横浜時代

1999年から2001年は一軍の出場は数試合だったが、二軍では1999年にフレッシュオールスターゲームMVP、2000年に打率.305、10本塁打、2001年には打率.272、12本塁打と長打力を発揮していた。

2002年、背番号3を石井浩郎に譲り33に変更。二軍でチームトップの打率.285、13本塁打を打ち、シーズン後半に若手起用の方針から一軍で積極的に起用された。9月7日に川尻哲郎からプロ入り初本塁打を打つと、その後1か月半で桑田真澄山本昌岩瀬仁紀などエース級投手から次々と本塁打を放ち、最終的に9本塁打を記録。打率も.320を記録した。また黒江透修監督代行によって9月後半から13試合で4番として起用された。シーズンオフに開催された第15回IBAFインターコンチネンタルカップでは日本代表に選出され、4本塁打を放ち、本塁打王とベストナインとなった。

2003年は6番・三塁で開幕スタメンで起用され、本塁打は22本と量産したが、打率は.208と低く、131三振はリーグワーストのタイロン・ウッズの132三振に次ぐ記録だった。左投手やチャンスに弱く(得点圏打率は.121、打点は37)、守備ではリーグ最多の20失策を記録し(三塁で18失策、外野で2失策)、打撃でも守備でも粗い面が目立った。シーズン後半からは外野手として出場。失策王になった古木の守備を何とかするために、シーズンオフに親会社はダンストレーニングを課し、沖縄アクターズスクールに入れられる。

2004年から正式に外野手にコンバートされた。しかし、多村仁佐伯貴弘金城龍彦が揃って3割に到達し、外野のレギュラーが固定されていたため、主に代打として出場。打率は.290と上向き、出塁率が.365と打撃面では向上。5月4日の巨人戦(横浜スタジアム)で決勝本塁打を放ち、お立ち台に上がった。

2005年は新監督の牛島和彦が守備力を重視していたこともあり、安定した守備力を持つ小池正晃との定位置争いに敗れ、出場機会が減少。オフに他球団へのトレードを志願したが、球団側の説得やファンの声援もありトレード志願を取り下げた。

2006年は多村の故障や小池の打撃不振により、3年ぶりの100試合出場と出場機会を得たものの、打率.252と結果が残せず、小池の復調や吉村裕基の台頭後は再び控えに回るようになった。外野守備においても打球判断の拙さから平凡なフライを三塁打にしてしまうなど、外野手ではリーグ最多の8失策を記録した。シーズン終了後、右ひじ骨棘除去手術をした。

2007年は前年の手術の影響でキャンプは二軍スタート。開幕第2戦で門倉健からチーム第1号となる決勝本塁打を放つなど、前半戦はそれなりの活躍を見せていたが、夏には再び二軍落ちを経験するなどシーズン通しての活躍はできなかった。同年オフに大西宏明との交換トレードでオリックス・バファローズに移籍。

オリックス時代

2008年も二軍で開幕を迎えたが、4月に一軍に昇格するとまずまずの打撃を見せた。しかし、5月は月間打率が1割台と打撃不振で6月上旬に二軍降格。その後二軍ではチーム2位の7本塁打、打率.279の成績を残したが、一軍昇格することなくシーズンを終えた。出場機会は2002年以降では最少で、一軍で本塁打なしに終わるのは7年ぶりだった。

2009年も二軍で打率が3割を超えるなど好調な打撃を見せ、5月に一軍昇格。対右投手時のスタメン及び左の代打要員として起用されたが結果を残せず、1か月ほどで二軍降格。その後二軍では打率は.310と好成績を残していたが、同時に三振王(74個)にもなり、一軍に昇格することなくシーズン終了。10月3日に戦力外通告を受けた。その後、12球団合同トライアウトに2度参加したが獲得球団はなく、現役を引退。

格闘家へ転向

2009年12月8日、格闘技の新団体「スマッシュ」に入団することが発表された。「野球に未練はない、世界を代表する格闘家を目指したい」と意気込みを語った。12月20日に行われたプロ野球55年会が企画したチャリティーマッチに参加、9回に代打で出場し、レフトフライに終わった。試合後、古木にとっては最後の試合ということで両チームの選手による胴上げが行われた。なお、格闘家転身については2009年12月30日に放送されたTBSのドキュメント番組、『壮絶人生ドキュメント 俺たちはプロ野球選手だった』でも紹介された。

