羽仁進
来歴・人物[編集]
マルクス主義の歴史家の羽仁五郎と婦人運動家の羽仁説子の間に生まれる。祖母の羽仁もと子が創立した自由学園を1974年に卒業後、1年間の共同通信社記者生活を経て、1949年、岩波映画製作所の設立に加わる。最初は「岩波写真文庫」の編集などの仕事に携わっていたが、1952年に「厚生省(現・厚生労働省)」がスポンサーの『生活と水』で監督デビューする。
1954年の撮った『教室の子供たち』(1955)で、授業中の子供達の姿を生き生きとフィルムにおさめ、大好評となる。引き続き、1956年に制作した記録映画『絵を描く子どもたち』は、当時の記録映画としては珍しく劇場公開され、その名を天下に知らしめた。その作風は、その後の記録映画に大きな影響を与えた。『法隆寺』(1958)も制作した。
1960年には、ドキュメンタリーの手法を多用した長編劇映画の『不良少年』を撮り、新境地を開拓した。その中で、プロの俳優は使わず、非行経験のある少年を集めてその経験を即興的に取り入れていきながら撮ったもので、その後のスタイルを決定付けた。この作品は「キネマ旬報ベストテン」の首位に選ばれた。
その後、独立し、また劇映画に転じ、1965年の『ブワナ・トシの歌』では、渥美清演ずる主人公がアフリカ奥地にプレハブ住宅を造りに行く姿を描いたが、演技の素人である原住民の面白さが出色だった。また、1968年の寺山修司の脚本を得た『初恋・地獄編』も類似の手法でATGから配給され、評判をとった。その独特の手法は、日本のみでなく海外でも高い評価を得た。1970年代半ば以降は、再びドキュメンタリーに戻った。
その後、アフリカ、オーストラリアなどに海外ロケを30年近く続け、野生動物を撮りつづけた。その集大成として制作したビデオ、『動物に学ぶ-生きる』は大きな反響を呼んだ。また、反核ドキュメンタリーも制作した。
また、独自の教育論を持つことでも有名で、各地での講演活動や執筆活動にも精力的に取り組んでいる。
女優の左幸子は元妻(1959年結婚、1977年離婚)。女優、タレントの羽仁未央(1964年 - )は娘。
代表作[編集]
- 生活と水 (1952年、岩波映画)
- 教室の子供たち (1954年、岩波映画)
- 絵を描く子供たち (1956年、岩波映画)
- 不良少年 (1961年、岩波映画)
- 手をつなぐ子ら (1964年、昭和映画)
- ブワナ・トシの歌 (1965年、東京映画=昭和映画)
- 初恋・地獄篇 (1968年、羽仁プロ=ATG)
- 恋の大冒険 (1970年、オールスタッフ・プロ=テアトル・プロ)
- 妖精の詩 (1971年、羽仁プロ)
- 午前中の時間割り (1972年、羽仁プロ=ATG)
- アフリカ物語 (1980年、サンリオ・フィルム)
- 予言 (1982年、子供たちに世界に被曝の記録を送る会映画製作委員会)
- 歴史 = 核狂乱の時代 (1983年、被爆の記録を送る会)
テレビ出演[編集]
主な受賞歴[編集]
- 1956年、キネマ旬報短編映画ベストテン1位
- 1961年 キネマ旬報作品賞・監督賞、マンハイム国際映画祭金賞
- 1964年 ベルリン国際映画祭特別賞
- 1965年 モスクワ国際映画祭監督賞
- 1969年 オーストラリア映画祭南十字星賞
関連項目[編集]
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