小錦八十吉 (初代)

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小錦八十吉(こにしき やそきち、慶応2年10月15日 (旧暦)1866年11月21日)- 大正3年(1914年10月22日)は、明治中期に活躍した大相撲の第17代横綱。168cm、143kg。上総国武射郡(現・千葉県山武郡横芝光町)出身。本名は岩井八十吉。幕内通算成績は26場所119勝24敗9分7預101休、勝率.832。優勝相当成績7回。

人物・逸話[編集]

土地相撲の大関であった父は何とか息子を関取にしたいと考えており、佐倉に巡業に来ていた高見山2代高砂)に頼んで高砂部屋に入門させた。しかし稽古の厳しさのため何度も逃げ帰ったという。

その取り口は立合いの素早さと突き押し相撲、そして俊敏な動きで知られ、「軍配が返る前に小錦の勝ち」とも評された。一方で小心者で、初日によく星を落とすため、「小錦と当たるんだったら初日」と願う力士も多かったという。その相撲振りから「狂える白象」といわれた。

また色白、童顔の愛嬌のある風貌から人気者となり、錦絵が飛ぶように売れたという。その人気のため、東京では「小錦織」なる織物も販売された。

明治21年5月場所の入幕から足かけ4年で39連勝と入幕当時の勢いは凄かった。明治29年5月場所に横綱になったときはすでに盛りを過ぎたか、一度も優勝に相当する成績を残すことができなかった。横綱免許が授与された頃から師匠の初代高砂を患っており、小錦がその面倒を見ていたことも影響したといわれる。のちの横綱大砲に負け、大砲が笑顔を見せる映像が残されている。

引退後数年は髷をつけたまま勝負検査役をつとめ、後に取締になったが、その腰低く、誠実・真面目な人柄で平年寄と変わらぬ働き振りであったため人望を集めた。

ちなみに現タレント小錦八十吉(元大関)は幕内力士としては3代目小錦、十両以下の力士(名前が「八十吉」以外も含む)を含めると6代目小錦となる。

年譜[編集]

  • 1866年(慶応2年)11月21日 上総国武射郡に生まれる。父は土地相撲の大関であった。
  • 1880年(明治13年) 同郷の幕内力士・響矢(後の関脇高見山、2代高砂親方)を頼り、高砂部屋に入門する。
  • 1883年(明治16年)5月場所 初土俵
  • 1888年(明治21年)5月場所 新入幕、30連勝(2分3預休5休含む)を記録
  • 1890年(明治23年)5月場所 大関昇進(連勝記録は39)。
  • 1896年(明治29年)3月場所 吉田司家から横綱免許を受ける。当時は30代半ばでの横綱免許が普通だった中で、初の20歳代の横綱となる(29歳4ヶ月)。
  • 1901年(明治34年)1月場所 現役引退、年寄二十山(6代)襲名、二十山部屋を興し、小結山泉(後に2代目小錦八十吉を名乗る)や新弟子の頃の大関千葉ヶ嵜俊治を育てた。
  • 1914(大正3年)10月22日 48歳で死去。

21世紀になって在日宣教師の子孫の自宅から、その土俵入りをおさめたフィルムが発見された。