2010年6月にゴールドジムベースボールクラブの一員として茨城ゴールデンゴールズとの練習試合に参加、同チームの都市対抗野球大会東京都予選メンバーにも背番号33で登録されている(同チームにはコーチ兼任で元西武上田浩明も選手登録)。また、6月26日に西調布アリーナで行われたアマチュアDEEPの第1回大会において、総合格闘家として長南亮と2分2ラウンドのエキシビションマッチを行った。

2010年12月31日、Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜にてアンディ・オロゴンと対戦。5分3ラウンドを戦い抜き、0-3の判定で敗れた。

2011年4月22日、DEEP 53 IMPACTにて海老名義隆(元明治大学ラグビー部選手)と対戦。5分2ラウンド戦にて2-0の判定勝利。格闘技転向後の初勝利となった。

野球再挑戦

4月の格闘技初勝利後、少年野球指導者を目指し、セカンドキャリアの実務研修を兼ねて「少年野球指導教室 中野塾」に参加。野球の練習を開始する。その後、関係者からの勧めもあって格闘家を引退し、球界復帰を目指すこととなった。球界復帰のために市民球団かずさマジックの練習に参加。また、平行して大久保博元の下で練習を行なっていた。古木は格闘家を引退した理由を2つ挙げている。1つは試合中に感じた「死ぬかもしれない」という恐怖に耐え切れなかったこと、もう1つは格闘技のトレーニングをしているときも結局野球のことを考えてしまい、自分には野球しかないと気付いたからだとしている。11月の12球団合同トライアウトにも参加したが獲得球団は現れなかった。この模様はTBS系「プロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達」でも特集された。

2012年からは大久保博元が主宰する「デーブ・ベースボール・アカデミー」の非常勤講師に就任しながら、練習を続けている。同年11月の12球団合同トライアウトにも参加し、12月26日放送のプロ野球戦力外通告・クビを宣告された男達」でも特集されたが、獲得球団はなく、海外でのプレーも検討することを示唆した。

独立リーグ時代

2013年、神奈川県横浜市瀬谷区座間市の中学生を中心に活動しているヤングリーグ硬式野球チーム、横浜ヤング侍の名誉監督に就任。その後、元近鉄佐野重樹からの紹介で石川ミリオンスターズ社長の端保聡と出会い、6月からBCリーグとハワイの独立リーグの合意の一環として、パシフィック・アソシエーションのハワイ・スターズに挑戦。そのまま同チームに入団。シーズンでは54試合に出場し打率.307、2本塁打、39打点、8盗塁を記録した。

プレースタイル

高校通算52本塁打を記録した天性の長打力を持つが、通算打率は.250未満と荒削りな打撃だった。2003年は規定打席不足にもかかわらずリーグ2位の三振数を記録している。長打力ばかりが強調されるが足の速い選手でもあり、打数に対する併殺打の割合は低い。

守備力は三塁、外野ともに低く、2003年に三塁手ではリーグ最多の18失策、2006年に外野手ではリーグ最多の8失策を記録している。守備に難があったことについて本人はドライアイが大きな理由だったという。野球界復帰時に行った検査で片目の涙量がゼロという極度のドライアイであることが分かり、実際に打席や守備についているときに目がかすんだり距離感がつかめなくなることがたびたびあったと語っている。このドライアイはすでに治療を済ませている。

人物

2004年出版の「ベースボールポポロ」(麻布台出版社)には、横浜のキャンプ地・沖縄県宜野湾市での取材時に、上半身裸の肉体美を披露する写真を撮影、掲載された。古木の体に魅せられたカメラマンが上半身裸になって欲しいと依頼すると、古木はテレながらも、笑顔でリクエストに応じたという。

プロ野球引退後の2010年7月13日のロッテ対オリックス(千葉マリン)の始球式に登場。マウンドでTシャツを脱ぎ上半身裸になり投球。なお、その際捕手役は横浜時代の同僚だった吉見祐治が務めた。

結婚・離婚を各1回経験。2005年7月1日に池端忍と結婚、両者の間には翌2006年1月出生の女児一人があったが2012年7月に離婚(公表は同年9月)、女児は池端が引きとった。

