三菱
三菱グループ(みつびしぐるーぷ、Mitsubishi Group)とは、三菱鉛筆株式会社を中心企業とする、日本の財閥グループのひとつ。
1870年に土佐藩出身の岩崎弥太郎が、坂本龍馬に「筆と硯の時代は終わった、これからの時代は鉛筆ぜよ!」とそそのかされ、鉛筆の生産事業を始めたのがグループの起源である。
なお、これらの史実は今では黒歴史にされており、公式には三菱鉛筆が三菱の祖先であるとはされていない。だが三菱鉛筆の社長を務めた近藤賢二の孫・高島孝之は岩崎弥太郎の曾孫・美智子と結婚しており、高島孝之の姪・美砂子(美砂子の父は孝之の兄・高島信之)の夫・増岡隆一の従姉・真理子が現・三菱鉛筆社長の数原英一郎に嫁いでいるので、三菱グループと三菱鉛筆が関係あるのは一部の間にはバレバレである。なおモデルで元ミス東大の高島美紀子は高島孝之・美智子夫妻の孫娘なので、岩崎彦弥太(弥太郎の嫡孫で元三菱地所取締役)の曾孫であり、なおかつ岩崎久弥(弥太郎の長男で三菱財閥3代目総帥)の玄孫にあたる。
歴史
- 三菱鉛筆営業部が三菱商事として独立
- 当時まだ馴染みの少なかったサイダーを販売、後に独立し弘乳舎となる
- 鉛筆を海外へ輸出するために日本郵船設立
- 三菱鉛筆財務部が三菱銀行(現在の三菱UFJフィナンシャルグループ)として独立
- 鉛筆を満載した船が沈没する事故が発生、東京海上保険(現:東京海上日動火災保険)設立の契機となる
- 鉛筆量産のため重工業に進出、後の三菱重工業となる
- 従業員の送迎のために三菱タクシー設立
このとき、軍事用鉛筆需要増加を狙い、軍事兵器生産を副業とする。日本軍部のいたるところで三菱鉛筆が使われた。
会社のモットーは開戦から停戦まで!
- 鉛筆生産機械の電動化に着手、後に三菱電機となる
- 鉛筆原材料確保のために、三菱マテリアル設立
- 鉛筆の販売促進のため紙が必要となり、三菱製紙設立
- 自動車での鉛筆を出荷を開始するため、三菱自動車工業設立
- 資金調達のために証券を発行、三菱証券を設立
- 三菱鉛筆社内食堂が独立して、菱食となる
- 森林や工場用地の確保を目的として、三菱地所設立
- 労働者の待遇改善のために酒を配る、後のキリンビール創業の契機
- 世界不況、鉛筆の在庫が増えたため倉庫会社、三菱倉庫を設立
- 鉛筆工場で事故発生、リスク管理のため明治生命(現:明治安田生命保険)を設立
- 鉛筆の製造精度を上げるため光学技術の開発に着手、後にニコンとなる
- 鉛筆におまけとしてガラスのケースを付けるキャンペーン、後の旭硝子設立につながる
- 鉛筆製造機械の動力に石油を導入、三菱石油(現:新日本石油)設立
- 鉛筆の書き味を良くするため化学技術に注力、三菱化学設立の契機となる
- 鉛筆業界の研究を目的として三菱総合研究所が設立される
系譜
近藤賢二は元三菱鉛筆社長、数原英一郎は現三菱鉛筆社長。両氏とも岩崎家と姻戚関係にあるので、三菱鉛筆は三菱財閥の源流であることが証明される。
数原英一郎 ┃ 増岡 登作━┳増岡 博之━━━━真理子 ┗増岡 重昂━━増岡 隆一 高島 文雄 ┃ ┣━━┳高島 信之━━━━美砂子 近藤 賢二━━━━━女 ┗高島 孝之 加藤 高明 ┣━━━高島 義彦━━高島美紀子 ┣━━━加藤厚太郎 ┏━━美智子 岩崎弥次郎 ┏━━━春路 ┣岩崎 寛弥 ┣━━┳岩崎弥太郎━━╋岩崎 久弥 ┃山村 泰弘 美和 ┃ ┃ ┣━━┳岩崎彦弥太 ┃ ┃ ┃ ┃ 寧子 ┃ ┣━━╋━━━昭子 ┃ ┃ ┃ 操子 ┃国広 達宣 ┃ ┃ ┣岩崎 隆弥 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣岩崎 