本庄自衛隊差別事件
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本庄自衛隊差別事件(ほんじょうじえいたいさべつじけん)とは、1970年に被差別部落出身者が埼玉県深谷市で交通事故を起こし、自衛隊員らを死傷させ、有罪判決を受けたことを「部落差別」とみなす立場から呼ぶ名称。
概要[編集]
1970年10月8日3時30分、埼玉県深谷市の国道17号線上にて、被差別部落出身の青年が追越車道を譲ろうとした折、非常呼集訓練で停車中の航空自衛隊熊谷基地の大型輸送車に追突[1]。これにより、自衛隊員1名と、青年の車の同乗者女性1名が死亡[1]。青年は前方不注意とされ、業務上過失致死傷罪で起訴された[1]。
- 1971年3月26日 - 浦和地方裁判所熊谷支部で初公判が開かれる。裁判長は石川季。
- 1971年4月23日 - 第2回公判。
- 1971年7月16日 - 第3回公判。
- 1971年10月8日 - 第4回公判。
- 1971年12月10日 - 第5回公判。
- 1972年6月23日 - 第6回公判。特別弁護人として被差別部落の詩人植松安太郎が選任される。
- 1973年7月19日 - 第7回公判。検察側冒頭陳述がなされる。
- 1973年9月22日 - 第8回公判。弁護側冒頭陳述がなされる。
- 1976年9月27日 - 被告人の青年に禁錮1年・執行猶予3年の有罪判決が下る。
弁護側の主張[編集]
- 事故現場の付近には被差別部落と在日朝鮮人居住地があった。航空自衛隊は、これらを仮想敵とする差別的意図のもとに非常呼集訓練をおこなったのではないか[2]。
- 事故の全責任は自衛隊車両による違法停車にあり、被告人に前方注意義務違反はない[3]。そもそも、非常呼集訓練そのものが違憲かつ違法であった[4]。「今日の自衛隊は、日米共同声明以後、世界の冷戦緩和の大勢にもかかわらず、アジア侵略への第一歩としての沖縄派兵、釣魚台(いわゆる尖閣列島)の略奪等帝国主義軍隊へと自らを変貌しつつある」(弁護人冒頭陳述より)[2]。
- 被告人が3時30分という時間に自動車を運転していたのは、部落差別に起因する劣悪な労働環境のためである[5]。よって、被告人こそが被害者である。「本件は明らかに公道上に盤踞して進行妨害をしていた日本国家の軍隊自衛隊の負うべき加害事件であり、これを被害者である××××(被告人の氏名)を加害者被告(ママ)にして裁くということは、明らかに部落と部落民に対する差別事件である」(植松安太郎「再開公判に際しての意見表明」)[6]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 高杉晋吾「部落差別冤罪事件-5-本庄自衛隊差別事件--濃霧のなかから国家権力が-上-」(『月刊労働問題』1977年3月号)
- 高杉晋吾「部落差別冤罪事件-6完-本庄自衛隊差別事件--濃霧のなかから国家権力が-下-」(『月刊労働問題』1977年4月号)
- 高杉晋吾『部落差別と冤罪-狭山事件の背景』(三一新書、1977年)テンプレート:Crime-stub