挑戦し続ける

かつてのライバルが放った最後の打球がレフトスタンドに吸い込まれた瞬間、古木克明は自然と立ち上がり、ガッツポーズを作っていた。

2013年10月8日ベイスターズ本拠地最終戦。現役生活最後の打席で小池正晃が見せたホームラン。その「最後の打席」を見届ける為だけに、訪れた約1年ぶりのスタジアム。

小池とは1998年ドラフト1位と6位。“松坂世代”の同期であり、ポジションを競いあったライバルだった。堅実な守備と小技が巧みな打撃等、古木にないものを兼ね備えたスタイルで2005年にレギュラーに定着し、その後も大きな壁となり続けた小池の力は、古木が最も知っていたと言っても過言ではない。

「自分の持ち味はバント」

と最後まで言い続け、チームの為に自らを犠牲にしてきた小池が、プロ野球選手として最後の場面になって初めて見せた、捩じ切れんばかりのフルスイング。自分のため、家族のために立った打席で最高の結果を残したライバルの最後に、古木は熱いものが込み上げてくるのを感じていた。

正直、羨ましいな……と思いましたね。

「ああいう最後を迎えることが出来て、正直、羨ましいな……と思いましたね。小池とはライバルだったけど、同時にいい仲間でもありました。アイツは本当に我慢強かったですよ。今年も使われなくてもずっと我慢して我慢してね。一番最後まで我慢できる奴だったから、最後にああいう結果を残せるんでしょうね。僕は守備をはじめ自分の技術が足りないとばかり思っていたけど、本当に足りなかったものはきっとそういう精神力なんでしょうね。やっぱり、小池は凄い奴ですよ……」

感極まった古木は、試合終了後、ホームベース上で後藤、多村らと共に記念撮影をする小池を見て、フェンスを乗り越えて言葉を掛けたい衝動に駆られたが、このグラウンドへの乱入を目論むやけにガタイのいい観客が、警備員に徹底マークされ乱入を制されたことは言うまでもない。

ワンルーム暮らし3年目、バットは1カ月握っていない

2013年、秋。

今月33歳を迎える古木は、ワンルームマンションでの一人暮らし3年目に入っていた。その雰囲気は心なしか柔らかい。聞けば1カ月以上バットを握っていないという。

この秋も、共にグラウンドで戦った多くの選手がユニフォームを脱いだ。同期でライバルだった小池、オリックス時代の後輩で、ベイスターズ移籍後は自分の応援歌を使ってくれと応援団に頼んだという嶋村一輝も、チームの構想から外れ引退。同年代や年下の選手が、それぞれ自らの野球に区切りをつけ、新たな人生を踏み出して行く状況を見るにつけ、古木がNPBへ復帰する可能性は絶望的に思えてしまう。

東京・阿佐ヶ谷のパール商店街には秋風。どことなく、終わりを予感させていた。

「同年代の選手が次々とユニフォームを脱いでいく姿を見ていると、僕もそういう気持ちにならざるを得ません。今の置かれた状態を考えると、ホント『何しているんだろう、俺?』って感じですからね。本来ならもっと早く野球を終えていたはずなのに、まだやっている。随分とおかしなことになってしまっていますよね。でも、僕は運がいいと思うんです。嫌いになり掛けた野球を、もう一度ここまでやることができた。普通ならとっくに辞めているでしょうからね。今までもよく言われましたよ。遠回りしたな、無駄な努力だったなって。本当に、なんでここまでやれたんだろうと思いますよ」

呆れたように自嘲する。

在野を彷徨うスター古木。孤立無援

昨年のトライアウト終了後、NPBのチームから連絡が来ないことはわかっていた。NPB復帰を本気で目論んでいた一昨年のトライアウトとはハナから意味が違う。一度野球界から離れた人間が、NPBに復帰する厳しさを思い知らされた1年。何もかも無くして、その後に残ったものは、「もう一度野球がやりたい。試合でホームランを打ちたい」という単純な思いだけだった。

その後も古木は自分を受け入れてくれるチームを探した。知人の伝手を頼りに、国内独立から海外、台湾韓国イタリアオランダドイツフランス果てはスロバキアまで、野球と名が付く物ならどこへでも行く覚悟で交渉を続けたが、欧州などの有力リーグは翌年のWBC対策として外国人補強を進めており、既にほとんどの外国人枠が埋まっていた。もとより高齢でかつ実戦のブランクもあり、元格闘家という珍奇な経歴を持つ、古木の入る余地は残されていなかった。