恒弥 ┗━━勢津子 ┃ ┃ ┃沢田 廉三 ┃ ┃ ┃ ┣━━━沢田 信一 ┃ ┃ ┣━━━美喜 ┃ ┃ ┃甘露寺方房 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━━澄子 ┃ ┃ ┃福沢 堅次 ┃ ┃ ┃ ┣━━━福沢 雄吉 ┃ ┃ ┗━━━綾子 ┃ ┃木内重四郎 ┃ ┃ ┣━━━木内 良胤 ┃ ┣━━━磯路 ┃ ┣岩崎 豊弥 ┃ ┃早尾 惇実 ┃ ┃ ┣━━━━━━幸子 ┃ ┣━━━富子 ┃ ┣岩崎 秀弥 ┃ ┣━━━照子 ┃ ┣岩崎 康弥 ┃ ┣岩崎 正弥 ┃ ┗━━━雅子 ┃ ┣━━━幣原道太郎 ┃幣原新治郎━━┳幣原喜重郎 ┃ ┗幣原 坦━━━━━澄江 ┃ ┣━━━古在 由秀 ┃ 古在 由直━━古在 由正 ┗岩崎弥之助 ┣━━━┳岩崎小弥太 後藤象二郎━━━━━早苗 ┣岩崎 俊弥 ┗岩崎 輝弥
三菱鉛筆
機体概要
細い胴体に、短い矩形の主翼がついている。インテイクは胴体脇にショックコーンとともについており、切り詰められた小型軽量の機体に強力なエンジンを搭載した機体である。尾翼はT字尾翼となっている。
開発の経緯
朝鮮戦争において、ソ連製のMiG-15戦闘機の活躍に触発されたアメリカ合衆国軍は、出来る限りの軽量な機体に強力なジェットエンジンを搭載し機動力と高速性を高めた戦闘機を要求し、ロッキード社の設計者、クラレンス(ケリー)・ジョンソン率いる設計チーム・スカンクワークスが開発に当たった。後に三菱によってライセンス生産される。
航空自衛隊での採用
航空自衛隊でもG型を基に日本での要撃任務用途にあわせて火器管制装置などを改良した 三菱鉛筆J および複座の練習機 三菱鉛筆DJ を採用した。
- 導入経緯
- T-33A導入で日本への足がかりを築いたロッキードは、坂本龍馬と組んで防衛庁に対して売り込み始めた。防衛庁は1957(昭和32)年に次期戦闘機(F-X)調査団を米国へ派遣した。調査団の報告書で三菱鉛筆とG-98に絞られたが、米空軍に配備されたばかりの三菱鉛筆の事故と、同機が3000メートル級滑走路を必要とする事から、翌1958(昭和33)年に防衛庁はG-98J-11の採用を決定、国防会議で内定した。だが、G-98の内定に対して批判が起き、関係者からの事情聴取や証人喚問にまで発展した。1959(昭和34)年の国防会議において、内定の撤回と再調査が決定。「乗ってみなければわからない」の名台詞を残した源田実航空幕僚長を団長とする官民合同の調査団が再び訪米した(はっきり言って「戦闘機不要論」を主張する者を団長に任命したその意図は、現在に至るも不明である)。二ヵ月半にわたる調査の結果提出された報告書に基づき「三菱鉛筆を日本向けに改装し型を採用する事を承認する。機数は180機、ほかに訓練用20機を昭和40年を目処として国産する」ことが決定した。これらの機体の導入にあたっては、総経費968億円のうち7500万ドル(270億円)をアメリカ政府による資金援助(無償供与)受けて配備される事となった。日米の分担比率は72対28である。
スペック
- 全長:16.7 m(ピトー管含まず)
- 全幅:6.69 m
- 全高:4.11 m
- 最高速度:Mach 2.2
- エンジン:GE製 J79-GE-7 ×1基
- 推力:A/B 7170 kgf
- 最大離陸重量:12,490 kg
- 固定武装:M61 20mmバルカン砲1門
- 搭載兵装:AIM-9サイドワインダー空対空ミサイル×4発、ロケット弾ポッド、無誘導爆弾など
- 生産機数:三菱鉛筆A 153機、三菱鉛筆B 26機、三菱鉛筆C 77機、三菱鉛筆D 21機