年が明け、国内独立リーグのあるチームから獲得を打診されるも、入団直前で別の元選手を獲得したことで約束は反故に。再び在野を彷徨うスター古木。孤立無援。

「君に野球をやらせたいという人がいる」

今年も“所属なし”という現実に直面し、早くも心が折れかけていた。そんな時、古木の下に元近鉄佐野慈紀氏からの電話が鳴る。

「君に野球をやらせたいという人がいる」

その報せに古木は取る物も取りあえず、“会いたい”というその人、BCリーグ石川ミリオンスターズ社長・端保聡氏が待つ石川県に飛んだ。

「端保さんは日本だけでなく世界に目を向けた球団経営をされている方で、ためになるいろいろな話を伺い、そして僕の考えも聞いて貰いました。その中で僕が『海外でプレーすることに興味がある』という話をすると、『今度、石川と信濃がハワイの独立リーグと試合をするから、うちのチームに入って、トライアウトという形で受けてみなさい』と段取りをつけていただき、石川の選手としてハワイのチームとの試合に出させていただいて、トライアウトに合格することができました。八方塞がりだった道が開けたのは端保社長のおかげです」

6月、「パ・リーグ」の選手としてグラウンドに復帰

2013年6月。古木はパ・リーグの選手としてグラウンドに復帰した。パとは2013年創設された米独立リーグ「パシフィック・アソシエイション」であり、チームはそこに所属する「ハワイ・スターズ」。「ベイ」が足りないことなんて、古木にはどうでもよかった。

本拠地はハワイ島のヒロという田舎町。かつてウィンターリーグでイチローもプレーしたという球場は、芝生もボコボコでお世辞にもいいグラウンドとはいえない環境。チームには元デトロイト・タイガースで松坂から本塁打を打ったこともあるデーン・サルディーニャから、3Aの選手、独立リーグを転戦する選手、地元の大学生など出自もキャリアもバラバラ。若い選手が大半で、古木はサルディーニャに次ぐ年長。

野球道具と数枚の服だけ持ってハワイ島に上陸した古木の周りに知り合いは皆無。日本人顔の日系人はたくさんいても、誰も日本語を話せない。当然、古木が英語を話せるわけがない。

4人住まいのシェアハウスのリビングで寝起きするプライベートのない生活。薄汚い天井を見つめながら、古木は「30歳過ぎて俺は何をやってるんだ……帰りたい」と何度も我に返りかけるも、グラウンドへの誘惑がそれをさせなかった。

古木克明、憧れのハワイ航路でついに本領発揮

デビュー戦は6月4日吉田えりが所属するマウイ島のマウイ・イカイカ戦だった。3番レフトで出場した古木は、いきなり2死二塁というチャンスで打席に立つと、センター前にタイムリー。

得点圏や重圧の掛かる場面になると考え過ぎて過剰に力んでしまうことで御馴染みだった古木が、最も重圧の掛かる場面で結果を残すと、その後も鬼神の如く打ちまくり、1カ月終了時点で、打率.407、打点25はシーズン途中参加にもかかわらずリーグの二冠に躍り出るだけでなく、それまでのチームの年間最多打点をわずか1カ月で更新してしまう謎の優良助っ人外国人ぶり。

晴れた空、そよぐ風。虹のような弾道。古木克明、憧れのハワイ航路でついに本領を発揮。

「久しぶりの感覚でした。公式戦はオリックスの'09年以来ですからね。草野球の助っ人や、クラブチームの紅白戦とはやっぱり楽しさが違いました。独立リーグは、序盤で成績が出なければすぐにクビを切られる状況があることも理解していましたから、最初からガンガン打たなければ……というプレッシャーもありました。実際にシーズン中にも2、3試合でリリースされていく選手がいる。最年長のサルディーニャも途中でコーチになってしまい、僕が野手最年長になってしまった。そういう中でやっているとやっぱり怖いですよ。それでも結果を残せたのは、今日の試合が最後になるかもしれないから、悔いを残さないようにとことんやってやろうって思えたこと。少しは精神的に成長できたのかもしれませんね。あ、それと、守備の方では外野がメインでしたが、守りが不安な選手に代わって『お前が守備固めに入ってくれ』とサードを守ることもありました。……凄いですよね。何度かエラーしましたけど(笑)」

その成果は、古木のひとつの到達点だったのかもしれない。生きていればいつかいいことがある。諦めなければ夢は叶う。そして、野球を続けていれば、古木が守備固めでサードに入ることもある――。ハワイで得た成果は古木の野球人生のひとつの到達点だったのかもしれない。

1年間、チームの主軸としてシーズンを戦い終えた結果、54試合で打率.307。2本塁打、39打点、8盗塁は7月の時点からすれば息切れ感が漂うものの、あの古木の勝負弱さを端的に数字で表現できた2003年の22本塁打37打点という魔のキャリアハイを、やっと「2本で39打点」という正常値に更新。そして、まったく意味の解らなかった英語もある程度までマスターするなど、古木にとっては数字以上に得たものは大きかったようだ。

「NPBにいたままだったらわからなかったのかもしれない」

「やっぱり、1年間シーズンを通してやるといろんなことが見えてきます。シーズンを戦う体力がないというか、体中いろいろな部分にガタが来ていることも、です。

夏場までと比べると最後は成績もだいぶ落ちましたけど、僕の中では頑張れたと思っています。最後の方はまたバッティングわかんなくなっちゃっていましたけどね(笑)。でも数字じゃないですよ。プレーよりも、野球は楽しいものだということが改めて実感できた。本当に楽しかったですね。あんなに野球が楽しかったのはホームランを打ちまくった2003年以来です。これもNPBにいたままだったらわからなかったのかもしれない。

日本では一個のミスで物凄く怒られて、悩んで落ち込んでいましたけど、本当は誰が何を言おうと関係ないんですよ。野球は失敗するスポーツなんだから、落ち込むことはない。そういう経験から得たことをやっと若い選手にも言ってあげられるようになった。いろんな状況で野球を辞めようとしている若い子に、いろんなことを経験した方が、絶対に人生の糧になると言ってあげられるようになった。」

「野球は世界のどこでやっても同じだと思うんです。ただ、今年のタイミングで、のんびりしたハワイ島のヒロという田舎町で野球ができたことは僕にとって幸運だった。上を目指すわけでもない。選手としての限界もわかりはじめている。名誉が欲しい訳じゃない、お金が欲しい訳じゃない。僕にとっては野球が楽しいと思い出せる。そのことが大事だったんです。

その中で、このチームは最高の環境でした。選手はいい奴ばかりだし、海の見える綺麗な球場で、自分の町のチームに誇りを持つ地元の人たちが応援してくれる。最初は一人ぼっちで孤独でしたけど、シーズンが終わった後は東京に帰りたくなくて、向こうでできた友達の家にしばらくホームステイさせて貰っていました。この半年の経験は、NPBの野球しか知らなかった僕の人生の視野を広げてくれた気がします」

NPBに残してきた野球への思いが浄化されたような、達観した物言いだった。

気持ちの面だけじゃない。いろんな方面で酷使してきた身体も、いろいろとガタが来ていることも知った。

2009年にオリックスを退団して以来、何度も野球人として死にかけては再び蘇ってきた古木克明だが、ここに来て、ようやく野球人として成仏する時が来たのだろうか。

2013年10月。

古木はJFAが主催する「夢の教室」に夢先生として登壇。和歌山県田辺市の小学生を相手に「夢を大切に」という授業を行った。現役時代にインタビューで、まったく言葉が出て来ず、編集者の顔面を蒼白にさせた当時の古木はそこにはいない。立派になったものだ。

「授業の内容は、夢を持つことの大切さを教えるということだったんですけど……あの授業は僕の方が教えられましたよ。経験を人に伝えるということは僕自身の人生を振り返ることですからね。これまでを振り返って、改めて自分の思いを確認できた気がします。

子供たちには、『夢を持ちましょう』と言いました。でも、夢を追うと、その最中で浮き沈みがある。特に絶頂期から沈んだ時は辛いですよ。僕はプロ野球が終わった時、格闘技を辞めた時、いろんなことがあった。でも、心の面はむしろ落ちてからの方が成長したと思えます。

落ち目の時は大変だけど学ぶチャンスでもある。そこでどれだけ頑張れるかですよ。負け惜しみに聞こえるかもしれないけど、僕自身、いろいろあったけど、これまでの自分の選択に後悔はありません。格闘技に進んだことも、野球界の人には『あれがなければ、戻れているのにバカだな』って何度も言われましたけど、そうは思わない。プロ野球だけが人生じゃない。格闘技に行ったからこそ、人間としての精神的な強さも養えたし、いろんなことに気が付くことができた。NPBを目指して浪人したことも、ハワイに行ったこともそう。無駄なものなんて何もなかったんです。だから、僕は子供たちに胸を張って言えました。『夢を持ちましょう』って。

僕はこれからも夢を持って生きていきます。何をするかはなんとなく考えてはいますが、まだわかりません。来年もどこかでプレーしているかもしれないし、していないかもしれない。プレイヤーを諦めたわけじゃないですよ。ただ、人に頼らず、ゼロからでも自分の力で立ちたい。何かにチャレンジしていくことは変わりがない。そして携わり方が変わろうとも、一生、野球と生きていきたい。それだけが確かな夢です」

この物語に【完】はまだつけられない。古木は「引退」という言葉は最後まで頑なに口にすることはなかった。

「トライアウトも参加しない予定でしたけど、今年でひとつの区切りをつけるなら、2次だけは受けようかなという気持ちが最近になって湧いてきました。辞めるわけじゃないですよ。次のステップへの句読点というか……第1部完みたいな感じです。でも、もしかしたら第2部の冒頭ではプロ野球選手に復帰しているかもしれないですけど(笑)」

この感じ。モヤモヤ。最後の最後まで古木は古木だった。

絶好調の相手投手が完封ペースで飛ばしていても、敵打者が凡フライを打ち上げゲームセットだと思っていても、そこに彼がいる限り、最後の「アウト」の宣告があるまでは、完全に「引退しました」というまでは、何が起こるかわからない。

そんな野球の醍醐味であり、転がり続ける人生の妙味なんてものを、これからも意図せずに体現してくれるに違いない。それがスターという星にいつまでも中途半端につきまとわれてしまう、古木克明のサガなのだから。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1999 横浜 3 3 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
2001 4 5 4 0 0 0 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
2002 34 106 100 15 32 6 0 9 65 22 2 0 1 1 4 0 0 25 2 .320 .343 .650 .993
2003 125 389 351 46 73 12 0 22 151 37 2 4 0 0 25 1 13 131 3 .208 .285 .430 .716
2004 100 208 186 26 54 3 0 11 90 27 3 0 0 0 19 1 3 57 1 .290 .365 .484 .849
2005 65 116 105 10 26 5 1 4 41 11 1 2 0 0 8 0 3 35 1 .248 .319 .371 .690
2006 110 321 298 32 75 18 1 10 125 35 3 4 0 3 15 1 5 72 3 .252 .296 .419 .715
2007 72 168 158 13 39 11 1 4 64 14 1 2 1 2 6 0 1 43 0 .247 .275 .405 .681
2008 オリックス 21 50 45 4 10 2 1 0 14 4 0 1 0 0 3 0 2 8 2 .222 .300 .311 .611
2009 9 14 13 0 3 1 0 0 4 0 0 0 0 0 1 0 0 5 0 .231 .286 .308 .593
通算:10年 543 1380 1263 196 312 58 4 60 554 152 12 13 2 7 81 3 27 377 12 .247 .305 .437 .742

年度別守備成績

一塁 三塁 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
2001 - - 1 1 0 0 0 1.000
2002 1 2 0 0 0 1.000 27 11 47 5 5 .921 -
2003 - 86 49 128 18 7 .908 24 26 0 2 0 .929
2004 - - 44 41 0 0 0 1.000
2005 - - 17 18 0 1 0 .947
2006 - - 77 121 6 8 0 .941
2007 - - 48 64 2 2 0 .971
2008 - - 8 11 0 0 0 1.000
通算 1 2 0 0 0 1.000 113 60 175 23 12 .911 219 282 8 13 0 .957

表彰

記録

背番号

  • 3 (1999年 - 2001年)
  • 33 (2002年 - 2007年)
  • 46 (2008年 - 2009年)
  • 19 (2013年 - )

総合格闘家としての戦績

総合格闘技 戦績
2 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
1 0 0 1 0 0 0
1 0 0 1 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
海老名義隆 5分2R終了 判定2-0 DEEP 53 IMPACT 2011年4月22日
× アンディ・オロゴン 5分3R終了 判定0-3 Dynamite!! 〜勇気のチカラ2010〜 2010年12月31日

脚注

関連項目

外部リンク

テンプレート:横浜ベイスターズ1998年ドラフト指名選手